2008年6月27日金曜日

神は人のLIFEを愛す(2)

*キリスト者の集まりにおいても*

神が愛するのは人のライフ、即ち人の命、生活、人生です。
だからキリスト者の集まりも「人間生活的」でなければなりません。
実はこれは軽い問題ではないのです。何故なら人の宗教性は キリスト者
の集まりを人間生活の正に逆方向に持って行きたがるからです。
相当注意しないと私たちの集まりもたちまち その様になって
しまうでしょう。何故なら私たち人は誰しも キリスト者の集まりを日常的
ではなく、非日常的、非人間生活的、生活の匂いのしないもの、或いは
人間的でなく天使的なものに変質させたがる深く強力な根を
生まれながらに持っているからです。

福音書を見るとき、十字架に付かれる前
「人の子」イエスは少数の例外を除いて日常的、
人間的な場面で御自身を表わされました。2回に渡って何千人もの
群集が集まった際も、その焦点は食べる問題、人が生きると言う問題
でしたし、いわゆる山上の垂訓も 実は天的な神の子キリストの命を
天国の民が地上の「人間生活」を通して表現することがテーマ でした。
その他の殆どのケースもとても人間的な状況であり、
しばしば仕事や食事の場面にイエスは登場され、更に 
身近な人の死や切実な自分の病気に苦しめられている人々の
正に「人の生活の修羅場」において
イエスは御自身を私達に啓示しようとされたのです。

復活後のキリストにおいても同様です。
面白いことにその幾つかもやはり食事の場面でした。
食べることほど人間生活的なものはありません。
ある時など 復活のイエスキリスト御自身が まるでお母さん
のように弟子達の為に炭火をおこし朝食の焼き魚とパンを準備
されたのです。その日の労働を終え ある空しさを感じていた男達は
その朝、 主イエスに仕えていただき、焼き魚などを食べながら 
後世に語り 告がれる程の とても重要な集会をしたのです。しかし
その重要集会は とても自然でそして日常生活的、人間生活的であった
のです。 今日のいわゆる教会におけるいわゆる「礼拝」が新約聖書が
示唆する キリスト者の 集まり方とはまるで異質なものになっている
ことは 殆ど論を待たないのではないでしょうか。
 
またパウロが登場する場面も殆どは人間的な場面です。
パウロが非日常的な雰囲気の中、気取って人々の前に
厳かに登場する場面など想像すら出来ません。

従ってあなたは集まる時、決して「超人間」になるべきでは ありません。
くれぐれも使徒行伝に出てくる小ざかしい支配者や ヘロデ王のように
正装に威儀を正し偉そうに人々の前で演説などを ぶってはなりません。
もしかしてあなたは虫にかまれるかも知れない のです。あなたは決して
キリスト者の集まりに「くつろぎや人間的な 弱さ」を敢えて
押し殺さなければならない様なオゴソカナ雰囲気などを
作り出そうと したり 演出したりしてはならないのです。

以上から 基本的に私達の集まりは日常生活の延長線上にあるべき
ものであり、自然に自由に人間的に振舞うことが出来るものでなければ
ならない事は明らかです。それはキリスト者の集まりは 家族生活の中
のリラックスした団欒の場面のようで なければならないと言う意味です。
神の家族にとってこれは当然のことではないでしょうか。
なぜなら、神が心から愛するのは 正真正銘の人の生活から現れ出る
人の子イエスキリストの命と生活であるからです。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

コイノニア は 大切 ですね。まってます。M. Renata kara.

Mr.Sugar さんのコメント...

ホンとに大切です。それがすべてです。
たのしみです。