2008年6月5日木曜日

月川兄弟へ(2)

月川兄弟姉妹、メール有難うございました。
いやー感動しましたよ、何に?月川兄弟の言葉にですよ。
そうです、おっしゃる様に余裕を持って受け止めればいいのです。

そうすればコチコチの○派だろうが、コチコチの反○派だろうが、
どうでもいい派だろうが、とにかくどんなキリスト者をも
愛することが出来るはずです。なぜなら
その人を照らし その人に真の自分の姿を見せられるのは
「神から発せられる光」 だけであるからです。人にはその分は全く
無いのです。 他人を神の真理の光で照らす、
そんなことが出来ますか! 絶対に出来る筈が ないのです。
(皆さん、何故か人には全く出来ないことを やろうとするのです。)

私に出来ることがあるとするならば、それは ただ黙って主が送られる
「閉じ込め」 の中に 主と共に留まり そしてその中で主と共に
死ぬことです。 不必要なのは「私」であるからです。その時にのみ 
私経由で主がその人に 復活の中にある天からの光を届けられる
かも知れません。 しかしそれとて全く主のことです。私に関して言えば 
総てはひたすら 「私に適用されたキリストの死と復活」にかかっている
のです。 それだけが神にとって有用な何かをなし得る筈です。

この簡単な当たり前のことさえ分かれば キリスト者達の間の
一切の垣根は どこかに消え去って行くことでしょう。
要するに「私の正しさ」などドブに捨てればよいのです。何故でしょう、
それは 神が「キリスト者の正しさ」をさえ木に釘付けからです。
なるほど「正しさ」は良いものには違いないのですが、しかし
正しさをどう細工したとしても、決してそれはキリストにはなり得ないのです。
「正しさ」とキリストのどこが似ているでしょう。全く似ても似つかないのです。
何故なら一方は、とても立派かも 知れませんが しょせん単なる 抽象概念
に過ぎず、 他方は生きている人、パーソン、お方であるからです。

厳然たる事実として 神は断固として「復活のキリスト以外の総て」を
完全に 廃棄してしまったのです。それらは総て神にとっては
全く不必要であるからです。

それが あの3日間に起こったことに他なりません。神はあの3日間を用い
神の真の御こころを全宇宙に提示し 布告し 敢然として宣言したのです。
「私の承認するものは ただ復活のキリストのみである。人から 発した
善も悪も、 正義も不正義も 私は一切十字架につけてしまった!」と。


ただ言われるように 交わってもくれない人、初めからあの人は駄目だと
決めてかかる人、問答無用に敵対心を持つ人は やはり難しいですよね。 
しかし、それでも彼は主が愛される兄弟には変わりはないのです。
(そういう時 私は彼によって殺されればいいのです)
その人をも神は 「いつか」必ず変えて下さるのです。
差異は時期のいかんに過ぎません。

私達の神は 何千年かかろうが 地のチリを必ず宝石に変えられる神です。
これが 聖書の最初と最後に示されている事実であり、このことこそ
全聖書を通し首尾一貫して神が主張してやまない
御こころであり 神の実行なのです。


外はとてもよい天気、これから山を下ります。
それでは。

*○派も、反○派も、そんなものは実は存在しないのです。神の判断
によると それらは総て 死刑に処せられるだけの価値しかありません。
そしてその死刑の執行は2千年前に完了してしまったからです、
最後のアダム、キリストの中において。

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