2008年6月9日月曜日

御血と十字架

神が私たちに罪の刑罰を担わせることは、愛のない義です。
一方、神が私たちに罪の刑罰を担わせないことは、義のない愛です。
私たちにとって罪の赦しは無代価です。
しかし神にとって無代価の赦しはありません。
神にとっては、罪の贖いがあってはじめて赦しがあるのです。
十字架上には 
血を流して(苦しんでいる)主と、我々人間を救うことができるので
満足している主の両方の主が存在したのです。

また私達キリスト者に対する主の方法は唯一
十字架の閉じ込めと死しかありません。
神はすべての人をこの十字架の閉じ込めの中に誘いたいのです。
何故ならそれは必ず神によって復活にもたらされるから、
死を通り復活したもののみが「真の価値」であるから。
あぁハレルヤ。

*以上はある方の文章ですが、
冒頭の所が特に素晴らしく、ここに掲載させていただきました。
さてキリストの血による救いと、十字架による救いは
全く異質なものなのですが 
この文章はそのことの理解にも役に立つでしょう。
分かりやすくする為に勝手に 一部加筆したところがあります。
このご無礼をお許し下さい。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

昨晩は出張でホテル泊まりです。どうも落ち着きません。やっぱり我家が最高です。

『 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。』(ロマ10:3,4)

やっぱり自分を含めて多くのクリスチャンは、自分の義を立てようとします。人間がしていることは、善という名の不義(人間に対してではなく神に対して)です。神の義に従うとは、ただ主イエスを信じ、自分を100%委ねることです。これしか方法はないのです。言い換えれば、この神の方法は、私たちを救わないことはできない、不可能なのです。私たちが救われないことは、不可能なのです。こういう視点で神を主イエスを見ることが好きです。

Mr.Sugar さんのコメント...

私たちを救わないわけには行かない、

いいですね。

神は御自身の言葉によって

縛られている、とも言えるのかな!

とにかく

神の口から出てしまったことばはもう

取り返しがつかない、筈です。

ハレルヤ神の言葉、ですね。



さっき ケンと小屋に着きました。

今日からの彼との暮らし、

総てに間に合うキリストに信頼します。