2008年6月26日木曜日

神は人のLIFEを愛す

人のライフとは人の命、生活、人生です。
それこそが神が真に愛するものです。

しかし更に正確を期するとすれば
人のライフを通して神性が表現されること、神性と人生が 一つとなる
ことを神は意図し、それを神は心から愛されたと言わなければならない
でしょう。 この様な発想は人の思いからは出て来ません。それはとても
信じがたいことです。 しかし事実神はそれを意図しそれを愛されたのです。
ポイントは人性を通して表現される神性です。

そのことは旧約聖書の中から 人の創造の完成の後に神の大いなる
喜びと安息があったことを見れば明白であり また新約聖書からは
「神の子イエス」が地上に現れられた時、それを見て神はしばしば大喜び
されたことを見ても明らかです。「神の子」は神性を意味し「人の子
イエス」とは人性を意味しています。だから「神の子イエス」とは何と
神と人が その性質において全く一つにされた存在である
ことを意味するのです。

アダムの創造に欠点は全くありませんでした。しかしアダムには最終的な
仕上げ の必要があったのです。最終的な仕上げとはアダムに神の命が
賦与されることでした。それ故に最初のアダムは「命」の木の前に
置かれたのです。しかし 自由意志を与えられていた最初のアダムは
その選択において完全に失敗しました。
彼は「神の命」よりも「善悪の知識や正しさ」即ち 自己をその魂において
肥大させ 自らの力で「神のようになる」道を選択してしまったのです。
この選択が極めて悲劇的な人類の歴史の方向性と終局を決定したのです。

しかし最後のアダム・イエスキリストにおいて
神の意図は完璧に達成されました。だから
わたし達のただ一つの希望は 最初のアダムが私たちから退けられ、
最後の アダムとなられたキリストの 命が私たちに
与えられることにあるのです。 「十字架と復活」とは今述べた
わたし達の希望が達成される為に キリストがどうしても
経過されなければならない神の唯一の方法でした。
従って十字架とは 私たちから「最初のアダム」が完全にマイナスされた
ことであり、 復活とは 私たちに「キリスト・イエス」そのものが
プラスされたことに他なりません。
あなたはこの「途方もない」聖書の主張を信じるでしょうか。

「古き人は十字架に付けられた。
キリストが私の内に生きている。」

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