明確に二つの世界(A世界とB世界)がある。
A世界はとても分かりやすい世界、即ちこの物質の世界である。
そのリアル感は明らかで そこにある 「存在の確かさ」を
疑う者など殆どいないであろう。
しかしB世界はそうではない。
その世界は一見 分かりにくい、と言うよりも そのリアル感は
ある簡単な条件を満たすこと無しに感知することは
絶対にあり得ないのである。AとBの間には大きな淵があり AからBに
渡って行くことは 全く不可能なのだ。 (その逆は可能)
ところが聖書は このBこそ真のリアリティであると断言する。
聖書は Aは極めて不完全な世界であるうえに一時的であり、
しかもそれは単なるBの写真や模型に過ぎないとさえ言う。
元より実物と写真の価値を比較することなど出来ない。
もしもこの神の言葉の主張が真理であるならば、A世界の中でのみ
真のリアリティを 追い求めて行く者は必ず、無意味で辛いタマネギの
皮むきと 同じ経験をすることになる。何故ならAの中には実は
「リアリティ」は存在しないからである。従ってタマネギの中にリアリティを
求めるその人の人生の作業には必ず涙が伴い そして タマネギの
中心にも周辺にも タマネギ以外特別なものは何もない、
と言う事実がある日 厳然として突きつけられるのである。
こんな悲劇がまたとあろうか。
その聖書で言う「真のリアリティであるB世界」を実感するには
「Bと言う世界の全体である復活のキリスト」を信じ受け入れるしかない。
それが「キリストは総てである」と言う意味である。
B世界には真のリアリティの一切がある。それは完全な世界であり
そこには永遠、不死、不滅、歓喜、そして完全な清さと愛と真実がある。
聖書で言うリアリティに不完全さなど微塵もないのだ。
そして 幸いB世界に入ることを許された者は A世界にいながらにして
B世界の素晴らしさを感じ取ることが出来、更に今その素晴らしさを
部分的にではあるが A世界に現すことさえ決して不可能ではない。
あなたは絶対にこの幸いなるチャンス、特権を見逃すほど
愚かであってはならない、と私は思う。
その真のリアリティはしかし、
「復活のキリストを信じる」という行為無くしては その人とは全く
無縁であり、早晩彼からその真のリアリティに触れる道は永遠に
閉ざされる、 と言う厳粛な事実を前に 私は今戦慄を覚えざるを
得ないのである。その人にとっては A世界のみが万物の総てであり、
その人の人生は 「この汚染されたはかない世界」にのみ限定される、
と言う事実こそ恐ろしい。
0 件のコメント:
コメントを投稿