2008年6月4日水曜日

あすは旅

もう梅雨 始まったんですか。
ロフトの南窓から見えるのは 
雨にぬれた緑の海の奥深いカーテン。

殆ど出歩かず小屋にじっとしていただけなのに
今回の山は実にスリリングでした。
とても面白くて楽しかった と言えると思います。

今回、下山するのは 家内が7、8、9と白神山地方面へ
旅行に行くと言うので、その留守番のためなのです。
ですから明日 下りても、遅くも12日あたりには
山に戻ろうと思っています。
もしもケンが不調ならば 山に連れて来るつもり。

登ったり降りたりと ガソリン代はかさ張るけど、
これは仕方がないですね。
今日は台所のライトを別のものに替えること、
次回ケンが来ても良いようにケンの部屋、最低限度の準備をすること、
でもタバコ用換気扇取り付けの完成は無理でしょう。
そして後は明日の旅の支度です。

今回、意外な展開が下でもあるのかな。
主よ、期待しております。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

千葉のMです。私は新緑の季節も大好きですが、この梅雨の季節も大好きです。今年の梅雨入りは6/2、去年は遅くて6/22、例年は6/8です。梅雨に濡れた紫陽花は私の子供のころの原風景です。
しかし我々は『主あなたのみ』のこの『のみ』がどうしてもできないのですね。軸足は主に寄り掛かっているのに、もう一方の足のほんのわずかは、自分にまたは主以外の何かに残しているんですね。
主は主以外に感謝と賛美を捧げさせたくないのです。これは一見誤解を招く表現ですが、主が望んでいることはこれしかないのだと思います。『私を離れては、あなたがたは何もできない』。

Mr.Sugar さんのコメント...

確かにそのことは
誤解を受けかねないことですが
決して過小評価出来る問題問題では
ありません。

私の主観的経験では この点で主は
「執拗」な神です。何故なら
彼は私達を完全に愛したお方であるから
であり、また御自分の無限の価値を
ご存知であるからなのでしょう。
だから彼は堂々と私達に
それを要求なさるのだと思います。

しかしその点で彼は私達の1人1人に対し 
とても注意深く
その1人1人に応じた接触をされます。
決して十ぱ一からげではありません。
多分に主と私の間だけの関係でそれは進行
して行くように思われます。

しかし確かになるべく早く
「私は主に負け、主に勝たしめる」人
の方が賢いのは間違いない所でしょう。

匿名 さんのコメント...

千葉のMです。昨日のコイノニア感謝します。神が私たちに罪の刑罰を担わせることは、愛のない義です。しかし一方、神が私たちに罪の刑罰を担わせないことは、義のない愛です。私たちにとって罪の赦しは無代価です。しかし神にとって無代価の赦しはありません。神にとっては、罪の贖いがあってはじめて赦しがあるのですね。私たちは十字架上で裁かれて、はじめて救われるのですね。一見不自由な十字架の閉じ込めは、神の義と神の愛の両方を同時に現しているのですね。十字架上で血を流している主と、我々人間を救うことができ、満足している主の両方の主が存在しているのですね。そうです十字架の閉じ込めしか方法はありませんね。神はすべての人をこの十字架の閉じ込めの中に誘いたいのですね。あぁハレルヤ。