私達は決して「自分で神を愛することが出来る」などと思うべきでは
ありません。生来の私達には本来 神を愛する「真の愛」の
持ち合わせはありません。主は「人の自己」から出て来たものであれば
それがいかなるものであっても否定されます。神は 私起源であると言う
理由の故に「私の美しく見える主に対する愛」でさえ
受け入れることが出来ないのです。
しかしもし私達が 主に対して愛を全く持たない、と言うのであれば
神は当然 悲しまれます。しかしながらこの他に、私達の主をことのほか
悲しませる理由があり得るのです。
それは私達が主を「人の魂で」愛することです。
もし信者が魂の力で主を愛するなら、それは主を喜ばせることはあり得
ません。信者の愛は、主を愛すると言う目的のためでさえも
「完全に霊の支配の下に」いなければならないのです。
今日 あまりにも多くのキリスト者が「この世的な愛」によって、即ち
「魂からの愛」によって主を愛しています。真に「神の愛によって」
主を愛するのを見ることはとてもまれです。
これは実際にはどのような意味でしょうか。
今日、多くの人々は「人の心で」神の事柄を受け入れています。彼らは
父なる神の愛について語ります。彼らは主を「愛する主よ」と呼びます。
そして主の苦難を記念します。このようにする時、彼らの心は喜びに
満たされ主の愛に「感動」します。
彼らは、この感覚は「主からである」と確信します。ある者は 主の
十字架を思うとき、涙を抑えることが出来ません。それを見ると私達は
彼らには主イエスに対する言い尽くせない燃える愛があると思うでしょう。
しかし、非常に確かなことは
そのような感覚は「彼らの命」をすぐに「ケロリとして」素通りしてしまう
ことです。その跡に何も残るものはありません。そこには「永遠的天的な
要素」を彼らに与えるものは全くありません。それはまるで
「跡を残さないで」海を行く船のようです。一体、これはどのような
愛なのでしょうか。その愛の根源はどこにあるのでしょうか。
このような愛の源は決して「永遠からのもの」ではありません。それは
「人の自己を幸いにする愛」であることには間違いありません。しかし
それは決して「真に神を愛する愛」ではあり得ません。
それではそのような時、彼らが愛している本当の対象は何なのでしょうか。
それは、彼らが自己の魂で感じる「幸いな感覚」です。彼らは 主の苦難を
外側から見て感動するのですが、そこには非常に大切な事実が欠けている
のです。それは、そのような愛においては、内側にある真理は「彼の命」に
霊的ないかなる影響も与えることが出来ない、と言うことです。
2009年7月29日水曜日
「神にあって」、「神のために」
ところが、
キリスト者が神の剥奪により「自分の愛するもの達」を失ったように見えた
としても、もしもそこに、キリストの死が真に介入していなかった
のであれば、それらはこの世にある「艱難辛苦の物語」と何らの相違も
ありません。従ってそこに神の霊的効力を期待することは出来ないのです。
また、自分の自由意志によって、自ら「自分に親しいもの」を捨て去った
としても、もしそこに、彼の信仰の機能が働き、キリストの死の効力が
「彼の十字架」に伝達されていなかったのであれば、
そこに霊的力を期待することは全く不可能です。
しかし、彼がそれらの一つ一つの経験において、真に「自分の十字架」を
負い、深い死の水の中を通る経験をしたのであれば・・
☆ ☆
彼はいずれある日 自分の心が、他の人を愛することにおいて、
どれ程 純粋であるかに気づくことになります。
その時には既に、彼の愛の中に「自分からのもの」は混入されていません。
彼の心の総ては神のためであり、彼の一切は神の中にあります。
過去において、確かに彼は他の人を愛しましたが、自分自身を他の人よりも
多く愛し、自分自身を他の人よりも重要なものと見なしました。しかし今、
彼は他の人と喜びや悲しみを分かち合い、愛をもって、他の人の重荷を担い
仕えることが出来ます。今彼は 自分が愛したい者を「自由に」愛する
というのではなく、「神が彼に愛して欲しい人」を「神の中で」愛するのです。
彼は他の人を自分自身よりも多く愛すると言うのではありません。
彼は他の人を自分自身のように愛するのです。
彼は自分自身を「神にあって」、「神のために」愛するので、
他の人をも「神にあって」、「神のために」愛するのです。
ですから、彼は他の人を自分自身のように愛することが出来るのです。
*
人の愛情とは何と取り扱いにくいものでしょう。もしも敢えて私達が
愛情において「神の御こころのもとに服する」のでなければ、いつでも
私達の愛情は「霊の命を損なってしまう」危険性があります。
間違った思想を正すことは比較的容易です。
しかし、間違った愛情を正すのは容易なことではありません。
キリスト者が神に「自分の愛情を管理していただく」ことは、
私達の霊の成長に不可欠なものであることを知らなければなりません。
私達は心を尽くして主を愛し、また主に私達の愛を
「支配していただく」必要があるのです。
☆ ☆
これまではおおよそ、キリスト者が他人をどう愛するか、
と言う問題を取り扱ったものでした。次回からは
キリスト者が神をどう愛するか、と言うテーマに入って行きます。
私達は自分は神を愛していると思っています。彼によれば、しかしながら
そこには極めて容易ならざる問題が含まれているようです。
キリスト者が神の剥奪により「自分の愛するもの達」を失ったように見えた
としても、もしもそこに、キリストの死が真に介入していなかった
のであれば、それらはこの世にある「艱難辛苦の物語」と何らの相違も
ありません。従ってそこに神の霊的効力を期待することは出来ないのです。
また、自分の自由意志によって、自ら「自分に親しいもの」を捨て去った
としても、もしそこに、彼の信仰の機能が働き、キリストの死の効力が
「彼の十字架」に伝達されていなかったのであれば、
そこに霊的力を期待することは全く不可能です。
しかし、彼がそれらの一つ一つの経験において、真に「自分の十字架」を
負い、深い死の水の中を通る経験をしたのであれば・・
☆ ☆
彼はいずれある日 自分の心が、他の人を愛することにおいて、
どれ程 純粋であるかに気づくことになります。
その時には既に、彼の愛の中に「自分からのもの」は混入されていません。
彼の心の総ては神のためであり、彼の一切は神の中にあります。
過去において、確かに彼は他の人を愛しましたが、自分自身を他の人よりも
多く愛し、自分自身を他の人よりも重要なものと見なしました。しかし今、
彼は他の人と喜びや悲しみを分かち合い、愛をもって、他の人の重荷を担い
仕えることが出来ます。今彼は 自分が愛したい者を「自由に」愛する
というのではなく、「神が彼に愛して欲しい人」を「神の中で」愛するのです。
彼は他の人を自分自身よりも多く愛すると言うのではありません。
彼は他の人を自分自身のように愛するのです。
彼は自分自身を「神にあって」、「神のために」愛するので、
他の人をも「神にあって」、「神のために」愛するのです。
ですから、彼は他の人を自分自身のように愛することが出来るのです。
*
人の愛情とは何と取り扱いにくいものでしょう。もしも敢えて私達が
愛情において「神の御こころのもとに服する」のでなければ、いつでも
私達の愛情は「霊の命を損なってしまう」危険性があります。
間違った思想を正すことは比較的容易です。
しかし、間違った愛情を正すのは容易なことではありません。
キリスト者が神に「自分の愛情を管理していただく」ことは、
私達の霊の成長に不可欠なものであることを知らなければなりません。
私達は心を尽くして主を愛し、また主に私達の愛を
「支配していただく」必要があるのです。
☆ ☆
これまではおおよそ、キリスト者が他人をどう愛するか、
と言う問題を取り扱ったものでした。次回からは
キリスト者が神をどう愛するか、と言うテーマに入って行きます。
私達は自分は神を愛していると思っています。彼によれば、しかしながら
そこには極めて容易ならざる問題が含まれているようです。
2009年7月28日火曜日
神の剥奪
愛なる神は、
キリスト者の愛してやまない者、物、事を奪い取られる、
というのは本当です。
何故でしょうか。それは
信者の「永遠の益や福祉」のためであり、それは
信者がかつて「神に自分の総てを献げた」と言う献身を根拠として
行なわれるのです。神は「私の一切をあなたに委ねます」と言う
私の一つの祈りを忘れることはありません。
例えば、神は
「私が愛する者」の心そのものに変化を与えてしまうか、
またある環境を起こし、私にその対象を もはや愛させないように
してしまわれます。
また、私の愛する者が遠い旅に出てしまうか、
或いは この世を去るという環境を許されるかも知れません。
いずれにしろ 神に対するあなたの献身が本物であるならば、
神はそれに応じて「あなたの総てのもの」を剥奪しにかかられるのです。
そして遂に残るは「ただ神ご自身だけ」にしてしまわれます。あなたに
敢えて神が許される状況の中には あなたに近づく死という可能性さえ
あるかも知れません。いずれにしろ、神は時間の中でそれを必ず実行
されます。それはただひたすら「永遠という範囲を人生のスパンとする
あなた」の真の益のためです。
従ってあなたは 何もそのような可能性を漠然と待つ必要はありません。
あなたが「天国の故に、霊的な生活を奪い取りたい」のであるならば、
一刻も早く「あなたに親しいもの」総てを自ら進んで捨て去る方が
はるかによいのです。
あなたは今の時(肉体と時間に留まっている時)を生かして用いる
必要があるのです。なぜなら今は悪い時代であるからです。
それは「神の御こころと願望」を、更新された人の自由意志を用いて
自ら選び取る という人間最高の行為に繋がるのです。そのように、
確かにキリスト者の真の賢さは 総てを捨て去るまでの時間の長短に
現れる、とも言えるでしょう。(エペソ5の14~18)
いずれにしろ神は必ず ご自身を愛する者の心に、ご自身以外の一切を
放棄するようにと、忍耐強く働き続けられます。私達の中の霊の命でさえも
私達の愛の対象が「神と何か」へと分割され、また「さ迷う」ことを許され
ません。私達の視界の焦点は あたかも「あの鳩の目」(雅歌4の1)
のように、単一にキリストの上にのみ焦点づけられるべきです。
所が多くの場合 私の生来の愛は 動機において間違い、過剰において
間違い、目標において間違うものですが、何とそれらは神にとっては
汚れとさえ映っているのです。事実神の目から見るとき 私の自己から
出てくる「私起源の愛情」は総て 私の憎しみと同じように
汚れていると言わなければならないのです。
☆ ☆
「あなたの宝のある所に、あなたの心もあります。・・
もしもあなたの目が単一(ダービー訳)ならば、
あなたの全身が明るいのです。」(マタイ6の21、22)
キリスト者の愛してやまない者、物、事を奪い取られる、
というのは本当です。
何故でしょうか。それは
信者の「永遠の益や福祉」のためであり、それは
信者がかつて「神に自分の総てを献げた」と言う献身を根拠として
行なわれるのです。神は「私の一切をあなたに委ねます」と言う
私の一つの祈りを忘れることはありません。
例えば、神は
「私が愛する者」の心そのものに変化を与えてしまうか、
またある環境を起こし、私にその対象を もはや愛させないように
してしまわれます。
また、私の愛する者が遠い旅に出てしまうか、
或いは この世を去るという環境を許されるかも知れません。
いずれにしろ 神に対するあなたの献身が本物であるならば、
神はそれに応じて「あなたの総てのもの」を剥奪しにかかられるのです。
そして遂に残るは「ただ神ご自身だけ」にしてしまわれます。あなたに
敢えて神が許される状況の中には あなたに近づく死という可能性さえ
あるかも知れません。いずれにしろ、神は時間の中でそれを必ず実行
されます。それはただひたすら「永遠という範囲を人生のスパンとする
あなた」の真の益のためです。
従ってあなたは 何もそのような可能性を漠然と待つ必要はありません。
あなたが「天国の故に、霊的な生活を奪い取りたい」のであるならば、
一刻も早く「あなたに親しいもの」総てを自ら進んで捨て去る方が
はるかによいのです。
あなたは今の時(肉体と時間に留まっている時)を生かして用いる
必要があるのです。なぜなら今は悪い時代であるからです。
それは「神の御こころと願望」を、更新された人の自由意志を用いて
自ら選び取る という人間最高の行為に繋がるのです。そのように、
確かにキリスト者の真の賢さは 総てを捨て去るまでの時間の長短に
現れる、とも言えるでしょう。(エペソ5の14~18)
いずれにしろ神は必ず ご自身を愛する者の心に、ご自身以外の一切を
放棄するようにと、忍耐強く働き続けられます。私達の中の霊の命でさえも
私達の愛の対象が「神と何か」へと分割され、また「さ迷う」ことを許され
ません。私達の視界の焦点は あたかも「あの鳩の目」(雅歌4の1)
のように、単一にキリストの上にのみ焦点づけられるべきです。
所が多くの場合 私の生来の愛は 動機において間違い、過剰において
間違い、目標において間違うものですが、何とそれらは神にとっては
汚れとさえ映っているのです。事実神の目から見るとき 私の自己から
出てくる「私起源の愛情」は総て 私の憎しみと同じように
汚れていると言わなければならないのです。
☆ ☆
「あなたの宝のある所に、あなたの心もあります。・・
もしもあなたの目が単一(ダービー訳)ならば、
あなたの全身が明るいのです。」(マタイ6の21、22)
2009年7月27日月曜日
神の意図
以上のように見ると、キリスト者が他の人を愛する必要はない
のでしょうか。もちろん、そんなことはありません。兄弟達を愛し、
敵をさえ愛するように、との聖書の繰り返された命令を見るだけでも、
キリスト者が他の人を愛さないのは 神の意図でないことは明白です。
それでは神の意図はどこにあるのでしょうか。それは:
あなたが他の人を愛する時、神はあなたに対して、
「あなたのために」「あなた自身によって」ではなく、
「神ご自身のために」また「主ご自身の中」だけで
愛して欲しいのです。
もしもそのようにして私達が人を愛することが出来るならば、
その時には、もはや「私起源の愛情」に その地位は無いでしょう。
私の生まれながらの情愛はその力を完全に失っているでしょう。
即ち神は 人々に対する私達の愛において「主ご自身の愛の力」の
完全な支配を受けて欲しいのです。それが成就されるならば、
神が私達に ある人を愛して欲しい時 私達はそれに従うことが
出来ます。また神が私達に ある人との関係を終わらせて欲しい
場合には、私達は直ちに それにも従うことが出来るのです。
このようなキリスト者の姿は その信者における十字架の現れです。
私達の内に、聖霊によって、キリストの永遠の死が深く適用され、
私の魂の命を「キリストの死に渡す」ことを真に経験する時にのみ、
信者は「自分の愛情、天然の情愛」において、
「自己を失う」ことが可能となるのです。
私の魂が死を経過する時、もはや私の愛情が誰かに粘りつくことは
ありません。その時、私は ただ「神の命令」によって導かれます。
私の魂の命が 深い死の段階を経過して初めて、
私達は 生来の「私発の」愛情において あたかも
死んだように力を失うのです。
その後において、私達が他の人々をどのように「新しく愛するか」
について神は 私達を直接導くことが可能となります。そして神は
私達に、過去私達が愛した人たちとの「全く新しい関係」を
「御自身の中で」開始させるのです。
天然の愛情関係はことごとく終結しなければなりません。
私達の愛情は総て十字架の死の中を通り、今や
復活の領域の側(がわ)で 他の人々との新しい関係へと
入って行くべきです。
そのような生活は、私達にとって何と難しく見えることでしょう。
しかし、このように生きた人だけが、
これが何たる祝福であるかを
真に経験しているのではないでしょうか。
のでしょうか。もちろん、そんなことはありません。兄弟達を愛し、
敵をさえ愛するように、との聖書の繰り返された命令を見るだけでも、
キリスト者が他の人を愛さないのは 神の意図でないことは明白です。
それでは神の意図はどこにあるのでしょうか。それは:
あなたが他の人を愛する時、神はあなたに対して、
「あなたのために」「あなた自身によって」ではなく、
「神ご自身のために」また「主ご自身の中」だけで
愛して欲しいのです。
もしもそのようにして私達が人を愛することが出来るならば、
その時には、もはや「私起源の愛情」に その地位は無いでしょう。
私の生まれながらの情愛はその力を完全に失っているでしょう。
即ち神は 人々に対する私達の愛において「主ご自身の愛の力」の
完全な支配を受けて欲しいのです。それが成就されるならば、
神が私達に ある人を愛して欲しい時 私達はそれに従うことが
出来ます。また神が私達に ある人との関係を終わらせて欲しい
場合には、私達は直ちに それにも従うことが出来るのです。
このようなキリスト者の姿は その信者における十字架の現れです。
私達の内に、聖霊によって、キリストの永遠の死が深く適用され、
私の魂の命を「キリストの死に渡す」ことを真に経験する時にのみ、
信者は「自分の愛情、天然の情愛」において、
「自己を失う」ことが可能となるのです。
私の魂が死を経過する時、もはや私の愛情が誰かに粘りつくことは
ありません。その時、私は ただ「神の命令」によって導かれます。
私の魂の命が 深い死の段階を経過して初めて、
私達は 生来の「私発の」愛情において あたかも
死んだように力を失うのです。
その後において、私達が他の人々をどのように「新しく愛するか」
について神は 私達を直接導くことが可能となります。そして神は
私達に、過去私達が愛した人たちとの「全く新しい関係」を
「御自身の中で」開始させるのです。
天然の愛情関係はことごとく終結しなければなりません。
私達の愛情は総て十字架の死の中を通り、今や
復活の領域の側(がわ)で 他の人々との新しい関係へと
入って行くべきです。
そのような生活は、私達にとって何と難しく見えることでしょう。
しかし、このように生きた人だけが、
これが何たる祝福であるかを
真に経験しているのではないでしょうか。
2009年7月26日日曜日
ただ神をのみ愛す
私達は本当に知らなければなりませんが、
私達はただ一人の人を愛し、ただ一人の主人に
仕えることが出来るだけです。
この意味は何でしょうか。
それは、
もしも私達が人を愛するのであれば、同時に
神を愛することは出来ない、と言うことです。
それ故、私達は
いかなる人との「秘密の関係」も絶つべきです。
ただ神のみが キリスト者の心を
満足させることが出来るのです。
いかなる人間も、私達の心に
真の満足を与えることは不可能です。
非常に多くの信者が失敗するのは、
「ただ神の中でのみ得られるもの」を、
「人の中に」捜し求めるからに他なりません。
「人が与える愛」はむなしさ以外の
何ものでもありません。
神の愛のみが 信者の願いと満足とを
初めて完全に満たすことが出来るのです。
神の目から見るならば
もし人が神以外のものに愛を求めるのであれば、
彼の霊的状態は直ちに堕落してしまうのです。
人はただ神の愛によって
生きることが出来るのみです。
☆
私のほかに、他の神々があってはならない。
(出エジプト20の3)
私達はただ一人の人を愛し、ただ一人の主人に
仕えることが出来るだけです。
この意味は何でしょうか。
それは、
もしも私達が人を愛するのであれば、同時に
神を愛することは出来ない、と言うことです。
それ故、私達は
いかなる人との「秘密の関係」も絶つべきです。
ただ神のみが キリスト者の心を
満足させることが出来るのです。
いかなる人間も、私達の心に
真の満足を与えることは不可能です。
非常に多くの信者が失敗するのは、
「ただ神の中でのみ得られるもの」を、
「人の中に」捜し求めるからに他なりません。
「人が与える愛」はむなしさ以外の
何ものでもありません。
神の愛のみが 信者の願いと満足とを
初めて完全に満たすことが出来るのです。
神の目から見るならば
もし人が神以外のものに愛を求めるのであれば、
彼の霊的状態は直ちに堕落してしまうのです。
人はただ神の愛によって
生きることが出来るのみです。
☆
私のほかに、他の神々があってはならない。
(出エジプト20の3)
2009年7月25日土曜日
「神に対する愛」の純度(2)
*二種類の「~のために」「~を通して」*
さて結論的に言うならば確かに、キリスト者が「ある者(物)のために」
「あるものを通して」神を愛するのであるならば 神を純粋に真実に
愛することなど到底不可能である、と言うことが出来ます。私達は
ただ単純に「神ご自身のために」「神ご自身を通して」「神そのものを」
愛することが出来るだけです。
これは神たる方の願いであり、また当然の要求なのです。
愛に関して、神が私達に求めておられる最重要点はその純度です。
神に対する価値ある愛は 先ず第一にその純度にあります。それは
100パーセントの純度であるべきですが、実はそれは初心者にも
十分可能であるはずです。(それを現実性のない「高度なキリスト教」
であるなどとするのは間違いです。後日この説明も必要となるでしょう)
方や 神に対する愛の「強さや深さ」は、その信者の信仰の程度に応じて
成長して行くのですから、それには「ある一定期間」を要するのは
やむを得ないことでしょう。神はそのことは十分にご存知です。
しかしあなたが、万事につけ、注意深く「神への愛の純度」を高く保つ
ことに忠実であるならば、その結果としてあなたの信仰と命の成長は、
とても健全なものになることは明らかです。それは命における霊的天的な
自然現象であるからです。実はそこにだけ、即ち「主に対する純粋な愛が
存在する所」にだけ、命の自然で健康な成長が期待できるのです。
*
・「神に対する愛」の純度を獲得するために、
実際的な十字架を自分の魂に適用すること、
(色々な愛を掴んでしまうのは魂ですから)
・次に生活の種々の場面で注意深く(目を覚まして)
その純度を維持すること、
それだけが私達の日々の責務です。
☆
青いリンゴの実はとても小さく固いのです。
まだ食べるには早すぎるでしょう。
それでも
リンゴであるその純度は間違いなく100%です。
だから、それは必ず
「あの天の忠実なる農夫の手入れ」によって
美しくおいしい果実へと成長するでしょう。
それは、神と人との大きな喜びとなるためです。
さて結論的に言うならば確かに、キリスト者が「ある者(物)のために」
「あるものを通して」神を愛するのであるならば 神を純粋に真実に
愛することなど到底不可能である、と言うことが出来ます。私達は
ただ単純に「神ご自身のために」「神ご自身を通して」「神そのものを」
愛することが出来るだけです。
これは神たる方の願いであり、また当然の要求なのです。
愛に関して、神が私達に求めておられる最重要点はその純度です。
神に対する価値ある愛は 先ず第一にその純度にあります。それは
100パーセントの純度であるべきですが、実はそれは初心者にも
十分可能であるはずです。(それを現実性のない「高度なキリスト教」
であるなどとするのは間違いです。後日この説明も必要となるでしょう)
方や 神に対する愛の「強さや深さ」は、その信者の信仰の程度に応じて
成長して行くのですから、それには「ある一定期間」を要するのは
やむを得ないことでしょう。神はそのことは十分にご存知です。
しかしあなたが、万事につけ、注意深く「神への愛の純度」を高く保つ
ことに忠実であるならば、その結果としてあなたの信仰と命の成長は、
とても健全なものになることは明らかです。それは命における霊的天的な
自然現象であるからです。実はそこにだけ、即ち「主に対する純粋な愛が
存在する所」にだけ、命の自然で健康な成長が期待できるのです。
*
・「神に対する愛」の純度を獲得するために、
実際的な十字架を自分の魂に適用すること、
(色々な愛を掴んでしまうのは魂ですから)
・次に生活の種々の場面で注意深く(目を覚まして)
その純度を維持すること、
それだけが私達の日々の責務です。
☆
青いリンゴの実はとても小さく固いのです。
まだ食べるには早すぎるでしょう。
それでも
リンゴであるその純度は間違いなく100%です。
だから、それは必ず
「あの天の忠実なる農夫の手入れ」によって
美しくおいしい果実へと成長するでしょう。
それは、神と人との大きな喜びとなるためです。
「神に対する愛」の純度(1)
*二種類の「~のために」「~を通して」*
神の子供達の多くは、自分の愛する者が自分の霊的な成長に
どんなふうに妨げになるかを認識しておりません。あるケースを
考えて見ましょう。キリスト者が他のキリスト者を愛するのは当然
ですし必要なことです。しかし、キリスト者への愛でさえ決して
「ある愛し方」に陥ってはなりません。その様な場合でも彼は
神以外に「別の愛」の対象を持つことになるのです。
要するにそれも「愛の分割」に過ぎません。
ある日 信者が神以外にそのような愛を所有し始める時、彼は彼の中で
「自分にとっての神の重要性」が減少してしまったことを感じざるを
得ないでしょう。そのような場合、彼は神を愛していないのでしょうか。
いいえ、彼はある意味では やはり神を愛していると言えるのです。
しかし、彼が神を愛するその愛の内容は もはや「神ご自身を通して」
「神のために」神を愛するのではなく、キリスト者である
「その愛する者を通して」「その人のために」何とか神を愛する、に
変質してしまっているのです。
さてこの神に対する愛は真実と言えるのでしょうか。彼のために
命までも捨てられた神は本当にそのような彼の愛し方によって
満足出来るでしょうか。答えは当然、強い否です。
信者が「自分の愛する者を通して」「その人のために」神を愛する時に、
神と「その相手」をちょうど半分の量で愛することさえ不可能です。
どうしても彼の心は神よりも、その対象に、より多く注がれることは
避けられません。何故なら そもそも彼は 単に神を「その人を通して」
「その人のために」愛しているに過ぎないからです。
その間、その信者の命が成長することは決してあり得ません。彼の命は
必ず後退します。しかし一見彼の外観には何らの変化もないように見える
でしょう。従ってそれだけ、これはそのキリスト者にとって深刻な事態
であると言えるのです。
それでも なおかつ彼がもしも「あの人は信仰の上で私によい影響を与えて
くれるので・・」と彼の理由を申し立て、その「愛」を「潔く捨てる」
ことなく時間が経過して行くならば、不思議なことに、その相手は彼に
対して別の影響を与え、今度は最悪「神に対する彼の愛を失わせる」可能性
さえ生ずるかも知れないのです。何故なら彼は 神を「その人のために、
その人を通して」愛して来ただけなので、その人の影響でたやすく彼の総て
が揺れ動いてしまうからです。そこにはどうしても肉の介入は
避けられません。彼はそれまで とても危うい信仰の土台に立って来た
ことは言うまでもありませんが、実はそれ以上に危惧される点は、それらは
極めて大きな不純を抱えた「神への愛」であるという事なのです。
もう一点残念ながら、以上述べたような状況はしばしば
今日多くのキリスト者の群れとそのリーダーとの間にも十分起こり得る
一つの傾向であることを申し添えて置かなければならないでしょう。
神の子供達の多くは、自分の愛する者が自分の霊的な成長に
どんなふうに妨げになるかを認識しておりません。あるケースを
考えて見ましょう。キリスト者が他のキリスト者を愛するのは当然
ですし必要なことです。しかし、キリスト者への愛でさえ決して
「ある愛し方」に陥ってはなりません。その様な場合でも彼は
神以外に「別の愛」の対象を持つことになるのです。
要するにそれも「愛の分割」に過ぎません。
ある日 信者が神以外にそのような愛を所有し始める時、彼は彼の中で
「自分にとっての神の重要性」が減少してしまったことを感じざるを
得ないでしょう。そのような場合、彼は神を愛していないのでしょうか。
いいえ、彼はある意味では やはり神を愛していると言えるのです。
しかし、彼が神を愛するその愛の内容は もはや「神ご自身を通して」
「神のために」神を愛するのではなく、キリスト者である
「その愛する者を通して」「その人のために」何とか神を愛する、に
変質してしまっているのです。
さてこの神に対する愛は真実と言えるのでしょうか。彼のために
命までも捨てられた神は本当にそのような彼の愛し方によって
満足出来るでしょうか。答えは当然、強い否です。
信者が「自分の愛する者を通して」「その人のために」神を愛する時に、
神と「その相手」をちょうど半分の量で愛することさえ不可能です。
どうしても彼の心は神よりも、その対象に、より多く注がれることは
避けられません。何故なら そもそも彼は 単に神を「その人を通して」
「その人のために」愛しているに過ぎないからです。
その間、その信者の命が成長することは決してあり得ません。彼の命は
必ず後退します。しかし一見彼の外観には何らの変化もないように見える
でしょう。従ってそれだけ、これはそのキリスト者にとって深刻な事態
であると言えるのです。
それでも なおかつ彼がもしも「あの人は信仰の上で私によい影響を与えて
くれるので・・」と彼の理由を申し立て、その「愛」を「潔く捨てる」
ことなく時間が経過して行くならば、不思議なことに、その相手は彼に
対して別の影響を与え、今度は最悪「神に対する彼の愛を失わせる」可能性
さえ生ずるかも知れないのです。何故なら彼は 神を「その人のために、
その人を通して」愛して来ただけなので、その人の影響でたやすく彼の総て
が揺れ動いてしまうからです。そこにはどうしても肉の介入は
避けられません。彼はそれまで とても危うい信仰の土台に立って来た
ことは言うまでもありませんが、実はそれ以上に危惧される点は、それらは
極めて大きな不純を抱えた「神への愛」であるという事なのです。
もう一点残念ながら、以上述べたような状況はしばしば
今日多くのキリスト者の群れとそのリーダーとの間にも十分起こり得る
一つの傾向であることを申し添えて置かなければならないでしょう。
2009年7月24日金曜日
不思議な喜びに満たされています
*あるメールから*
私達はこのブログに今書かれていることの実際を歩み始めていると
思います。主だけを愛すること、主だけに向くこと…主に向けば主が
見えてくる。主はあまりに素晴らしいから。そして、主以外のものへの
愛は十字架を通って復活の領域で「主からの愛として」戻ってくることが
わかるから何も心配ないです。
「人への心」を置いて主に向く…これは日に何度も、その都度行って
います。人から主へ心の向きを変え、主の約束を思い、主の方法を
思い出す。その時々の心をそのまま主に注ぎ出し、願いを訴え、主が成して
下さることを信じて感謝し、委ね、任せる。その結果、不安、思い煩い、
恐れから、安息と幸いと豊かさ(これらは主そのものと思います)に
移されます。この一瞬の心の操作に十字架がありますね。
十字架の機会が多ければ多いほど、主が生きられる機会が多い。主の
邪魔をしているものを取り除きさえすれば、自動的に当たり前に主は生き
始めてくださいますね。そして、突然、信仰に満たされたのです。
約束の地、復活の領域に足を踏み入れた感じ。
今までとは全く違う領域が開かれてきています。「抜けた!」という
はっきりした違いです。あまりの素晴らしさに、嬉しくて興奮して
寝付けないほどでした。遥か遠くに仰ぎ見ていたものへの扉のすぐ近くに
来ていたのだと気付いています。日々、主ご自身が御霊を通して一歩一歩
教え導いてくださっています。
互いを比べて恐れたり 不満に思ったり 自分を測ったりすることが
激減しました、私さえも!皆がただ主を見、主を愛し、主の御旨が成る
ことを願うように変えられてきている。心が一つになってきている。
何とも嬉しいことです。
私の病気においても、主から与えられている御言葉をただ信じる
ところに導かれ、信じたらそのとおりになる、ということへの信仰が
与えられました。これからまだまだ生きられる…主が真実であること、
そして復活の領域の証をするために…、と言う信仰だけで、もうその
喜びは大変なものでした。生きられる という喜びはその一部に
すぎません。ただ御言葉は本当であるということが本当にわかった喜び
です。これ、本当にわかったら、私たちは冷静でなどいられるはずが
ありません。あまりにすごいことなのです。
どうやら、今回この病を通して主が私に与えてくださったレッスンが
終わりに近づいているのだと思います。
とにかく今、姉妹たちと共にワクワクしています。
これからあちこちで表れてくる証と実が大いに楽しみです。
私達はこのブログに今書かれていることの実際を歩み始めていると
思います。主だけを愛すること、主だけに向くこと…主に向けば主が
見えてくる。主はあまりに素晴らしいから。そして、主以外のものへの
愛は十字架を通って復活の領域で「主からの愛として」戻ってくることが
わかるから何も心配ないです。
「人への心」を置いて主に向く…これは日に何度も、その都度行って
います。人から主へ心の向きを変え、主の約束を思い、主の方法を
思い出す。その時々の心をそのまま主に注ぎ出し、願いを訴え、主が成して
下さることを信じて感謝し、委ね、任せる。その結果、不安、思い煩い、
恐れから、安息と幸いと豊かさ(これらは主そのものと思います)に
移されます。この一瞬の心の操作に十字架がありますね。
十字架の機会が多ければ多いほど、主が生きられる機会が多い。主の
邪魔をしているものを取り除きさえすれば、自動的に当たり前に主は生き
始めてくださいますね。そして、突然、信仰に満たされたのです。
約束の地、復活の領域に足を踏み入れた感じ。
今までとは全く違う領域が開かれてきています。「抜けた!」という
はっきりした違いです。あまりの素晴らしさに、嬉しくて興奮して
寝付けないほどでした。遥か遠くに仰ぎ見ていたものへの扉のすぐ近くに
来ていたのだと気付いています。日々、主ご自身が御霊を通して一歩一歩
教え導いてくださっています。
互いを比べて恐れたり 不満に思ったり 自分を測ったりすることが
激減しました、私さえも!皆がただ主を見、主を愛し、主の御旨が成る
ことを願うように変えられてきている。心が一つになってきている。
何とも嬉しいことです。
私の病気においても、主から与えられている御言葉をただ信じる
ところに導かれ、信じたらそのとおりになる、ということへの信仰が
与えられました。これからまだまだ生きられる…主が真実であること、
そして復活の領域の証をするために…、と言う信仰だけで、もうその
喜びは大変なものでした。生きられる という喜びはその一部に
すぎません。ただ御言葉は本当であるということが本当にわかった喜び
です。これ、本当にわかったら、私たちは冷静でなどいられるはずが
ありません。あまりにすごいことなのです。
どうやら、今回この病を通して主が私に与えてくださったレッスンが
終わりに近づいているのだと思います。
とにかく今、姉妹たちと共にワクワクしています。
これからあちこちで表れてくる証と実が大いに楽しみです。
主に対する心
私達キリスト者にかかわる「神の喜び」は一体どこにあるのでしょうか。
実は 主は私達が、ご自身のためにどれだけ働いているか、どれだけ
活動しているかを見られるのではありません。神はただ私達が純粋に
ご自身を愛するのを見て喜ばれるのです。
エペソにある教会は主のために労苦しました。それにもかかわらず、
彼らは「主に対する初めの愛」から離れました(黙示録2章)。
ですから、主は 彼らのその心の状態を喜ばれませんでした。主が
喜ばれるのは、彼らが「主を愛する愛という源」から働き出すことでした。
しかし、彼らはそうではありませんでした。
もしも主に対する愛情が無く、彼を真に愛していないのなら、たとえ、
外面的に彼のために多くのことを行ったとしても、また世の人々の救い
の為に「私の体を焼かれるために渡しても」また他のキリスト者達の
覚醒の為に日夜いくら叫んでみたとしても、キリストご自身への真の心
がないならば、それが何の役に立つでしょう。
「主のために」大変な努力をしている人でも「主ご自身を愛していない」
という可能性は十分あり得る、と言う事実を私達は知らなければ
なりません。しかしこれがかつてのエペソにある教会の実情でした。
主は常に私達の心を見られます。
「口で」主よ主よと言い続け「体で」一日中主のために労苦したとしても、
肝心の「心で」もしも彼を愛していないのなら、それは神の御前では
いかなる価値もないのです。
どうか、主に対して私達が ただ絶対的な心を持つことが出来ますように。
どうか、神が私に光をあてて「真実 私の活動は何ゆえであるのか」を
見させ、ひたすら主に対する私の愛の心が強められますように。
☆ ☆
ただ100% 主をのみ愛すべきである、と言う
「彼」の論調は続きます。
これを読んで下さっている兄弟姉妹の中には
「それではキリスト者は、キリスト以外の人やものを絶対に
愛してはいけないのですか?あなたの言う意味は一体なんですか?」
「そもそも人がそんなに純粋になれるのですか?」と
質問したい方々も多いことでしょう。そのお気持ち、
よく分かります。
しかし、もう数回分を 忍耐をもってお読み下さい。
その後 「この今の論調を基礎として」ある展開を見るでしょう。
実は 主は私達が、ご自身のためにどれだけ働いているか、どれだけ
活動しているかを見られるのではありません。神はただ私達が純粋に
ご自身を愛するのを見て喜ばれるのです。
エペソにある教会は主のために労苦しました。それにもかかわらず、
彼らは「主に対する初めの愛」から離れました(黙示録2章)。
ですから、主は 彼らのその心の状態を喜ばれませんでした。主が
喜ばれるのは、彼らが「主を愛する愛という源」から働き出すことでした。
しかし、彼らはそうではありませんでした。
もしも主に対する愛情が無く、彼を真に愛していないのなら、たとえ、
外面的に彼のために多くのことを行ったとしても、また世の人々の救い
の為に「私の体を焼かれるために渡しても」また他のキリスト者達の
覚醒の為に日夜いくら叫んでみたとしても、キリストご自身への真の心
がないならば、それが何の役に立つでしょう。
「主のために」大変な努力をしている人でも「主ご自身を愛していない」
という可能性は十分あり得る、と言う事実を私達は知らなければ
なりません。しかしこれがかつてのエペソにある教会の実情でした。
主は常に私達の心を見られます。
「口で」主よ主よと言い続け「体で」一日中主のために労苦したとしても、
肝心の「心で」もしも彼を愛していないのなら、それは神の御前では
いかなる価値もないのです。
どうか、主に対して私達が ただ絶対的な心を持つことが出来ますように。
どうか、神が私に光をあてて「真実 私の活動は何ゆえであるのか」を
見させ、ひたすら主に対する私の愛の心が強められますように。
☆ ☆
ただ100% 主をのみ愛すべきである、と言う
「彼」の論調は続きます。
これを読んで下さっている兄弟姉妹の中には
「それではキリスト者は、キリスト以外の人やものを絶対に
愛してはいけないのですか?あなたの言う意味は一体なんですか?」
「そもそも人がそんなに純粋になれるのですか?」と
質問したい方々も多いことでしょう。そのお気持ち、
よく分かります。
しかし、もう数回分を 忍耐をもってお読み下さい。
その後 「この今の論調を基礎として」ある展開を見るでしょう。
2009年7月23日木曜日
祭壇に下る火
私達は神以外のものを何と多く愛することでしょう。それは、或いは
アブラハムにとってのイサク、ヤコブにとってのラケルのように、
今私達の最も親しい人かもしれません。
神は私に対して、それらの私が最も愛する者を 敢えて「祭壇の上に」
置くことを求められます。主は「ご自身と競争する私が愛するもの」、
その保留を決して看過されることはありません。私達が所有しているものは
総て、神に対して完全に献げ尽くされるべきです。これは聖書全体が私達に
明らかに語っている当然の主張ではないでしょうか。その意味において今
「ほどほどに」とか「適当に」などと言う言葉は全く該当しません。ただ
単一に神を愛し、他の私の愛を祭壇の上に献げること、それだけが、
キリスト者が霊の力を得る方法です。
献げ物が祭壇の上に置かれる時、その時初めて、火は天から下ります。
祭壇(十字架)が無ければ、天からの火はあり得ません。私が十字架を
負うことなしに、即ち「私の愛する総てを主に献げること」なしに、
どうして聖霊の力を見ることができるでしょうか。祭壇にはその上に
置かれる献げ物は欠かす事が出来ません。何故なら天からの火は、ただ
祭壇の「いけにえ」のみを焼き尽くすからです。
兄弟達よ、頭で十字架を理解することによって、或いは、十字架について
語ることによって 聖霊の力を得ることは不可能です。聖霊の力を
得るのは、ただ 総てを献げ尽くすことによってです。
もし私達に、まだ寸断してない秘密の関係があるのなら、またもし私達の
心の中に 羊や牛、或いはアガグを神に献げることを惜しんでいる部分が
少しでもあるのなら、私達を通して現される聖霊の力を見ることは決して
出来ないでしょう。
キリスト者が「心を尽くして主を愛すること」がいかに重要であるかを、
私達は決して無視することが出来ないのです。何故なら、神に対する
キリスト者の愛以上に神の心を満足させ得るものは他には
あり得ないからです。それは神の心なのです。
☆ ☆
これは実体験から得た彼自身のリアルで切実な証でもあります。
それにしても、創造主が それほどまでに私達を愛されるとは!
アブラハムにとってのイサク、ヤコブにとってのラケルのように、
今私達の最も親しい人かもしれません。
神は私に対して、それらの私が最も愛する者を 敢えて「祭壇の上に」
置くことを求められます。主は「ご自身と競争する私が愛するもの」、
その保留を決して看過されることはありません。私達が所有しているものは
総て、神に対して完全に献げ尽くされるべきです。これは聖書全体が私達に
明らかに語っている当然の主張ではないでしょうか。その意味において今
「ほどほどに」とか「適当に」などと言う言葉は全く該当しません。ただ
単一に神を愛し、他の私の愛を祭壇の上に献げること、それだけが、
キリスト者が霊の力を得る方法です。
献げ物が祭壇の上に置かれる時、その時初めて、火は天から下ります。
祭壇(十字架)が無ければ、天からの火はあり得ません。私が十字架を
負うことなしに、即ち「私の愛する総てを主に献げること」なしに、
どうして聖霊の力を見ることができるでしょうか。祭壇にはその上に
置かれる献げ物は欠かす事が出来ません。何故なら天からの火は、ただ
祭壇の「いけにえ」のみを焼き尽くすからです。
兄弟達よ、頭で十字架を理解することによって、或いは、十字架について
語ることによって 聖霊の力を得ることは不可能です。聖霊の力を
得るのは、ただ 総てを献げ尽くすことによってです。
もし私達に、まだ寸断してない秘密の関係があるのなら、またもし私達の
心の中に 羊や牛、或いはアガグを神に献げることを惜しんでいる部分が
少しでもあるのなら、私達を通して現される聖霊の力を見ることは決して
出来ないでしょう。
キリスト者が「心を尽くして主を愛すること」がいかに重要であるかを、
私達は決して無視することが出来ないのです。何故なら、神に対する
キリスト者の愛以上に神の心を満足させ得るものは他には
あり得ないからです。それは神の心なのです。
☆ ☆
これは実体験から得た彼自身のリアルで切実な証でもあります。
それにしても、創造主が それほどまでに私達を愛されるとは!
2009年7月22日水曜日
愛は分割されてはならない
神はキリスト者達が完全に「ご自身のみを」愛することを要求
されます。主は信者の心が「ご自身と誰か」、或いは「ご自身と
何か」に分割されることに決して寛大ではありません。たとえ信者の
愛の大部分が主に対するものであったとしても、それでも主は
喜ばれないのです。
主は私達が自分の愛する者や物を、完全に手放すように求めて
おられます。神の要求は正に絶対的です。神はご自身の子供達の
愛情を、他の人やものが獲得することを少しも許すことが出来ません。
更に主は 私が「私流のやり方で」主を愛そうとすることを
願われません。神は私達が「神ご自身に従って」ただ神を愛すること
のみを願われます。こと愛については、主は私達が絶対的であることを
願われます。神はあなたの愛を独占したいのです!
主は本当に「ねたむ神」です。(出エジプト20の5)
非常に残念なことに、あるキリスト者達は「彼らが愛するものを
自由に愛し、また同時に主を愛することが出来る」と思っています。
彼らは、自分の愛するものを愛するのなら、同時に主を愛することは
不可能であると言う事実をまだ認識しておりません。
*
しかしながら、もしも私達の愛が決して分割されることなく、
完全にただ主にのみ献げられるのであれば、その時、信者の魂の命、即ち
「全く自分本位であった魂の命」はある決定的な致命傷を受けるのです。
「私はあなたの他に誰を天に持ちえよう。
地にはあなたのほかに慕うものはない」(詩篇73の25)
私達も神に向かい、この詩篇記者アサフのように高らかに言うべき
ではないでしょうか。「地にはあなたの他に慕うものはない!」
その時、私達は何と素晴らしい命の享受と解放を経験することでしょう。
「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。
これが大切な第一の戒めです。」(マタイ22の37、38)
☆ ☆
「もしも私達の愛が決して分割されることなく完全に ただ主にのみ
献げられるのであれば、その時、信者の魂の命、即ち全く自分本位
であった魂の命はある決定的な致命傷を受けるのです。」
それは何故でしょう。それはキリストの十字架に連結された
「あなたの十字架」には「生来のもの」に死をもたらす天的永遠的
神の力があるからです。その十字架の力があればこそ、初めて私達が
「神をのみ愛する」という可能性が生ずるのです。
しかしそのためにはあなたに対し、
ヨルダン川の死の水の中へと踏み入れる、
実際的な「小さな」一歩が要求されなければなりません。
なぜなら神は、一度人に与えられた自由意志を
とても尊重されるからです。
神にはあなたの信仰という
「協力」がどうしても必要なのです。
どうかあなたが、あなたに迫らずにはおられない
神の切実な愛の要求を 真に受け入れて下さいますように。
されます。主は信者の心が「ご自身と誰か」、或いは「ご自身と
何か」に分割されることに決して寛大ではありません。たとえ信者の
愛の大部分が主に対するものであったとしても、それでも主は
喜ばれないのです。
主は私達が自分の愛する者や物を、完全に手放すように求めて
おられます。神の要求は正に絶対的です。神はご自身の子供達の
愛情を、他の人やものが獲得することを少しも許すことが出来ません。
更に主は 私が「私流のやり方で」主を愛そうとすることを
願われません。神は私達が「神ご自身に従って」ただ神を愛すること
のみを願われます。こと愛については、主は私達が絶対的であることを
願われます。神はあなたの愛を独占したいのです!
主は本当に「ねたむ神」です。(出エジプト20の5)
非常に残念なことに、あるキリスト者達は「彼らが愛するものを
自由に愛し、また同時に主を愛することが出来る」と思っています。
彼らは、自分の愛するものを愛するのなら、同時に主を愛することは
不可能であると言う事実をまだ認識しておりません。
*
しかしながら、もしも私達の愛が決して分割されることなく、
完全にただ主にのみ献げられるのであれば、その時、信者の魂の命、即ち
「全く自分本位であった魂の命」はある決定的な致命傷を受けるのです。
「私はあなたの他に誰を天に持ちえよう。
地にはあなたのほかに慕うものはない」(詩篇73の25)
私達も神に向かい、この詩篇記者アサフのように高らかに言うべき
ではないでしょうか。「地にはあなたの他に慕うものはない!」
その時、私達は何と素晴らしい命の享受と解放を経験することでしょう。
「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。
これが大切な第一の戒めです。」(マタイ22の37、38)
☆ ☆
「もしも私達の愛が決して分割されることなく完全に ただ主にのみ
献げられるのであれば、その時、信者の魂の命、即ち全く自分本位
であった魂の命はある決定的な致命傷を受けるのです。」
それは何故でしょう。それはキリストの十字架に連結された
「あなたの十字架」には「生来のもの」に死をもたらす天的永遠的
神の力があるからです。その十字架の力があればこそ、初めて私達が
「神をのみ愛する」という可能性が生ずるのです。
しかしそのためにはあなたに対し、
ヨルダン川の死の水の中へと踏み入れる、
実際的な「小さな」一歩が要求されなければなりません。
なぜなら神は、一度人に与えられた自由意志を
とても尊重されるからです。
神にはあなたの信仰という
「協力」がどうしても必要なのです。
どうかあなたが、あなたに迫らずにはおられない
神の切実な愛の要求を 真に受け入れて下さいますように。
2009年7月21日火曜日
主に私の愛を献げること
キリスト者の経験において、おそらく最も難しい事は愛情に関して主に
服従することでしょう。しかしながら神は 何と他の何物よりも 私達の
愛情に最も注意を注がれるのです。神の「要求」は、信者が先ず自分の
愛を100パーセント神御自身にのみに献げ、「真に神を私の神とする
こと」であり「真に主を自分の主とすること」です。
私達はキリスト者がしばしば献身について語るのを聞きます。私達は
献身が 信者の霊的生活への第一歩であることを知っています。それは
霊性の到着点ではなく、献身した時に初めて「霊性への行程」がスタート
すると言うことです。献身は私達を聖別されて行く場所に導いてくれる
のです。従って先ずは献身(即ち自分の「総て」を主に献げること)が
なければ、将来 霊的な生活が存在する可能性は全くあり得ません。
さて私の献身において、献げるべき最も大切なものは私の愛情です。
キリスト者の献身が本物か否かは、真に私の愛を主に献げているかどうか
で分るのです。愛情は献身の試金石です。実は自分の時間、金銭、能力、
職業その他多くのものを主にささげることは比較的容易です。しかし、
私達の愛情を実際的に「主に献げ尽くすこと」は
決して容易なことではありません。
もちろん私達が「キリストを愛さない」などと言うはずはありません。
むしろ私達は気楽に「私は心から主を愛します」と叫びます。しかしながら
私は、主を愛していることは愛してはいるが、実は主以外の誰かを(或いは
何かを)第一とし、主を第二第三としているのかも知れないのです。また
主を愛するとは言うものの、本当は単に「自分自身の愛情」をひたすら
見つめ、それを後生大事にしているだけなのかも知れません。ということが
事実であるならば、私はまだ主を「完全には」愛していないのです。
私が持つべき極めて重要な認識は、もしもキリスト者であるならば、
何よりも最初に、主なる神に対して私の愛情が100%献げられねば
ならない、と言うことです。もしもそうでないのであれば、事実として
私は神に対して「まだ何も献げていない」ことになるのではないでしょうか。
☆ ☆
私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。
しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
「他人を自分と同じように愛する」ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に「神のために、
神の中で、神の愛によって」人を愛するようになるからです。
大筋以上のようなことを彼は後のページで語っております。
もしもそれがキリスト者にとって可能な実際であるならば、
それこそあの「山上の垂訓」の成就ですね。
服従することでしょう。しかしながら神は 何と他の何物よりも 私達の
愛情に最も注意を注がれるのです。神の「要求」は、信者が先ず自分の
愛を100パーセント神御自身にのみに献げ、「真に神を私の神とする
こと」であり「真に主を自分の主とすること」です。
私達はキリスト者がしばしば献身について語るのを聞きます。私達は
献身が 信者の霊的生活への第一歩であることを知っています。それは
霊性の到着点ではなく、献身した時に初めて「霊性への行程」がスタート
すると言うことです。献身は私達を聖別されて行く場所に導いてくれる
のです。従って先ずは献身(即ち自分の「総て」を主に献げること)が
なければ、将来 霊的な生活が存在する可能性は全くあり得ません。
さて私の献身において、献げるべき最も大切なものは私の愛情です。
キリスト者の献身が本物か否かは、真に私の愛を主に献げているかどうか
で分るのです。愛情は献身の試金石です。実は自分の時間、金銭、能力、
職業その他多くのものを主にささげることは比較的容易です。しかし、
私達の愛情を実際的に「主に献げ尽くすこと」は
決して容易なことではありません。
もちろん私達が「キリストを愛さない」などと言うはずはありません。
むしろ私達は気楽に「私は心から主を愛します」と叫びます。しかしながら
私は、主を愛していることは愛してはいるが、実は主以外の誰かを(或いは
何かを)第一とし、主を第二第三としているのかも知れないのです。また
主を愛するとは言うものの、本当は単に「自分自身の愛情」をひたすら
見つめ、それを後生大事にしているだけなのかも知れません。ということが
事実であるならば、私はまだ主を「完全には」愛していないのです。
私が持つべき極めて重要な認識は、もしもキリスト者であるならば、
何よりも最初に、主なる神に対して私の愛情が100%献げられねば
ならない、と言うことです。もしもそうでないのであれば、事実として
私は神に対して「まだ何も献げていない」ことになるのではないでしょうか。
☆ ☆
私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。
しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
「他人を自分と同じように愛する」ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に「神のために、
神の中で、神の愛によって」人を愛するようになるからです。
大筋以上のようなことを彼は後のページで語っております。
もしもそれがキリスト者にとって可能な実際であるならば、
それこそあの「山上の垂訓」の成就ですね。
2009年7月20日月曜日
霊的な力と代価
前回の「人々を引き付ける力」が要求される働き人達が、
真実をこめて求めるべき「本来のターゲット」とは一体何でしょう。
それは他ならぬ「霊的な力」です。彼らは自己の能力を発展させて
魅力的な伝道者になろうなどとするのではなく、単一に
キリストにある真の「霊の力」を求めるべきです。
しかしながら、真の霊の力は、ただそれを強く願うだけで与えられる
ものではありません。それには実際的に「代価が支払われること」
が強く要求されるのです。
今それを簡略に言うとするならば以下のようになるでしょう。
もしも私達が 本当に自分の感情に対して死んでいるならば、結果として
私達はごく自然に「霊の力」を持つのです。私達が霊の力に欠けるのは、
余りにも多く自分の感情に従って生活しているからです。そして、
私達には あまりにも欲望、自分の好み、感覚が多いからです。
もしも私達が 確かに自分の感情に従って歩まないのなら、また総ての
ことで「自分自身を喜ばせる欲望と行為」を死に渡すなら、私達は
とても自然にキリストの命における力と能力とを見るでしょう。
それはキリストの十字架のより深い死が、十分私達を霊的な力で満たす
ことが出来るからです。これ以外に道はありません。十字架が私達の
欲望を対処し、私達を神のために生きさせる時、霊の力は私達から
静かに現わされるでしょう。
もしも信者が霊的な働きにおいて、「自分の感情に打ち勝つ」
(キリストの死の適用によって)のでなければ 感情は多くの方法で
私達の前進を明確に阻むでしょう。感情が影響を及ぼす限りにおいて、
信者の霊は感情を支配することは不可能です。
従ってその人が「神の最高のみこころ」を成就することは出来ません。
感情はあらゆる種類のものを用いて、彼の働きの前進を妨げるからです。
☆ ☆
私のような者に、上記のような物言いは
なかなか出来るものではありません。
「彼」はその奉仕の生涯において極めて過酷な代価を払い続けて
来たと言えるでしょう。しかしながら、主によって彼の自我が
奪い取られ、彼の中の旧創造を総て献げ尽くしたその墓の向こうにおいて、
彼が真に経験した、卓越した「霊の命の完全さ」と「御国の実際」
を思うとき、彼は人の払うべき「ほんの小さな代価」について
どうしても私達に語らざるを得なかったのではないでしょうか。
*
以上で「感情」についての総論はひとまず終りです。
次回はその各論として、先ず「愛情」です。
そこでは、更に詳細に述べられる「代価」への言及は
どうしても避けられないことでしょう。
真実をこめて求めるべき「本来のターゲット」とは一体何でしょう。
それは他ならぬ「霊的な力」です。彼らは自己の能力を発展させて
魅力的な伝道者になろうなどとするのではなく、単一に
キリストにある真の「霊の力」を求めるべきです。
しかしながら、真の霊の力は、ただそれを強く願うだけで与えられる
ものではありません。それには実際的に「代価が支払われること」
が強く要求されるのです。
今それを簡略に言うとするならば以下のようになるでしょう。
もしも私達が 本当に自分の感情に対して死んでいるならば、結果として
私達はごく自然に「霊の力」を持つのです。私達が霊の力に欠けるのは、
余りにも多く自分の感情に従って生活しているからです。そして、
私達には あまりにも欲望、自分の好み、感覚が多いからです。
もしも私達が 確かに自分の感情に従って歩まないのなら、また総ての
ことで「自分自身を喜ばせる欲望と行為」を死に渡すなら、私達は
とても自然にキリストの命における力と能力とを見るでしょう。
それはキリストの十字架のより深い死が、十分私達を霊的な力で満たす
ことが出来るからです。これ以外に道はありません。十字架が私達の
欲望を対処し、私達を神のために生きさせる時、霊の力は私達から
静かに現わされるでしょう。
もしも信者が霊的な働きにおいて、「自分の感情に打ち勝つ」
(キリストの死の適用によって)のでなければ 感情は多くの方法で
私達の前進を明確に阻むでしょう。感情が影響を及ぼす限りにおいて、
信者の霊は感情を支配することは不可能です。
従ってその人が「神の最高のみこころ」を成就することは出来ません。
感情はあらゆる種類のものを用いて、彼の働きの前進を妨げるからです。
☆ ☆
私のような者に、上記のような物言いは
なかなか出来るものではありません。
「彼」はその奉仕の生涯において極めて過酷な代価を払い続けて
来たと言えるでしょう。しかしながら、主によって彼の自我が
奪い取られ、彼の中の旧創造を総て献げ尽くしたその墓の向こうにおいて、
彼が真に経験した、卓越した「霊の命の完全さ」と「御国の実際」
を思うとき、彼は人の払うべき「ほんの小さな代価」について
どうしても私達に語らざるを得なかったのではないでしょうか。
*
以上で「感情」についての総論はひとまず終りです。
次回はその各論として、先ず「愛情」です。
そこでは、更に詳細に述べられる「代価」への言及は
どうしても避けられないことでしょう。
2009年7月19日日曜日
伝道者の魅力
キリスト教の世界において今日強く求められているものは
よき働き人であり、更にその伝道者に「多くの人々を引き付ける力」
があるかどうか、と言うことではないでしょうか。
この時代において、もしも彼に様々な手段を駆使して人々を
引き付ける能力があるならば、要するに人々から見てその伝道者が
魅力的ならば、彼は有力な働き人なのであり、きっとその働きは
成功するだろうと見るのです。逆に人々を引き付ける力に欠ける
のであれば、働き人としては不適格であり、その成功はまるで
おぼつかない、とされるのです。
しかしながら、もしも以上のような「キリスト者の働き」についての
評価が正しいとされるならば、そこには「根本的に大切な何か」が
完全に欠落しているのではないでしょうか。そもそもキリスト者の
働きとはそのようなものなのでしょうか。例えば私達が使徒行伝
などを読む時、その様なものを高く評価するヒントの
一かけらでさえ見出すことが出来るのでしょうか。
「昨日の」使徒の意図は、「総て魂に属するものをことごとく
覆ってしまうこと」でした。何と「天然に属するもの」は総て
死の十字架に付けられなければならない、それがあの使徒の
明確な主張だったのです。
それでは「根本的に大切な何か」とは一体なんでしょう。それは
彼の腹から、聖霊と一つになった純粋な清い霊が流れ出ているかどうか
と言うことであり、彼の人間的魅力や能力などではありません。
そのような多くの人々を吸引する人の魅力が聖霊の働きを助ける
ことなど決してあり得ません。従って逆に、ある兄弟がたとえ、人を
引き付け、人を沢山集める能力に欠けているとしても、それで
彼が霊の働きを妨げてしまう理由には決してならないのです。
いずれにしろ、働き人が実際的に日々自分の魂の命を否み、真に
「霊に従って」歩まないのであれば その働きの結果は総てむなしい
ものであり、神がそれを評価することなど全くあり得ません。
よき働き人であり、更にその伝道者に「多くの人々を引き付ける力」
があるかどうか、と言うことではないでしょうか。
この時代において、もしも彼に様々な手段を駆使して人々を
引き付ける能力があるならば、要するに人々から見てその伝道者が
魅力的ならば、彼は有力な働き人なのであり、きっとその働きは
成功するだろうと見るのです。逆に人々を引き付ける力に欠ける
のであれば、働き人としては不適格であり、その成功はまるで
おぼつかない、とされるのです。
しかしながら、もしも以上のような「キリスト者の働き」についての
評価が正しいとされるならば、そこには「根本的に大切な何か」が
完全に欠落しているのではないでしょうか。そもそもキリスト者の
働きとはそのようなものなのでしょうか。例えば私達が使徒行伝
などを読む時、その様なものを高く評価するヒントの
一かけらでさえ見出すことが出来るのでしょうか。
「昨日の」使徒の意図は、「総て魂に属するものをことごとく
覆ってしまうこと」でした。何と「天然に属するもの」は総て
死の十字架に付けられなければならない、それがあの使徒の
明確な主張だったのです。
それでは「根本的に大切な何か」とは一体なんでしょう。それは
彼の腹から、聖霊と一つになった純粋な清い霊が流れ出ているかどうか
と言うことであり、彼の人間的魅力や能力などではありません。
そのような多くの人々を吸引する人の魅力が聖霊の働きを助ける
ことなど決してあり得ません。従って逆に、ある兄弟がたとえ、人を
引き付け、人を沢山集める能力に欠けているとしても、それで
彼が霊の働きを妨げてしまう理由には決してならないのです。
いずれにしろ、働き人が実際的に日々自分の魂の命を否み、真に
「霊に従って」歩まないのであれば その働きの結果は総てむなしい
ものであり、神がそれを評価することなど全くあり得ません。
2009年7月18日土曜日
「婦人の頭のおおい」と感情
使徒パウロは、総て女の人は祈ったり預言をしたりするとき、
頭におおいをかけなければならない、と言いました。これは一体
何でしょう。この事については人々の様々な説明や見方があります。
どの解釈が正しいのか、今ここで決めようとは思いませんが、
一つのことは明らかだと思います。
その意図は一つに「感情の働きを阻むこと」です。彼は人の生来の感情
から出てくる一切を完全に覆ってしまいたかったのです。特に婦人が
宣べ伝えたり祈ったりする時、容易に人々の感情を刺激してしまう
傾向があります。おおいと言うものは身体的に言えば、頭を覆う
だけでよいのですが、これを霊的に見るなら、その目的は「感情に
属する総てのもの」を完全に覆ってしまうこと、即ち「感情を死に
渡す」ことです。これは十字架です。
聖書では男は頭をおおいなさい、とは言われていませんが、
霊的な意味では 兄弟達も同様にやはり頭、即ち「思い」のみならず
感情をもおおう必要があるのです。
このことから、感情というものは 神の働きにおいて、容易に表に現れて
しまうやっかいなものである、ことを見ることが出来るでしょう。それを
より詳しく言うならば、キリスト者は総て、私達の魂にある感情の命、即ち
「感情を動かす生まれながらのエネルギー」を完全にキリストの死に渡す
必要がある、と言うことです。
さもなければ、聖霊は私達において、私達の魂の一機能(感情)を
神の器として自由に使用することが出来ないでしょう。
私達の生きる力の総ては完全にただ聖霊から来なければなりません。
本来キリスト者の生きる力即ち「命」は私達天然の人の中に存在する
はずがありません。聖霊にある「キリストこそが私達の命」でなければ
ならないのです。ただキリストだけが私達の総ての力です。
☆ ☆
ここで言う「預言」とは未来についての予告のみでなく
「神のために立って語ること」を意味しているでしょう。
頭におおいをかけなければならない、と言いました。これは一体
何でしょう。この事については人々の様々な説明や見方があります。
どの解釈が正しいのか、今ここで決めようとは思いませんが、
一つのことは明らかだと思います。
その意図は一つに「感情の働きを阻むこと」です。彼は人の生来の感情
から出てくる一切を完全に覆ってしまいたかったのです。特に婦人が
宣べ伝えたり祈ったりする時、容易に人々の感情を刺激してしまう
傾向があります。おおいと言うものは身体的に言えば、頭を覆う
だけでよいのですが、これを霊的に見るなら、その目的は「感情に
属する総てのもの」を完全に覆ってしまうこと、即ち「感情を死に
渡す」ことです。これは十字架です。
聖書では男は頭をおおいなさい、とは言われていませんが、
霊的な意味では 兄弟達も同様にやはり頭、即ち「思い」のみならず
感情をもおおう必要があるのです。
このことから、感情というものは 神の働きにおいて、容易に表に現れて
しまうやっかいなものである、ことを見ることが出来るでしょう。それを
より詳しく言うならば、キリスト者は総て、私達の魂にある感情の命、即ち
「感情を動かす生まれながらのエネルギー」を完全にキリストの死に渡す
必要がある、と言うことです。
さもなければ、聖霊は私達において、私達の魂の一機能(感情)を
神の器として自由に使用することが出来ないでしょう。
私達の生きる力の総ては完全にただ聖霊から来なければなりません。
本来キリスト者の生きる力即ち「命」は私達天然の人の中に存在する
はずがありません。聖霊にある「キリストこそが私達の命」でなければ
ならないのです。ただキリストだけが私達の総ての力です。
☆ ☆
ここで言う「預言」とは未来についての予告のみでなく
「神のために立って語ること」を意味しているでしょう。
2009年7月17日金曜日
ジョイフルホンダのスズメ
山形温泉旅行のおみやげ話 楽しく拝読。
よかったですね。
福島にも行かれた!
それは何だかとても嬉しい。
*
最近は私、午後 本を読んだり祈ったりするために
ジョイフルホンダに一人で出かけております。
涼しくて広いのでとても快適なのです。
そこのレストランのスズメ達(もちろん野生の)は
パンくずを拾いに なれなれしく
人のすぐそばまで来るのです。
いやかわいいものです。
それで今日はこれから
米を持参で 出かけます。
よかったですね。
福島にも行かれた!
それは何だかとても嬉しい。
*
最近は私、午後 本を読んだり祈ったりするために
ジョイフルホンダに一人で出かけております。
涼しくて広いのでとても快適なのです。
そこのレストランのスズメ達(もちろん野生の)は
パンくずを拾いに なれなれしく
人のすぐそばまで来るのです。
いやかわいいものです。
それで今日はこれから
米を持参で 出かけます。
「人に永遠の命を得させること」と感情
人に神の福音を伝えようとするとき、私達は或いは いろいろな
方法を用いて感動を与え、キリスト教に対する興味を持たせようと
するかも知れません。また人に過去を悔いさせ、悲しませ、
恥ずかしく思わせ、そのようにして来るべき裁きを恐れさせようと
努めるかも知れません。更に人にキリストを賞賛させ、そして遂には
他のキリスト者と接触することを願わせることに成功するかも知れません。
その時その人はもう素晴らしいキリスト者のように見えることでしょう。
しかしそれだからと言って、その人が再生(新しい永遠の命を受けること)
を受けたわけではありません。興味、後悔、悲しみ、恥ずかしさ、恐れ、
賞賛、願望、あわれみ、喜びなどを感じさせることに成功したとしても、
それらは単に種々の感情の作用に過ぎません。人はそれらの全部を
体験したとしても、依然として彼の霊は死んだままなのです。
何故なら、彼はまだ「新しく生まれて」はおらず、彼の「霊の直覚
において」神を知ったのではないからです。それらは総て感情の作用に
過ぎないのであり、それらが真の再生を証明するわけではありません。
再生の現れとは、人の霊が生きること、霊が生き出すことであり、
再生された人の直覚において神を認識する(神を知る)ことです。
もし私達の目的が人々に「キリストの命を得させること」であると
分かっているなら、むしろ感情を用いて彼らにキリスト教を認めさせ、
キリスト教に好感を持たせようなどと試みるべきではありません。
人は本来神の命に欠け、その霊は死んでいること、それ故に「人の霊を
新たに生かすこと」こそが真の必要であることを私達がハッキリと知る時、
自分自身に頼ってなされる働きは総てむなしいことを認識するでしょう。
どれ程人が変わったとしても、それは その人の「自己と言う範囲」の中で
ある変化が起こったに過ぎません。彼はその範囲を一歩も出たわけでは
ありません。要するに彼は感情に与えられたある感動によって
生来の「彼の魂の中で」ある変化をしたに過ぎないのであり、
彼の霊に決定的に永遠の命が分与されたのではないのです。
それだけでは神の御前においては何らの価値もありません。
ですから「霊的目的には霊的な方法を必要とする」という事実を
私達が真に見る事が出来ますように。私達の霊的な目的は
人々を再生させることです。それ故私達が働くとき、
ただひたすら「霊的な方法」に頼るしかない筈です。
☆ ☆
再び「感情」の総論に戻って来ました。
方法を用いて感動を与え、キリスト教に対する興味を持たせようと
するかも知れません。また人に過去を悔いさせ、悲しませ、
恥ずかしく思わせ、そのようにして来るべき裁きを恐れさせようと
努めるかも知れません。更に人にキリストを賞賛させ、そして遂には
他のキリスト者と接触することを願わせることに成功するかも知れません。
その時その人はもう素晴らしいキリスト者のように見えることでしょう。
しかしそれだからと言って、その人が再生(新しい永遠の命を受けること)
を受けたわけではありません。興味、後悔、悲しみ、恥ずかしさ、恐れ、
賞賛、願望、あわれみ、喜びなどを感じさせることに成功したとしても、
それらは単に種々の感情の作用に過ぎません。人はそれらの全部を
体験したとしても、依然として彼の霊は死んだままなのです。
何故なら、彼はまだ「新しく生まれて」はおらず、彼の「霊の直覚
において」神を知ったのではないからです。それらは総て感情の作用に
過ぎないのであり、それらが真の再生を証明するわけではありません。
再生の現れとは、人の霊が生きること、霊が生き出すことであり、
再生された人の直覚において神を認識する(神を知る)ことです。
もし私達の目的が人々に「キリストの命を得させること」であると
分かっているなら、むしろ感情を用いて彼らにキリスト教を認めさせ、
キリスト教に好感を持たせようなどと試みるべきではありません。
人は本来神の命に欠け、その霊は死んでいること、それ故に「人の霊を
新たに生かすこと」こそが真の必要であることを私達がハッキリと知る時、
自分自身に頼ってなされる働きは総てむなしいことを認識するでしょう。
どれ程人が変わったとしても、それは その人の「自己と言う範囲」の中で
ある変化が起こったに過ぎません。彼はその範囲を一歩も出たわけでは
ありません。要するに彼は感情に与えられたある感動によって
生来の「彼の魂の中で」ある変化をしたに過ぎないのであり、
彼の霊に決定的に永遠の命が分与されたのではないのです。
それだけでは神の御前においては何らの価値もありません。
ですから「霊的目的には霊的な方法を必要とする」という事実を
私達が真に見る事が出来ますように。私達の霊的な目的は
人々を再生させることです。それ故私達が働くとき、
ただひたすら「霊的な方法」に頼るしかない筈です。
☆ ☆
再び「感情」の総論に戻って来ました。
2009年7月16日木曜日
感覚の生活と本分(2)
信者はキリスト者の最高の生活が「人の本分」と矛盾するものでは
ないことを知るべきです。ローマ書、コロサイ書、エペソ書の後ろの方
を読むとき、キリスト者は「人の本分」を果たさなければならない
ことが分かります。
キリスト者のあるべき生活は、決して限られた場所と時間に限定される
ものではありません。それはいつでも、どこででも十分に表現される
べきです。従ってここだけは神にいてもらいたくない「私だけの場所や
また時間」などあるべきでありませんし、また神の前では比較的低劣な
時間帯などもある筈がありません。家事を行うことと、メッセージを
すること、祈ること、病床に伏していなければならないことの間に全く
何の優劣もないのです。キリストの命は、ありとあらゆる私達
キリスト者の生活を通して表現されなければなりません。
現在おかれている私の立場と状況に対する不満(この状況では 本分を
果たすことができないとする不満)は、実は私達が「感情の生活」を
している結果です。私達が反抗する理由は「私が願っている私の幸い」が、
この状況においては得られそうもないと思うからです。しかし本来、
キリスト者の生活は決して「自分の幸い」のためではありません。
それでは何故 私達は幸いを求めるのでしょうか。なぜなら、私達が
陥りがちな「私の感覚主導の生活」は、私に与えられた本分を重んじ
なくてもよいからです。しかし信仰の生活はそうではありません。
神に対する私達の愛は、私達の友人(周囲にいる人々)や敵に対して、
私の本分を捨てるように求める筈はありません。もし私達が
総ての事柄で、総ての時間、神と結合しているなら、あらゆる人に
対する私の本分が何であるのか、どのようにして彼らを助けるべきか
を知っている筈です。
*
Sugar 私見:
7/10の続きです。これは感情についての総論ではなく、
そのもとの1項目、「感覚の生活」の一部です。先回、うっかり
この部分の紹介を忘れてしまったのです。
ないことを知るべきです。ローマ書、コロサイ書、エペソ書の後ろの方
を読むとき、キリスト者は「人の本分」を果たさなければならない
ことが分かります。
キリスト者のあるべき生活は、決して限られた場所と時間に限定される
ものではありません。それはいつでも、どこででも十分に表現される
べきです。従ってここだけは神にいてもらいたくない「私だけの場所や
また時間」などあるべきでありませんし、また神の前では比較的低劣な
時間帯などもある筈がありません。家事を行うことと、メッセージを
すること、祈ること、病床に伏していなければならないことの間に全く
何の優劣もないのです。キリストの命は、ありとあらゆる私達
キリスト者の生活を通して表現されなければなりません。
現在おかれている私の立場と状況に対する不満(この状況では 本分を
果たすことができないとする不満)は、実は私達が「感情の生活」を
している結果です。私達が反抗する理由は「私が願っている私の幸い」が、
この状況においては得られそうもないと思うからです。しかし本来、
キリスト者の生活は決して「自分の幸い」のためではありません。
それでは何故 私達は幸いを求めるのでしょうか。なぜなら、私達が
陥りがちな「私の感覚主導の生活」は、私に与えられた本分を重んじ
なくてもよいからです。しかし信仰の生活はそうではありません。
神に対する私達の愛は、私達の友人(周囲にいる人々)や敵に対して、
私の本分を捨てるように求める筈はありません。もし私達が
総ての事柄で、総ての時間、神と結合しているなら、あらゆる人に
対する私の本分が何であるのか、どのようにして彼らを助けるべきか
を知っている筈です。
*
Sugar 私見:
7/10の続きです。これは感情についての総論ではなく、
そのもとの1項目、「感覚の生活」の一部です。先回、うっかり
この部分の紹介を忘れてしまったのです。
2009年7月15日水曜日
神の愛は本気です
「私は今 一日中
十字架を離れることが出来ないのです」
と言うあなたのお言葉、
実に貴重なものとしてお受け致しました。
*
「人の中の旧創造すべてを処する十字架」
それが今 生きてあなたの前にあるのですね。
それにしても、考えられないほどです、
旧創造の「総てを」とは。
神が与えたあなたの十字架、
それが 単なる美辞ではなく、
ある日私達の手が触れる現実となり
そして私の目の前に迫って来るとき
殆どのキリスト者にとって それでも
自分の中に強い抵抗を
感じないわけには行かないでしょう。
しかし十字架は
私とあなたを決して逃がしはしないのです。
なぜならば、
そこには、私に対する神の愛という
とても確かな裏づけがあるからです。
だから私も進んで、そして喜んで「それ」を捨てるのです。
これは確かに、
人の魂の感覚など物ともしない
この世に存在するあらゆる実感を超えた実体・信仰
と言う驚くべき賜の所産です。
それは明らかに人に訪れる最初の奇跡であり、
決してこの世のものではありません。
この道を真に歩もうとするキリスト者に対し
真の「甘美さ」、即ち永遠の世界において
決して動くことのない「御父と御子の間にあった甘美さ」
にさえ到達させようとする
神の本気の取り扱いは何と真実なことでしょう。
十字架を離れることが出来ないのです」
と言うあなたのお言葉、
実に貴重なものとしてお受け致しました。
*
「人の中の旧創造すべてを処する十字架」
それが今 生きてあなたの前にあるのですね。
それにしても、考えられないほどです、
旧創造の「総てを」とは。
神が与えたあなたの十字架、
それが 単なる美辞ではなく、
ある日私達の手が触れる現実となり
そして私の目の前に迫って来るとき
殆どのキリスト者にとって それでも
自分の中に強い抵抗を
感じないわけには行かないでしょう。
しかし十字架は
私とあなたを決して逃がしはしないのです。
なぜならば、
そこには、私に対する神の愛という
とても確かな裏づけがあるからです。
だから私も進んで、そして喜んで「それ」を捨てるのです。
これは確かに、
人の魂の感覚など物ともしない
この世に存在するあらゆる実感を超えた実体・信仰
と言う驚くべき賜の所産です。
それは明らかに人に訪れる最初の奇跡であり、
決してこの世のものではありません。
この道を真に歩もうとするキリスト者に対し
真の「甘美さ」、即ち永遠の世界において
決して動くことのない「御父と御子の間にあった甘美さ」
にさえ到達させようとする
神の本気の取り扱いは何と真実なことでしょう。
2009年7月14日火曜日
あるメールから
私達はともにこれから
主の十字架の死のパワーを見せていただこうと思っています。
すべての取り扱いは結局のところ、私たちが世にあって主を知ること、
そして、主の御愛を本当に知ることの幸いにあずかり 主の御からだ為の
器となるために 妨げになっているものを処理することが目的なのでしょう。
つまり、「神が神である」ことを私たちが学ぶためのお取り扱いですね。
主に明け渡した者達に対しては、決して敵も大きなことはできません。
いや、敵がすることは「主の御手の中で都合の良い道具となる」
だけですね。
苦しいことを経る中で「感情や体の反応」を客観的に見て、それなりに
対処することもできるようになって来て 翻弄されることが少なくなり、
とても楽になりました。
世の暗闇の中で 私たちは神を知り、感謝し、主そのものである
平安、喜びを享受しつつ、真に主に寄り頼み、主を礼拝する者と
なって行く。求める者は皆その過程にあるのでしょうね。
元気な人たちを羨ましいとは思いますが、でも、もっと素晴らしい
ものを知り味わう機会を与えられていることを感謝しています。
読むことも、PCの前に座っていることも
あまり簡単ではなくなってきています。
これからは ますますそうでしょう。
でも主は真実であり、十分です。
主の愛を心から感謝します。
主の十字架の死のパワーを見せていただこうと思っています。
すべての取り扱いは結局のところ、私たちが世にあって主を知ること、
そして、主の御愛を本当に知ることの幸いにあずかり 主の御からだ為の
器となるために 妨げになっているものを処理することが目的なのでしょう。
つまり、「神が神である」ことを私たちが学ぶためのお取り扱いですね。
主に明け渡した者達に対しては、決して敵も大きなことはできません。
いや、敵がすることは「主の御手の中で都合の良い道具となる」
だけですね。
苦しいことを経る中で「感情や体の反応」を客観的に見て、それなりに
対処することもできるようになって来て 翻弄されることが少なくなり、
とても楽になりました。
世の暗闇の中で 私たちは神を知り、感謝し、主そのものである
平安、喜びを享受しつつ、真に主に寄り頼み、主を礼拝する者と
なって行く。求める者は皆その過程にあるのでしょうね。
元気な人たちを羨ましいとは思いますが、でも、もっと素晴らしい
ものを知り味わう機会を与えられていることを感謝しています。
読むことも、PCの前に座っていることも
あまり簡単ではなくなってきています。
これからは ますますそうでしょう。
でも主は真実であり、十分です。
主の愛を心から感謝します。
霊の働きと感情
別のところでも強調したことですが、ただ霊だけが
「霊の働き」をすることが出来ます。総て他の働きは
霊的には何らの価値もありません。
今日、人々は人の心理に多くの注意を払っています。主の働き人
の中にも熱心に心理学を学んでいる人がいます。もしも 自分の
メッセージが人々の心理に受け入れられるなら、多くの人を捕らえて
彼らを主にもたらすことが出来ると思っているのでしょう。しかし
この心理というものは所詮人の感情の作用です。感情に頼ることは
全く霊的な意義はありません。
私達は、人の最大の必要は再生、霊の中の再生であることを
知っています。ですから、もし人の死んだ霊が生かされ「非受造の命」
(創造されたことのない神の命)にあずかり 再生された霊に、聖霊を
内住させることが出来ないなら、どんな働きも全く役に立ちません。
もし信者の働きの目的が、命を他の人に分け与えることでなければ、
その宣べ伝えの結果は、人に悪魔を拝むように勧めるのと少しも
違いがありません。心理学は人に命を得させることは出来ません。
聖霊御自身が働くのでなければ、一切はむなしいのです。
感情は完全に天然に属するものであり、それは神の命を源とする
ものではない と言うことを信者は認識しなければなりません。
どうか私達が、感情には「全く神の命はない」ことを
本当に知ることが出来ますように!
ですから、涙を流すとか、悲しい顔をするとか、或いは声を出して
泣くなどして、感情の力を用い、人を救おうと考えてはなりません。
総ての感情の働きは「人の暗くされた死せる霊」に対しては、どんな
方法をもってしても いかなる影響も与えることは出来ないのです。
聖霊が人に命を与えるのでなければ 誰も命を受けることは出来ません。
もしも私達が聖霊に頼らないで感情に頼るのであれば、私達の働きは
総てむなしいものとなり、真の価値ある効果は全く期待出来ないのです。
感情は決して人に命を与えることは出来ません。主のために働く人は
ハッキリと見なければなりません、もしも自分に頼るならば、
人の中に神の命を生み出すことなど全く出来ないと言うことを。
*Sugar 私見:
「感情」の総論の中の「霊の働きと感情」に入りました。
この部分の紹介は多分あと2、3回を要するでしょう。
「霊の働き」をすることが出来ます。総て他の働きは
霊的には何らの価値もありません。
今日、人々は人の心理に多くの注意を払っています。主の働き人
の中にも熱心に心理学を学んでいる人がいます。もしも 自分の
メッセージが人々の心理に受け入れられるなら、多くの人を捕らえて
彼らを主にもたらすことが出来ると思っているのでしょう。しかし
この心理というものは所詮人の感情の作用です。感情に頼ることは
全く霊的な意義はありません。
私達は、人の最大の必要は再生、霊の中の再生であることを
知っています。ですから、もし人の死んだ霊が生かされ「非受造の命」
(創造されたことのない神の命)にあずかり 再生された霊に、聖霊を
内住させることが出来ないなら、どんな働きも全く役に立ちません。
もし信者の働きの目的が、命を他の人に分け与えることでなければ、
その宣べ伝えの結果は、人に悪魔を拝むように勧めるのと少しも
違いがありません。心理学は人に命を得させることは出来ません。
聖霊御自身が働くのでなければ、一切はむなしいのです。
感情は完全に天然に属するものであり、それは神の命を源とする
ものではない と言うことを信者は認識しなければなりません。
どうか私達が、感情には「全く神の命はない」ことを
本当に知ることが出来ますように!
ですから、涙を流すとか、悲しい顔をするとか、或いは声を出して
泣くなどして、感情の力を用い、人を救おうと考えてはなりません。
総ての感情の働きは「人の暗くされた死せる霊」に対しては、どんな
方法をもってしても いかなる影響も与えることは出来ないのです。
聖霊が人に命を与えるのでなければ 誰も命を受けることは出来ません。
もしも私達が聖霊に頼らないで感情に頼るのであれば、私達の働きは
総てむなしいものとなり、真の価値ある効果は全く期待出来ないのです。
感情は決して人に命を与えることは出来ません。主のために働く人は
ハッキリと見なければなりません、もしも自分に頼るならば、
人の中に神の命を生み出すことなど全く出来ないと言うことを。
*Sugar 私見:
「感情」の総論の中の「霊の働きと感情」に入りました。
この部分の紹介は多分あと2、3回を要するでしょう。
2009年7月13日月曜日
ねたむ愛
この道は一つの原則があるだけであり、自己のための余地は
残されていません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、
私達をこの道から運び去るでしょう。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が
一つ一つ砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、
その時必然的に、私はそれを 困難な道であるとは感じないでしょう。
残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を
歩いてさえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に
到達する前にこの道から離れてしまいます。
*
今朝 以上の言葉に対する
「あなたの真摯な文章」をもう一度 読み返しました。
「習慣、好み、願望、切望が一つ一つ砕かれ、
もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる。」
これは決して ヨハネの書簡で言う「罪なき完全」のことでは
ありません。「罪なき完全」は当然あり得ません。それは偽りです。
しかしここで言われているのは
「ある段階に到達した信者達」の堅実な様の描写です。
このような信者はあり得ないのでしょうか。
イエイエそんなことはありません。
私達はあの多くの証人に
雲のように取り囲まれているではありませんか。
(ヘブル12の1)
今日のキリスト者にはある種の 根拠のない「あきらめ」がある
ように思います。(それも敵の企てではないのですか)
ですから、「間違った霊性」が信ぜられ宣伝される可能性があり、
また「習慣、好み、願望、切望」は神が許しているからいいのだ、
神はこの世のお父さん以上に、度量のとても広いお方ではないのか、
と自らを慰めるキリスト者も多いのです。
ここで言う「習慣、好み、願望、切望」は、
神に隠れた所で求める、神から独立した、
「私の世界」の中の、
私一人の為の、私のための
「習慣、好み、願望、切望」と言う意味に限定されます。
もしもそうであるのなら、
私個人に対する「神のねたむ愛」は それらの一つたりとも
ただの一分間さえ許すことは出来ないはずです。
例外的にその点においてだけは
神の度量も極めて小さいのです。
その「死と黄泉のような愛」の故に、
「私」のための「習慣、好み、願望、切望」が
真に私の深刻な悩みとなり、
次にそれらの一つ一つが丁寧に
私の心からの祈りの中で
キリストの死に重ね合わされる時、
キリストの十字架の霊的な死の力は
私の十字架へと 時空を超えて確実に伝達されます。
その後 ある時に至り、
確かな天の「殺す力」が
私にさえ フトありありと
確認されるに至るでしょう。
☆ ☆
多分、私の分を超えたであろう
このような発言を
どうぞお許しくださいますように。
残されていません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、
私達をこの道から運び去るでしょう。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が
一つ一つ砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、
その時必然的に、私はそれを 困難な道であるとは感じないでしょう。
残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を
歩いてさえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に
到達する前にこの道から離れてしまいます。
*
今朝 以上の言葉に対する
「あなたの真摯な文章」をもう一度 読み返しました。
「習慣、好み、願望、切望が一つ一つ砕かれ、
もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる。」
これは決して ヨハネの書簡で言う「罪なき完全」のことでは
ありません。「罪なき完全」は当然あり得ません。それは偽りです。
しかしここで言われているのは
「ある段階に到達した信者達」の堅実な様の描写です。
このような信者はあり得ないのでしょうか。
イエイエそんなことはありません。
私達はあの多くの証人に
雲のように取り囲まれているではありませんか。
(ヘブル12の1)
今日のキリスト者にはある種の 根拠のない「あきらめ」がある
ように思います。(それも敵の企てではないのですか)
ですから、「間違った霊性」が信ぜられ宣伝される可能性があり、
また「習慣、好み、願望、切望」は神が許しているからいいのだ、
神はこの世のお父さん以上に、度量のとても広いお方ではないのか、
と自らを慰めるキリスト者も多いのです。
ここで言う「習慣、好み、願望、切望」は、
神に隠れた所で求める、神から独立した、
「私の世界」の中の、
私一人の為の、私のための
「習慣、好み、願望、切望」と言う意味に限定されます。
もしもそうであるのなら、
私個人に対する「神のねたむ愛」は それらの一つたりとも
ただの一分間さえ許すことは出来ないはずです。
例外的にその点においてだけは
神の度量も極めて小さいのです。
その「死と黄泉のような愛」の故に、
「私」のための「習慣、好み、願望、切望」が
真に私の深刻な悩みとなり、
次にそれらの一つ一つが丁寧に
私の心からの祈りの中で
キリストの死に重ね合わされる時、
キリストの十字架の霊的な死の力は
私の十字架へと 時空を超えて確実に伝達されます。
その後 ある時に至り、
確かな天の「殺す力」が
私にさえ フトありありと
確認されるに至るでしょう。
☆ ☆
多分、私の分を超えたであろう
このような発言を
どうぞお許しくださいますように。
2009年7月11日土曜日
一つの実際的なアドバイス
もしキリスト者が内的に混乱しているならば「そのような時
神が彼を導くことはあり得ない」と言うことを覚えておくこと
だけでも益があるでしょう。これは多くの失敗から彼を守ります。
心が混乱し、感情が騒いでいるときに、決して何事かを決定
したり始めたりするべきではありません。もしもその感情の
おもむくままに行動するならばきっと間違えてしまうでしょう。
*
感情が混乱状態にある時には「思い」も信頼できません。思いは
感情によって大きな影響を受けるものです。一旦思いが弱くなると、
何が正しく何が間違っているかを見分けることが非常に難しくなります。
そのような時には、同時に彼の「良心」でさえ頼りになりません。
感情が乱れ、思いが欺かれている時、良心は正しいか間違って
いるかを正確に見分ける標準を失っているのです。
そういう状況においては、信者が何を決定しようと、それは
不正確になり、その行動はあとあとまで悔いを残す結果と
なるかも知れません。
*
感情の乱れを感じたなら、キリスト者は意志を用いて感情を
拒絶し、感情の動きを停止しなければなりません。
感情が揺れ動かなくなり、完全に静かになった時にのみ、
人は正しい決定をする可能性があるのです。
いずれにしろ、生活の中で信者は、なるべく自分の感情が乱される
ような事態を招かないように注意しなければならないのは
やはり当然のことなのです。
☆
Sugar 私見:
再び「感情」の総論に戻りました。今ようやくその総論の
終わりに近づいています。
このアドバイスで言われているように、日常生活において
私達が「自分の感情をおさめようとする試み」は決して
無駄なことではないでしょう。
むしろ「霊によって感情を支配出来る」キリスト者であった
としても、絶えず目を覚まし、感情に対して目を配り続ける
と言う配慮は やはり欠かせない事ではないでしょうか。
「霊的な人になれば自分を放棄し、成り行きに任せても、聖霊が
彼の総ての責任を取り、自然にその人を霊的な状態に守られる」
などとするのは完全な幻想です。
神が彼を導くことはあり得ない」と言うことを覚えておくこと
だけでも益があるでしょう。これは多くの失敗から彼を守ります。
心が混乱し、感情が騒いでいるときに、決して何事かを決定
したり始めたりするべきではありません。もしもその感情の
おもむくままに行動するならばきっと間違えてしまうでしょう。
*
感情が混乱状態にある時には「思い」も信頼できません。思いは
感情によって大きな影響を受けるものです。一旦思いが弱くなると、
何が正しく何が間違っているかを見分けることが非常に難しくなります。
そのような時には、同時に彼の「良心」でさえ頼りになりません。
感情が乱れ、思いが欺かれている時、良心は正しいか間違って
いるかを正確に見分ける標準を失っているのです。
そういう状況においては、信者が何を決定しようと、それは
不正確になり、その行動はあとあとまで悔いを残す結果と
なるかも知れません。
*
感情の乱れを感じたなら、キリスト者は意志を用いて感情を
拒絶し、感情の動きを停止しなければなりません。
感情が揺れ動かなくなり、完全に静かになった時にのみ、
人は正しい決定をする可能性があるのです。
いずれにしろ、生活の中で信者は、なるべく自分の感情が乱される
ような事態を招かないように注意しなければならないのは
やはり当然のことなのです。
☆
Sugar 私見:
再び「感情」の総論に戻りました。今ようやくその総論の
終わりに近づいています。
このアドバイスで言われているように、日常生活において
私達が「自分の感情をおさめようとする試み」は決して
無駄なことではないでしょう。
むしろ「霊によって感情を支配出来る」キリスト者であった
としても、絶えず目を覚まし、感情に対して目を配り続ける
と言う配慮は やはり欠かせない事ではないでしょうか。
「霊的な人になれば自分を放棄し、成り行きに任せても、聖霊が
彼の総ての責任を取り、自然にその人を霊的な状態に守られる」
などとするのは完全な幻想です。
2009年7月10日金曜日
感覚の生活と本分
キリスト者が「感覚的生活」によって支配されている時、
彼は他の人々に対して果たすべき彼本来の本分をなおざりにする
かも知れません。なぜなら感覚の生活は自己を中心とするからです。
そういうキリスト者が人々(キリスト者と他の人々)の必要に
真に心を留めることはないでしょう。
信者は感覚ではなく、信仰と意志を用いて自分の本分を果たさなければ
なりません。本分を果たす責任は感覚にはよりません。他の人に対する
私達の本分は定まっていますし、自分自身の働きに対する本分も定まって
います。それは確固としたものであり神によるのです。それらは決して、
感覚によって軽々に変わるものではありません。本分とは「原則に
従って」成し遂げられるべきものであり、それは私達がどの様に感じるか
によって変化する事はあり得ません。
感覚によって支配されているキリスト者は、もし彼の主との
交わりが非常に幸いならば、そのような時間を深く愛します。
彼が一旦、楽しい感覚の中で幸せを経験する時、彼の最大の望みは、
出来るならいつも主と共にいて、自分の周りの他の事柄をあまり
顧みることなく、一日中その幸いの中にいることです。
そのようなキリスト者は、出て行って働くことを好みません。何故なら
世に出て行くならば、さまざまな誘惑と困難が避けられないからです。
彼が主と顔を合わせている時、自分が聖く勝利であると感じます。しかし
いったん自分自身の本分を果たすために出て行くなら、彼は以前のように
敗北し、自分が汚れていることに直面しなければなりません。それは彼に
とっては非常に辛いことです。彼は自分の本分を「世的なもの」のように
考え、聖くて勝利を得た自分が関心を持つことではない、と考えるのかも
知れません。ですから、主との交わりを持つ時と場所は
非常に大切にするのですが、彼の幸いを妨げる彼の本分に対する
責任はおろそかにしてしまうのです。
もしもこれが実際の親ならば、そのような親は子供を養育することが
出来ません。まともな親であれば 育児を楽しいとか楽しくないとかの
感覚でするわけではありません。(親は育児の喜びを感じることが
ないと言っているのではありません)同様に、感覚的なキリスト者も、
主に忠実に仕えることは難しいのです。彼らは内心 これらのことは
世的で些細な事に過ぎないのであり、自分は霊的で素晴らしい
ものを追及しているのだから、自分の様な者が関心を持つ必要は
ないとするのです。これは極めて大きな誤解です。
*
この理由は、彼はまだ十分「信仰によって」生活していない
ことによります。彼はまだ煩雑な日常生活においては、神との
結合の中にいないのです。
だから彼は隔離された特別な時間と場所の中で神と交わることが
出来るだけです。彼は「総てのことで、24時間」主の臨在感覚が
あろうとなかろうと、ただ信仰によって見えない主を仰ぎ望み、
主と共に働くことをまだ学んでいません。彼は普通のわずらわしい
人間生活の中で、どのようにして主との結合の中にあるべきかを
まだ知らないのです。彼が神を経験する範囲は、
ただ感覚の中に制限されています。
ですから、彼は山に留まり一人長い間、主と共に住むことは喜びますが、
山から下りて来て(人間生活の中の)悪鬼を追い出したくはないのです。
☆
Sugar 私見:
先回までの掲載は先人による「感情に関する総論」の一部でした。
総論の後は 愛情、欲望、感覚の生活、信仰の生活、という各論に
移ります。今日の紹介は その中の「感覚の生活」の小さな部分です。
簡単に述べられた「事実→信仰→経験」に関するメッセージはよく
耳にもし、私達も「分かった積もり」になり勝ちなのですが、実は
それは「極めて大きな森」のような巨大なテーマであることが
分かります。その一部でさえ安易に入り込むことは出来ません。
感情や感覚と言う、実際生活で扱う段になると非常に難しい問題も、
この巨大テーマのごく一部に過ぎません。
また、この森に入り込むには常に「全体と詳細部分」を見わける目を、
即ち全体を部分から、部分を全体から見る目を失うことがないように
細心の注意深さが必要のようです。
彼は他の人々に対して果たすべき彼本来の本分をなおざりにする
かも知れません。なぜなら感覚の生活は自己を中心とするからです。
そういうキリスト者が人々(キリスト者と他の人々)の必要に
真に心を留めることはないでしょう。
信者は感覚ではなく、信仰と意志を用いて自分の本分を果たさなければ
なりません。本分を果たす責任は感覚にはよりません。他の人に対する
私達の本分は定まっていますし、自分自身の働きに対する本分も定まって
います。それは確固としたものであり神によるのです。それらは決して、
感覚によって軽々に変わるものではありません。本分とは「原則に
従って」成し遂げられるべきものであり、それは私達がどの様に感じるか
によって変化する事はあり得ません。
感覚によって支配されているキリスト者は、もし彼の主との
交わりが非常に幸いならば、そのような時間を深く愛します。
彼が一旦、楽しい感覚の中で幸せを経験する時、彼の最大の望みは、
出来るならいつも主と共にいて、自分の周りの他の事柄をあまり
顧みることなく、一日中その幸いの中にいることです。
そのようなキリスト者は、出て行って働くことを好みません。何故なら
世に出て行くならば、さまざまな誘惑と困難が避けられないからです。
彼が主と顔を合わせている時、自分が聖く勝利であると感じます。しかし
いったん自分自身の本分を果たすために出て行くなら、彼は以前のように
敗北し、自分が汚れていることに直面しなければなりません。それは彼に
とっては非常に辛いことです。彼は自分の本分を「世的なもの」のように
考え、聖くて勝利を得た自分が関心を持つことではない、と考えるのかも
知れません。ですから、主との交わりを持つ時と場所は
非常に大切にするのですが、彼の幸いを妨げる彼の本分に対する
責任はおろそかにしてしまうのです。
もしもこれが実際の親ならば、そのような親は子供を養育することが
出来ません。まともな親であれば 育児を楽しいとか楽しくないとかの
感覚でするわけではありません。(親は育児の喜びを感じることが
ないと言っているのではありません)同様に、感覚的なキリスト者も、
主に忠実に仕えることは難しいのです。彼らは内心 これらのことは
世的で些細な事に過ぎないのであり、自分は霊的で素晴らしい
ものを追及しているのだから、自分の様な者が関心を持つ必要は
ないとするのです。これは極めて大きな誤解です。
*
この理由は、彼はまだ十分「信仰によって」生活していない
ことによります。彼はまだ煩雑な日常生活においては、神との
結合の中にいないのです。
だから彼は隔離された特別な時間と場所の中で神と交わることが
出来るだけです。彼は「総てのことで、24時間」主の臨在感覚が
あろうとなかろうと、ただ信仰によって見えない主を仰ぎ望み、
主と共に働くことをまだ学んでいません。彼は普通のわずらわしい
人間生活の中で、どのようにして主との結合の中にあるべきかを
まだ知らないのです。彼が神を経験する範囲は、
ただ感覚の中に制限されています。
ですから、彼は山に留まり一人長い間、主と共に住むことは喜びますが、
山から下りて来て(人間生活の中の)悪鬼を追い出したくはないのです。
☆
Sugar 私見:
先回までの掲載は先人による「感情に関する総論」の一部でした。
総論の後は 愛情、欲望、感覚の生活、信仰の生活、という各論に
移ります。今日の紹介は その中の「感覚の生活」の小さな部分です。
簡単に述べられた「事実→信仰→経験」に関するメッセージはよく
耳にもし、私達も「分かった積もり」になり勝ちなのですが、実は
それは「極めて大きな森」のような巨大なテーマであることが
分かります。その一部でさえ安易に入り込むことは出来ません。
感情や感覚と言う、実際生活で扱う段になると非常に難しい問題も、
この巨大テーマのごく一部に過ぎません。
また、この森に入り込むには常に「全体と詳細部分」を見わける目を、
即ち全体を部分から、部分を全体から見る目を失うことがないように
細心の注意深さが必要のようです。
2009年7月9日木曜日
三つの欲望
お答えします:
私達には確かに
家族など他人のために自分の義務を果たすと言う
「人の本分」はありますが
いかなる環境も人も、それらを変える義務はないし、
その使命もありません。
また明らかに私達にそのような能力は無いのです。
ただ唯一与えられている責務は、
一切の自分の欲望に対して
「私」をキリストの死に重ねて滅ぼし、私の環境の中に
「神の欲望とサタンの欲望のみを残すこと」です。
そこに私の欲望が少しでも残っているならば、
神に大きなハンデを与えることになるでしょう。
私の欲望は完全に舞台から退却しなければなりません。
*
追伸:
真に「神の欲望とサタンの欲望のみを残す」ならば、
続いてその人は「神の欲望を即自分の欲望とする」筈です。
その時初めて神は、その環境を、彼を通して変えることも
可能となるのです。
私達には確かに
家族など他人のために自分の義務を果たすと言う
「人の本分」はありますが
いかなる環境も人も、それらを変える義務はないし、
その使命もありません。
また明らかに私達にそのような能力は無いのです。
ただ唯一与えられている責務は、
一切の自分の欲望に対して
「私」をキリストの死に重ねて滅ぼし、私の環境の中に
「神の欲望とサタンの欲望のみを残すこと」です。
そこに私の欲望が少しでも残っているならば、
神に大きなハンデを与えることになるでしょう。
私の欲望は完全に舞台から退却しなければなりません。
*
追伸:
真に「神の欲望とサタンの欲望のみを残す」ならば、
続いてその人は「神の欲望を即自分の欲望とする」筈です。
その時初めて神は、その環境を、彼を通して変えることも
可能となるのです。
2009年7月8日水曜日
神の原則と感情
正常な行動は必ず一定の原則に従っています。
霊には法則と進路と原則とがあります。従って霊に従って歩くとは、
全面的に霊の法則に従って歩くことです。
霊の原則において、総ての是と非の「おおもと」には、明らかに
定められた基準があります。空が晴れていても曇っていても、もしそれが、
しかりであれば 必ずしかりです。その人が幸福でも、落胆していても、
もしそれが否であれば否です。そのように、正常なキリスト者の生活も、
必ず一定の原則に従ったものです。
さて感情による生活は、原則に従った生活とは全く異なります
もし信者が自分の感情を死に渡していなければ、彼の生活はきっと
基準のないものになってしまうでしょう。何故なら、感情は
勝手気ままに変化するからです。
従って彼の生活には定まった原則がなく、彼は変わりやすい感情の
感覚に従って生きてしまうのです。自分の感情に従って歩む信者は、
あることを行うかどうかを決める際、神の原則などあまり意に介さず、
或いは忘れ、そしてまた「人の正当な理由」(本分)も尊重しません。
彼は自分の感情に強い影響を受け、ついそれに従ってしまうのです。
そういう人は、もしも自分の好むものがあれば、当然それを自分の喜びと
するでしょう。ですから愛するものが目前にあれば、それを行うのが
明らかに不合理で原則に反することが分かっていても、彼にとって
それは強い誘惑となります。恐らく彼はそれを実行してしまうでしょう。
逆にもし彼の心がその時 冷淡、憂鬱で、意気消沈しているならば、
彼が本来なすべきことも果たさないかも知れません。何故なら、彼の
感情が原則について行かないからです。
このように、もしも神の子供達が自分の感情を少し観察して見るならば
いかに自分の感情が変わりやすいものか、また感情にしたがって歩く
ことがいかに危険であるかを認識するでしょう。
もし、彼の感情や趣向が「神の原則」に適合する場合だけそれに従い、
自分の感情に合わないならばそれを拒絶する、のであるならば、
それは全く霊的な生活とは言えません。
誰でも霊的な生活をしたいと願うなら全面的に瞬間瞬間、神の原則
のみに従って歩かなければなりません。
*
Sugar 私見:
先人は「霊には原則があり、感情にはそれが無い」と
言っているようです。確かに「聖霊が内住する自分の霊」に
従わなければ、私達は「実に勝手気ままな感情や自分の好き好み」or
その時の「気分」に常に強く左右されながら生きるしかありません。
さてこの「気分」と言う日本語はその「感情の気ままさ加減」を
絶妙に言い表している言葉ではないでしょうか。実に私達の「気分」
は奔放です。それは時に私を全く無視しているかのようです。
一体このような「気分の源」はどこにあるのでしょうか。
この箇所において、先人は、それは「環境の影響である」と言われる
のですが、本当に環境のせいだけなのでしょうか。私的には「気分」は
「いわゆる環境」の背後に潜む「目に見えないある影響力」と関わりを
持つかも知れないと思っております。従って、仮にもし「気分にも原則
がある」とするならば、その原則は多分その様な「影響力達」が本来
持っている原則なのでしょう。そしてその原則とは「死と分裂」と言う
トンでもない「原則」であることを私達は知らなければなりません。
(実はこのテーマについてはある所で先人も語っておられます。)
霊には法則と進路と原則とがあります。従って霊に従って歩くとは、
全面的に霊の法則に従って歩くことです。
霊の原則において、総ての是と非の「おおもと」には、明らかに
定められた基準があります。空が晴れていても曇っていても、もしそれが、
しかりであれば 必ずしかりです。その人が幸福でも、落胆していても、
もしそれが否であれば否です。そのように、正常なキリスト者の生活も、
必ず一定の原則に従ったものです。
さて感情による生活は、原則に従った生活とは全く異なります
もし信者が自分の感情を死に渡していなければ、彼の生活はきっと
基準のないものになってしまうでしょう。何故なら、感情は
勝手気ままに変化するからです。
従って彼の生活には定まった原則がなく、彼は変わりやすい感情の
感覚に従って生きてしまうのです。自分の感情に従って歩む信者は、
あることを行うかどうかを決める際、神の原則などあまり意に介さず、
或いは忘れ、そしてまた「人の正当な理由」(本分)も尊重しません。
彼は自分の感情に強い影響を受け、ついそれに従ってしまうのです。
そういう人は、もしも自分の好むものがあれば、当然それを自分の喜びと
するでしょう。ですから愛するものが目前にあれば、それを行うのが
明らかに不合理で原則に反することが分かっていても、彼にとって
それは強い誘惑となります。恐らく彼はそれを実行してしまうでしょう。
逆にもし彼の心がその時 冷淡、憂鬱で、意気消沈しているならば、
彼が本来なすべきことも果たさないかも知れません。何故なら、彼の
感情が原則について行かないからです。
このように、もしも神の子供達が自分の感情を少し観察して見るならば
いかに自分の感情が変わりやすいものか、また感情にしたがって歩く
ことがいかに危険であるかを認識するでしょう。
もし、彼の感情や趣向が「神の原則」に適合する場合だけそれに従い、
自分の感情に合わないならばそれを拒絶する、のであるならば、
それは全く霊的な生活とは言えません。
誰でも霊的な生活をしたいと願うなら全面的に瞬間瞬間、神の原則
のみに従って歩かなければなりません。
*
Sugar 私見:
先人は「霊には原則があり、感情にはそれが無い」と
言っているようです。確かに「聖霊が内住する自分の霊」に
従わなければ、私達は「実に勝手気ままな感情や自分の好き好み」or
その時の「気分」に常に強く左右されながら生きるしかありません。
さてこの「気分」と言う日本語はその「感情の気ままさ加減」を
絶妙に言い表している言葉ではないでしょうか。実に私達の「気分」
は奔放です。それは時に私を全く無視しているかのようです。
一体このような「気分の源」はどこにあるのでしょうか。
この箇所において、先人は、それは「環境の影響である」と言われる
のですが、本当に環境のせいだけなのでしょうか。私的には「気分」は
「いわゆる環境」の背後に潜む「目に見えないある影響力」と関わりを
持つかも知れないと思っております。従って、仮にもし「気分にも原則
がある」とするならば、その原則は多分その様な「影響力達」が本来
持っている原則なのでしょう。そしてその原則とは「死と分裂」と言う
トンでもない「原則」であることを私達は知らなければなりません。
(実はこのテーマについてはある所で先人も語っておられます。)
2009年7月7日火曜日
感情に従って歩いてしまう理由
キリスト者が霊に従わず、感情に従って歩んでしまうのは
どうしてなのでしょうか。二つの理由が考えられます。
先ず、信者が霊に従って歩むことを真剣に願い、追い求めないからです。
少なくも真剣さがなければ、このことが達成されることはあり得ません。
ですから、この場合 当然彼は感情に従って生活するでしょう。
彼は感情が動き、それが衝動となるとき、仮にまずいと感じたとしても、
それをどのように否むべきかを知りません。
ですから結果、感情に流され、行うべきでないことを行ってしまうのです。
しかしそれでもその際、彼の霊の直覚に全く霊的な感覚が生じなかった
わけではないのです。しかし、彼のある弱さの故に、彼は感情に耳を傾け、
直覚を無視してしまうのです。
その時 感情は更に強まり、彼は全く自分を制御できなくなって
しまいます。しかし、実行した後で悔いるでしょう。
*
もう一つのケースは、既に霊と魂の相違を経験的に知っている信者です。
彼らは感情の影響を受けると、これは感情からのものだと分かり、
直ちにそれを拒絶します。
しかしながら、このような信者でさえ、感情に従って歩く可能性が
あります。それは「ある欺き」によるのです。彼の感情がしばしば
「霊的感覚を装う」からです。この場合、彼には外見上、彼の感情と
霊的感覚は全く同じに見えてしまいます。これは彼の「ある無知」に
起因します。ですから、ある程度 霊的な識別のある人でさえ、
感情に従って行動することは十分あり得るのです。
☆
Sugar 私見:
先人はここで、二つの理由についての概要を語っているに過ぎません。
特に第二の理由に関しては 後に相当のページをさいて
詳細に述べております。
霊と魂の問題は、決して安易な問題ではありません。
そのことに言及された際のイエス御自身の真剣さを知ればそれが
分かります。しかしそのイエスの心からの言葉は、弟子達の頭の上を
風のように吹き抜けてしまったようです。彼らはその直後決まって、
自分達の間で誰が一番偉いのかと論じたのです。(あなたの魂を
捨てなさい、と言われた直後に)
私自身、この問題には少なくも「決してあきらめない
粘り強い真剣さ」がどうしても必要であると考えております。
真剣に叩かずして、どうして天国の門が開けてもらえる
(パラダイスに連れて行かれるではなく)でしょう。更にその上
洗礼者ヨハネのように、天国は「奪い取る」必要さえあるのです。
(マタイ11の12)
どうしてなのでしょうか。二つの理由が考えられます。
先ず、信者が霊に従って歩むことを真剣に願い、追い求めないからです。
少なくも真剣さがなければ、このことが達成されることはあり得ません。
ですから、この場合 当然彼は感情に従って生活するでしょう。
彼は感情が動き、それが衝動となるとき、仮にまずいと感じたとしても、
それをどのように否むべきかを知りません。
ですから結果、感情に流され、行うべきでないことを行ってしまうのです。
しかしそれでもその際、彼の霊の直覚に全く霊的な感覚が生じなかった
わけではないのです。しかし、彼のある弱さの故に、彼は感情に耳を傾け、
直覚を無視してしまうのです。
その時 感情は更に強まり、彼は全く自分を制御できなくなって
しまいます。しかし、実行した後で悔いるでしょう。
*
もう一つのケースは、既に霊と魂の相違を経験的に知っている信者です。
彼らは感情の影響を受けると、これは感情からのものだと分かり、
直ちにそれを拒絶します。
しかしながら、このような信者でさえ、感情に従って歩く可能性が
あります。それは「ある欺き」によるのです。彼の感情がしばしば
「霊的感覚を装う」からです。この場合、彼には外見上、彼の感情と
霊的感覚は全く同じに見えてしまいます。これは彼の「ある無知」に
起因します。ですから、ある程度 霊的な識別のある人でさえ、
感情に従って行動することは十分あり得るのです。
☆
Sugar 私見:
先人はここで、二つの理由についての概要を語っているに過ぎません。
特に第二の理由に関しては 後に相当のページをさいて
詳細に述べております。
霊と魂の問題は、決して安易な問題ではありません。
そのことに言及された際のイエス御自身の真剣さを知ればそれが
分かります。しかしそのイエスの心からの言葉は、弟子達の頭の上を
風のように吹き抜けてしまったようです。彼らはその直後決まって、
自分達の間で誰が一番偉いのかと論じたのです。(あなたの魂を
捨てなさい、と言われた直後に)
私自身、この問題には少なくも「決してあきらめない
粘り強い真剣さ」がどうしても必要であると考えております。
真剣に叩かずして、どうして天国の門が開けてもらえる
(パラダイスに連れて行かれるではなく)でしょう。更にその上
洗礼者ヨハネのように、天国は「奪い取る」必要さえあるのです。
(マタイ11の12)
2009年7月6日月曜日
冷静さの性質
ここで私達は、ある点に注意しなければなりません。
もしも、ある人の感情が静かで冷静でありさえすれば、彼は霊の
支配下に入り、彼は霊的になったと言えるのでしょうか。
当然そうではありません。この時 重要なのは、彼の冷静さは
一体どんな性質のものか、と言うことです。
あるキリスト者が、もしも感情の高ぶりによって手痛い失敗を
すると、きっと彼はその感情を抑圧しようとするでしょう。そして
もしも何とかそれに成功したと思うならば、或いは
「私は冷静になった、だから霊的になったのかな」と
思うかも知れません。しかしこれは明らかに誤解です。
また感情の高ぶりの後、そこに一種の反作用が生じ、
感情の自然現象として、その後 冷静さが生じることがあります。
しかし当然、これも霊性ではなく単なる感情の別の面が現れた
に過ぎません。
*
以上のような魂から生じる冷静さは、彼をしてむしろ、神のことについて
興味を失わせ、他のキリスト者への愛を減少させ、或いは交わりを慕わなく
させることに繋がるのです。或いは彼は冷静になったのではなく、
単に冷たくなっただけなのかも知れません。そうであれば、これは彼に
とってはむしろ後退です。正常なキリスト者が「真の情熱」を
失うことなどある筈がないのです。
大切なことは、今存在している冷静さが、彼の魂が真に
十字架によって取り扱われた結果であるかどうか、と言うことです。
☆
Sugar 私見:
神はいかなる「よきもの」でさえも「生来の人」を源とする
一切に反対されます。それこそキリストの十字架が主張することに
他なりません。「キリストの十字架は旧創造の一切を含む」と言う
「聖書における最大の神の宣告」は、私達一人一人に極めて重く鋭い
チャレンジを投げかけていると言わなければなりません。私達は、
しかしそれを「神の過酷さ」として感じるのでしょうか、それとも
喜びの中で「キリスト者への福音」として信じ受け入れるのでしょうか。
*
先人は「実際的な日々の十字架の適用」については、別の箇所で
極めて詳細に論じております。この言わば「キリスト者の為の
感情論」は、従って、彼が既に述べた「実際的な十字架の適用」に
関する読者の「真の知識」を前提としていると言えるでしょう。
しかし、先人のどんなメッセージを見ても、十字架への言及を伴わない
ケースはとても少ないのです。何故なら十字架の適用の範囲は広範囲に
渡る上に、その一つ一つが極めて深いものであるからであり、また
総ての聖書の項目の根底には必ず十字架が横たわっているからです。
従ってこれから このシリーズの随所にも十字架への言及が現れて
来ざるを得ないと思われます。(ただしこの「感情シリーズ」を私が
いつまで続けることが出来るかは定かではありませんが・・)
もしも、ある人の感情が静かで冷静でありさえすれば、彼は霊の
支配下に入り、彼は霊的になったと言えるのでしょうか。
当然そうではありません。この時 重要なのは、彼の冷静さは
一体どんな性質のものか、と言うことです。
あるキリスト者が、もしも感情の高ぶりによって手痛い失敗を
すると、きっと彼はその感情を抑圧しようとするでしょう。そして
もしも何とかそれに成功したと思うならば、或いは
「私は冷静になった、だから霊的になったのかな」と
思うかも知れません。しかしこれは明らかに誤解です。
また感情の高ぶりの後、そこに一種の反作用が生じ、
感情の自然現象として、その後 冷静さが生じることがあります。
しかし当然、これも霊性ではなく単なる感情の別の面が現れた
に過ぎません。
*
以上のような魂から生じる冷静さは、彼をしてむしろ、神のことについて
興味を失わせ、他のキリスト者への愛を減少させ、或いは交わりを慕わなく
させることに繋がるのです。或いは彼は冷静になったのではなく、
単に冷たくなっただけなのかも知れません。そうであれば、これは彼に
とってはむしろ後退です。正常なキリスト者が「真の情熱」を
失うことなどある筈がないのです。
大切なことは、今存在している冷静さが、彼の魂が真に
十字架によって取り扱われた結果であるかどうか、と言うことです。
☆
Sugar 私見:
神はいかなる「よきもの」でさえも「生来の人」を源とする
一切に反対されます。それこそキリストの十字架が主張することに
他なりません。「キリストの十字架は旧創造の一切を含む」と言う
「聖書における最大の神の宣告」は、私達一人一人に極めて重く鋭い
チャレンジを投げかけていると言わなければなりません。私達は、
しかしそれを「神の過酷さ」として感じるのでしょうか、それとも
喜びの中で「キリスト者への福音」として信じ受け入れるのでしょうか。
*
先人は「実際的な日々の十字架の適用」については、別の箇所で
極めて詳細に論じております。この言わば「キリスト者の為の
感情論」は、従って、彼が既に述べた「実際的な十字架の適用」に
関する読者の「真の知識」を前提としていると言えるでしょう。
しかし、先人のどんなメッセージを見ても、十字架への言及を伴わない
ケースはとても少ないのです。何故なら十字架の適用の範囲は広範囲に
渡る上に、その一つ一つが極めて深いものであるからであり、また
総ての聖書の項目の根底には必ず十字架が横たわっているからです。
従ってこれから このシリーズの随所にも十字架への言及が現れて
来ざるを得ないと思われます。(ただしこの「感情シリーズ」を私が
いつまで続けることが出来るかは定かではありませんが・・)
2009年7月5日日曜日
霊の感覚と感情の相違
それでは、
霊からの感覚と、そして感情は どのようにして識別したらよいの
でしょうか。先ず感情ですが、それはいつも人の外側からやって来ます。
しかし霊からの感覚は逆に必ず内側からです。霊感(と便宜上簡単に
いいます)は聖霊によって与えられるものであり、実に人の深い
存在からです。この点が両者の基本的な相違です。
それは、外からと内からの相違です。
*
例えば、人が美しい自然に接する時、自然に内面に一つの感覚が
わき上がって来ます。美しいなーと感じ、喜びさえ覚えるのです。これは
感情です。また、自分が愛している人を見る時や思うときに、何か
その人に私が引き寄せられる力が働くかのようです。これも感情です。
美しい景色も、愛する人も私の外にあります。このように人の外側に
あるものによって引き起こされる感覚、それが感情なのです。
*
しかし霊感はそうではありません。霊感はひとえに人の深い内側にあって、
「ただ聖霊の影響から来る」のです。聖霊のみが、霊の動き、感動を人に
与えることが出来ます。霊の所在は人の最深部であり、聖霊は更に霊の
内側に住んでおられるのですから、霊感は必ず内側から来るのです。
これは大切な事実ですが、
何と霊感は、美しい景色や愛する人のような外側からの刺激とは全く
関係がありません。それは独立しており、その主張は不動です。この点が
重要なポイントです。それは聖霊なのですから、当然と言えば当然のこと
でしょう。と言うわけで、霊感は外側からの影響が全くない場合でも、
即ち環境とは関わりなく十分起こり得るのです。霊への感覚は魂や、
更にその外の状況には影響されない独立的な、
しかし極めて奥深く繊細な「あなたへの主張」です。
*
それとは反対に、感情は外側からの働きかけ(刺激)がなくなると
すぐに、或いは間もなくなくなります。(思い出すことによって感じる
こともやはり外からであり原理は同じです。)ここに、外側の
環境と人の感情は強く繋がっていることを見ることが出来ます。
結局、感情は環境によって引き起こされるのです。
ですから、そのような人の生活が どうしても環境に影響されてしまう
のは避けられないことです。例えば、キリスト者をよい方向に向かって
前進させようとすれば、多くの場合、彼にはしばしば(or定期的に)
外から励ます状況や刺激する環境が必要となります。
そうでないと彼の前進は停止してしまうのです。
また彼は外側に、例えば体調不良などの「好ましくない憂鬱な環境」が
やって来るととても容易にその感情は混乱しその結果、彼の生活において
正常で穏当な判断が出来にくくなります。その結果、彼の生活も混乱して
しまうのです。これはキリスト者にもよく見られる光景です。
以上のように、おもに環境によって彼の感情が刺激され、次に感情に
強く影響されて、その人の生活が変化してしまうのであれば、その人は
「感情に支配されている人」と言わなければなりません。
(環境の変化→感情の変化→生活の変化となります。)
感情は魂の一部ですから、その人は霊的な人であるとは言えず、
やはり魂的な人ということになります。
*
所が、霊からの静かな語りかけは外側からの環境の刺激によって
影響されることは全くありません。ですから、もしもあるキリスト者が
その霊に従って歩くのであれば、彼は外の環境からの影響をあまり
受けることなく、内的な聖霊からの動機に従って、堅実に歩いて行く
ことが出来ます。従って彼の生活にアップダウンはとても少ないのです。
これは霊的な人です。
霊からの感覚と、そして感情は どのようにして識別したらよいの
でしょうか。先ず感情ですが、それはいつも人の外側からやって来ます。
しかし霊からの感覚は逆に必ず内側からです。霊感(と便宜上簡単に
いいます)は聖霊によって与えられるものであり、実に人の深い
存在からです。この点が両者の基本的な相違です。
それは、外からと内からの相違です。
*
例えば、人が美しい自然に接する時、自然に内面に一つの感覚が
わき上がって来ます。美しいなーと感じ、喜びさえ覚えるのです。これは
感情です。また、自分が愛している人を見る時や思うときに、何か
その人に私が引き寄せられる力が働くかのようです。これも感情です。
美しい景色も、愛する人も私の外にあります。このように人の外側に
あるものによって引き起こされる感覚、それが感情なのです。
*
しかし霊感はそうではありません。霊感はひとえに人の深い内側にあって、
「ただ聖霊の影響から来る」のです。聖霊のみが、霊の動き、感動を人に
与えることが出来ます。霊の所在は人の最深部であり、聖霊は更に霊の
内側に住んでおられるのですから、霊感は必ず内側から来るのです。
これは大切な事実ですが、
何と霊感は、美しい景色や愛する人のような外側からの刺激とは全く
関係がありません。それは独立しており、その主張は不動です。この点が
重要なポイントです。それは聖霊なのですから、当然と言えば当然のこと
でしょう。と言うわけで、霊感は外側からの影響が全くない場合でも、
即ち環境とは関わりなく十分起こり得るのです。霊への感覚は魂や、
更にその外の状況には影響されない独立的な、
しかし極めて奥深く繊細な「あなたへの主張」です。
*
それとは反対に、感情は外側からの働きかけ(刺激)がなくなると
すぐに、或いは間もなくなくなります。(思い出すことによって感じる
こともやはり外からであり原理は同じです。)ここに、外側の
環境と人の感情は強く繋がっていることを見ることが出来ます。
結局、感情は環境によって引き起こされるのです。
ですから、そのような人の生活が どうしても環境に影響されてしまう
のは避けられないことです。例えば、キリスト者をよい方向に向かって
前進させようとすれば、多くの場合、彼にはしばしば(or定期的に)
外から励ます状況や刺激する環境が必要となります。
そうでないと彼の前進は停止してしまうのです。
また彼は外側に、例えば体調不良などの「好ましくない憂鬱な環境」が
やって来るととても容易にその感情は混乱しその結果、彼の生活において
正常で穏当な判断が出来にくくなります。その結果、彼の生活も混乱して
しまうのです。これはキリスト者にもよく見られる光景です。
以上のように、おもに環境によって彼の感情が刺激され、次に感情に
強く影響されて、その人の生活が変化してしまうのであれば、その人は
「感情に支配されている人」と言わなければなりません。
(環境の変化→感情の変化→生活の変化となります。)
感情は魂の一部ですから、その人は霊的な人であるとは言えず、
やはり魂的な人ということになります。
*
所が、霊からの静かな語りかけは外側からの環境の刺激によって
影響されることは全くありません。ですから、もしもあるキリスト者が
その霊に従って歩くのであれば、彼は外の環境からの影響をあまり
受けることなく、内的な聖霊からの動機に従って、堅実に歩いて行く
ことが出来ます。従って彼の生活にアップダウンはとても少ないのです。
これは霊的な人です。
2009年7月3日金曜日
内的聖霊の声が無視される理由
*平静な感情の必要*
前回までに述べた事実から
霊に従って歩もうとするキリスト者にとって、最大の「敵」は感情
であると言っても言い過ぎではないでしょう。(もちろんここで言う
感情とは、感情の総てではなく、感情の命、感情を動かすエネルギー
のことです。以下、全部この意味で用います。)
キリスト者であるならば、肉ではなく、霊に従って生活しなければ
ならないのは当然です。しかし、霊に従って歩くためには、生活の
あらゆる時点で、キリスト者は内側の霊の導きに十分
注意していなければなりません。
霊からの「感覚」は極めて優しく、細やかで、繊細です。
ですから信者が注意深く「霊に語る聖霊の声」(直覚に)を
待ち望まない限り、彼が決して霊の導きを受けることはあり得ません。
従って、霊に従って歩くには「感情が完全に静まっている」必要がある
のです。霊の小さく繊細な感覚が、私達によって殆ど無視されがちなのは
私達の感情が、まるで押し寄せる大波のように大きな音を立てている
からです。そのような時、私達が、静かな霊の声に気づくのはとても
難しいことです。本来私達キリスト者は、霊の感覚を十分感じる取る
ことが出来る能力を持っているのですが、別の感覚が絶えず大声を
出して騒いでいるならば、霊の声を識別することが
全く出来なくなってしまうのです。
しかしながら誰であれ「感情を静寂に保つことが出来る」キリスト者
であるならば、直覚の声を察知するのはそんなに困難なことではない
ことを知るでしょう。
*
さて、感情の起伏は、信者をして決して霊に従って歩ませないだけでなく、
直接肉に従って歩かせてしまいます。
キリスト者であっても、霊に従って歩いていない時には、自然に肉に
従って歩くことになります。第三の状態はあり得ません。ですからもし
霊の導きを得ることが出来ないなら、自然に彼は感情の衝動や浮沈に
従って歩くのです。
よく霊に従って歩んでいるキリスト者であってとしても、霊の導きに
従っていない場合には、直ちに感情が彼を導くことを始めます。
そのような時、信者は自然に、感情を霊の導きのようにしてしまい、
魂の衝動を霊の感動のように誤解するのです。
*
Sugar 私見:
ここで言う内的な聖霊の声とは
人の内的な一機能である「人の霊」の中におられる聖霊の声です。
それは決して、人の魂や体に対し、超自然的に直接何かを感じさせる
「神ならぬ霊」の声ではありません。これの識別は極めて重要です。
さて、先人によると
「魂の感覚」よりも更に深いところから語られる繊細な声
を感知するには、
・感情を完全に平静に保つ
・聖霊の語りかけに大いに注意を払う
・その語りかけを待つ
ことは不可欠のようです。
とは言われても、私達としては「それでは、その感情を平静に
保つにはどうすればいいのですか」と聞きたくなりますよね。
前回までに述べた事実から
霊に従って歩もうとするキリスト者にとって、最大の「敵」は感情
であると言っても言い過ぎではないでしょう。(もちろんここで言う
感情とは、感情の総てではなく、感情の命、感情を動かすエネルギー
のことです。以下、全部この意味で用います。)
キリスト者であるならば、肉ではなく、霊に従って生活しなければ
ならないのは当然です。しかし、霊に従って歩くためには、生活の
あらゆる時点で、キリスト者は内側の霊の導きに十分
注意していなければなりません。
霊からの「感覚」は極めて優しく、細やかで、繊細です。
ですから信者が注意深く「霊に語る聖霊の声」(直覚に)を
待ち望まない限り、彼が決して霊の導きを受けることはあり得ません。
従って、霊に従って歩くには「感情が完全に静まっている」必要がある
のです。霊の小さく繊細な感覚が、私達によって殆ど無視されがちなのは
私達の感情が、まるで押し寄せる大波のように大きな音を立てている
からです。そのような時、私達が、静かな霊の声に気づくのはとても
難しいことです。本来私達キリスト者は、霊の感覚を十分感じる取る
ことが出来る能力を持っているのですが、別の感覚が絶えず大声を
出して騒いでいるならば、霊の声を識別することが
全く出来なくなってしまうのです。
しかしながら誰であれ「感情を静寂に保つことが出来る」キリスト者
であるならば、直覚の声を察知するのはそんなに困難なことではない
ことを知るでしょう。
*
さて、感情の起伏は、信者をして決して霊に従って歩ませないだけでなく、
直接肉に従って歩かせてしまいます。
キリスト者であっても、霊に従って歩いていない時には、自然に肉に
従って歩くことになります。第三の状態はあり得ません。ですからもし
霊の導きを得ることが出来ないなら、自然に彼は感情の衝動や浮沈に
従って歩くのです。
よく霊に従って歩んでいるキリスト者であってとしても、霊の導きに
従っていない場合には、直ちに感情が彼を導くことを始めます。
そのような時、信者は自然に、感情を霊の導きのようにしてしまい、
魂の衝動を霊の感動のように誤解するのです。
*
Sugar 私見:
ここで言う内的な聖霊の声とは
人の内的な一機能である「人の霊」の中におられる聖霊の声です。
それは決して、人の魂や体に対し、超自然的に直接何かを感じさせる
「神ならぬ霊」の声ではありません。これの識別は極めて重要です。
さて、先人によると
「魂の感覚」よりも更に深いところから語られる繊細な声
を感知するには、
・感情を完全に平静に保つ
・聖霊の語りかけに大いに注意を払う
・その語りかけを待つ
ことは不可欠のようです。
とは言われても、私達としては「それでは、その感情を平静に
保つにはどうすればいいのですか」と聞きたくなりますよね。
2009年7月2日木曜日
十字架と結実
十字架は実を結びます。
総ての十字架は神の命の実を得させます。
神が与えられる実際の十字架を、
自ら進んで受けようとする者は、彼自身
「混ざりもののない霊の命」を生きていることを
見出すでしょう。
私達は、神の願いに従って、日々十字架を負うことを
実行しなければなりません。
総ての十字架には特別な使命があります。
その十字架は、必ず私達の中で「神の働きの一部」を
成し遂げるでしょう。
どうか私達に臨む十字架が一つとして
無駄になることなどありませんように。
(先見者の言葉より)
*
Sugar 私見:
上記の文は「先人の言葉」のシリーズとは
全く別のものです。
この文で分かること、それは:
①十字架は私のために、神がそのつど
一つ一つ測って与えられる、と言うこと。
②そしてもしも「私の十字架」における精度が
一定基準をクリアしているならば、
それは必ず神の御こころの一部を成し遂げると言うことです。
しかし、
③決して私達が直接神の働きをするのではない、
と言うことは重要です。それは当然のことであり、また
そんなことは不可能です。
私達に与えられた使命、それは日々、
神から与えられる十字架を進んで受け入れること、
ただそれだけです。
総ての十字架は神の命の実を得させます。
神が与えられる実際の十字架を、
自ら進んで受けようとする者は、彼自身
「混ざりもののない霊の命」を生きていることを
見出すでしょう。
私達は、神の願いに従って、日々十字架を負うことを
実行しなければなりません。
総ての十字架には特別な使命があります。
その十字架は、必ず私達の中で「神の働きの一部」を
成し遂げるでしょう。
どうか私達に臨む十字架が一つとして
無駄になることなどありませんように。
(先見者の言葉より)
*
Sugar 私見:
上記の文は「先人の言葉」のシリーズとは
全く別のものです。
この文で分かること、それは:
①十字架は私のために、神がそのつど
一つ一つ測って与えられる、と言うこと。
②そしてもしも「私の十字架」における精度が
一定基準をクリアしているならば、
それは必ず神の御こころの一部を成し遂げると言うことです。
しかし、
③決して私達が直接神の働きをするのではない、
と言うことは重要です。それは当然のことであり、また
そんなことは不可能です。
私達に与えられた使命、それは日々、
神から与えられる十字架を進んで受け入れること、
ただそれだけです。
アップダウンの生活
人の生活における「感情のありさま」を観察すればするほど、
感情と言うものはひどく揺れ動くものであり、そんなに信頼出来る
ものではないことが分かるでしょう。
もし信者が霊に従って生きるのではなく、そのような感情に従って
生きるのなら、彼の生活も波のように揺れ動いてしまうのは当然です。
*
だから多くの信者は自分の生活を嘆いています。彼らの生活の姿は
あまりにも不安定過ぎるからです。ある時は、まるで第三の天にいる
かのようで、彼は喜びに溢れ、人生の一切を超越しています。ところが、
間もなくすると、彼はひどく意気消沈し、その有様は全く普通の人と
変わらないようになってしまいます。要するに、彼のクリスチャン
生活は激しく上がったり下がったりを繰り返しているのです。
しかしよく見ると、そのように彼を激変させるほど、外面的に何か
重大なことが起こったわけではないようです。実はホンの少し、
自分の意に反することが彼に臨んだだけで、そのような激しい
変化を招いてしまっている、というのが実情です。
このような現象は、彼が感情に支配されていると言う明確な事実を
示しております。彼は決して「霊に支配されている」と言うことは
出来ません。彼においては、明らかに感情が、その生活の大きな要素
となっているのです。要するに感情が彼を日々揺れ動かしているのです。
*
何故でしょう。一言で言えば、彼自身がまだ、真に十字架にもたらされた
ことがないからです。その結果、彼の霊が聖霊によって強められて
いないからです。言い換えれば、彼の霊は依然として弱いのです。ですから
彼の霊が彼の全存在を支配することなど到底出来ません。故に、彼が感情
に打ち勝つことが出来ないのは当然です。それはまた、彼の魂の中の感情
の命が、彼の中で第一次的な地位を占めているからだとも言えましょう。
もしも、感情の地位が彼の全存在の中で第二次的になるならば、
彼の感情は霊の支配下に置かれることになります。もし彼が聖霊によって
自分の感情の命を十字架につけ、総ての事柄で聖霊を主とすることが
出来るなら、彼は初めて、激しくアップダウンする
クリスチャン生活から免れることが出来るでしょう。
(先人の言葉より)
感情と言うものはひどく揺れ動くものであり、そんなに信頼出来る
ものではないことが分かるでしょう。
もし信者が霊に従って生きるのではなく、そのような感情に従って
生きるのなら、彼の生活も波のように揺れ動いてしまうのは当然です。
*
だから多くの信者は自分の生活を嘆いています。彼らの生活の姿は
あまりにも不安定過ぎるからです。ある時は、まるで第三の天にいる
かのようで、彼は喜びに溢れ、人生の一切を超越しています。ところが、
間もなくすると、彼はひどく意気消沈し、その有様は全く普通の人と
変わらないようになってしまいます。要するに、彼のクリスチャン
生活は激しく上がったり下がったりを繰り返しているのです。
しかしよく見ると、そのように彼を激変させるほど、外面的に何か
重大なことが起こったわけではないようです。実はホンの少し、
自分の意に反することが彼に臨んだだけで、そのような激しい
変化を招いてしまっている、というのが実情です。
このような現象は、彼が感情に支配されていると言う明確な事実を
示しております。彼は決して「霊に支配されている」と言うことは
出来ません。彼においては、明らかに感情が、その生活の大きな要素
となっているのです。要するに感情が彼を日々揺れ動かしているのです。
*
何故でしょう。一言で言えば、彼自身がまだ、真に十字架にもたらされた
ことがないからです。その結果、彼の霊が聖霊によって強められて
いないからです。言い換えれば、彼の霊は依然として弱いのです。ですから
彼の霊が彼の全存在を支配することなど到底出来ません。故に、彼が感情
に打ち勝つことが出来ないのは当然です。それはまた、彼の魂の中の感情
の命が、彼の中で第一次的な地位を占めているからだとも言えましょう。
もしも、感情の地位が彼の全存在の中で第二次的になるならば、
彼の感情は霊の支配下に置かれることになります。もし彼が聖霊によって
自分の感情の命を十字架につけ、総ての事柄で聖霊を主とすることが
出来るなら、彼は初めて、激しくアップダウンする
クリスチャン生活から免れることが出来るでしょう。
(先人の言葉より)
2009年7月1日水曜日
制御出来ない感情の二つの性質
もし私達が、感情に存在する様々な感覚に注意を払うなら、感情
というものは、いかに変わりやすいかが分かるでしょう。おそらく
この世において感情ほど変わりやすいものはないでしょう。
私達は今の一分間、何かを感じていたかと思うと、次の一分間では
たちまち別のことを感じているのです。感情は何らかの影響によって
変化し、そして決して留まることなく次々と変わって行くのです。
また人の感情にはしばしば「反作用」が見られます。つまり、
感覚が一つの方向でしばらく活動すると、それに続いて正反対の
感覚が生まれて来るのです。例えば、自分の中に生ずる悲しみは、
不思議にもしばしば幸福感の後に来るのです。実際に人を愛する
こともそうです。愛が始まったとしても、一ときを経過すると、
何かの影響によって、愛は何故かまるで正反対の激しい
憎しみに変わってしまうことさえあるのです。
誰がこれらを制御出来るのでしょうか。
*
Sugar 私見:
本当にそうです。仮に、私の中に①真の私と②感情、の二者がある
とすれば、一体、権威と力のある主人はどちらなのでしょう。
その場合、私が感情を制御するのは、相当難しいことです。
むしろ勝手気ままな「感情さん」が自由奔放に私を引きずり回し、
毎日私を困惑させ悩ませている、と言うのが実情ではないでしょうか。
しかし、確かにその感情は「私」でもあるのです。
というものは、いかに変わりやすいかが分かるでしょう。おそらく
この世において感情ほど変わりやすいものはないでしょう。
私達は今の一分間、何かを感じていたかと思うと、次の一分間では
たちまち別のことを感じているのです。感情は何らかの影響によって
変化し、そして決して留まることなく次々と変わって行くのです。
また人の感情にはしばしば「反作用」が見られます。つまり、
感覚が一つの方向でしばらく活動すると、それに続いて正反対の
感覚が生まれて来るのです。例えば、自分の中に生ずる悲しみは、
不思議にもしばしば幸福感の後に来るのです。実際に人を愛する
こともそうです。愛が始まったとしても、一ときを経過すると、
何かの影響によって、愛は何故かまるで正反対の激しい
憎しみに変わってしまうことさえあるのです。
誰がこれらを制御出来るのでしょうか。
*
Sugar 私見:
本当にそうです。仮に、私の中に①真の私と②感情、の二者がある
とすれば、一体、権威と力のある主人はどちらなのでしょう。
その場合、私が感情を制御するのは、相当難しいことです。
むしろ勝手気ままな「感情さん」が自由奔放に私を引きずり回し、
毎日私を困惑させ悩ませている、と言うのが実情ではないでしょうか。
しかし、確かにその感情は「私」でもあるのです。
2009年6月30日火曜日
感情の三分野:愛情、欲望、感覚
喜び、幸福、愉快、興奮、ため息、いらだち、刺激、落胆、悲しみ、
悲嘆、憂鬱、惨め、悲哀、動揺、混乱、心配、熱烈、冷淡、情愛、
好み、むさぼり、同情、慈愛、嗜好、欲望、興味、願望、期待、
高ぶり、恐れ後悔、憎しみ・・
これら総ては私達の感情から出てきます。
人の思考と関係する総ての働きは、考える器官、即ち「思い」
から出てきます。そして物事の決定に関連する働きは「意志」
から生じます。これら思考・思想と、そして決定を除く、
その他の機能は総て感情から出てきます。多くの多種多様な
感覚は感情の機能です。感情は非常に広範囲に及ぶもので、
殆ど魂的な信者は「感情的な信者」です。
以上の数多くの項目を下記のようにまとめる場合もあります。
それは、いわゆる七つの情感です。即ち:愛、憎しみ、喜び、悲しみ、
興奮、落胆、興味(無関心)です。これらは皆、感情に属します。
以上のように、人の感情は広範囲に及ぶ為に非常に複雑です。
今これからの理解を助ける為に便宜上、私達は感情を更に
簡単に、三つの部分に分けたいと思います。即ち、
①愛情、②欲望、③感覚です。この三つの部分は
上記の数多くの項目を総て含むことになります。
ですから、もしも信者が、この三つの面に「打ち勝つ」ことが
出来るなら、彼は速やかに「純粋な霊の命」に入ると言えるのです。
(先人の言葉より)
悲嘆、憂鬱、惨め、悲哀、動揺、混乱、心配、熱烈、冷淡、情愛、
好み、むさぼり、同情、慈愛、嗜好、欲望、興味、願望、期待、
高ぶり、恐れ後悔、憎しみ・・
これら総ては私達の感情から出てきます。
人の思考と関係する総ての働きは、考える器官、即ち「思い」
から出てきます。そして物事の決定に関連する働きは「意志」
から生じます。これら思考・思想と、そして決定を除く、
その他の機能は総て感情から出てきます。多くの多種多様な
感覚は感情の機能です。感情は非常に広範囲に及ぶもので、
殆ど魂的な信者は「感情的な信者」です。
以上の数多くの項目を下記のようにまとめる場合もあります。
それは、いわゆる七つの情感です。即ち:愛、憎しみ、喜び、悲しみ、
興奮、落胆、興味(無関心)です。これらは皆、感情に属します。
以上のように、人の感情は広範囲に及ぶ為に非常に複雑です。
今これからの理解を助ける為に便宜上、私達は感情を更に
簡単に、三つの部分に分けたいと思います。即ち、
①愛情、②欲望、③感覚です。この三つの部分は
上記の数多くの項目を総て含むことになります。
ですから、もしも信者が、この三つの面に「打ち勝つ」ことが
出来るなら、彼は速やかに「純粋な霊の命」に入ると言えるのです。
(先人の言葉より)
2009年6月29日月曜日
感情によって生きるキリスト者が多い
キリスト者が十字架の確かな御業を経験する前においては、「罪から
の解放」は経験したかもしれませんが、それでもまだ彼は魂に属して
おり、自分自身の天然の命に打ち勝つことは出来ません。
もしも注意深くその様なキリスト者の魂に属する行為を調べるなら、
その多くは感情から出たものであると分かります。
魂は思い、感情、意志という三つの大きな部分から成っていますが、
たいてい「魂的な信者」は感情によって生きています。ですから彼らは、
殆ど感情の命によって支配されていると私達は言うことが出来ます。
それ故、キリスト者の人生において、思いと意志よりも感情が
より大きな部分を占めているようです。こういうわけで、魂的な信者の
大半の行動が感情から出ているのを見ることが出来ます。
(先人の言葉より)
*
Sugar 私見:
①「魂的な信者」とは「肉的な信者」と「霊的な信者」の中間に位置する
信者であり、その生活が肉や霊ではなく魂の命(エネルギー)によって
生きている信者です。彼らは肉的なクリスチャンほど悪くはないとしても
霊的であるとは言えません。
上記の著者は、その魂的なキリスト者の多くは、感情主導の生活を
していると言いたいようです。即ち、「聖霊の内住する霊」がその人の
生きる力となってはおらず、その代わり、彼の感情がまるで生き物
のように彼の生活の活力となっている、と言う意味です。
②彼が言う「罪からの解放」の「罪」の意味ですが、ここでは、平たく
言えば「明らかな罪」と言った様な意味で使用されているようです。
聖書で否定的なものとして扱われているものは、罪の外に、肉、古き人、
おのれ、この世等があります。ある人々によれば、それらは総て罪である
と言いたいようです。しかし、それはやはり大雑把過ぎるのです。
いずれにしろそれらの用語を厳密に定義づけすることは容易なことでは
ありません。私達が出来ることは、それらを聖書がどのように使い
分けているかを知るくらいですし、そのような用い方でよいと思われます。
それらのものの中で、著者はこれから「おのれ」を取り扱おう
としております、「おのれ」の中の感情の命を。
の解放」は経験したかもしれませんが、それでもまだ彼は魂に属して
おり、自分自身の天然の命に打ち勝つことは出来ません。
もしも注意深くその様なキリスト者の魂に属する行為を調べるなら、
その多くは感情から出たものであると分かります。
魂は思い、感情、意志という三つの大きな部分から成っていますが、
たいてい「魂的な信者」は感情によって生きています。ですから彼らは、
殆ど感情の命によって支配されていると私達は言うことが出来ます。
それ故、キリスト者の人生において、思いと意志よりも感情が
より大きな部分を占めているようです。こういうわけで、魂的な信者の
大半の行動が感情から出ているのを見ることが出来ます。
(先人の言葉より)
*
Sugar 私見:
①「魂的な信者」とは「肉的な信者」と「霊的な信者」の中間に位置する
信者であり、その生活が肉や霊ではなく魂の命(エネルギー)によって
生きている信者です。彼らは肉的なクリスチャンほど悪くはないとしても
霊的であるとは言えません。
上記の著者は、その魂的なキリスト者の多くは、感情主導の生活を
していると言いたいようです。即ち、「聖霊の内住する霊」がその人の
生きる力となってはおらず、その代わり、彼の感情がまるで生き物
のように彼の生活の活力となっている、と言う意味です。
②彼が言う「罪からの解放」の「罪」の意味ですが、ここでは、平たく
言えば「明らかな罪」と言った様な意味で使用されているようです。
聖書で否定的なものとして扱われているものは、罪の外に、肉、古き人、
おのれ、この世等があります。ある人々によれば、それらは総て罪である
と言いたいようです。しかし、それはやはり大雑把過ぎるのです。
いずれにしろそれらの用語を厳密に定義づけすることは容易なことでは
ありません。私達が出来ることは、それらを聖書がどのように使い
分けているかを知るくらいですし、そのような用い方でよいと思われます。
それらのものの中で、著者はこれから「おのれ」を取り扱おう
としております、「おのれ」の中の感情の命を。
2009年6月26日金曜日
感情の命が十字架に付けられる
感情を正しく用いる(2)
「魂を十字架に渡す」とは、魂の総てを失うことではなく、魂の中の
「命」が失われることです。決して魂の機能が失われるわけでは
ありません。魂の命を十字架に釘付けることは、私達がもはや
考えなくなる、決定しなくなる、感じなくなることではありません。
キリスト者がもし魂を失うならば、もはや彼は人の天然の命によって
生きるのではなく、ひたすら絶えず神の命によって生きるのです。
それは「進んで自己に従って生きることをしない」と言うことであり、
また自己の楽しみに従って歩くことをしないのです。そして
神の御こころに服することです。
繰り返しますが、十字架の死とは、感情が消滅することではありません。
魂の命の感情、思い、意志が十字架を経過することによって、それらが
無くなってしまうのではありません。それらはただ、主の死の中で
「天然の命」を失うだけです。
感情、思い、意志は主の命の中で復活します。死と復活は、魂の
機能する器官の中で「その命の部分」を失わせ、そしてそれらを
新しくし、初めて神によって用いられ得るようにするのです。
ですから再度言いますが、霊の人は感情が無いのではありません。
むしろその感情は最も安全で最も高尚であるはずです。彼はあたかも
神の御手によって新しく造られたかのようです。
もし誰かがここで困難を感じるなら、彼の理論のどこかに問題があるので
しょう。なぜなら霊的経験においてはなんらの問題も無いからです。
ですから結論として、感情はどうしても十字架の御業を経過
しなければなりません。(マタイ10の38~39)
それは生来の感情の持つ火のような性質や混乱を除き去り、感情が
完全に霊の支配に服するためです。
十字架の御業の目的は、霊が権威を持って、感情の機能を
支配することです。(先人の言葉より)
*
Sugar 私見:
命とは何でしょうか。こういう美しい響きを持っていて、しかも
ありふれた言葉は実は曲者です。何故なら普段、分かっている積もりに
させられてはいるが、その実、分かっていないことが多いからです。
私的には、命と言う単語が出て来たらすぐ「生きる力」と言い換えて
見ると、分かりやすくなると思っております。
例えば「キリストは私の命である」は「キリストは私の生きる力である」
と言い直して見るのです。
さて、上記の文の場合、魂を一つのマシーンに例えるならば、その内部の
各機械は思い、意志、感情(それらはまた数多くのパーツに分かれる)
です。それが魂が持つ各種の機能です。そして魂の命は、その各機械を
機能させるためのエネルギー、ガソリンや電力なのではないでしょうか。
元来地から出て来て、どうしても有害なガスや騒音を撒き散らしてしまう
ガソリンはもはや100%十字架で廃棄させられ、クリーンで霊的聖なる
エネルギーである電力が天から到来し、完全にガソリンに取って代わる必要
があります。(漢字の「電」も「霊」も雨冠であるのは面白いことです。
それらは上から、天からやって来てあなたに届き、
あなたの静かでクリーンな力、エネルギーとなるのです。)
「魂を十字架に渡す」とは、魂の総てを失うことではなく、魂の中の
「命」が失われることです。決して魂の機能が失われるわけでは
ありません。魂の命を十字架に釘付けることは、私達がもはや
考えなくなる、決定しなくなる、感じなくなることではありません。
キリスト者がもし魂を失うならば、もはや彼は人の天然の命によって
生きるのではなく、ひたすら絶えず神の命によって生きるのです。
それは「進んで自己に従って生きることをしない」と言うことであり、
また自己の楽しみに従って歩くことをしないのです。そして
神の御こころに服することです。
繰り返しますが、十字架の死とは、感情が消滅することではありません。
魂の命の感情、思い、意志が十字架を経過することによって、それらが
無くなってしまうのではありません。それらはただ、主の死の中で
「天然の命」を失うだけです。
感情、思い、意志は主の命の中で復活します。死と復活は、魂の
機能する器官の中で「その命の部分」を失わせ、そしてそれらを
新しくし、初めて神によって用いられ得るようにするのです。
ですから再度言いますが、霊の人は感情が無いのではありません。
むしろその感情は最も安全で最も高尚であるはずです。彼はあたかも
神の御手によって新しく造られたかのようです。
もし誰かがここで困難を感じるなら、彼の理論のどこかに問題があるので
しょう。なぜなら霊的経験においてはなんらの問題も無いからです。
ですから結論として、感情はどうしても十字架の御業を経過
しなければなりません。(マタイ10の38~39)
それは生来の感情の持つ火のような性質や混乱を除き去り、感情が
完全に霊の支配に服するためです。
十字架の御業の目的は、霊が権威を持って、感情の機能を
支配することです。(先人の言葉より)
*
Sugar 私見:
命とは何でしょうか。こういう美しい響きを持っていて、しかも
ありふれた言葉は実は曲者です。何故なら普段、分かっている積もりに
させられてはいるが、その実、分かっていないことが多いからです。
私的には、命と言う単語が出て来たらすぐ「生きる力」と言い換えて
見ると、分かりやすくなると思っております。
例えば「キリストは私の命である」は「キリストは私の生きる力である」
と言い直して見るのです。
さて、上記の文の場合、魂を一つのマシーンに例えるならば、その内部の
各機械は思い、意志、感情(それらはまた数多くのパーツに分かれる)
です。それが魂が持つ各種の機能です。そして魂の命は、その各機械を
機能させるためのエネルギー、ガソリンや電力なのではないでしょうか。
元来地から出て来て、どうしても有害なガスや騒音を撒き散らしてしまう
ガソリンはもはや100%十字架で廃棄させられ、クリーンで霊的聖なる
エネルギーである電力が天から到来し、完全にガソリンに取って代わる必要
があります。(漢字の「電」も「霊」も雨冠であるのは面白いことです。
それらは上から、天からやって来てあなたに届き、
あなたの静かでクリーンな力、エネルギーとなるのです。)
2009年6月24日水曜日
人の霊に服するべき人の感情
感情を正しく用いる(1)
もしキリスト者が自分の感情に、十字架のより深い働きをさせる
なら、間もなく彼は、感情が霊を妨害するのではなく、霊と協力
さえすることを知るでしょう。十字架は「感情の総ての天然の命」を
対処し、感情を更新し、それを霊の器具とします。
前述したように、霊の人は霊ではありませんし、感情のない人でも
ありません。かえって、彼は感情を用いて、内にある神聖な命を
表現します。
神によって対処される前、感情は霊の器具になることは出来ません。
むしろ私達の感情は実に自由奔放に自分の願いに従って行動します。
しかし清められた後、感情は霊を表現する器官となります。霊は
感情を通して「真の命」を表現します。他の人の苦しみに対する
愛情と感覚を表現するために、霊は感情を必要とします。また、人に
霊の直覚の働きを感じさせるため、霊には感情が必要です。
霊の感覚は、静かな感情を通して人に知らせます。
もし感情が霊に服するなら、感情は霊によって神が愛する者を愛し、
神が憎むものを憎みます。
「感情に従って生きないと言う真理」を理解した後、「霊的な生活は
感情の無い生活である」と誤解する人がいます。彼らは結局、
キリスト者は木や石のような感情の無い者となるように、感情を
なくする必要があると思っています。信者が「十字架の死の意味」を
理解しないなら、彼は「感情を死に渡し、全く霊に従って生きる
と言う意味」を知ることが出来ません。
最も優しく、同情があり、憐れみがあり、愛のある人が霊の人なのです。
真に霊の人、感情を十字架に渡した人は感情を失って感情の無い人と
なるのではありません。霊的な信者の愛がいかに他の人と比べてその
愛が大きいかを見るとき、私達は霊の人が感情の無い者ではなく、
むしろ、その感情は優れて普通の人と同じでないかを知るでしょう。
(先人の言葉より)
*
Sugar 私見:
実際問題、上記にある 私の「感情に対して、十字架のより深い働きを
させる」。私の「感情が神によって対処される」「清められる」が極めて
大きな課題となるでしょう。正直、私自身、今それに圧倒されています。
*ケンの調子があまりかんばしくなく、いまだに実家におります。
もしキリスト者が自分の感情に、十字架のより深い働きをさせる
なら、間もなく彼は、感情が霊を妨害するのではなく、霊と協力
さえすることを知るでしょう。十字架は「感情の総ての天然の命」を
対処し、感情を更新し、それを霊の器具とします。
前述したように、霊の人は霊ではありませんし、感情のない人でも
ありません。かえって、彼は感情を用いて、内にある神聖な命を
表現します。
神によって対処される前、感情は霊の器具になることは出来ません。
むしろ私達の感情は実に自由奔放に自分の願いに従って行動します。
しかし清められた後、感情は霊を表現する器官となります。霊は
感情を通して「真の命」を表現します。他の人の苦しみに対する
愛情と感覚を表現するために、霊は感情を必要とします。また、人に
霊の直覚の働きを感じさせるため、霊には感情が必要です。
霊の感覚は、静かな感情を通して人に知らせます。
もし感情が霊に服するなら、感情は霊によって神が愛する者を愛し、
神が憎むものを憎みます。
「感情に従って生きないと言う真理」を理解した後、「霊的な生活は
感情の無い生活である」と誤解する人がいます。彼らは結局、
キリスト者は木や石のような感情の無い者となるように、感情を
なくする必要があると思っています。信者が「十字架の死の意味」を
理解しないなら、彼は「感情を死に渡し、全く霊に従って生きる
と言う意味」を知ることが出来ません。
最も優しく、同情があり、憐れみがあり、愛のある人が霊の人なのです。
真に霊の人、感情を十字架に渡した人は感情を失って感情の無い人と
なるのではありません。霊的な信者の愛がいかに他の人と比べてその
愛が大きいかを見るとき、私達は霊の人が感情の無い者ではなく、
むしろ、その感情は優れて普通の人と同じでないかを知るでしょう。
(先人の言葉より)
*
Sugar 私見:
実際問題、上記にある 私の「感情に対して、十字架のより深い働きを
させる」。私の「感情が神によって対処される」「清められる」が極めて
大きな課題となるでしょう。正直、私自身、今それに圧倒されています。
*ケンの調子があまりかんばしくなく、いまだに実家におります。
2009年6月21日日曜日
人の意志
聖書によると、キリストの生涯には(父なる神とは異なった)
彼ご自身の独立した意志が働いていることを見ます。
しかし彼の自由意志は定められていました。
私達も、船のかじの様に「意志を定める」と言うことを
理解する必要があります。あなたが自分の意志を定めて、
神の御こころを行うとき、神は初めて働くことができます。
あなたの側では、絶えず神の御こころをあなたの生活の原則と
するのです。あなたは「このことにおいて神の御こころを
選択します」と言います。あなたは神の側に立ち、神に
その御こころを更に啓示して下さるようにと求めるのです。
キリストの意志は堅く定まっていたために、一瞬たりとも
神の御こころと協力することを失いませんでした。
「見よ、私は御むねを行うためにまいりました。」それは、
キリストが、神の御こころへと御自分の意志を向けるだけでなく、
そのことにおいて、彼の意志を積極的に用いることでもありました。
もしあなたもこれを、霊的生活の中心的な原則とし、あなたの
意志と言うカジを、それが神の御こころであると言う理由の故に、
変わることなく定めるならば、その時、神はカルバリにおける
キリストの勝利を、あなたに力を授けると言う方法によって、
あなたの生涯に適用して下さるでしょう。
それは、他の人たちも邪悪な霊の力から解き放たれるためです。
(ペンルイス・神の御こころの中を歩く)
*Sugar 私見:
「人は何も出来ない。だから神の御こころを選択する意志も神が
与えて下さる。そうでないとするのは傲慢である。だから、
キリスト者は何もするべきではなく、ただ待つべきである」
とする観念が私達の間にあるように思われます。しかし・・
①人が神の御こころを啓示して頂くように神に求める。
②聖霊によって霊の中に御こころが啓示される。
③自分の意志でそれを選び取り、他の感覚を退ける。
と言う原則は決して変わることはあり得ないと思われます。
私達による断固とした③の行為がもしなければ、以前
書いたように、必ずヘビが来て私達をだますでしょう。
人の意志は神とサタンの間において極めて決定的な
役割を演じているのです。今日も私は、エデンの園において
あの二本の木の間に立っているのである、と言えないでしょうか。
彼ご自身の独立した意志が働いていることを見ます。
しかし彼の自由意志は定められていました。
私達も、船のかじの様に「意志を定める」と言うことを
理解する必要があります。あなたが自分の意志を定めて、
神の御こころを行うとき、神は初めて働くことができます。
あなたの側では、絶えず神の御こころをあなたの生活の原則と
するのです。あなたは「このことにおいて神の御こころを
選択します」と言います。あなたは神の側に立ち、神に
その御こころを更に啓示して下さるようにと求めるのです。
キリストの意志は堅く定まっていたために、一瞬たりとも
神の御こころと協力することを失いませんでした。
「見よ、私は御むねを行うためにまいりました。」それは、
キリストが、神の御こころへと御自分の意志を向けるだけでなく、
そのことにおいて、彼の意志を積極的に用いることでもありました。
もしあなたもこれを、霊的生活の中心的な原則とし、あなたの
意志と言うカジを、それが神の御こころであると言う理由の故に、
変わることなく定めるならば、その時、神はカルバリにおける
キリストの勝利を、あなたに力を授けると言う方法によって、
あなたの生涯に適用して下さるでしょう。
それは、他の人たちも邪悪な霊の力から解き放たれるためです。
(ペンルイス・神の御こころの中を歩く)
*Sugar 私見:
「人は何も出来ない。だから神の御こころを選択する意志も神が
与えて下さる。そうでないとするのは傲慢である。だから、
キリスト者は何もするべきではなく、ただ待つべきである」
とする観念が私達の間にあるように思われます。しかし・・
①人が神の御こころを啓示して頂くように神に求める。
②聖霊によって霊の中に御こころが啓示される。
③自分の意志でそれを選び取り、他の感覚を退ける。
と言う原則は決して変わることはあり得ないと思われます。
私達による断固とした③の行為がもしなければ、以前
書いたように、必ずヘビが来て私達をだますでしょう。
人の意志は神とサタンの間において極めて決定的な
役割を演じているのです。今日も私は、エデンの園において
あの二本の木の間に立っているのである、と言えないでしょうか。
2009年6月20日土曜日
狭い道
これは真に狭い道です。しかし、困難な道ではありません。
なぜ狭いのでしょう。それは私達の総ての歩みが「神の御こころ」
によって規制されているからです。
この道は一つの原則があるだけであり、自己のための余地は残されて
いません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、私達をこの道から
運び去るでしょう。
しかしながら、この道は困難な道ではありません。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が一つ一つ
砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、その時
必然的に、私は困難な道であるとは感じないでしょう。
残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を歩いて
さえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に到達する前に
この道から離れてしまいます。
しかし、その困難な期間が長いか、短いかに関わらず、一つのことは
確かです。唯一のこの道は命の道です。これは神の道です。それ故、
それは真実であり、確実です。
豊富な命を願うなら、誰でもこの道を歩く以外に選択はありません。
(先人の言葉より)
*Sugar 私見:
上述の「狭い道」は あの有名なの「山上の垂訓」の中、
マタイ7の14からです。
山上の垂訓は明らかに、未信者にではなく、私達信者、弟子
に向かって発せられたものです。(5の1)
永遠の命を得、永遠の救いを得る道は人々が思っているほど、
狭くはないと私は思います。しかし、キリスト者に限定されたこの
呼びかけにおける「命に至る門」は小さく狭いとイエスは
断言されました。
7の3の「滅び」とは命における永遠の滅びではなく、
(黙示録20の12「命の書」にその人の名前はある。)
神に属する者の生涯における行為や行いにおける崩壊
を意味すると思われます。(Ⅰコリント3の15)
なぜ狭いのでしょう。それは私達の総ての歩みが「神の御こころ」
によって規制されているからです。
この道は一つの原則があるだけであり、自己のための余地は残されて
いません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、私達をこの道から
運び去るでしょう。
しかしながら、この道は困難な道ではありません。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が一つ一つ
砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、その時
必然的に、私は困難な道であるとは感じないでしょう。
残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を歩いて
さえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に到達する前に
この道から離れてしまいます。
しかし、その困難な期間が長いか、短いかに関わらず、一つのことは
確かです。唯一のこの道は命の道です。これは神の道です。それ故、
それは真実であり、確実です。
豊富な命を願うなら、誰でもこの道を歩く以外に選択はありません。
(先人の言葉より)
*Sugar 私見:
上述の「狭い道」は あの有名なの「山上の垂訓」の中、
マタイ7の14からです。
山上の垂訓は明らかに、未信者にではなく、私達信者、弟子
に向かって発せられたものです。(5の1)
永遠の命を得、永遠の救いを得る道は人々が思っているほど、
狭くはないと私は思います。しかし、キリスト者に限定されたこの
呼びかけにおける「命に至る門」は小さく狭いとイエスは
断言されました。
7の3の「滅び」とは命における永遠の滅びではなく、
(黙示録20の12「命の書」にその人の名前はある。)
神に属する者の生涯における行為や行いにおける崩壊
を意味すると思われます。(Ⅰコリント3の15)
2009年6月16日火曜日
クリスチャンの「商売」
クリスチャンとはキリスト信者です。
キリスト信者とはキリストを信じる人です。ですから、クリスチャンの
「商売、職業」はただキリストを信じることです。ですから、私達は
いついかなる場合でもただ、キリストを信じ続ければよいわけです。
私達の本質は believer であり、それ以下でもそれ以上でもありません。
ある人を信じるとはある「冷静な行為」です。ただ単純にその人の人格と
言葉を信じるのですから、特に興奮することも、盛り上がる必要もないし、
取りあえずは、その人をことさら熱く愛することさえ必要ではありません。
「ハイ私はあなたが一体誰であるかが分かりました。ですから、あなたと
あなたの言葉とを信じるのは当然です」とすることです。それが、本来
ある人を信じるという意味ではないでしょうか。実のところ、神が私達に
要求しているものは別に熱っぽさ等ではなく、私達のそのような態度です。
即ち、いついかなる場合でも、私達がキリストを信じ続けること、
それ以外の何物でもありません。
所が今日
信仰の意味を誤解し、興奮や、盛り上がりが「信仰の主要な部分である
かのようにイメージされているのではないかと私は懸念しております。特に
キリスト者の集まりにおいては、その評価はひとえに「興奮と盛り上がりと
愛の高揚」にかかっているのでは、と感じるのは私だけでしょうか。
しかしそれは間違いです。本来 信仰と「興奮、盛り上がり、愛の高揚」
は何の関係もありません。むしろ信仰とは冷静な判断と意志によって、
黙ってキリストの言葉を信じることであり、それのみが
「信じるということ」の総てです。従って、よき信仰生活とは、
日常生活において、私達が神によって、いかなる環境、感覚のただ中に
置かれたとしても、先ずはそれらをかたわらに置き、ただ
イエスと彼の言葉とを信じ続けることに他なりません。
繰り返しますが、信仰は、本来人の感情や感覚とは全くかかわりを持たない
のです。信仰は人の生まれながらの感情や感覚よりも遥かに深い部分の
「行為」です。当然、正しい評価と意志によって主を信じた後に、ある種の
感情が付随することは充分あり得ることです。しかし、それは信仰の結果
であって、信仰そのものではありません。肝心なのは信仰であり、
信じた後、気まぐれに訪れる、いかなる「聖なる」感覚も決して過度に
評価されるべきではありません。
むしろそれらは直ちに忘れ去られ、私達は信仰そのものに戻るべきです。
もしもそうでなければ、私達はたやすく敵によって欺かれることでしょう。
何故なら、その時私達は「神が与えたよきもの」を、神であると
誤解するからです。これは極めて巧妙な敵の誘いとなり得ます。
「私達は見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」
(Ⅱコリント5の7)ここで言う「見えるもの」とは
人の環境と人の感じる感覚や「実感」であることは明らかです。
私達の使命、役割はただ神のことばを信じることです。
「義人は信仰によって・・生きる」(ローマ1の17)
キリスト信者とはキリストを信じる人です。ですから、クリスチャンの
「商売、職業」はただキリストを信じることです。ですから、私達は
いついかなる場合でもただ、キリストを信じ続ければよいわけです。
私達の本質は believer であり、それ以下でもそれ以上でもありません。
ある人を信じるとはある「冷静な行為」です。ただ単純にその人の人格と
言葉を信じるのですから、特に興奮することも、盛り上がる必要もないし、
取りあえずは、その人をことさら熱く愛することさえ必要ではありません。
「ハイ私はあなたが一体誰であるかが分かりました。ですから、あなたと
あなたの言葉とを信じるのは当然です」とすることです。それが、本来
ある人を信じるという意味ではないでしょうか。実のところ、神が私達に
要求しているものは別に熱っぽさ等ではなく、私達のそのような態度です。
即ち、いついかなる場合でも、私達がキリストを信じ続けること、
それ以外の何物でもありません。
所が今日
信仰の意味を誤解し、興奮や、盛り上がりが「信仰の主要な部分である
かのようにイメージされているのではないかと私は懸念しております。特に
キリスト者の集まりにおいては、その評価はひとえに「興奮と盛り上がりと
愛の高揚」にかかっているのでは、と感じるのは私だけでしょうか。
しかしそれは間違いです。本来 信仰と「興奮、盛り上がり、愛の高揚」
は何の関係もありません。むしろ信仰とは冷静な判断と意志によって、
黙ってキリストの言葉を信じることであり、それのみが
「信じるということ」の総てです。従って、よき信仰生活とは、
日常生活において、私達が神によって、いかなる環境、感覚のただ中に
置かれたとしても、先ずはそれらをかたわらに置き、ただ
イエスと彼の言葉とを信じ続けることに他なりません。
繰り返しますが、信仰は、本来人の感情や感覚とは全くかかわりを持たない
のです。信仰は人の生まれながらの感情や感覚よりも遥かに深い部分の
「行為」です。当然、正しい評価と意志によって主を信じた後に、ある種の
感情が付随することは充分あり得ることです。しかし、それは信仰の結果
であって、信仰そのものではありません。肝心なのは信仰であり、
信じた後、気まぐれに訪れる、いかなる「聖なる」感覚も決して過度に
評価されるべきではありません。
むしろそれらは直ちに忘れ去られ、私達は信仰そのものに戻るべきです。
もしもそうでなければ、私達はたやすく敵によって欺かれることでしょう。
何故なら、その時私達は「神が与えたよきもの」を、神であると
誤解するからです。これは極めて巧妙な敵の誘いとなり得ます。
「私達は見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」
(Ⅱコリント5の7)ここで言う「見えるもの」とは
人の環境と人の感じる感覚や「実感」であることは明らかです。
私達の使命、役割はただ神のことばを信じることです。
「義人は信仰によって・・生きる」(ローマ1の17)
2009年6月9日火曜日
サタンを糾弾する声
この世界には至る所、諸々の悪がはびこっていますが、
その大元は人ではなく、サタンです。従って先ず、サタンが
糾弾されなければならない、と言うのは極めて当然の道理です。
世間の人々はサタンは架空の生き物であると「言って」おり、
またサタンについて はなはだしく誤解しております。従って
彼らがサタンを正しく糾弾することは当然不可能です。(彼ら
でさえ心からサタンの存在を否定しているとは考えられませんが)
ですから、正しく効果的に
サタンを糾弾する可能性があるのはキリスト者以外には
あり得ません。(しかし今日キリスト者とて、サタンを
「真剣に」糾弾しているか、となるとそれは大いに疑問です。)
*
この世界のことを見ても、
事の始めに、即ち実力行使する前に「悪人」は先ず
冷静な正しい情報に基づいて その悪人の悪を非難する多くの声
によってしっかりと糾弾されなければなりません。
第一に悪の存在に気づき、そして誰かが勇気をもってそれに対して
非難の声を上げ、その糾弾が少しずつ大きくなり、それが極めて大きく
なると、遂にその糾弾の「声」に引っ張り出されて、その悪者が
正体を現わさざるを得なくなるのです。そこまで来ると
正体を現した「悪人」は破れかぶれになって、
全力で彼の悪の限りを尽くすことでしょう。
しかしハレルヤ!
それは彼が現行犯逮捕される絶好のチャンスとなるのです。
そのようにしてサタンは初めて「偉大なる警察力」によって天から
追放され、のみならず「千年間」拘置、監禁されることになります。
(しかし、その後も話は続きます)
*
今この時代
以上述べた糾弾する役目はおもに、キリスト者にあります。
(神と天使のメインの役割は別にあります。)明らかに神の定めは、
サタンに対する糾弾は私達、多くの「弱き庶民」、神の乳飲み子、みどり児
の口によって行われなければならない、と言うことです。(詩篇8篇)
それは、あのバプテスマのヨハネの場合と似ています。彼は荒野(この世)
で悪に対して叫ぶ「声」でした。(ヨハネ1の23)、声とは目には見えず
実に軽いものです。しかし、霊的な世界においては、声ほど重く強力な
ものはありません。ヨハネの「糾弾する声の総和」がある一定量に
達した時、遂にヘロデが引っ張りだされ、ヘロデはヨハネの首を
切らざるを得なくなってしまったのです。昔も今も
これが「真の殉教」が発生する経過(メカニズム?)なのです。
従って、
これは決してヨハネの悲劇などではなく、ヘロデが破滅に至る物語です。
ヘロデは崩壊し、ヨハネは何とキリストを世界に紹介したのです。
これは何たる差異でしょうか。
今のこの時代、
キリストが再びこの世に到来するために必要な唯一のことも全く同様です。
それは、たとえ首を切られようとも、歴代のキリスト者達に続き、私達も、
サタンを糾弾する真理の「声」を、それの総和がある一定量に達するまで、
忍耐強く発し続けること、に他なりません。何故なら総ては、
正しい糾弾から始まるからです。
*
以上の総ての描写は、実のところ私ではなく聖書です。
かように、この世の悪の一掃に関しては、
キリスト者が先ずは真剣に、サタンを知り、サタンを糾弾することが
もしないとするならば「何事も始まらない」ことは明らかです。
従って
私達に、悪とサタンについての神の真理が
明らかに啓示されることは何と必要なことでしょう。
その大元は人ではなく、サタンです。従って先ず、サタンが
糾弾されなければならない、と言うのは極めて当然の道理です。
世間の人々はサタンは架空の生き物であると「言って」おり、
またサタンについて はなはだしく誤解しております。従って
彼らがサタンを正しく糾弾することは当然不可能です。(彼ら
でさえ心からサタンの存在を否定しているとは考えられませんが)
ですから、正しく効果的に
サタンを糾弾する可能性があるのはキリスト者以外には
あり得ません。(しかし今日キリスト者とて、サタンを
「真剣に」糾弾しているか、となるとそれは大いに疑問です。)
*
この世界のことを見ても、
事の始めに、即ち実力行使する前に「悪人」は先ず
冷静な正しい情報に基づいて その悪人の悪を非難する多くの声
によってしっかりと糾弾されなければなりません。
第一に悪の存在に気づき、そして誰かが勇気をもってそれに対して
非難の声を上げ、その糾弾が少しずつ大きくなり、それが極めて大きく
なると、遂にその糾弾の「声」に引っ張り出されて、その悪者が
正体を現わさざるを得なくなるのです。そこまで来ると
正体を現した「悪人」は破れかぶれになって、
全力で彼の悪の限りを尽くすことでしょう。
しかしハレルヤ!
それは彼が現行犯逮捕される絶好のチャンスとなるのです。
そのようにしてサタンは初めて「偉大なる警察力」によって天から
追放され、のみならず「千年間」拘置、監禁されることになります。
(しかし、その後も話は続きます)
*
今この時代
以上述べた糾弾する役目はおもに、キリスト者にあります。
(神と天使のメインの役割は別にあります。)明らかに神の定めは、
サタンに対する糾弾は私達、多くの「弱き庶民」、神の乳飲み子、みどり児
の口によって行われなければならない、と言うことです。(詩篇8篇)
それは、あのバプテスマのヨハネの場合と似ています。彼は荒野(この世)
で悪に対して叫ぶ「声」でした。(ヨハネ1の23)、声とは目には見えず
実に軽いものです。しかし、霊的な世界においては、声ほど重く強力な
ものはありません。ヨハネの「糾弾する声の総和」がある一定量に
達した時、遂にヘロデが引っ張りだされ、ヘロデはヨハネの首を
切らざるを得なくなってしまったのです。昔も今も
これが「真の殉教」が発生する経過(メカニズム?)なのです。
従って、
これは決してヨハネの悲劇などではなく、ヘロデが破滅に至る物語です。
ヘロデは崩壊し、ヨハネは何とキリストを世界に紹介したのです。
これは何たる差異でしょうか。
今のこの時代、
キリストが再びこの世に到来するために必要な唯一のことも全く同様です。
それは、たとえ首を切られようとも、歴代のキリスト者達に続き、私達も、
サタンを糾弾する真理の「声」を、それの総和がある一定量に達するまで、
忍耐強く発し続けること、に他なりません。何故なら総ては、
正しい糾弾から始まるからです。
*
以上の総ての描写は、実のところ私ではなく聖書です。
かように、この世の悪の一掃に関しては、
キリスト者が先ずは真剣に、サタンを知り、サタンを糾弾することが
もしないとするならば「何事も始まらない」ことは明らかです。
従って
私達に、悪とサタンについての神の真理が
明らかに啓示されることは何と必要なことでしょう。
2009年6月7日日曜日
二つの道
何か特別な事態が発生した際、キリスト者がそれに
どう対応するべきでしょうか。
その答えは唯一キリストです。即ち、私達は目前にどんなことが
発生しようと ただ「キリストの中で」対応するだけです。
このことを更に具体的に言うと、私達は、キリストの命、ないしは
死によって対応する、と言えるでしょう。これ以外他の道は決して
ありえません。正にキリストイエスは「道」そのものであられます。
①命によって対応する道:
それは、私達はその事態の中をそのまま進むのですが、しかしその際
内側をキリストの命によって更に満たしていただかなければなりません。
このようなケースはよくあることでしょう。
②もう一つの道は、決して逃げることなく、先ずその事態としっかり対面し、
次にそれに対してキリストと共に死ぬことです。
これも明らかに、神がキリスト者に与えている有効な道です。
神は二千年前、万物(物と者の一切)をキリストの死の瞬間、
キリストの死の中に閉じ込められました。これは神にとって極めて
重要な霊的な事実、御業です。さてそれは霊的な事実ですから、
同時にまた「永遠性」を持っております。
*
所が、そのままでは
今時空の中に生きる私達には、その永遠の事実は全く無関係です。
しかし感謝します。私達キリスト者はこれも「霊的な機能・信仰」を
用いることが出来るのです。
キリスト者の
「時空と物質に連なる体」の中に存在する人の霊(それは今日「永遠の」
聖霊と一つとなっている)に属する信仰を機能させることによって、
二千年前の永遠の事実を、人の体を経由させることによって、
二千年後のこの時空の中にもたらすことが出来るのです。
これは何という真理でしょう!
これこそがキリストの永遠の死を、私と私の時空に適用する方法です。
キリストはあの十字架の死において、人々によって
「この時空とその中の諸々の者と物」から除かれました。人々は、
除け、除け!と叫んで、彼を十字架つけたのです。(ヨハネ19の15)
それによってイエスは一切の物と者から、永遠の死の効力によって、
遠く遠く除かれ、隔絶されてしまったのです。
これが十字架という第一段の神の御業です。
しかし、必然的にここに神の第二段の御業が続きます。
それはキリストの復活です。
その復活によって、イエスは万物から隔絶されただけでなく、
今度は万物から超越されたのです。
それ故 神はキリストのせっかくの死を、キリスト者達においても
この時空中のいろいろな状況の中で、自分の身に適用することを
願っておられることは明白です。
*
このたびの事態において(直ちに、ではなかったのですが)
神は①の方法ではなく、疑いの余地のないほどハッキリと、私を
②の道へと導かれたのです。①なのか②なのかの判断には、
聖霊の導きは極めて有効です。
①と②のいずれにしろ、聖霊が導かれた結果は明らかな命と平安です。
実はその命と平安が、おとといの下山の旅がとても楽しかった
唯一の理由であった、と言えるでしょう。
このたび 図らずもこのような素晴らしい経験ができたことを
私は神にとても感謝しているのです。
もし出来ることでしたなら、顔と顔をあわせて、その経験の
幾分かについて、あの「匿名」の兄弟(or 姉妹)とも、
ともどもに分かち合えるとするならば、
それは何と嬉しいことでしょう。
*
①と②の適用の相違は、強調点の相違のみです。
双方に死と復活が存在することは明らかです。
神がキリスト者に与えられる総てのこと、
その実質、中身はただキリストの死と復活です。
そしてこの二つと見える道は実のところただ一つの道であり、
それは唯一の神イエスキリスト御自身であります。
☆
これからしばらく下での生活です。
どう対応するべきでしょうか。
その答えは唯一キリストです。即ち、私達は目前にどんなことが
発生しようと ただ「キリストの中で」対応するだけです。
このことを更に具体的に言うと、私達は、キリストの命、ないしは
死によって対応する、と言えるでしょう。これ以外他の道は決して
ありえません。正にキリストイエスは「道」そのものであられます。
①命によって対応する道:
それは、私達はその事態の中をそのまま進むのですが、しかしその際
内側をキリストの命によって更に満たしていただかなければなりません。
このようなケースはよくあることでしょう。
②もう一つの道は、決して逃げることなく、先ずその事態としっかり対面し、
次にそれに対してキリストと共に死ぬことです。
これも明らかに、神がキリスト者に与えている有効な道です。
神は二千年前、万物(物と者の一切)をキリストの死の瞬間、
キリストの死の中に閉じ込められました。これは神にとって極めて
重要な霊的な事実、御業です。さてそれは霊的な事実ですから、
同時にまた「永遠性」を持っております。
*
所が、そのままでは
今時空の中に生きる私達には、その永遠の事実は全く無関係です。
しかし感謝します。私達キリスト者はこれも「霊的な機能・信仰」を
用いることが出来るのです。
キリスト者の
「時空と物質に連なる体」の中に存在する人の霊(それは今日「永遠の」
聖霊と一つとなっている)に属する信仰を機能させることによって、
二千年前の永遠の事実を、人の体を経由させることによって、
二千年後のこの時空の中にもたらすことが出来るのです。
これは何という真理でしょう!
これこそがキリストの永遠の死を、私と私の時空に適用する方法です。
キリストはあの十字架の死において、人々によって
「この時空とその中の諸々の者と物」から除かれました。人々は、
除け、除け!と叫んで、彼を十字架つけたのです。(ヨハネ19の15)
それによってイエスは一切の物と者から、永遠の死の効力によって、
遠く遠く除かれ、隔絶されてしまったのです。
これが十字架という第一段の神の御業です。
しかし、必然的にここに神の第二段の御業が続きます。
それはキリストの復活です。
その復活によって、イエスは万物から隔絶されただけでなく、
今度は万物から超越されたのです。
それ故 神はキリストのせっかくの死を、キリスト者達においても
この時空中のいろいろな状況の中で、自分の身に適用することを
願っておられることは明白です。
*
このたびの事態において(直ちに、ではなかったのですが)
神は①の方法ではなく、疑いの余地のないほどハッキリと、私を
②の道へと導かれたのです。①なのか②なのかの判断には、
聖霊の導きは極めて有効です。
①と②のいずれにしろ、聖霊が導かれた結果は明らかな命と平安です。
実はその命と平安が、おとといの下山の旅がとても楽しかった
唯一の理由であった、と言えるでしょう。
このたび 図らずもこのような素晴らしい経験ができたことを
私は神にとても感謝しているのです。
もし出来ることでしたなら、顔と顔をあわせて、その経験の
幾分かについて、あの「匿名」の兄弟(or 姉妹)とも、
ともどもに分かち合えるとするならば、
それは何と嬉しいことでしょう。
*
①と②の適用の相違は、強調点の相違のみです。
双方に死と復活が存在することは明らかです。
神がキリスト者に与えられる総てのこと、
その実質、中身はただキリストの死と復活です。
そしてこの二つと見える道は実のところただ一つの道であり、
それは唯一の神イエスキリスト御自身であります。
☆
これからしばらく下での生活です。
2009年6月4日木曜日
エクレシアに従います
普通一般的に言って、
「文章によって、A さんの主を愛する姿を、B さんが描写
すること」が禁止されなければならない理由はありません。
もしもそうであるならば、あるキリスト者の内面について
他の人が語ったり書いたりすることが一切出来ないことになります。
もとより
人の言葉によって、特に他人の信仰について描写することには当然
大きな限界があります。それにもかかわらず、ある場合それは必要です。
神は過去において、そして今もキリスト者の伝記等において
人の「不完全な記述」を大いに用いて来られました。
何故神はそれを許されるのでしょうか。
それは、人の言葉は不完全ですが、神には聖霊があるからです。
仮にその描写が不正確でつたないとしても、それをキリスト者達が
読むとき、命の中で、真実をそのキリスト者達に伝達するのは結局、
聖霊であるからです。時に聖霊は「それはだめな伝記であるから、
もう読むのはやめなさい」と指摘することもあるでしょう。
いずれにしろ、神は聖霊を完全に信頼できるのです。
(多少不正確な訳の聖書であっても聖霊は、真に求める
キリスト者に真理を正確に伝達できるのです。)
☆
とは言えその際、重要で大きな前提として、
主の前において「B さんの心根が正しくなければならない」
事は明らかです。(文章表現力などよりも)実は、問題の
総てはこの一点にあるのです。
もしもB さんの心が曲がっているのであれば、その文章が
たとえそつが無くスマートなものであったとしても、
その描写に触れる兄弟姉妹(エクレシア)は、直ちに
ある種の不快感を覚えることでしょう。即ちエクレシアは
B さんの傲慢さ、不真実さ、人を利用しようとする隠れた意図、
自分を高くしたい心、自分に栄光を帰したい霊を容易に
感じ取るでしょう。当然その場合、B さんは直ちにエクレシアが
受けた感覚を受け入れ、彼の企てを停止しなければなりません。
☆
仮に私が、もしもそのB さんであるならば、
喜んでエクレシアの感覚に服したいと思います。
なぜなら、エクレシアは、キリストの体であり、
今日何と、キリストの思いを地上において反映する
ことが出来るからです。
その場合、私がエクレシアの頭・キリストに服するのは
当然のことであり、全く何の問題も未練もありません。
もしも私がそうであるのならば、
主がエクレシアの兄弟姉妹に、それを明確に感じさせて
下さるように、そして多くの兄弟姉妹が、私にそれを伝えて
下さるようにと、心から願っております。それは、私が主
御自身に反逆すると言う大きな罪を犯すことがないためです。
(私がそんなに清い人間でないことは当然であり、
あなたの心からの交わりを充分受け入れることが可能です。
ですから兄弟姉妹よ、よき交わりの為、匿名でない方が
よろしいのではないでしょうか。)
*
柄沢兄弟についての私の文章は
実際に兄弟に接しておられた「柄沢家」に属する方の
口頭による描写を基としたものです。
しかし、私の文章表現についての一切の責任は
私自身にあるのは当然のことです。
*5日、10:30am
今から、山を下ります。きっと、
主に祈りながらの楽しい六時間となる事でしょう。
「文章によって、A さんの主を愛する姿を、B さんが描写
すること」が禁止されなければならない理由はありません。
もしもそうであるならば、あるキリスト者の内面について
他の人が語ったり書いたりすることが一切出来ないことになります。
もとより
人の言葉によって、特に他人の信仰について描写することには当然
大きな限界があります。それにもかかわらず、ある場合それは必要です。
神は過去において、そして今もキリスト者の伝記等において
人の「不完全な記述」を大いに用いて来られました。
何故神はそれを許されるのでしょうか。
それは、人の言葉は不完全ですが、神には聖霊があるからです。
仮にその描写が不正確でつたないとしても、それをキリスト者達が
読むとき、命の中で、真実をそのキリスト者達に伝達するのは結局、
聖霊であるからです。時に聖霊は「それはだめな伝記であるから、
もう読むのはやめなさい」と指摘することもあるでしょう。
いずれにしろ、神は聖霊を完全に信頼できるのです。
(多少不正確な訳の聖書であっても聖霊は、真に求める
キリスト者に真理を正確に伝達できるのです。)
☆
とは言えその際、重要で大きな前提として、
主の前において「B さんの心根が正しくなければならない」
事は明らかです。(文章表現力などよりも)実は、問題の
総てはこの一点にあるのです。
もしもB さんの心が曲がっているのであれば、その文章が
たとえそつが無くスマートなものであったとしても、
その描写に触れる兄弟姉妹(エクレシア)は、直ちに
ある種の不快感を覚えることでしょう。即ちエクレシアは
B さんの傲慢さ、不真実さ、人を利用しようとする隠れた意図、
自分を高くしたい心、自分に栄光を帰したい霊を容易に
感じ取るでしょう。当然その場合、B さんは直ちにエクレシアが
受けた感覚を受け入れ、彼の企てを停止しなければなりません。
☆
仮に私が、もしもそのB さんであるならば、
喜んでエクレシアの感覚に服したいと思います。
なぜなら、エクレシアは、キリストの体であり、
今日何と、キリストの思いを地上において反映する
ことが出来るからです。
その場合、私がエクレシアの頭・キリストに服するのは
当然のことであり、全く何の問題も未練もありません。
もしも私がそうであるのならば、
主がエクレシアの兄弟姉妹に、それを明確に感じさせて
下さるように、そして多くの兄弟姉妹が、私にそれを伝えて
下さるようにと、心から願っております。それは、私が主
御自身に反逆すると言う大きな罪を犯すことがないためです。
(私がそんなに清い人間でないことは当然であり、
あなたの心からの交わりを充分受け入れることが可能です。
ですから兄弟姉妹よ、よき交わりの為、匿名でない方が
よろしいのではないでしょうか。)
*
柄沢兄弟についての私の文章は
実際に兄弟に接しておられた「柄沢家」に属する方の
口頭による描写を基としたものです。
しかし、私の文章表現についての一切の責任は
私自身にあるのは当然のことです。
*5日、10:30am
今から、山を下ります。きっと、
主に祈りながらの楽しい六時間となる事でしょう。
罪の言い表しについて
・・・
或いは兄弟は、神に対して、まだある罪をまだ告白していない
が為に、良心に安息がないのかも知れません。
「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければならない
であろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、キリストの御血
の完全な洗いにあずかり、清くとがめのない強い良心を
持って欲しかったのです。
☆
「もし、神が光の中におられるように、私達も光の中を歩んで
いるなら、私達は互いに交わりを持ち、御子イエスの血は総ての
罪から私達を清めます。・・・
もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、総ての悪から私達を清めて下さいます。」
(Ⅰヨハネ1の6、9)
原則として
罪の言い表しは、神に対してです。それを必ず人の前で行わなければ
ならない、と言うことはありません。罪の自覚があるもので、
まだ神に対して言い表されていない罪があるならば、
それを神に対して言い表せばよいのです。
或いは兄弟は、神に対して、まだある罪をまだ告白していない
が為に、良心に安息がないのかも知れません。
「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければならない
であろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、キリストの御血
の完全な洗いにあずかり、清くとがめのない強い良心を
持って欲しかったのです。
☆
「もし、神が光の中におられるように、私達も光の中を歩んで
いるなら、私達は互いに交わりを持ち、御子イエスの血は総ての
罪から私達を清めます。・・・
もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、総ての悪から私達を清めて下さいます。」
(Ⅰヨハネ1の6、9)
原則として
罪の言い表しは、神に対してです。それを必ず人の前で行わなければ
ならない、と言うことはありません。罪の自覚があるもので、
まだ神に対して言い表されていない罪があるならば、
それを神に対して言い表せばよいのです。
2009年6月2日火曜日
神に会う備え
*柄沢登兄弟の家で(5)*
ある日、柄沢良子姉妹の心にフトある思いが生れました。
それは、私はキリスト者として今この兄弟の為に何をしてあげるのが
神の御前において最善なのであろうか、と言う思いでした。
それが発端となり、遂に柄沢兄弟の献身が現実のものとなったのです。
ここにおいて、登兄弟の総て、生も死も、一切は神に献げられたのです。
これはどうしても、今しておかなければならない「神に会う備え」です。
神に会う備え:
それは明らかに、何にもまして総ての人が一日も早く実行しなければ
ならない最重要課題です。所が、多くの場合私達はその大切な宿題を
どこかの引き出しにしまったまま にしているのではないでしょうか。
しかし、
キリストの真の救いを経験したばかりの登兄弟と共に
日々一緒に生活しておられた妻良子さんと、また他の
「柄沢家の」人々にとって、それは日ごとに現実味を
帯びて来る重い課題となって行ったのです。
実際の所、もう一日の猶予もないのかも知れません。
姉妹達は必死の思いで、主の前に出たのです。
そのようにして、遂に「その家のキリスト者達」はあたかも一人の人
のようになり、通常の世の人情を超えて、或いは今日のキリスト者達の
常識をさえ超えて、愛する兄弟の「永遠の福祉」の為に、
黄泉の勢力の前に立ちはだかった、と言ってもよいでしょう。
それはあたかも、
なりふりかまわずに、家の屋根まではがし、
必死の思いで、病人(彼らの兄弟)を寝床のまま、
イエスの眼前につり下ろした人々のようでした。
*
そこで実行されたのが
「まだ言い表わされていない罪」の告白です。或いは兄弟は、神に対して、
ある罪をまだ告白していないが為に、良心に安息がないのかも知れません。
たとえ今それがあるとしても、その状態のまま、キリスト者が
ウソつきサタンによって巧みに攻撃されるならば、
いつ信仰の土台さえくずれてしまうか分からないのです。
「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければ
ならないであろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、
キリストの御血の完全な洗いにあずかり、
清くとがめのない強い良心を持って欲しかったのです。
そこで、先ず取り扱われたのが、夫婦間の問題でした。
今私がその詳細をここに書く必要はないでしょう。いずれにしろ、
御夫妻は、自分の「私は悪くない」を全面的に放棄し、
何と完全な赦し合いに至ったと言うのです。
それは、主の臨在が深く感じられる、ただ
「涙、なみだのひと時」となったのす。
また後日、
登兄弟から、かつてひどい屈辱を受け、今までどうしても赦す事の
出来なかった職場のある人物についての言い表しがなされた、と言います。
そのようにして、兄弟は一点一点、力あるキリストの御血の清めを経験し、
兄弟の良心と霊は徐々に強められて行ったのです。
そして更に神は、
それらの出来事を「彼の自我」を少しずつ砕いて行くと言う
機会とさえされて行ったのではないでしょうか。
そのようにして、それらの神によって極めて圧縮された
登兄弟の生活は、その価値を日一日と高めて行ったのです。
ある日、柄沢良子姉妹の心にフトある思いが生れました。
それは、私はキリスト者として今この兄弟の為に何をしてあげるのが
神の御前において最善なのであろうか、と言う思いでした。
それが発端となり、遂に柄沢兄弟の献身が現実のものとなったのです。
ここにおいて、登兄弟の総て、生も死も、一切は神に献げられたのです。
これはどうしても、今しておかなければならない「神に会う備え」です。
神に会う備え:
それは明らかに、何にもまして総ての人が一日も早く実行しなければ
ならない最重要課題です。所が、多くの場合私達はその大切な宿題を
どこかの引き出しにしまったまま にしているのではないでしょうか。
しかし、
キリストの真の救いを経験したばかりの登兄弟と共に
日々一緒に生活しておられた妻良子さんと、また他の
「柄沢家の」人々にとって、それは日ごとに現実味を
帯びて来る重い課題となって行ったのです。
実際の所、もう一日の猶予もないのかも知れません。
姉妹達は必死の思いで、主の前に出たのです。
そのようにして、遂に「その家のキリスト者達」はあたかも一人の人
のようになり、通常の世の人情を超えて、或いは今日のキリスト者達の
常識をさえ超えて、愛する兄弟の「永遠の福祉」の為に、
黄泉の勢力の前に立ちはだかった、と言ってもよいでしょう。
それはあたかも、
なりふりかまわずに、家の屋根まではがし、
必死の思いで、病人(彼らの兄弟)を寝床のまま、
イエスの眼前につり下ろした人々のようでした。
*
そこで実行されたのが
「まだ言い表わされていない罪」の告白です。或いは兄弟は、神に対して、
ある罪をまだ告白していないが為に、良心に安息がないのかも知れません。
たとえ今それがあるとしても、その状態のまま、キリスト者が
ウソつきサタンによって巧みに攻撃されるならば、
いつ信仰の土台さえくずれてしまうか分からないのです。
「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければ
ならないであろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、
キリストの御血の完全な洗いにあずかり、
清くとがめのない強い良心を持って欲しかったのです。
そこで、先ず取り扱われたのが、夫婦間の問題でした。
今私がその詳細をここに書く必要はないでしょう。いずれにしろ、
御夫妻は、自分の「私は悪くない」を全面的に放棄し、
何と完全な赦し合いに至ったと言うのです。
それは、主の臨在が深く感じられる、ただ
「涙、なみだのひと時」となったのす。
また後日、
登兄弟から、かつてひどい屈辱を受け、今までどうしても赦す事の
出来なかった職場のある人物についての言い表しがなされた、と言います。
そのようにして、兄弟は一点一点、力あるキリストの御血の清めを経験し、
兄弟の良心と霊は徐々に強められて行ったのです。
そして更に神は、
それらの出来事を「彼の自我」を少しずつ砕いて行くと言う
機会とさえされて行ったのではないでしょうか。
そのようにして、それらの神によって極めて圧縮された
登兄弟の生活は、その価値を日一日と高めて行ったのです。
2009年6月1日月曜日
柄沢登兄弟の信仰
・・・
「今の時代においては」神は御自分の権利を
人にごり押しされることはありません。それは他でもない、
神が人に与えた「自由意志」の故です。
しかしながら、
もし人が、その神の愛と正しさに自ら気づき、
「私は御子の尊い御血をもって買われたのだから、
私の総ては神の手に委ねるのは当然です」と
主イエスの愛に迫られつつ、
喜んで、自分の総てを神に献げるのであるならば、
神はその人を、真に御自分の手の中の器として
取り扱い始められるのです。
上記の場合、とても素晴らしいのは、
その人は「自分に与えられた自由意志」を正しく用い、
冷静に自分の意志で、神の意志を選び取ったことです。
何故ならそれこそが、神とサタンの前において人がなすべき
最も重要な事であるとさえ言えるからです。
環境と感覚に打ち克ち、自分の意志で自ら、神の意志を
冷静に選び取ること、それこそが
信仰の本質であり、人の役割、使命です。
*
何とあの病の苦しみの中、ある日ある時、
正に登兄弟はそれをされたと言うのです。
先ず彼は、妻である姉妹から
「献身に関する神の意志」について聞きました。
その時、彼はどうしたのでしょう。
彼は、彼のひどい環境や感覚を ひとまずかたわらに置き、
「その神の言葉・真理」を見つめました。
そして直ちに(これが大切)
「私の体を主に献げます」と口の言葉を用いて、
即ち信仰を機能させることによって、
その真理そのもの(それは主御自身・命の木の実)を
彼の中に取り入れたのです、言い換えれば、信仰によって
真理、神の意志を兄弟自身へと結合させたのです。
(信仰の最も深い意味は「結合」です。信仰には
その様な驚くべき働きがあるのです。)
更にその時兄弟は、間髪をいれずに、
彼にささやきかける「神の意志と矛盾する様々な感覚的邪念」を
断固拒絶したことにもなるのです。
*
さて今
その時の登兄弟の態度と創世記3章のエバの態度
とを比較して見て下さい。
人はもしヘビ(だます者の意)との
会話に引き込まれたら、ただそれだけで必ず負けます。
その会話のきっかけは「本当に・・?」と言う敵の質問でした。
ヘビがもしその問いかけによって人を釣り上げることが出来る
ならば、あとはやすやすと「理屈と感覚の世界」に人を
連れ込むことが出来ます。理屈と感覚の世界において、
人が「だます者」に勝つのは殆ど不可能です。
しかし、
柄沢兄弟はそうではありませんでした。
その時の「兄弟の態度」は同時に
「彼の霊の姿」でもあったのです。
その肉体の極限的弱さにもかかわらず、
彼の霊は大そう強かったと言えましょう。
どうしてその様なことがあり得たのでしょう。
主に感謝、賛美をささげます、
それは正にあの助け主、聖霊の働きでも
あったからです。
*
「あなた方の手足を、不義の器として罪にささげては
いけません。むしろ、死者の中から生かされた者として
あなた方自身とその手足を、義の器として神に献げなさい。」
(ローマ6の13)
「今の時代においては」神は御自分の権利を
人にごり押しされることはありません。それは他でもない、
神が人に与えた「自由意志」の故です。
しかしながら、
もし人が、その神の愛と正しさに自ら気づき、
「私は御子の尊い御血をもって買われたのだから、
私の総ては神の手に委ねるのは当然です」と
主イエスの愛に迫られつつ、
喜んで、自分の総てを神に献げるのであるならば、
神はその人を、真に御自分の手の中の器として
取り扱い始められるのです。
上記の場合、とても素晴らしいのは、
その人は「自分に与えられた自由意志」を正しく用い、
冷静に自分の意志で、神の意志を選び取ったことです。
何故ならそれこそが、神とサタンの前において人がなすべき
最も重要な事であるとさえ言えるからです。
環境と感覚に打ち克ち、自分の意志で自ら、神の意志を
冷静に選び取ること、それこそが
信仰の本質であり、人の役割、使命です。
*
何とあの病の苦しみの中、ある日ある時、
正に登兄弟はそれをされたと言うのです。
先ず彼は、妻である姉妹から
「献身に関する神の意志」について聞きました。
その時、彼はどうしたのでしょう。
彼は、彼のひどい環境や感覚を ひとまずかたわらに置き、
「その神の言葉・真理」を見つめました。
そして直ちに(これが大切)
「私の体を主に献げます」と口の言葉を用いて、
即ち信仰を機能させることによって、
その真理そのもの(それは主御自身・命の木の実)を
彼の中に取り入れたのです、言い換えれば、信仰によって
真理、神の意志を兄弟自身へと結合させたのです。
(信仰の最も深い意味は「結合」です。信仰には
その様な驚くべき働きがあるのです。)
更にその時兄弟は、間髪をいれずに、
彼にささやきかける「神の意志と矛盾する様々な感覚的邪念」を
断固拒絶したことにもなるのです。
*
さて今
その時の登兄弟の態度と創世記3章のエバの態度
とを比較して見て下さい。
人はもしヘビ(だます者の意)との
会話に引き込まれたら、ただそれだけで必ず負けます。
その会話のきっかけは「本当に・・?」と言う敵の質問でした。
ヘビがもしその問いかけによって人を釣り上げることが出来る
ならば、あとはやすやすと「理屈と感覚の世界」に人を
連れ込むことが出来ます。理屈と感覚の世界において、
人が「だます者」に勝つのは殆ど不可能です。
しかし、
柄沢兄弟はそうではありませんでした。
その時の「兄弟の態度」は同時に
「彼の霊の姿」でもあったのです。
その肉体の極限的弱さにもかかわらず、
彼の霊は大そう強かったと言えましょう。
どうしてその様なことがあり得たのでしょう。
主に感謝、賛美をささげます、
それは正にあの助け主、聖霊の働きでも
あったからです。
*
「あなた方の手足を、不義の器として罪にささげては
いけません。むしろ、死者の中から生かされた者として
あなた方自身とその手足を、義の器として神に献げなさい。」
(ローマ6の13)
2009年5月31日日曜日
兄弟は主に自分の体を献げた
*柄沢登兄弟の家で(4)*
キリスト者の「人生」は
素晴らしいものであり、その長さは永遠です。その中でも、
今のこの時代、私達が堕落の痕跡が深いこの肉体の中に留まら
なければならない憂鬱な?短い時間帯は極めて大きな価値を持ち
得ます。それは私達が「時間」の中で過ごす時代の尊い前半です。
さて、
残された時間は更に短いであろうと思われた登兄弟と、そしてそれを
見つめる姉妹達に迫った聖霊の働きは正にその一点「時間と朽ち行く
肉体の意識」にあったのではないかと思われます。その結果、何が
この家に起こったのでしょう。それは先ず:
Ⅰ.兄弟が主に自分の体を献げたことでした。
私達の神は不思議な神です。何故なら彼は全能者であられるのに、
私達の自由意志をとても尊重されるからです。ある意味、神は私達に
自分の人生をどう生きるのか、その裁量を殆ど任せられるのです。
しかし、ここに一つの例外があります。
それはキリスト者が敢えて、自分の人生の総ての時間、体、そして
それらに付随する状況一切を神に献げますと、申し出た場合です。
その場合に限り、神は大いに私の人生に「干渉の手を伸ばされる」
と言ってもよいでしょう。またもしそうでなければ、
神は不実であることになってしまうのではないでしょうか。
献身とは「神の愛に促され、神の権利を人が真に認める時、
神に仕えるために神に一切を委ねること」です。
その場合の神の権利とは、御子の尊い御血という代金をもって、
神は私を既に買い取っておられる、と言う神の絶対的な権利です。
当然それは正しく、そこにのみ義が存在します。従って
その様な神に対して、キリスト者が自分の総てを献げない
と言うのであれば、それは明らかに正しくありません。
所が「今の時代においては」神は御自分のその権利を
人にごり押しされることはありません。それは他でもない、
神が人に与えた「自由意志」の故です。
しかしながら、
人がその神の愛と正しさに自ら気づき、
「私は御子の尊い御血をもって買われたのだから、
私の総ては神の手に委ねるのは当然です」と
主イエスの愛に迫られつつ、
喜んで、自分の総てを神に献げるのであるならば、
神はあなたを、真に御自分の者として取り扱い始められるのです。
この際、とても素晴らしいのは、
彼は自分に与えられた自由意志を正しく用い、
冷静に自分の意志で神の意志を選び取ったことです。
何故ならそれこそが、神とサタンの前において人がなすべき
最重要なことである、とさえ言い得るからです。
(それこそが信仰です。)
何とあの病の苦しみの中、ある日ある時、
登兄弟は正にそれをされたと言うのです!即ち
彼はその環境やひどい感覚をひとまずかたわらに置き、
その神の真理を見つめ、次に
「私の体を主に献げます」と彼の口の言葉を用いる
ことによって、即ち信仰によって、
その真理そのもの(それは主御自身)を
彼自身へと結合させたのです。
(信仰の最も深い意味は「結合」です。)
真にそれは不思議な聖霊の働きでありました。
(その詳細には非常に興味深いものがあります。)
それ以後の、柄沢家における兄弟と、そして姉妹達に対する神の
取り扱いは、その神の真実に基づくものであった、と言えるでしょう。
キリスト者の「人生」は
素晴らしいものであり、その長さは永遠です。その中でも、
今のこの時代、私達が堕落の痕跡が深いこの肉体の中に留まら
なければならない憂鬱な?短い時間帯は極めて大きな価値を持ち
得ます。それは私達が「時間」の中で過ごす時代の尊い前半です。
さて、
残された時間は更に短いであろうと思われた登兄弟と、そしてそれを
見つめる姉妹達に迫った聖霊の働きは正にその一点「時間と朽ち行く
肉体の意識」にあったのではないかと思われます。その結果、何が
この家に起こったのでしょう。それは先ず:
Ⅰ.兄弟が主に自分の体を献げたことでした。
私達の神は不思議な神です。何故なら彼は全能者であられるのに、
私達の自由意志をとても尊重されるからです。ある意味、神は私達に
自分の人生をどう生きるのか、その裁量を殆ど任せられるのです。
しかし、ここに一つの例外があります。
それはキリスト者が敢えて、自分の人生の総ての時間、体、そして
それらに付随する状況一切を神に献げますと、申し出た場合です。
その場合に限り、神は大いに私の人生に「干渉の手を伸ばされる」
と言ってもよいでしょう。またもしそうでなければ、
神は不実であることになってしまうのではないでしょうか。
献身とは「神の愛に促され、神の権利を人が真に認める時、
神に仕えるために神に一切を委ねること」です。
その場合の神の権利とは、御子の尊い御血という代金をもって、
神は私を既に買い取っておられる、と言う神の絶対的な権利です。
当然それは正しく、そこにのみ義が存在します。従って
その様な神に対して、キリスト者が自分の総てを献げない
と言うのであれば、それは明らかに正しくありません。
所が「今の時代においては」神は御自分のその権利を
人にごり押しされることはありません。それは他でもない、
神が人に与えた「自由意志」の故です。
しかしながら、
人がその神の愛と正しさに自ら気づき、
「私は御子の尊い御血をもって買われたのだから、
私の総ては神の手に委ねるのは当然です」と
主イエスの愛に迫られつつ、
喜んで、自分の総てを神に献げるのであるならば、
神はあなたを、真に御自分の者として取り扱い始められるのです。
この際、とても素晴らしいのは、
彼は自分に与えられた自由意志を正しく用い、
冷静に自分の意志で神の意志を選び取ったことです。
何故ならそれこそが、神とサタンの前において人がなすべき
最重要なことである、とさえ言い得るからです。
(それこそが信仰です。)
何とあの病の苦しみの中、ある日ある時、
登兄弟は正にそれをされたと言うのです!即ち
彼はその環境やひどい感覚をひとまずかたわらに置き、
その神の真理を見つめ、次に
「私の体を主に献げます」と彼の口の言葉を用いる
ことによって、即ち信仰によって、
その真理そのもの(それは主御自身)を
彼自身へと結合させたのです。
(信仰の最も深い意味は「結合」です。)
真にそれは不思議な聖霊の働きでありました。
(その詳細には非常に興味深いものがあります。)
それ以後の、柄沢家における兄弟と、そして姉妹達に対する神の
取り扱いは、その神の真実に基づくものであった、と言えるでしょう。
2009年5月30日土曜日
最後の日々
*柄沢登兄弟の家で(3)*
医師が到着されました。
ある条件のため、モルヒネに代わる一つの強力な鎮静剤が、
兄弟姉妹が静かに見守る中、遂に彼の体内に投与されました。
これ以後、兄弟の方から、人の言葉による皆さんへの
意思の伝達は一切不可能となったのです。
思えばつい先ほど、あの「真夜中の礼拝」の中、
兄弟が、その衰えた肉体の中で真実に歌った、
イエスを褒め称える最後の賛美と、主に捧げられた小さな祈りは
極めて価値あるものであった、と言えるのです。
投与後10分、彼の寝息は深く穏やかになり、誰の眼にも、あの
激しかった嘔吐等の苦しみは、その肉体から完全に離れ去った
ことが感じられました。
それは確かに、イエスから直接与えられた「彼に対するあの約束」が、
既にその生前、その言葉通りに実現されたかのようでした。
*
そのような兄弟のベッドのかたわらにおいて、
姉妹達の「礼拝」は毎朝続けられました。
その間、信仰の言葉によって、
姉妹達が彼の手を握ると、兄弟は握り返したこと、
声による呼びかけには、かすかにうなずいたこと、また
手を動かして反応することなどが確かに認められました。
それらの彼の動作は即ち、あの15日の深夜、皆さんと交わした
「あの約束」を兄弟はシッカリと実行されたと言うことです。
本当に主に感謝します。
これも確かにキリストイエスにある尊いコイノニヤ(交わり)
であったのであり、更に言うならば、姉妹達はその数日、主に愛され、
主の御使いの手によってアブラハムの懐の「完全な安息」に今にも
もたらされようとしていた一聖徒との、極めて貴重なコイノニヤを
楽しんでいたのではないでしょうか。
そんな中、
彼は自ら、両手を胸の上に組む姿勢をよく取っていたのですが、
それはあたかも、彼がずうっと主との交わりの中にいたかの
様であった、と姉妹は言われるのです。
5月19日、午後
外部からの入浴サービスが行われ、全身ツルツルになって、
気持ちよさそうな登さんの様子を見て、不思議にもそこにいる
全員が、とても明るく幸せな気分にされたと言います。
そして、20日の朝8時、
少し呼吸が浅くなったのかな、と思われる中、
一人の姉妹が彼の手を取り祈っていた、正にその中で、遂に彼は、
この地上における最後のひと息を呼吸されたのです。
医師が到着されました。
ある条件のため、モルヒネに代わる一つの強力な鎮静剤が、
兄弟姉妹が静かに見守る中、遂に彼の体内に投与されました。
これ以後、兄弟の方から、人の言葉による皆さんへの
意思の伝達は一切不可能となったのです。
思えばつい先ほど、あの「真夜中の礼拝」の中、
兄弟が、その衰えた肉体の中で真実に歌った、
イエスを褒め称える最後の賛美と、主に捧げられた小さな祈りは
極めて価値あるものであった、と言えるのです。
投与後10分、彼の寝息は深く穏やかになり、誰の眼にも、あの
激しかった嘔吐等の苦しみは、その肉体から完全に離れ去った
ことが感じられました。
それは確かに、イエスから直接与えられた「彼に対するあの約束」が、
既にその生前、その言葉通りに実現されたかのようでした。
*
そのような兄弟のベッドのかたわらにおいて、
姉妹達の「礼拝」は毎朝続けられました。
その間、信仰の言葉によって、
姉妹達が彼の手を握ると、兄弟は握り返したこと、
声による呼びかけには、かすかにうなずいたこと、また
手を動かして反応することなどが確かに認められました。
それらの彼の動作は即ち、あの15日の深夜、皆さんと交わした
「あの約束」を兄弟はシッカリと実行されたと言うことです。
本当に主に感謝します。
これも確かにキリストイエスにある尊いコイノニヤ(交わり)
であったのであり、更に言うならば、姉妹達はその数日、主に愛され、
主の御使いの手によってアブラハムの懐の「完全な安息」に今にも
もたらされようとしていた一聖徒との、極めて貴重なコイノニヤを
楽しんでいたのではないでしょうか。
そんな中、
彼は自ら、両手を胸の上に組む姿勢をよく取っていたのですが、
それはあたかも、彼がずうっと主との交わりの中にいたかの
様であった、と姉妹は言われるのです。
5月19日、午後
外部からの入浴サービスが行われ、全身ツルツルになって、
気持ちよさそうな登さんの様子を見て、不思議にもそこにいる
全員が、とても明るく幸せな気分にされたと言います。
そして、20日の朝8時、
少し呼吸が浅くなったのかな、と思われる中、
一人の姉妹が彼の手を取り祈っていた、正にその中で、遂に彼は、
この地上における最後のひと息を呼吸されたのです。
人は神の御心を知ることが出来ます
普通人の観念の中には、
「あの偉大な神の心が、人などに分かりっこないではないか」
と言うものがあります。私にもその「気分」は大いに分かります。
しかし、それはどうやら間違いのようです。
人は神の御心を知ることが出来ます!
その大きなスケールにおける神の御心から、何とあなた個人に
とっての大切な事柄、に関する神の御心までも。
さて、一般的に言って、
私達は相手の心や意志をどのようにして知るのでしょうか。
条件は二つです。先ず一つは、あなたが相手の心を知りたいと「真剣に」
願うことです。この点で、それが少しでもいいかげんなもので
あったり、単なる興味本位のものに過ぎないとするならば、相手は、
大切な自分の心の底を、あなたに明かすことなどあり得るでしょうか。
そんなことは不可能です。あなたが「心底知りたい」と思うこと、
これが条件Aです。
もう一つの条件はその相手が、彼の心をあなたに明かしたい、
と本当に思っていることです。
もしそれが無ければやはり、あなたが彼の心を知るのはまず
不可能でしょう。これも当然のことです。
これを条件Bとしましょう。
結論から言って、
この二つの条件の内で、問題になるのはAです。
実は、Bの方には問題が無いのです。即ち神は真剣に、あなたに
彼の御心を明かしたいと思っておられるのです。よく神を知って
いる人が言いました。条件Aが満たされたのであれば、神には
その心をその人に知らせる責務がある、と。即ちそれは
「神の責任」であると言うのです!どうやらこれは本当のようです。
聖書でも次のように言っております。
「神が・・御心にかなうことを私達の内に行い、あなた方が
御心を行うことが出来るために・・・」(ヘブル13の21)
ここには、キリスト者に対して「ゼヒ私の心を実行して欲しい」
という「神の篤い心」が示されています。もしもそうであるならば、
神は「それでは彼に、ゼヒとも私の心を知らせなければ」と切に
思っておられるに違いないのです。
あなたが真剣に神の御心を知りたいと願い、あなたの心を
真っ直ぐ神に向けることが出来るならば、即ち
あの条件Aをあなたが心から満たしさえすれば、
あなたは必ず神の心を知ることが出来るのです。
「あの偉大な神の心が、人などに分かりっこないではないか」
と言うものがあります。私にもその「気分」は大いに分かります。
しかし、それはどうやら間違いのようです。
人は神の御心を知ることが出来ます!
その大きなスケールにおける神の御心から、何とあなた個人に
とっての大切な事柄、に関する神の御心までも。
さて、一般的に言って、
私達は相手の心や意志をどのようにして知るのでしょうか。
条件は二つです。先ず一つは、あなたが相手の心を知りたいと「真剣に」
願うことです。この点で、それが少しでもいいかげんなもので
あったり、単なる興味本位のものに過ぎないとするならば、相手は、
大切な自分の心の底を、あなたに明かすことなどあり得るでしょうか。
そんなことは不可能です。あなたが「心底知りたい」と思うこと、
これが条件Aです。
もう一つの条件はその相手が、彼の心をあなたに明かしたい、
と本当に思っていることです。
もしそれが無ければやはり、あなたが彼の心を知るのはまず
不可能でしょう。これも当然のことです。
これを条件Bとしましょう。
結論から言って、
この二つの条件の内で、問題になるのはAです。
実は、Bの方には問題が無いのです。即ち神は真剣に、あなたに
彼の御心を明かしたいと思っておられるのです。よく神を知って
いる人が言いました。条件Aが満たされたのであれば、神には
その心をその人に知らせる責務がある、と。即ちそれは
「神の責任」であると言うのです!どうやらこれは本当のようです。
聖書でも次のように言っております。
「神が・・御心にかなうことを私達の内に行い、あなた方が
御心を行うことが出来るために・・・」(ヘブル13の21)
ここには、キリスト者に対して「ゼヒ私の心を実行して欲しい」
という「神の篤い心」が示されています。もしもそうであるならば、
神は「それでは彼に、ゼヒとも私の心を知らせなければ」と切に
思っておられるに違いないのです。
あなたが真剣に神の御心を知りたいと願い、あなたの心を
真っ直ぐ神に向けることが出来るならば、即ち
あの条件Aをあなたが心から満たしさえすれば、
あなたは必ず神の心を知ることが出来るのです。
2009年5月29日金曜日
真夜中の礼拝
*柄沢登兄弟の家で(2)*
それは、
5月14日から15日にかけての夜のことでした。
佐倉の柄沢良子さんから、となり町・酒々井(シスイ)在住の
お姉さん、渡辺姉妹に突然電話があり、渡辺ご夫妻はあたふたと、
真夜中1時45分、柄沢家に駆けつけたのです。
着くとベッドの上に上半身を起こした登兄弟は、
シッカリとした表情で次のように言われたといいます。
「実を言うと、イエス様が私に語られたのですよ。
:これまであなたはとても苦しんだ、
しかし、忍耐はもうそれで充分です」と!
「ですから、私はこれで安心です。もう痛め止めの座薬は
使いません。たとえ私は意識を失うとしても、これから医師に
来てもらい、注射(モルヒネ)を打ってもらいたい、
と思っているのです。」
続けて、兄弟、
「皆さん、本当に有難うございました。これは先ず、
私の妻に心から言うことです。そして和博さん達、
これまで大変お世話になりました。」
驚いた皆さんは、そう言う登さんを「励まし」
「まあまあ、大丈夫だから」と言ったのですが、
兄弟の決意は随分しっかりしたものであったそうです。
ですから更に、
次のようなことに話は移って行ったのだと言います。
「登さん、その注射をすると、たとえ登さんに意識があった
としても、話はもう出来なくなるそうですよ。ですから、
その時のために、登さんの方からの合図を、今決めておきましょうか。
そんな時、こちらかはドンドン語りかけるからね。」
その話が終わったとき、登さんの顔に安心の表情が浮かび、
その部屋の中に一段落ついた、と言う空気が漂よったのです。
*
賛美を歌うことになりました。
そして、登兄弟がそれまでの短い信仰生活で覚えた三曲を、
少し近所に気兼ねしながら、皆で歌ったのです。
♪賛美、賛美、ハレルーヤ・・
♪栄光、イエスにあれ!・・
登さんは苦しげな中、吐き気を覚えつつも、
声を出してシッカリと歌ったと言います。
更にその後、彼はハッキリと言いました、
「イエス様、有難う、感謝です!」
15日深夜から、夏の早い夜明けに至るその時間、
四人は、医師の到着を待ちました。
それは真に「真夜中の礼拝」であったと言えるでしょう。
それは、
5月14日から15日にかけての夜のことでした。
佐倉の柄沢良子さんから、となり町・酒々井(シスイ)在住の
お姉さん、渡辺姉妹に突然電話があり、渡辺ご夫妻はあたふたと、
真夜中1時45分、柄沢家に駆けつけたのです。
着くとベッドの上に上半身を起こした登兄弟は、
シッカリとした表情で次のように言われたといいます。
「実を言うと、イエス様が私に語られたのですよ。
:これまであなたはとても苦しんだ、
しかし、忍耐はもうそれで充分です」と!
「ですから、私はこれで安心です。もう痛め止めの座薬は
使いません。たとえ私は意識を失うとしても、これから医師に
来てもらい、注射(モルヒネ)を打ってもらいたい、
と思っているのです。」
続けて、兄弟、
「皆さん、本当に有難うございました。これは先ず、
私の妻に心から言うことです。そして和博さん達、
これまで大変お世話になりました。」
驚いた皆さんは、そう言う登さんを「励まし」
「まあまあ、大丈夫だから」と言ったのですが、
兄弟の決意は随分しっかりしたものであったそうです。
ですから更に、
次のようなことに話は移って行ったのだと言います。
「登さん、その注射をすると、たとえ登さんに意識があった
としても、話はもう出来なくなるそうですよ。ですから、
その時のために、登さんの方からの合図を、今決めておきましょうか。
そんな時、こちらかはドンドン語りかけるからね。」
その話が終わったとき、登さんの顔に安心の表情が浮かび、
その部屋の中に一段落ついた、と言う空気が漂よったのです。
*
賛美を歌うことになりました。
そして、登兄弟がそれまでの短い信仰生活で覚えた三曲を、
少し近所に気兼ねしながら、皆で歌ったのです。
♪賛美、賛美、ハレルーヤ・・
♪栄光、イエスにあれ!・・
登さんは苦しげな中、吐き気を覚えつつも、
声を出してシッカリと歌ったと言います。
更にその後、彼はハッキリと言いました、
「イエス様、有難う、感謝です!」
15日深夜から、夏の早い夜明けに至るその時間、
四人は、医師の到着を待ちました。
それは真に「真夜中の礼拝」であったと言えるでしょう。
回り道
*神の御心のままに(3)*
私達が真にキリスト者になったのなら、ぜひとも
①神の御心を受け入れることと、
②神の御心に「総てを支配させること」
を学ばなければなりません。
もしも、あなたが神の御心のもとに従順に服することが
出来るのなら、回り道をすることが少なくすむのです。
多くのキリスト者が失敗し、また命の成長が遅いのは、
自分の意志のままに行うからです。
自分の意志のままに行う結果は、
(霊的な)混乱の中の苦しみと貧しさです。
しかも、不思議なことに、最終的には、
あなたは神の御心に従わなければならなくなるのです。
何故なら、神はあなたの為に、絶えず総ての物事を通し、
またいろいろな環境や状況を創り出して、
あなたを御自身に服させようとされるからです。
あなたは神に対し、その神の意志を変更してもらう
ことは全く不可能です。
もしもあなたが「神の選び」に
あずかっていないのなら、
神はあなたに、あなたの好きなように
させることでしょう。
それは「最大の不幸」です。
しかし幸い、
あなたが神に選ばれているのならば、遂には神は
御自分の全能の方法で、あなたを御自分の前に連れてきて、
いずれ必ず、服従の道を歩ませることになります。
ですから、総ての不従順というものは、単にあなたに
多くの回り道をさせるだけです。しかし、結果的には、
あなたは、神に服するようになるのです。
(先人の言葉より)
私達が真にキリスト者になったのなら、ぜひとも
①神の御心を受け入れることと、
②神の御心に「総てを支配させること」
を学ばなければなりません。
もしも、あなたが神の御心のもとに従順に服することが
出来るのなら、回り道をすることが少なくすむのです。
多くのキリスト者が失敗し、また命の成長が遅いのは、
自分の意志のままに行うからです。
自分の意志のままに行う結果は、
(霊的な)混乱の中の苦しみと貧しさです。
しかも、不思議なことに、最終的には、
あなたは神の御心に従わなければならなくなるのです。
何故なら、神はあなたの為に、絶えず総ての物事を通し、
またいろいろな環境や状況を創り出して、
あなたを御自身に服させようとされるからです。
あなたは神に対し、その神の意志を変更してもらう
ことは全く不可能です。
もしもあなたが「神の選び」に
あずかっていないのなら、
神はあなたに、あなたの好きなように
させることでしょう。
それは「最大の不幸」です。
しかし幸い、
あなたが神に選ばれているのならば、遂には神は
御自分の全能の方法で、あなたを御自分の前に連れてきて、
いずれ必ず、服従の道を歩ませることになります。
ですから、総ての不従順というものは、単にあなたに
多くの回り道をさせるだけです。しかし、結果的には、
あなたは、神に服するようになるのです。
(先人の言葉より)
2009年5月28日木曜日
柄沢登兄弟の家で
この過去数ヶ月間、
これから私が語りたいと思う柄沢兄弟の家で起こった様々なことは、
私達の記憶にも留めておくべきことではないだろうか、と感じております。
新約聖書によると、二千年前キリスト者達は決して教会堂に集まったのでは
なく、日常生活の中、家々で集まりました。ですから「家」と言うものには、
主からの大切な深い意味あいが隠されている、と思われます。
おなじみの使徒行伝16の31「主イエスを信じなさい。そうすれば、
あなたもあなたの家族も救われます」において「家族」と新改訳聖書で
訳された原語は何と、ただ「家」(house)です。だからこれを直訳すれば
「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家も救われます。」
となるのです。ですから、ここでの意味あいは、今日私達日本人が想起する
「家族」に留まらず、言わば「その家に付随している人々」をも
意味していたことは明らかでしょう。現に、同意語として
32節では「家にいた者」となっております。
(ですからここに、二千年前のエクレシアにおけるキリスト者達の
日ごろの姿、あり方が暗示されてはいないでしょうか。
確かに、彼らは家々に集まっていたのです。)
聖書の記述によれば、その家の一人の人(主人)が経験した
驚くべき救いは、たちまちの内に、その家に付随する
総ての人々に極めて大きな影響を与えました。
この僅か4か月の間、柄沢登兄弟の家に、奥様・良子さんの
お姉さん達は当然のこと、他の人々も出入りをしたのです。
確かに、登兄弟が主を真実に受け入れた日からと言うもの、
「目を見張るような」と言ってもよいほどの、キリストの
素晴らしい救いと、神の深い祝福が一人登兄弟に留まらず、
「この家全体にも」訪れていたことは実に明らかです。
私は少し大げさなのでしょうか、
この数ヶ月の間、登兄弟の家で起こった一つ一つの出来事は、
「主がいかにエクレシアを愛しておられるか」と言う「これから始まる
壮大な物語」の序曲のようにさえ、思われるのです。
これから私が語りたいと思う柄沢兄弟の家で起こった様々なことは、
私達の記憶にも留めておくべきことではないだろうか、と感じております。
新約聖書によると、二千年前キリスト者達は決して教会堂に集まったのでは
なく、日常生活の中、家々で集まりました。ですから「家」と言うものには、
主からの大切な深い意味あいが隠されている、と思われます。
おなじみの使徒行伝16の31「主イエスを信じなさい。そうすれば、
あなたもあなたの家族も救われます」において「家族」と新改訳聖書で
訳された原語は何と、ただ「家」(house)です。だからこれを直訳すれば
「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家も救われます。」
となるのです。ですから、ここでの意味あいは、今日私達日本人が想起する
「家族」に留まらず、言わば「その家に付随している人々」をも
意味していたことは明らかでしょう。現に、同意語として
32節では「家にいた者」となっております。
(ですからここに、二千年前のエクレシアにおけるキリスト者達の
日ごろの姿、あり方が暗示されてはいないでしょうか。
確かに、彼らは家々に集まっていたのです。)
聖書の記述によれば、その家の一人の人(主人)が経験した
驚くべき救いは、たちまちの内に、その家に付随する
総ての人々に極めて大きな影響を与えました。
この僅か4か月の間、柄沢登兄弟の家に、奥様・良子さんの
お姉さん達は当然のこと、他の人々も出入りをしたのです。
確かに、登兄弟が主を真実に受け入れた日からと言うもの、
「目を見張るような」と言ってもよいほどの、キリストの
素晴らしい救いと、神の深い祝福が一人登兄弟に留まらず、
「この家全体にも」訪れていたことは実に明らかです。
私は少し大げさなのでしょうか、
この数ヶ月の間、登兄弟の家で起こった一つ一つの出来事は、
「主がいかにエクレシアを愛しておられるか」と言う「これから始まる
壮大な物語」の序曲のようにさえ、思われるのです。
ある誤解
*神の御心のままに(2)*
私達の得た命は基本的に「神の御心に従って歩むように」と
私達に要求する命です。
私達が神の御心通りに歩めば歩むほど、内側に益々喜びと自由がある
ようになります。また、そのようにすれば神の御前に歩む道が更に
スッキリと真っ直ぐになって行きます。
もし、逆にかつてのように、自分の意志に従って行動するなら、
不思議なことに、楽しくないだけでなく、道はややこしくなり、
かえって人は苦しむことになります。何と自分の意志のままを行えば
行うほど苦しくなり、喜びが失われてしまうのです。
しかし、新しい命に従って行動すればするほど、神の御心通りに
行えば行うほど、それは決して「きゅうくつ」ではなく、逆に
更に平安になり、確かな喜びが到来するのです。
これは実に不思議な事実であると言わなければなりません。
よくあるように、
あなたは決して「自分の意のままを行えば、幸福になり、きっと
自由で楽しい人生を送れるに違いない」等と誤解してはなりません。
それは極めて大きな誤解です。
その反対に、主を信じた後、自分の意志に従うのではなく、神の御心に
従うこと、神の御心通りを行うことを「真剣に学ぶ」ならば、その道は
平安と喜びの道であることがよく分かるでしょう。キリスト者の真の
喜びは、①神の御心通りに行うこと、②自分の意志に従って行わないこと、
この二つ(一つ?)にあるのです。これはとてもハッキリした事実です。
私達の得た命は基本的に「神の御心に従って歩むように」と
私達に要求する命です。
私達が神の御心通りに歩めば歩むほど、内側に益々喜びと自由がある
ようになります。また、そのようにすれば神の御前に歩む道が更に
スッキリと真っ直ぐになって行きます。
もし、逆にかつてのように、自分の意志に従って行動するなら、
不思議なことに、楽しくないだけでなく、道はややこしくなり、
かえって人は苦しむことになります。何と自分の意志のままを行えば
行うほど苦しくなり、喜びが失われてしまうのです。
しかし、新しい命に従って行動すればするほど、神の御心通りに
行えば行うほど、それは決して「きゅうくつ」ではなく、逆に
更に平安になり、確かな喜びが到来するのです。
これは実に不思議な事実であると言わなければなりません。
よくあるように、
あなたは決して「自分の意のままを行えば、幸福になり、きっと
自由で楽しい人生を送れるに違いない」等と誤解してはなりません。
それは極めて大きな誤解です。
その反対に、主を信じた後、自分の意志に従うのではなく、神の御心に
従うこと、神の御心通りを行うことを「真剣に学ぶ」ならば、その道は
平安と喜びの道であることがよく分かるでしょう。キリスト者の真の
喜びは、①神の御心通りに行うこと、②自分の意志に従って行わないこと、
この二つ(一つ?)にあるのです。これはとてもハッキリした事実です。
2009年5月27日水曜日
自己複製現象
自己複製現象は細胞や生命体の基本的な性質だと言います。
その余りに神秘的な細胞の生命現象を基として、キリスト者の
「素朴で小さな交わり」が、バベルの塔のように上方にではなく、
四方八方の横に水平にそのツルを延ばし、地上にある「敵の王国」
を常にまじかに見下ろしつつ、地の果てに至るまで成長して行く。
それはあたかも「あのブドウの樹」のようではないですか。
それこそ、キリストの体における成長の正常な姿に相違ありません。
使徒行伝に見る「こうして神のことばは、ますます成長し、弟子の数は
非常に増えて行った」と言う事実は、きっとそのような天的生命現象の
地上への現れであったのでしょう。その時、主役は多くの「名も無き
普通の兄弟姉妹」であり、舞台は日常の人の暮らしです。
一方、極めて不健康な増殖現象もあります。
それはある細胞を元とし、他を顧みずに、どこまでも侵食肥大し、
あるカタマリを形成して行く現象です。あたかもそれは細胞が「ある
見えないエゴ」によって、ある方向へと強力に「つき動かされて」いる
かのようです。それはいずれ、体全体に死をもたらすことになります。
しかし、
主が再び来られる前、いわゆるキリスト教の世界の中で、
「単純にキリストのみを信じるという信仰」が殆ど失われる時、必ずや、
人の目には隠された方法で、再びあの天的ブドウの樹の生命現象が、
地上のいたる所に再現されるであろうことを、私は信じているのです。
・「私は真のブドウの樹、あなた方は枝です。」(ヨハネ15の5)
主はブドウの「幹」ではなく、ブドウの樹の全体です。
だから主は枝でもあられるのです!
・「人の子が来た時、果たして地上に信仰が見られるであろうか。」
(ルカ18の8)
その余りに神秘的な細胞の生命現象を基として、キリスト者の
「素朴で小さな交わり」が、バベルの塔のように上方にではなく、
四方八方の横に水平にそのツルを延ばし、地上にある「敵の王国」
を常にまじかに見下ろしつつ、地の果てに至るまで成長して行く。
それはあたかも「あのブドウの樹」のようではないですか。
それこそ、キリストの体における成長の正常な姿に相違ありません。
使徒行伝に見る「こうして神のことばは、ますます成長し、弟子の数は
非常に増えて行った」と言う事実は、きっとそのような天的生命現象の
地上への現れであったのでしょう。その時、主役は多くの「名も無き
普通の兄弟姉妹」であり、舞台は日常の人の暮らしです。
一方、極めて不健康な増殖現象もあります。
それはある細胞を元とし、他を顧みずに、どこまでも侵食肥大し、
あるカタマリを形成して行く現象です。あたかもそれは細胞が「ある
見えないエゴ」によって、ある方向へと強力に「つき動かされて」いる
かのようです。それはいずれ、体全体に死をもたらすことになります。
しかし、
主が再び来られる前、いわゆるキリスト教の世界の中で、
「単純にキリストのみを信じるという信仰」が殆ど失われる時、必ずや、
人の目には隠された方法で、再びあの天的ブドウの樹の生命現象が、
地上のいたる所に再現されるであろうことを、私は信じているのです。
・「私は真のブドウの樹、あなた方は枝です。」(ヨハネ15の5)
主はブドウの「幹」ではなく、ブドウの樹の全体です。
だから主は枝でもあられるのです!
・「人の子が来た時、果たして地上に信仰が見られるであろうか。」
(ルカ18の8)
神の御心のままに(1)
*先人の言葉より*
救われる前、
私達は総て自分の心のままに行っていました。その頃、私達は
自分自身に仕え、自分自身を喜ばせていました。自分の喜ぶ
ことであれば、何でもそれをやっていました。
しかし今日、
私達は主を信じる者となりました。キリストイエスを救い主
として受け入れました。また今彼は 私達が仕えるべき主であり、
私達は主に買い戻された者、主に属する者、主に帰された者、
であることを認めました。
ですから、
救われた後、私達には根本的な変化がなければなりません。それは
私達の行動や人となりが、もはや自分の好みによるのではなく、
神の御心通りでなければならない、と言うことです。主を信じた後、
私達の生活の中心は変わってしまいました。この中心は、もはや
自分自身ではなく、私達の主御自身となりました。
いったん救われたなら、
先ず第一に、私達は「主よ、私は何をなすべきでしょうか?」と
主に問うべきです。パウロはその様に問いましたが(使徒22の10)
私達もそのように問うべきです。また何かの出来事に遭遇した時「主よ、
私の意志のままではなく、あなたの御心のままになさって下さい」と
主に言うべきです。そして自分の前途を決定する時、いつでも主に
申し上げるべきです。「主よ、私の意志のままではなく、
ただあなたの御心のままになさって下さい」と。
救われる前、
私達は総て自分の心のままに行っていました。その頃、私達は
自分自身に仕え、自分自身を喜ばせていました。自分の喜ぶ
ことであれば、何でもそれをやっていました。
しかし今日、
私達は主を信じる者となりました。キリストイエスを救い主
として受け入れました。また今彼は 私達が仕えるべき主であり、
私達は主に買い戻された者、主に属する者、主に帰された者、
であることを認めました。
ですから、
救われた後、私達には根本的な変化がなければなりません。それは
私達の行動や人となりが、もはや自分の好みによるのではなく、
神の御心通りでなければならない、と言うことです。主を信じた後、
私達の生活の中心は変わってしまいました。この中心は、もはや
自分自身ではなく、私達の主御自身となりました。
いったん救われたなら、
先ず第一に、私達は「主よ、私は何をなすべきでしょうか?」と
主に問うべきです。パウロはその様に問いましたが(使徒22の10)
私達もそのように問うべきです。また何かの出来事に遭遇した時「主よ、
私の意志のままではなく、あなたの御心のままになさって下さい」と
主に言うべきです。そして自分の前途を決定する時、いつでも主に
申し上げるべきです。「主よ、私の意志のままではなく、
ただあなたの御心のままになさって下さい」と。
2009年5月26日火曜日
みどり山
今日は実にカラッと爽やか、殆ど湿度を感じない
最上の五月晴れです。
午後から「みどり山」に登って見ようかな、と思っております。
目的は、山頂付近にあるはずの、あの「コージーな秘密の場所」が
今どうなっているかを見きわめること、ただそれだけです。
数年前一、二度行ったきりで、その後全く行くことが
なかったのです。本と、今どうなっているのかなー!
この辺のこういう、いわゆる登山をする山ではない低山に
人が入ることは まずありません。
そういう、人が「絶対に」立ち入らない場所で、偶然
湧き出ている泉を発見したり、誰に見られるのでもないのに、
野の花々がひっそりとたたずむのを眺めたりするのは、
何だか凄く贅沢な気分のものです。
最近は、熊が出たから注意の「たて看板」は見なくなりました。
でも、今日イノシシくらいは出てくれてもいいですね。
みどり山に行くんだったら、この間ジョイフル・本田、
千葉ニュウタウン店で見かけた、
腰に付ける「熊よけベル」は買って来るべきでした。
惜しいことをしました。
☆結果報告:
今、午後六時五分。やはり少々疲れました。
残念ながら、あのポッカリと気持ちのよい「秘密の場所」は
とうとう見つかりませんでした。でも、なんででしょうねー。
とんでもない勘違いでもしたのかな。
低山とは言え、山は山、あんなとき、あまり深入りすると危険です。
そういうわけで、ほどほどにして帰って来たと言うことです。
今日は、イノシシも熊も出ませんでした。
最上の五月晴れです。
午後から「みどり山」に登って見ようかな、と思っております。
目的は、山頂付近にあるはずの、あの「コージーな秘密の場所」が
今どうなっているかを見きわめること、ただそれだけです。
数年前一、二度行ったきりで、その後全く行くことが
なかったのです。本と、今どうなっているのかなー!
この辺のこういう、いわゆる登山をする山ではない低山に
人が入ることは まずありません。
そういう、人が「絶対に」立ち入らない場所で、偶然
湧き出ている泉を発見したり、誰に見られるのでもないのに、
野の花々がひっそりとたたずむのを眺めたりするのは、
何だか凄く贅沢な気分のものです。
最近は、熊が出たから注意の「たて看板」は見なくなりました。
でも、今日イノシシくらいは出てくれてもいいですね。
みどり山に行くんだったら、この間ジョイフル・本田、
千葉ニュウタウン店で見かけた、
腰に付ける「熊よけベル」は買って来るべきでした。
惜しいことをしました。
☆結果報告:
今、午後六時五分。やはり少々疲れました。
残念ながら、あのポッカリと気持ちのよい「秘密の場所」は
とうとう見つかりませんでした。でも、なんででしょうねー。
とんでもない勘違いでもしたのかな。
低山とは言え、山は山、あんなとき、あまり深入りすると危険です。
そういうわけで、ほどほどにして帰って来たと言うことです。
今日は、イノシシも熊も出ませんでした。
2009年5月25日月曜日
御心と神が与える喜び
*先人の言葉(2)*
神の御心と「神が与える喜び」の間には大きな相違があります。
神の御心は、いつでもどこにでもあります。何故なら、私達は
それを、私に対する神の按配・配剤の総てに見るからです。
しかし
「神が与える喜び」はいつもあるわけではありません。
それはある状況の中で、時々経験され得るものでしょう。
もしも信者が神の喜びのみを追い求めるのであるならば、彼は
独自に、自分自身を楽しませてくれると言う「神の御心の一部」
だけを願うことになります。
彼は「神の御心の全体」を望みません。神が彼を幸いにする時だけ、
彼は神の御心を喜び従います。しかし神がいったん彼に苦しみを与える
ならば、彼は神の御心に反抗します(従いません。)
しかし、
もしも信者が「神の御心を命とする」なら、神が彼にどのように感じ
させようとも御心に従います。何故なら、彼は幸いにも悲しみにも、
彼に対する「完全な神の按配・配剤」を認めるからです。
神の御心と「神が与える喜び」の間には大きな相違があります。
神の御心は、いつでもどこにでもあります。何故なら、私達は
それを、私に対する神の按配・配剤の総てに見るからです。
しかし
「神が与える喜び」はいつもあるわけではありません。
それはある状況の中で、時々経験され得るものでしょう。
もしも信者が神の喜びのみを追い求めるのであるならば、彼は
独自に、自分自身を楽しませてくれると言う「神の御心の一部」
だけを願うことになります。
彼は「神の御心の全体」を望みません。神が彼を幸いにする時だけ、
彼は神の御心を喜び従います。しかし神がいったん彼に苦しみを与える
ならば、彼は神の御心に反抗します(従いません。)
しかし、
もしも信者が「神の御心を命とする」なら、神が彼にどのように感じ
させようとも御心に従います。何故なら、彼は幸いにも悲しみにも、
彼に対する「完全な神の按配・配剤」を認めるからです。
2009年5月23日土曜日
神を信じると言うこと
*新・メール感謝です*
「それ」は自分にとって
決して決して嬉しいことではありませんでした。
ところが、
主は私に迫るように語られたのです。
「あなたにそのことが与えれたこと、
それにあなたは同意してくれますか?」と。
そこには主の深い深い愛がありました。
☆
メール感謝です。
その時の「深い深い愛」とは「あなたの感覚」をさえ超えた、
「その向こうにある」不動の主の愛なのでしょう。そうです、
ただ一言 主は私達に言いたいのです、
「たとえそうであっても、私を信じなさい」と。
一体、信じるとは「本来そういうもの」なのではないでしょうか。
嬉しいとき、悲しいとき、苦しい時、その他どんな時にでも、
それらの感覚はひとまず「かたわら」に置いて、或いは「無視して」
神を信じ主に従うこと、それだけを主は願っておられるのでしょうね。
(何故なら主は御自身にとても大きな自信があるからです!)
更に言うならば、
とても信じることが出来ないような状況や、私の「ひどい感覚」の中でこそ
「信じるという価値」が浮かび上がるのです。なぜそんな事が言えるの
でしょう。なぜなら、私達の信じる対象が「神」であるからです。
「あの偉大で素晴らしい神」であるからです。「その神」であるからこそ、
私の感覚が干からびて無味乾燥、豊かな感覚が何も無いとしても、
また仮に、神にさえ捨てられたのではないかと「感じさせられる」
ような時でさえも、信じることが出来る、のではないでしょうか。
さて本来信じるとは「自分がどう感じるているか」とは
何の関係もない筈です。人は自分の感情や感覚にどうして
それほどまでに左右されるのでしょうか。むしろその方が極めて
不思議なことである、と言わなければなりません。(多分実はこの点に
大きな深い敵の秘密・ウソが隠されている、と私は考えております。)
信じるということの「本質」は、興奮することとは全く無縁な、
①信じる対象が一体誰であるのか、またどうであるのか、
と言う「私の評価」が先ずあり、次に
②私に与えられている自由意志を行使し「そのお方or その言葉」を
選び取ると言う、ある意味で一つの「冷静な作業」である、と言える
のではないでしょうか。(当然その後に、信仰の結果として賛美や
感謝など、感覚的、感情的な世界が展開することは充分あり得る
でしょうが、それらは「信じることそのもの」ではありません。)
だからこそ、これまで、
神によって、私達に、時に与えれる感覚的でウットリとするような
「天的な日々と時間」は決して長くは続かなかった、のでは
ないでしょうか。それは、主が敢えてわざとそうなさった結果
なのでしょう。いかなる場合でも、どんな物や事によっても、
揺さぶられることなく(或いは最小限に止どめて)「ただ
神の言葉を信じ、主の御心に従うように」という神の明確な
強い意図がそこに存在していたから、に違いありません。
*
神はあなた方を「子として」取り扱っておられるのです。
(ヘブル12の7)
「それ」は自分にとって
決して決して嬉しいことではありませんでした。
ところが、
主は私に迫るように語られたのです。
「あなたにそのことが与えれたこと、
それにあなたは同意してくれますか?」と。
そこには主の深い深い愛がありました。
☆
メール感謝です。
その時の「深い深い愛」とは「あなたの感覚」をさえ超えた、
「その向こうにある」不動の主の愛なのでしょう。そうです、
ただ一言 主は私達に言いたいのです、
「たとえそうであっても、私を信じなさい」と。
一体、信じるとは「本来そういうもの」なのではないでしょうか。
嬉しいとき、悲しいとき、苦しい時、その他どんな時にでも、
それらの感覚はひとまず「かたわら」に置いて、或いは「無視して」
神を信じ主に従うこと、それだけを主は願っておられるのでしょうね。
(何故なら主は御自身にとても大きな自信があるからです!)
更に言うならば、
とても信じることが出来ないような状況や、私の「ひどい感覚」の中でこそ
「信じるという価値」が浮かび上がるのです。なぜそんな事が言えるの
でしょう。なぜなら、私達の信じる対象が「神」であるからです。
「あの偉大で素晴らしい神」であるからです。「その神」であるからこそ、
私の感覚が干からびて無味乾燥、豊かな感覚が何も無いとしても、
また仮に、神にさえ捨てられたのではないかと「感じさせられる」
ような時でさえも、信じることが出来る、のではないでしょうか。
さて本来信じるとは「自分がどう感じるているか」とは
何の関係もない筈です。人は自分の感情や感覚にどうして
それほどまでに左右されるのでしょうか。むしろその方が極めて
不思議なことである、と言わなければなりません。(多分実はこの点に
大きな深い敵の秘密・ウソが隠されている、と私は考えております。)
信じるということの「本質」は、興奮することとは全く無縁な、
①信じる対象が一体誰であるのか、またどうであるのか、
と言う「私の評価」が先ずあり、次に
②私に与えられている自由意志を行使し「そのお方or その言葉」を
選び取ると言う、ある意味で一つの「冷静な作業」である、と言える
のではないでしょうか。(当然その後に、信仰の結果として賛美や
感謝など、感覚的、感情的な世界が展開することは充分あり得る
でしょうが、それらは「信じることそのもの」ではありません。)
だからこそ、これまで、
神によって、私達に、時に与えれる感覚的でウットリとするような
「天的な日々と時間」は決して長くは続かなかった、のでは
ないでしょうか。それは、主が敢えてわざとそうなさった結果
なのでしょう。いかなる場合でも、どんな物や事によっても、
揺さぶられることなく(或いは最小限に止どめて)「ただ
神の言葉を信じ、主の御心に従うように」という神の明確な
強い意図がそこに存在していたから、に違いありません。
*
神はあなた方を「子として」取り扱っておられるのです。
(ヘブル12の7)
十字架の更に深い働き
*先人の言葉から*
「健康の喜びなどの外側の身体上の幸い」や
「この世の楽しみ」に対して私達が死ぬ時、私において既に
十字架の最も完全な働きはなし遂げられた、と私達は思うかも
知れません。
しかし、
私達の旧創造を取り除く神の働きの中には、まだ
十字架のより深い働きがあることを、私達はあまり知りません。
神は私達が「神が与えて下さる喜び」にさえ死に、ただひたすら
「神の御心」に対して生きることを願っておられるのです。
肉的な事や世的な事よりも、神と神を近く「感じるならば」
私達は幸いを覚えるかも知れません。しかし、神の目的は
神が下さる喜びを私達が享受することでさえなく、
ただ彼の御心に従うことです。
「神が喜びを与えて下さること」だけを願い、苦難を嫌うのであれば、
私達はまだ、十字架のより深い働きを経過しているとは言えません。
「私達は・・信仰によって生きている。」
(ガラテヤ2の20、ローマ1の17、Ⅱコリント5の7)
☆
この文においては、
十字架の第一と第二の働きについては全く述べられておりません。
僭越ながら、ここに十字架の働きについて、その一部を
敢えてまとめようとすれば、以下のようになると思われます。
第一はキリストの御血による複数形の罪の洗いです。
第二は「罪、肉」に対する私の死です。
第三は「健康の喜びなどの外側の身体上の幸い」や
「この世の楽しみ」に対する死です。そして、
第四は「神が与えて下さる喜び、例えば燃えるような愛や
主の臨在の実感、昇天の超越した感覚等」に対してさえ、死ぬことです。
第三で述べられていることの多くは決して「悪」ではありません。
しかし、確かに旧創造には属するでしょう。
第四は、普通キリスト者の到達するべき最高の高嶺、
とされているものです。
第三は十字架の深い働きであり、第四は十字架の更に深い働き、
であると言えるでしょう。
これらは禁欲による達成などとは全く無縁です。
先ず私に対してそれらの達成に関して強い願いが与えられ、そして
その真理について天からの①啓示、そして②信仰を通して、
「永遠の領域におけるキリストの十字架」の効力が、真に時空の中に
伝達される時、初めて私においてさえ③経験 となるはずです。
「健康の喜びなどの外側の身体上の幸い」や
「この世の楽しみ」に対して私達が死ぬ時、私において既に
十字架の最も完全な働きはなし遂げられた、と私達は思うかも
知れません。
しかし、
私達の旧創造を取り除く神の働きの中には、まだ
十字架のより深い働きがあることを、私達はあまり知りません。
神は私達が「神が与えて下さる喜び」にさえ死に、ただひたすら
「神の御心」に対して生きることを願っておられるのです。
肉的な事や世的な事よりも、神と神を近く「感じるならば」
私達は幸いを覚えるかも知れません。しかし、神の目的は
神が下さる喜びを私達が享受することでさえなく、
ただ彼の御心に従うことです。
「神が喜びを与えて下さること」だけを願い、苦難を嫌うのであれば、
私達はまだ、十字架のより深い働きを経過しているとは言えません。
「私達は・・信仰によって生きている。」
(ガラテヤ2の20、ローマ1の17、Ⅱコリント5の7)
☆
この文においては、
十字架の第一と第二の働きについては全く述べられておりません。
僭越ながら、ここに十字架の働きについて、その一部を
敢えてまとめようとすれば、以下のようになると思われます。
第一はキリストの御血による複数形の罪の洗いです。
第二は「罪、肉」に対する私の死です。
第三は「健康の喜びなどの外側の身体上の幸い」や
「この世の楽しみ」に対する死です。そして、
第四は「神が与えて下さる喜び、例えば燃えるような愛や
主の臨在の実感、昇天の超越した感覚等」に対してさえ、死ぬことです。
第三で述べられていることの多くは決して「悪」ではありません。
しかし、確かに旧創造には属するでしょう。
第四は、普通キリスト者の到達するべき最高の高嶺、
とされているものです。
第三は十字架の深い働きであり、第四は十字架の更に深い働き、
であると言えるでしょう。
これらは禁欲による達成などとは全く無縁です。
先ず私に対してそれらの達成に関して強い願いが与えられ、そして
その真理について天からの①啓示、そして②信仰を通して、
「永遠の領域におけるキリストの十字架」の効力が、真に時空の中に
伝達される時、初めて私においてさえ③経験 となるはずです。
2009年5月22日金曜日
息子の葬事(4)
今回、
私の「直覚」の中に「息子の葬儀は家族だけでよい」と言うものが基本的に
あったように思われます。ですから、その基本にそって他の総てが無理なく
付随的に決定されて行ったのです。
かように、どんなことをする場合でも、先ずキリスト者の「直覚の中に
何があるのか」はとても大切なことではないでしょうか。
「葬儀」はいつ行われるべきか:
それは、やはり、ひつぎ(棺)を保管場所から火葬場へと搬送する直前の
ひと時がいろいろと都合がよいと思われます。
(むろん火葬後に、日を改めて行うことも可能でしょう)
次に考えるべき極めて大切なことは、
「いわゆる葬儀という集まり」に何が必要なのか、と言うことです。
私はそれを、イエスキリストとキリスト者達 と考えました。
即ち、それはそのような場合、どうしてもそこに必要なものは、唯二つの
もの「主イエスとキリスト者達だけ」であると言う意味です。
これ以外に一体何が必要なのでしょう。
もしもこの二つ以外に何かが必要であるとすれば、それは、
その場の雰囲気を盛り上げる為の何かでしょう。
しかし、生けるキリストとキリスト者にとって、その場のムードを掻き立てる
ための専門家とか、大道具、小道具など本当に必要なのでしょうか。
それとも、そのようなものがどうしても必要とされなければならない程、
キリスト者の中に生きるキリストイエスの存在は小さいものなのでしょうか。
そして、肝心かなめである私達の主キリスト御自身は、
そのような「者や物」を本当に必要と思われるのでしょうか。
そうです、
本当に必要なものは、生けるキリストの真の存在であり、
キリスト者達が「故人をしのぶ心」を背景とした、神への感謝と賛美だけ
でしょう。もしもそれさえあるならば、そこにはもう既に「葬儀に必要な総て」
が準備されているのです。しかし、
もしそれらが本当にないのであれば「真実なる何物」もそこには
存在していない、と言うことになるのではないでしょうか。
(余談ですが、このように考えると、葬事の集まりも「普段のキリスト者の
集まり」と、その本質的な意味では何も変わらないように思われます。)
*
と言うわけで、当日その時、そこにあったのは、
一切の装飾のない和室、息子の簡素なひつぎ、そして私達遺族4人
だけであったのです。式次第も事前の準備も何もありません。
キリスト者が顔を合わせる時、何がどう進んで行くべきかは、
その時になれば、「無理なく自然に」分ってしまうのです。
そうであってこそ「人の意志を尊重される聖霊」も、その場への介入が
可能となるのです。そうでなければ、人は本当に聖霊なる主を戸の外に
締め出してしまう、ことになりかねません。
そのようにして、あの時 そこには
祈りと賛美、ジュンをしのぶ交わりと少しの涙、そして上からの
「暖かいとさえ言えるほどの慰め」だけがあった、と言えましょう。
不思議に、誰の目にとっても、そこに存在したはずの
「唯一つの小道具」、「ひつぎの上の美しい花束」も
僅かの印象さえ残すことがなったのです。
今確かに言えること、それは
あのささやか極まりない「葬儀」におけるシーンの一こま一こま、
それを私は、一生決して忘れることはないであろう、と言うことです。
☆ ☆
注「私の直覚」:
この場合、それはいわゆる聖書の真理における「聖霊からの直覚」
と言う意味ではなく「人がその最も深い存在において、無理なく真実に
感じているもの」と言う限定された意味で使用しました。
*
多くの場合、当然、
キリスト者達が、やむなく関わらなければならない葬儀には
その出席者達の多様性に伴い、多くの難しい人間関係が付きまといます。
ですから、私の裁量に総てが任せられた今回の、
「とても小さな葬儀」と言うケースは一つの参考に過ぎないでしょう。
とにかく「一切が無理なく自然に行われる」のであるならば、それが
どんな葬儀であったとしても、よしとされるべきです。
何故なら葬儀がどう行われようと、キリスト者である故人の霊は神によって、
完全な守りの元にシッカリと護衛されているのですから。
私の「直覚」の中に「息子の葬儀は家族だけでよい」と言うものが基本的に
あったように思われます。ですから、その基本にそって他の総てが無理なく
付随的に決定されて行ったのです。
かように、どんなことをする場合でも、先ずキリスト者の「直覚の中に
何があるのか」はとても大切なことではないでしょうか。
「葬儀」はいつ行われるべきか:
それは、やはり、ひつぎ(棺)を保管場所から火葬場へと搬送する直前の
ひと時がいろいろと都合がよいと思われます。
(むろん火葬後に、日を改めて行うことも可能でしょう)
次に考えるべき極めて大切なことは、
「いわゆる葬儀という集まり」に何が必要なのか、と言うことです。
私はそれを、イエスキリストとキリスト者達 と考えました。
即ち、それはそのような場合、どうしてもそこに必要なものは、唯二つの
もの「主イエスとキリスト者達だけ」であると言う意味です。
これ以外に一体何が必要なのでしょう。
もしもこの二つ以外に何かが必要であるとすれば、それは、
その場の雰囲気を盛り上げる為の何かでしょう。
しかし、生けるキリストとキリスト者にとって、その場のムードを掻き立てる
ための専門家とか、大道具、小道具など本当に必要なのでしょうか。
それとも、そのようなものがどうしても必要とされなければならない程、
キリスト者の中に生きるキリストイエスの存在は小さいものなのでしょうか。
そして、肝心かなめである私達の主キリスト御自身は、
そのような「者や物」を本当に必要と思われるのでしょうか。
そうです、
本当に必要なものは、生けるキリストの真の存在であり、
キリスト者達が「故人をしのぶ心」を背景とした、神への感謝と賛美だけ
でしょう。もしもそれさえあるならば、そこにはもう既に「葬儀に必要な総て」
が準備されているのです。しかし、
もしそれらが本当にないのであれば「真実なる何物」もそこには
存在していない、と言うことになるのではないでしょうか。
(余談ですが、このように考えると、葬事の集まりも「普段のキリスト者の
集まり」と、その本質的な意味では何も変わらないように思われます。)
*
と言うわけで、当日その時、そこにあったのは、
一切の装飾のない和室、息子の簡素なひつぎ、そして私達遺族4人
だけであったのです。式次第も事前の準備も何もありません。
キリスト者が顔を合わせる時、何がどう進んで行くべきかは、
その時になれば、「無理なく自然に」分ってしまうのです。
そうであってこそ「人の意志を尊重される聖霊」も、その場への介入が
可能となるのです。そうでなければ、人は本当に聖霊なる主を戸の外に
締め出してしまう、ことになりかねません。
そのようにして、あの時 そこには
祈りと賛美、ジュンをしのぶ交わりと少しの涙、そして上からの
「暖かいとさえ言えるほどの慰め」だけがあった、と言えましょう。
不思議に、誰の目にとっても、そこに存在したはずの
「唯一つの小道具」、「ひつぎの上の美しい花束」も
僅かの印象さえ残すことがなったのです。
今確かに言えること、それは
あのささやか極まりない「葬儀」におけるシーンの一こま一こま、
それを私は、一生決して忘れることはないであろう、と言うことです。
☆ ☆
注「私の直覚」:
この場合、それはいわゆる聖書の真理における「聖霊からの直覚」
と言う意味ではなく「人がその最も深い存在において、無理なく真実に
感じているもの」と言う限定された意味で使用しました。
*
多くの場合、当然、
キリスト者達が、やむなく関わらなければならない葬儀には
その出席者達の多様性に伴い、多くの難しい人間関係が付きまといます。
ですから、私の裁量に総てが任せられた今回の、
「とても小さな葬儀」と言うケースは一つの参考に過ぎないでしょう。
とにかく「一切が無理なく自然に行われる」のであるならば、それが
どんな葬儀であったとしても、よしとされるべきです。
何故なら葬儀がどう行われようと、キリスト者である故人の霊は神によって、
完全な守りの元にシッカリと護衛されているのですから。
2009年5月21日木曜日
息子の葬事(3)
今回の私の息子の場合、
彼の葬事の為の備えは、既にその死の数日前には、
神によって用意されていたように私には思われるのです。
先ずは
上からの促しによって、息子のために祈って下さるようにと言う
父親の求めに応じ、エクレシアの中に、広く、緊急で切実な
祈りが突然として起こされたのです。
ですから、彼の葬事は、そのエクレシアにおける祈りから
既に始まっていたのではないでしょうか。
間もなく(二日後or三日目)彼は、人の全く予期し得ない方法で、
アブラハムの懐に迎えられ、
そして次に、葬事は、それを聞いた「エクレシアの驚き」と、
次第に明らかになった様々な事実の証しを通し、大きな深い
神への感謝と賛美となって、進行して行ったのです。
今まだ続いている「余韻のような やさしい慰めの調べ」は
いつその終わりを迎えるのでしょうか。
以上のことこそ、
「息子のための葬事の実質と価値」であったのであり、
「家族4人だけによる、祈り、語り合い」と言う「いわゆる葬儀」は、
そのささやかな「一部分」に過ぎなかったのです。
*
「本当に大切で価値あること」は、
人間生活の中の、喜びと悲しみが織り成す普通の出来事の中でこそ、
粛々として行われ、現わされなければならないはずです。
いにしえの日、
その人間生活の、むしろ苦しみと悲しみのただ中に敢えて介入され、
その中でこそ、御自身の真の姿を現わそうとされたのが
「あの福音書のイエス」だったのではないでしょうか。
今日、見えざるそのイエスの出現そのものこそ、
「葬事」における「真の価値」に違いない、
と私は考えております。
彼の葬事の為の備えは、既にその死の数日前には、
神によって用意されていたように私には思われるのです。
先ずは
上からの促しによって、息子のために祈って下さるようにと言う
父親の求めに応じ、エクレシアの中に、広く、緊急で切実な
祈りが突然として起こされたのです。
ですから、彼の葬事は、そのエクレシアにおける祈りから
既に始まっていたのではないでしょうか。
間もなく(二日後or三日目)彼は、人の全く予期し得ない方法で、
アブラハムの懐に迎えられ、
そして次に、葬事は、それを聞いた「エクレシアの驚き」と、
次第に明らかになった様々な事実の証しを通し、大きな深い
神への感謝と賛美となって、進行して行ったのです。
今まだ続いている「余韻のような やさしい慰めの調べ」は
いつその終わりを迎えるのでしょうか。
以上のことこそ、
「息子のための葬事の実質と価値」であったのであり、
「家族4人だけによる、祈り、語り合い」と言う「いわゆる葬儀」は、
そのささやかな「一部分」に過ぎなかったのです。
*
「本当に大切で価値あること」は、
人間生活の中の、喜びと悲しみが織り成す普通の出来事の中でこそ、
粛々として行われ、現わされなければならないはずです。
いにしえの日、
その人間生活の、むしろ苦しみと悲しみのただ中に敢えて介入され、
その中でこそ、御自身の真の姿を現わそうとされたのが
「あの福音書のイエス」だったのではないでしょうか。
今日、見えざるそのイエスの出現そのものこそ、
「葬事」における「真の価値」に違いない、
と私は考えております。
三つのブログから
この教会はキリストの体、すべてのものをすべてものの中に
満たす方の充満である。(エペソ1章3節、22節、23節)
「充満」とは:
時間的要素は全く無く、諸々の存在がキリストを中心に
1つ1つ有機的に結合されて内容的に豊かな大宇宙を
形成していく様の表現。(岩波訳の注解より)
*
人間の指揮によってではなく、頭なるキリストの指揮によって
「群れる」のであるならば、それを神の言葉は
「すべてのものを、すべてのもののなかに満たす方の豊満」
であると言う。
頭としてのキリストが、
アリアリと(有り有りと)、エクレシアとしての体、即ち
「信仰に堅く立つ天的な群れ」を通して、ご自身を顕現なさり、
更に、ご自身を1人1人の召された者たちの中に
拡大し続けて行くのである。
目に見える事柄が解決されれば、確かにそれは良き事には
違いないが、地上的な事柄を越えて「天的な復活の領域の何ものか」
によって祝福され、人は初めてキリストを慕い続けることができる
のだと思う。
・・その事のために人の作る柵はいらない。
箱庭のような「教会」はいらない。必要なのは「地に散らばっている
霊の子どもたち、を治めているのは、頭なるキリスト御自身である」
という信仰だ。
もしそれがあるなら、聖霊は私たちを、いつも「豊かな牧草地」に
導いてくださるに違いないのだから。
☆
やはり鍵は、「それら」とは一切関係ない
素朴な兄弟姉妹たちの交わりですね。
今「まことの頭」に直結する兄弟姉妹たちが起こされつつあることは
大いなる励ましです。単純・素朴・ただキリストのみ・・・。
☆
キリストの「からだ」が受ける苦しみ、病、深刻な問題、逆境
これら一つ一つは、神の民の中で、
「キリストが大きくされる」ためにこそ、備えられたものでしょう、
わたしたちは、恵みへと至る確かな道を獲得しているのですから。
満たす方の充満である。(エペソ1章3節、22節、23節)
「充満」とは:
時間的要素は全く無く、諸々の存在がキリストを中心に
1つ1つ有機的に結合されて内容的に豊かな大宇宙を
形成していく様の表現。(岩波訳の注解より)
*
人間の指揮によってではなく、頭なるキリストの指揮によって
「群れる」のであるならば、それを神の言葉は
「すべてのものを、すべてのもののなかに満たす方の豊満」
であると言う。
頭としてのキリストが、
アリアリと(有り有りと)、エクレシアとしての体、即ち
「信仰に堅く立つ天的な群れ」を通して、ご自身を顕現なさり、
更に、ご自身を1人1人の召された者たちの中に
拡大し続けて行くのである。
目に見える事柄が解決されれば、確かにそれは良き事には
違いないが、地上的な事柄を越えて「天的な復活の領域の何ものか」
によって祝福され、人は初めてキリストを慕い続けることができる
のだと思う。
・・その事のために人の作る柵はいらない。
箱庭のような「教会」はいらない。必要なのは「地に散らばっている
霊の子どもたち、を治めているのは、頭なるキリスト御自身である」
という信仰だ。
もしそれがあるなら、聖霊は私たちを、いつも「豊かな牧草地」に
導いてくださるに違いないのだから。
☆
やはり鍵は、「それら」とは一切関係ない
素朴な兄弟姉妹たちの交わりですね。
今「まことの頭」に直結する兄弟姉妹たちが起こされつつあることは
大いなる励ましです。単純・素朴・ただキリストのみ・・・。
☆
キリストの「からだ」が受ける苦しみ、病、深刻な問題、逆境
これら一つ一つは、神の民の中で、
「キリストが大きくされる」ためにこそ、備えられたものでしょう、
わたしたちは、恵みへと至る確かな道を獲得しているのですから。
2009年5月20日水曜日
柄沢兄弟のこと
私達の愛する柄沢兄弟が今朝、8時20分、
人生の総ての労苦と大変な肉体の苦痛から解かれ
「主の更に濃い臨在」の中へと、
「完全な神の安息」の中へと、帰られました。
*
おととい、
いつもの午前の交わりのさい、
姉妹が「これから礼拝するからね」と言ったら、
兄弟は「アーメン、アーメン」と声を出されました。
昨日の朝は、兄弟、大きく両手を上げ、
その呼びかけに応えられたと言います。
そして昨晩。
以下は
姉妹からのメールです:
「お風呂に入るよー」と言ったら、
彼、「うん」と返事をしましたよ。そして、
大好きなお風呂を終え、ピカピカになり、
今寝息を立て、
とても安らかな顔をして眠っておられます。
人生の総ての労苦と大変な肉体の苦痛から解かれ
「主の更に濃い臨在」の中へと、
「完全な神の安息」の中へと、帰られました。
*
おととい、
いつもの午前の交わりのさい、
姉妹が「これから礼拝するからね」と言ったら、
兄弟は「アーメン、アーメン」と声を出されました。
昨日の朝は、兄弟、大きく両手を上げ、
その呼びかけに応えられたと言います。
そして昨晩。
以下は
姉妹からのメールです:
「お風呂に入るよー」と言ったら、
彼、「うん」と返事をしましたよ。そして、
大好きなお風呂を終え、ピカピカになり、
今寝息を立て、
とても安らかな顔をして眠っておられます。
冠婚葬祭について
当然ですが、
冠婚葬祭をどう扱うか、については、それが私とどの程度関係が
あるのか、どれ程、私の裁量に任せられているのか、が大きな
前提です。その状況がもしも私に100%委ねられているのであれば、
私は、神とそして人々の双方が出来るだけ満足出来るやり方で行いたい、
と思うでしょう。即ち、このようにすれば、人々に神の祝福が
伴うであろう、と言う理想的なやり方のイメージは確かにあるのです。
しかし実は一方で私は、冠婚葬祭などどうでもよい、と考えております。
何故なら一つに、現実問題においては、複雑雑多な多くの要素がそこに
からんで来るからです。慶弔の問題は実に生きている人間の問題です。
そして人々は、他と妥協できそうもない様々な
考え方をしっかりと持っているからです。
しかし、人生にどうしても妥協できない問題など、そんなに沢山は
ありません。「なくてならぬものは多くはない、いや、実はそれは
唯一つです。」ですから 取りあえず、それがその状況の中で
「無理なく自然に」行われるのであれば、それでよし、とするべきです。
慶弔のことは絶対こうでなければならない、等といくら息巻いて見た所で、
それは、現場に要らざる混乱を来たらすのみで、
大した意味も価値もない、と私は思っております。
仮に、今回ある事情の為、
我が息子の葬事が私の手から100%離れて「その道の専門家や宗教家」
に任せざるを得なかったとしましょう。その場合、私はどう思うの
でしょうか。多分、随分お金がかかっているらしい、そのケバケバした
葬儀をかたわらで見て私は、確かにある不快感は持つでしょう。しかし
「私の霊」は少しも動揺することはない筈です。なぜなら、その葬儀に
よって、肝心の息子のパラダイスにおける現実が1%の影響さえ
受けることは絶対にあり得ない、ことを私は確かに知っているからです。
肉体を離れた故人は完全に神の裁量の領域へと移されます。そこに
人間が僅かでも介入する余地は全くありません。この世とあの世の間
には大きな淵が横たわっているのであり、そこには神の主権のみが
存在するのです。神は少しも揺らぐことはあり得ないし、故人にも
何らの変化もありません。それらは全く不動です。(*1)
しかしその儀式によって、今生きている人々は影響を受けるでしょう。
そうです、葬儀とは「死人の為」を装った「今生きている人のためのもの」
です。繰り返しますが、儀式によって、既に神の中に移された故人が
影響を受けること等決してありえません。
また結婚の場合であれば、大切なのは、そのお二人がどうであるかです。
従って儀式などはどうでもよい事であり、自分達で自由に
「祝福の集まり」でも行えばよいのではないでしょうか。
(*1)
もしも仮に故人が、生きている人の
①生活状態の立派さや、また
②故人のために出費するお金の額、
③専門家や俗人の念力や祈りのパワー等によって
少しでも影響されるのであれば、それこそ大変です。
生きている人はいろいろですし、出す金額も変われば、
祈りのテーマも様々な上に、その念力パワーの出力も
必ず変化するでしょう。
もしそうなれば「黄泉の国」は実に困ったことになります。
そこの住人達は常に右往左往、上がったり下がったりで、
毎日が「大いそがし」に違いないからです。
冠婚葬祭をどう扱うか、については、それが私とどの程度関係が
あるのか、どれ程、私の裁量に任せられているのか、が大きな
前提です。その状況がもしも私に100%委ねられているのであれば、
私は、神とそして人々の双方が出来るだけ満足出来るやり方で行いたい、
と思うでしょう。即ち、このようにすれば、人々に神の祝福が
伴うであろう、と言う理想的なやり方のイメージは確かにあるのです。
しかし実は一方で私は、冠婚葬祭などどうでもよい、と考えております。
何故なら一つに、現実問題においては、複雑雑多な多くの要素がそこに
からんで来るからです。慶弔の問題は実に生きている人間の問題です。
そして人々は、他と妥協できそうもない様々な
考え方をしっかりと持っているからです。
しかし、人生にどうしても妥協できない問題など、そんなに沢山は
ありません。「なくてならぬものは多くはない、いや、実はそれは
唯一つです。」ですから 取りあえず、それがその状況の中で
「無理なく自然に」行われるのであれば、それでよし、とするべきです。
慶弔のことは絶対こうでなければならない、等といくら息巻いて見た所で、
それは、現場に要らざる混乱を来たらすのみで、
大した意味も価値もない、と私は思っております。
仮に、今回ある事情の為、
我が息子の葬事が私の手から100%離れて「その道の専門家や宗教家」
に任せざるを得なかったとしましょう。その場合、私はどう思うの
でしょうか。多分、随分お金がかかっているらしい、そのケバケバした
葬儀をかたわらで見て私は、確かにある不快感は持つでしょう。しかし
「私の霊」は少しも動揺することはない筈です。なぜなら、その葬儀に
よって、肝心の息子のパラダイスにおける現実が1%の影響さえ
受けることは絶対にあり得ない、ことを私は確かに知っているからです。
肉体を離れた故人は完全に神の裁量の領域へと移されます。そこに
人間が僅かでも介入する余地は全くありません。この世とあの世の間
には大きな淵が横たわっているのであり、そこには神の主権のみが
存在するのです。神は少しも揺らぐことはあり得ないし、故人にも
何らの変化もありません。それらは全く不動です。(*1)
しかしその儀式によって、今生きている人々は影響を受けるでしょう。
そうです、葬儀とは「死人の為」を装った「今生きている人のためのもの」
です。繰り返しますが、儀式によって、既に神の中に移された故人が
影響を受けること等決してありえません。
また結婚の場合であれば、大切なのは、そのお二人がどうであるかです。
従って儀式などはどうでもよい事であり、自分達で自由に
「祝福の集まり」でも行えばよいのではないでしょうか。
(*1)
もしも仮に故人が、生きている人の
①生活状態の立派さや、また
②故人のために出費するお金の額、
③専門家や俗人の念力や祈りのパワー等によって
少しでも影響されるのであれば、それこそ大変です。
生きている人はいろいろですし、出す金額も変われば、
祈りのテーマも様々な上に、その念力パワーの出力も
必ず変化するでしょう。
もしそうなれば「黄泉の国」は実に困ったことになります。
そこの住人達は常に右往左往、上がったり下がったりで、
毎日が「大いそがし」に違いないからです。
2009年5月19日火曜日
今日 山に向かいます!
いよいよ今日、山に向かいます。
ちょうど一月半ぶりです。今回の旅はひとしお
感慨深いものとなることでしょう。
しかし、途中 青い大海原や美しい阿武隈の山々を遠望し、
私は、ついうっかり息子の名を呼んではなりません。
どこから飛来するとも分からない、
何者かによる甘い不思議な誘惑には要注意です。要するに
私は息子と「直接」交流しようとしてはならないのです。
(そこにはある、危険な「メカニズム」が確実に存在します。
それについては、いずれ述べる機会もあるでしょう。)
しかし、間接的には可能です!
それは、「私はキリストとの交流を通して息子を持つ」
と言うことです。それは必ず「今日のキリスト」との交流
を介在させること によらなければならないのです。
「パウロであれ、ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、
また、現在のものであれ、未来のものであれ、総てあなた方のもの
です。あなた方はキリストのものであり、キリストは神のものです。」
(コリント3の22、23)
ですから、とても確実な意味と実質において、
今息子は真に私のものです。
このように見るとき、当然
今生きている兄弟姉妹とは直接的な交流も可能なのですが、本当は
それとて、キリストとの交流を介入させるべきなのでしょう。
とにかく、キリストの介在しない交流は総て危険要素を含むのです。
それはいずれ必ず腐敗→死、を生み出します。それは「この世の霊」
(Ⅰコリント2の12、エペソ2の2)の働きによるのです。
今日は快晴。私の旅も
きっと健康で爽やかなものとなることでしょう。
下山は6/5あたりになると思います。
ちょうど一月半ぶりです。今回の旅はひとしお
感慨深いものとなることでしょう。
しかし、途中 青い大海原や美しい阿武隈の山々を遠望し、
私は、ついうっかり息子の名を呼んではなりません。
どこから飛来するとも分からない、
何者かによる甘い不思議な誘惑には要注意です。要するに
私は息子と「直接」交流しようとしてはならないのです。
(そこにはある、危険な「メカニズム」が確実に存在します。
それについては、いずれ述べる機会もあるでしょう。)
しかし、間接的には可能です!
それは、「私はキリストとの交流を通して息子を持つ」
と言うことです。それは必ず「今日のキリスト」との交流
を介在させること によらなければならないのです。
「パウロであれ、ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、
また、現在のものであれ、未来のものであれ、総てあなた方のもの
です。あなた方はキリストのものであり、キリストは神のものです。」
(コリント3の22、23)
ですから、とても確実な意味と実質において、
今息子は真に私のものです。
このように見るとき、当然
今生きている兄弟姉妹とは直接的な交流も可能なのですが、本当は
それとて、キリストとの交流を介入させるべきなのでしょう。
とにかく、キリストの介在しない交流は総て危険要素を含むのです。
それはいずれ必ず腐敗→死、を生み出します。それは「この世の霊」
(Ⅰコリント2の12、エペソ2の2)の働きによるのです。
今日は快晴。私の旅も
きっと健康で爽やかなものとなることでしょう。
下山は6/5あたりになると思います。
2009年5月18日月曜日
息子の葬事(2)
実際的、具体的にお話して見ましょう。
(1)病院から遺体が家族に渡されるまで、
「その現場」から、病院に運ばれた息子・・
それまでも懸命に行われた心臓マッサージは、その後も
そうとう時間 続くことになりました。これはおおむね遺族の心情を配慮
してのことなのでしょう。(救急救命士の皆さん、長時間本当に有難う
ございました。)そして遂に、正式の死亡時間が確認されると、
医師やその他の方々がその部屋から全員退出され、病院は
息子のなきがらと私達だけをその部屋に残してくれる、
という心配りを示してくれました。
そして、私達の気のすむ迄と言う時間の後、
看護士さん達は、遺体を別室に運び、その処置をして下さいます。
その処置の後、白い浴衣をキレイに着せてもらった息子の遺体は
病院の安置室に運ばれます。
この段階は即ち、病院から私達が「遺体をこの安置室で受け取った」
と言うことを意味しているのです。これで
病院としての責務は総て完了したのです。
(2)葬儀屋さんへの依頼
従ってこの時点から、葬儀屋さんに私が依頼したことを、彼らが
実行してくれる、と言う段階に入るのです。
それでは、私は葬儀屋さんに何を依頼したか、それは・・
①病院から葬儀屋への遺体の搬送、
②公共の火葬場で火葬が可能となるまでの、多分一両日の間、
保管場所(葬儀社の一室)での遺体の適切な(防腐等)保護、保管。
③その日になり、火葬場への遺体の搬送です。
要するに私は、葬儀屋さんに対して
保管と搬送と言う、この二点のみを依頼したことになります。
(3)ダビに付す
その日になり、火葬場に着くと、遺体は葬儀屋さんの手から離れ、
公営の火葬場で働く「お役人」の手に渡されます。
最後に彼らから、遺骨が私の手に渡され、一切が終了するのです。
*
日本においては埋葬の前にダビに付すのが通常です。
ですから以上の行程が、遺体をどうすればよいかと言う、その
「ハード面」の総てである、と言ってもよいでしょう。
一つハッキリ分かった事として「ハード面」だけを見る限り、
葬事と言えども、それはそんなに難しくも複雑なものでもない、
ということが言えるのではないでしょうか。
☆
実際的には、少なくも
(2)の①までは、特に私が彼らに どうこう言わなくとも
(病院と葬儀屋の手によって)事は機械的に運んで行きます。
今回の場合、遺体が葬儀社に運ばれ安置された段階で
業者との最初の交渉が行われたのです。
(1)病院から遺体が家族に渡されるまで、
「その現場」から、病院に運ばれた息子・・
それまでも懸命に行われた心臓マッサージは、その後も
そうとう時間 続くことになりました。これはおおむね遺族の心情を配慮
してのことなのでしょう。(救急救命士の皆さん、長時間本当に有難う
ございました。)そして遂に、正式の死亡時間が確認されると、
医師やその他の方々がその部屋から全員退出され、病院は
息子のなきがらと私達だけをその部屋に残してくれる、
という心配りを示してくれました。
そして、私達の気のすむ迄と言う時間の後、
看護士さん達は、遺体を別室に運び、その処置をして下さいます。
その処置の後、白い浴衣をキレイに着せてもらった息子の遺体は
病院の安置室に運ばれます。
この段階は即ち、病院から私達が「遺体をこの安置室で受け取った」
と言うことを意味しているのです。これで
病院としての責務は総て完了したのです。
(2)葬儀屋さんへの依頼
従ってこの時点から、葬儀屋さんに私が依頼したことを、彼らが
実行してくれる、と言う段階に入るのです。
それでは、私は葬儀屋さんに何を依頼したか、それは・・
①病院から葬儀屋への遺体の搬送、
②公共の火葬場で火葬が可能となるまでの、多分一両日の間、
保管場所(葬儀社の一室)での遺体の適切な(防腐等)保護、保管。
③その日になり、火葬場への遺体の搬送です。
要するに私は、葬儀屋さんに対して
保管と搬送と言う、この二点のみを依頼したことになります。
(3)ダビに付す
その日になり、火葬場に着くと、遺体は葬儀屋さんの手から離れ、
公営の火葬場で働く「お役人」の手に渡されます。
最後に彼らから、遺骨が私の手に渡され、一切が終了するのです。
*
日本においては埋葬の前にダビに付すのが通常です。
ですから以上の行程が、遺体をどうすればよいかと言う、その
「ハード面」の総てである、と言ってもよいでしょう。
一つハッキリ分かった事として「ハード面」だけを見る限り、
葬事と言えども、それはそんなに難しくも複雑なものでもない、
ということが言えるのではないでしょうか。
☆
実際的には、少なくも
(2)の①までは、特に私が彼らに どうこう言わなくとも
(病院と葬儀屋の手によって)事は機械的に運んで行きます。
今回の場合、遺体が葬儀社に運ばれ安置された段階で
業者との最初の交渉が行われたのです。
2009年5月17日日曜日
「生」から「卓越した生」へ
葬事とは埋葬することです。ですから、
人の体が死を迎えたら、なるべく早くそれを地下に
埋葬するべきです。それが葬事の本質です。
さて、実は
人が死ぬことは神の御心の中心です。人にとって死は欠くことの
出来ない重要事項である、人は必ず死なねばならない、
それが神の御心です。
しかし神の御心は、それに留まりません。神は人をして
更にその「死の深い認識」に至って欲しいのです。
従って、ある人の死の事を聞いて知るだけでなく、通常人々は
その人の埋葬に立会います。それによって、言わば「死の上塗り」
を目撃しなければならないのです。今あの人は死んだ、彼はもう
この世に戻ることはあり得ない、墓にさえ入ってしまったのだから、
と深く印象づけられるのです。それこそ葬事・埋葬の意義です。
*
実はキリスト者のバプテスマとはその埋葬を意味します。
信じることによって、神の命を受けたキリスト者は、
自分が既にキリストと共に死んでしまった、と言う認識の後、
更に死の水の中へと自分を埋葬させることをもって初めて、
クリスチャン生活のスタート地点に至るのです。
それがなければ、キリスト者の生活(命ではなく)は
根本的に存在し得ない、と言ってもよいでしょう。
何故なら人は、徹底的な死に至って初めて、
次なる復活があり得るからです。埋葬されること、
即ち絶対に生き返る余地を残さない墓に入ってこそ、
人は初めて復活と復活の生活に至ることが出来るのです。
人は、
アダムから受け継いだ「通常の生、天然の生」を伴ったまま
必ず死の中へと入って行かねばなりません。それによって、
その古き天然の生を完全に終結させ、その上に
埋葬によってその事実を確認した後、
初めて「卓越した生による生活」の中へと入るのです。
その「極めて卓越した、完全に新しい生」、
それこそが、キリストの復活から生ずる
あの永遠の命に他なりません。
人の体が死を迎えたら、なるべく早くそれを地下に
埋葬するべきです。それが葬事の本質です。
さて、実は
人が死ぬことは神の御心の中心です。人にとって死は欠くことの
出来ない重要事項である、人は必ず死なねばならない、
それが神の御心です。
しかし神の御心は、それに留まりません。神は人をして
更にその「死の深い認識」に至って欲しいのです。
従って、ある人の死の事を聞いて知るだけでなく、通常人々は
その人の埋葬に立会います。それによって、言わば「死の上塗り」
を目撃しなければならないのです。今あの人は死んだ、彼はもう
この世に戻ることはあり得ない、墓にさえ入ってしまったのだから、
と深く印象づけられるのです。それこそ葬事・埋葬の意義です。
*
実はキリスト者のバプテスマとはその埋葬を意味します。
信じることによって、神の命を受けたキリスト者は、
自分が既にキリストと共に死んでしまった、と言う認識の後、
更に死の水の中へと自分を埋葬させることをもって初めて、
クリスチャン生活のスタート地点に至るのです。
それがなければ、キリスト者の生活(命ではなく)は
根本的に存在し得ない、と言ってもよいでしょう。
何故なら人は、徹底的な死に至って初めて、
次なる復活があり得るからです。埋葬されること、
即ち絶対に生き返る余地を残さない墓に入ってこそ、
人は初めて復活と復活の生活に至ることが出来るのです。
人は、
アダムから受け継いだ「通常の生、天然の生」を伴ったまま
必ず死の中へと入って行かねばなりません。それによって、
その古き天然の生を完全に終結させ、その上に
埋葬によってその事実を確認した後、
初めて「卓越した生による生活」の中へと入るのです。
その「極めて卓越した、完全に新しい生」、
それこそが、キリストの復活から生ずる
あの永遠の命に他なりません。
父の死
*メール、有難う*
2年前に父が亡くなった時、私が大声で泣いたのは、
その体が、家から火葬場へ運ばれる瞬間だけでした。
しかしその後家中に、深い安息が満ち、
穏やかな雰囲気と変わって行ったことを今思い出します。
生前父が戦っていた長く大変な病の終結と、そして何と、
父のキリストへの不信が死の直前に至り、初めて逆転されたことが、
これほど大きな安息に繋がるとは思いもしませんでした。
死の間際に、やっとキリストを受け入れたのですから、父は
(上からの、力の)聖霊も受けておらず、復活の味わいも
知らないままでこの世を去りましたが、父親っ子だった私が、
人として薄情なのではないかと思われるほど
「悲しみ」に浸ることがなかったのです。
むしろ、父を思い出すとき今も、キリストによって
「隔ての壁」を取除かれた安息が心を満たすのです。
我が子の死は、親の死とは比べることもできないほどに
深い痛みに違いありません。それでも愛する者の死さえ、
キリストの中では安息である、とは何という事実でしょう。
「死は勝利に飲み込まれた」・・・
ほんとうにそうなのですね。
2年前に父が亡くなった時、私が大声で泣いたのは、
その体が、家から火葬場へ運ばれる瞬間だけでした。
しかしその後家中に、深い安息が満ち、
穏やかな雰囲気と変わって行ったことを今思い出します。
生前父が戦っていた長く大変な病の終結と、そして何と、
父のキリストへの不信が死の直前に至り、初めて逆転されたことが、
これほど大きな安息に繋がるとは思いもしませんでした。
死の間際に、やっとキリストを受け入れたのですから、父は
(上からの、力の)聖霊も受けておらず、復活の味わいも
知らないままでこの世を去りましたが、父親っ子だった私が、
人として薄情なのではないかと思われるほど
「悲しみ」に浸ることがなかったのです。
むしろ、父を思い出すとき今も、キリストによって
「隔ての壁」を取除かれた安息が心を満たすのです。
我が子の死は、親の死とは比べることもできないほどに
深い痛みに違いありません。それでも愛する者の死さえ、
キリストの中では安息である、とは何という事実でしょう。
「死は勝利に飲み込まれた」・・・
ほんとうにそうなのですね。
2009年5月16日土曜日
息子の葬事(1)
遺族は肉親の死をただ悲しんでいればよい、と言うわけには行きません。
その死に関わる様々な状況に私達は迅速に、そして極めて具体的に応じて
行く必要があるのです。それはとても過酷ですが、私達は自分の明確な
意志に基づき、シッカリとそこを通過して行かなければなりません。
具体的に言うと、
①誰に知らせ、誰に来てもらうのか、
②遺体に関して葬儀屋さんに何をどう頼むのか、
③葬事をどうするのか、等です。
こう言うと簡単そうに聞こえますが、実際は以上の三点は非常に複雑で、
かなり厄介な問題を含んでいるのです。
*
ここで最も大切なのはあなたの意志です。これら全般をどういうふうに
行って行くべきか、についての私の意志です。
それでは「私のその意志」は一体どこにあるのでしょう。
それは、私の心の中にあります。それは、
「今この事態の中で、今の我が家にふさわしい、穏当で、無理の無い、
自然な形はどうであるべきか」について、私の最も深いところに存在する
「本当の私」がどう感じているのか、と言う「私の真の態度」です。
それは、私やあなたの最も深い「直覚」(今は「聖霊からの直覚」と
限定しません)と言ってもよいものでしょう。即ち、直覚と言うからには、
あなたはどうすればよいのか、についてあなたはもう既に知っている、
と言うことです。即ち、考えるまでもなく、どうするならば真の私は
平安を感じるのか、それをあなたは、少なくも
「あるイメージとしては」深い心の中に既に持っているのです。
それこそ、あなた自身の真実な声です。
次に、あなたは上の3点について「その真にあなたがよしとすること」
に基づいて一点一点、アーメンを言いながら、その詳細を紙にでも
書いて見るとよいでしょう。それらが上の三点に関する、あなたの意志
ということになります。ですから、あとは、あなたはそれに基づいて
シッカリ実行して行けばよいのです。
*
しかし実際問題、事はそんなにヤスヤスとは行きません。
何故なら、人の死にまつわるこのような事態に関しては世の中の、
特に葬儀屋さん等の主張する常識、やりかた、通念等が、
その背後に存在する強力な力を伴って、
「あなたの直覚」にジワリと対抗して来るからです。
しかし、もし私が、私の真の声をどこかに押しやり「いわゆる常識」に
何となく屈するとするならば、それはあとあとまでも残る不快感として、
私を苦しめることになりかねないのです。
これは我が息子に関わる、私の人生の大事な一こまです。
それなのに私は人の言いなりになって、自分を放棄することなど、
決してあってはならないはずです。
その死に関わる様々な状況に私達は迅速に、そして極めて具体的に応じて
行く必要があるのです。それはとても過酷ですが、私達は自分の明確な
意志に基づき、シッカリとそこを通過して行かなければなりません。
具体的に言うと、
①誰に知らせ、誰に来てもらうのか、
②遺体に関して葬儀屋さんに何をどう頼むのか、
③葬事をどうするのか、等です。
こう言うと簡単そうに聞こえますが、実際は以上の三点は非常に複雑で、
かなり厄介な問題を含んでいるのです。
*
ここで最も大切なのはあなたの意志です。これら全般をどういうふうに
行って行くべきか、についての私の意志です。
それでは「私のその意志」は一体どこにあるのでしょう。
それは、私の心の中にあります。それは、
「今この事態の中で、今の我が家にふさわしい、穏当で、無理の無い、
自然な形はどうであるべきか」について、私の最も深いところに存在する
「本当の私」がどう感じているのか、と言う「私の真の態度」です。
それは、私やあなたの最も深い「直覚」(今は「聖霊からの直覚」と
限定しません)と言ってもよいものでしょう。即ち、直覚と言うからには、
あなたはどうすればよいのか、についてあなたはもう既に知っている、
と言うことです。即ち、考えるまでもなく、どうするならば真の私は
平安を感じるのか、それをあなたは、少なくも
「あるイメージとしては」深い心の中に既に持っているのです。
それこそ、あなた自身の真実な声です。
次に、あなたは上の3点について「その真にあなたがよしとすること」
に基づいて一点一点、アーメンを言いながら、その詳細を紙にでも
書いて見るとよいでしょう。それらが上の三点に関する、あなたの意志
ということになります。ですから、あとは、あなたはそれに基づいて
シッカリ実行して行けばよいのです。
*
しかし実際問題、事はそんなにヤスヤスとは行きません。
何故なら、人の死にまつわるこのような事態に関しては世の中の、
特に葬儀屋さん等の主張する常識、やりかた、通念等が、
その背後に存在する強力な力を伴って、
「あなたの直覚」にジワリと対抗して来るからです。
しかし、もし私が、私の真の声をどこかに押しやり「いわゆる常識」に
何となく屈するとするならば、それはあとあとまでも残る不快感として、
私を苦しめることになりかねないのです。
これは我が息子に関わる、私の人生の大事な一こまです。
それなのに私は人の言いなりになって、自分を放棄することなど、
決してあってはならないはずです。
2009年5月15日金曜日
妻のある文書から
・・当然のことながら
その日、私達 家族の受けたショックと動揺は極めて大きなものでした。
一晩中、泣き明かすばかりであった、ジュンと同じ病を抱える
長男ケンの体調が大いに気遣われたのです。・・・
さて
葬儀の日、葬儀所の和室に遺体を安置してもらい、遺された私達四人は、
神に祈った後(私達は実はクリスチャンなのです)それぞれが、
ジュンについて思うことを率直に語り合うことが出来ました。
実は一年前、私の母が他界した際、牧師さんが聖書から、
「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。・・・しかり、彼らはその
労苦から解き放されて休むことが出来る。」と言う言葉を読まれたのですが、
その時の母の顔を見て私は正にその聖書で言う安息を感じたのです。
そして、今回ジュンの時も本当に
「ああ、ジュンは今ようやく苦しみから解きはなされたのだ」と言う実感が
あり、私は大きな安らぎと慰めを得たのです。
その和室での時間は短いものでしたが、それは正直で、飾り気のない、
何か慰めに満ちた、とてもよい時間となりました。
それでそのあと、私達は元気を取り戻し、火葬場へと向かったのでした。
さてその日一切を終えたあと、私の心が「あるところ」に収まって行くのを
感じました。そしてそれを境に、日一日と私の心が軽くなって行くのを
覚えたのです。そしてそれまでは決して見えなかったものが、
次第に見えて来るようになって来たのです。
とても不思議なのは、ジュンのことを思い出だすとき、心に浮かんで来る
のは決まって、とても爽やかで安心し切っているジュンです。何と
それは家族全員が共通に感じているジュンについての
思いでもあったのです。
彼の生前の苦しみは、それはそれは大変なものでした。
ですから今私が正直感じるのは、よくもあの体(様々な弱さを持っていた)
そしてあの病を抱え、35年も生きてくれた、と言う思いなのです。
また、私達家族も彼と一緒に、決して晴れることの無い大変な
苦しみの中に日々いたのだ、とも思わされました。
*
聖書に「主が与え、主が取られるのだ、主の御名は褒むべきかな」
と言う言葉があります。人生には、私達には理解出来ないことが
山ほどありますが、神にとっては、総て一切がつじつまが合うように
なって行くのだなあ、と今つくずく思わざるを得ないのです。
生前、皆様から与えられたジュンへの沢山の愛と慈しみ、そして
ジュンがこれまで頂いてきた暖かい交流を思うとき、
私はただただ感謝するばかりであります。
皆様の上に、神の祝福が豊かにありますようにと
心からお祈り致します。
本当に有難うございました。
その日、私達 家族の受けたショックと動揺は極めて大きなものでした。
一晩中、泣き明かすばかりであった、ジュンと同じ病を抱える
長男ケンの体調が大いに気遣われたのです。・・・
さて
葬儀の日、葬儀所の和室に遺体を安置してもらい、遺された私達四人は、
神に祈った後(私達は実はクリスチャンなのです)それぞれが、
ジュンについて思うことを率直に語り合うことが出来ました。
実は一年前、私の母が他界した際、牧師さんが聖書から、
「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。・・・しかり、彼らはその
労苦から解き放されて休むことが出来る。」と言う言葉を読まれたのですが、
その時の母の顔を見て私は正にその聖書で言う安息を感じたのです。
そして、今回ジュンの時も本当に
「ああ、ジュンは今ようやく苦しみから解きはなされたのだ」と言う実感が
あり、私は大きな安らぎと慰めを得たのです。
その和室での時間は短いものでしたが、それは正直で、飾り気のない、
何か慰めに満ちた、とてもよい時間となりました。
それでそのあと、私達は元気を取り戻し、火葬場へと向かったのでした。
さてその日一切を終えたあと、私の心が「あるところ」に収まって行くのを
感じました。そしてそれを境に、日一日と私の心が軽くなって行くのを
覚えたのです。そしてそれまでは決して見えなかったものが、
次第に見えて来るようになって来たのです。
とても不思議なのは、ジュンのことを思い出だすとき、心に浮かんで来る
のは決まって、とても爽やかで安心し切っているジュンです。何と
それは家族全員が共通に感じているジュンについての
思いでもあったのです。
彼の生前の苦しみは、それはそれは大変なものでした。
ですから今私が正直感じるのは、よくもあの体(様々な弱さを持っていた)
そしてあの病を抱え、35年も生きてくれた、と言う思いなのです。
また、私達家族も彼と一緒に、決して晴れることの無い大変な
苦しみの中に日々いたのだ、とも思わされました。
*
聖書に「主が与え、主が取られるのだ、主の御名は褒むべきかな」
と言う言葉があります。人生には、私達には理解出来ないことが
山ほどありますが、神にとっては、総て一切がつじつまが合うように
なって行くのだなあ、と今つくずく思わざるを得ないのです。
生前、皆様から与えられたジュンへの沢山の愛と慈しみ、そして
ジュンがこれまで頂いてきた暖かい交流を思うとき、
私はただただ感謝するばかりであります。
皆様の上に、神の祝福が豊かにありますようにと
心からお祈り致します。
本当に有難うございました。
生者は死者の為に何が出来るか
タイトルへの解答はとても単純です。
それは「一切何も出来ない」です。
しかし、
もとよりキリスト者は自分の為、のみならず、他の総ての人の
「永遠の福祉」の為に生きるべきです。
所がそれが可能であるのはこの時空内に限られます。
具体的に言うと、私が「ジュンの永遠の福祉」の為に尽力できるのは
ジュンがその肉体に留まっている時間帯のみであったのです。
彼の霊魂が彼の体を去った瞬間、私がジュンの福祉の為にする
一切は完全に終結しなければなりません。これは厳粛な一つの
ルールです。即ち、その死の瞬間、ジュンの存在と彼のための福祉は、
完全に神の手の中に移された、のであり、最早そこには、
私が決して犯してはならない神の主権が存在するのです。
ですから 今時空に留まっている私が、あの世のジュンの
幸福の為に何かをしようとするのは、その神の主権を犯すことになり、
それははなはだ危険な思いと行為になります。
ご存知のように、カトリックや多くの宗教には、生きている人が死者に
影響を与えようとする様々な企てがあります。その思想の源は人の
生まれながら持っている底知れない宗教的な血の中に存在するものです。
それはまた生者が持つ、死者に対する深い自責の念等から、容易に生じて
来るものに違いありません。しかしそれは正に「人の事を思う思い」であり、
決して「神の事を思う思い」ではありません。(マタイ16の23)
のみならずここで、そのような思想は、聖書の真理とは真っ向対立する
何ものかである、とさえ言わなければなりません。人がもしも真剣に
そのような行為に手を染めようとするならば、必ず「聖霊ならぬ他の霊」の
深い影響をこうむることは避けられないでしょう。
聖書によれば、
ジュンは「死んで御使い達によってアブラハムの懐に
連れて行かれた」(ルカ16の22)
のであり、そこで彼の為に、神によって準備され、行われている
福祉は、肉体に留まるよりも「遥かにまさっているのです。」
(ピリピ1の23)
これはイエスとパウロの口から発せられた神の聖なる言葉です。もしも
「イエスやパウロが人を慰めるために、いい加減なことを言ったのでない」
とするならば、ジュンは今、地上に留まっている私などよりも、
遥かに心地よい環境におかれているのです。
それこそ、神からの確かな情報であり、真理です。
しかしながら、一体どこから私の思いへと飛来して来るのでしょう、
「今ジュンはとても気の毒な状況にあるに違いない」等とする、
何の根拠もない感覚に私は決して振り回されてはならないはずです。
ですから、私は今日も、力ある神の真理をして、
人の妄想にしっかりと対抗して頂かなければならないのです。
それは「一切何も出来ない」です。
しかし、
もとよりキリスト者は自分の為、のみならず、他の総ての人の
「永遠の福祉」の為に生きるべきです。
所がそれが可能であるのはこの時空内に限られます。
具体的に言うと、私が「ジュンの永遠の福祉」の為に尽力できるのは
ジュンがその肉体に留まっている時間帯のみであったのです。
彼の霊魂が彼の体を去った瞬間、私がジュンの福祉の為にする
一切は完全に終結しなければなりません。これは厳粛な一つの
ルールです。即ち、その死の瞬間、ジュンの存在と彼のための福祉は、
完全に神の手の中に移された、のであり、最早そこには、
私が決して犯してはならない神の主権が存在するのです。
ですから 今時空に留まっている私が、あの世のジュンの
幸福の為に何かをしようとするのは、その神の主権を犯すことになり、
それははなはだ危険な思いと行為になります。
ご存知のように、カトリックや多くの宗教には、生きている人が死者に
影響を与えようとする様々な企てがあります。その思想の源は人の
生まれながら持っている底知れない宗教的な血の中に存在するものです。
それはまた生者が持つ、死者に対する深い自責の念等から、容易に生じて
来るものに違いありません。しかしそれは正に「人の事を思う思い」であり、
決して「神の事を思う思い」ではありません。(マタイ16の23)
のみならずここで、そのような思想は、聖書の真理とは真っ向対立する
何ものかである、とさえ言わなければなりません。人がもしも真剣に
そのような行為に手を染めようとするならば、必ず「聖霊ならぬ他の霊」の
深い影響をこうむることは避けられないでしょう。
聖書によれば、
ジュンは「死んで御使い達によってアブラハムの懐に
連れて行かれた」(ルカ16の22)
のであり、そこで彼の為に、神によって準備され、行われている
福祉は、肉体に留まるよりも「遥かにまさっているのです。」
(ピリピ1の23)
これはイエスとパウロの口から発せられた神の聖なる言葉です。もしも
「イエスやパウロが人を慰めるために、いい加減なことを言ったのでない」
とするならば、ジュンは今、地上に留まっている私などよりも、
遥かに心地よい環境におかれているのです。
それこそ、神からの確かな情報であり、真理です。
しかしながら、一体どこから私の思いへと飛来して来るのでしょう、
「今ジュンはとても気の毒な状況にあるに違いない」等とする、
何の根拠もない感覚に私は決して振り回されてはならないはずです。
ですから、私は今日も、力ある神の真理をして、
人の妄想にしっかりと対抗して頂かなければならないのです。
2009年5月14日木曜日
2009年5月13日水曜日
あるメールから
ジュンさんに起きたことは、私達二人は
「間違いなく主がされたこと」と感じています。
そのことを通し、主は本当に私たちの思いを超えたお方である、
と聖書のみことばを確認した思いです。
これからも、神からのレーマの言葉を、畏れつつ受け取っていきたい、
と思っています。受けた言葉は、絶えず主からのものか、自分の
思いなのかを吟味しながら。
今私たちは、カナンを目指す為に集められているのである、
と感じています。
「立ち止まらずに進め」というような言葉を何度か受けています。
カナンへの道は決して楽なものではないでしょう。
でも、主が先頭に立たれていて、私たちを導き守って下さる!と信じ、
そして確信を持って前進して行きたいと思います。
でも決して頑張らず、いつもの通りに、ですよね。
主は、「私たちが喜んでいること」を喜んで下さると思います。
私たちが喜んでいるとき、主を知らない人達へさえ、
主が伝わって行くのだ、と思います、単に言葉だけによらずに。
これからも、主からたくさんの愛をいただいて、
ご近所の方や、友達ともつき合って行きたい、と思っています。
*
柄沢登兄弟のこと、本当に主が支えておられると思います。
トイレに一人で行ったとありましたが、きっと、一人でトイレに
行きたい、と思う登兄弟の願いを主が聞いてくださり、
主が支えて下さったのだ、と感じました。
主のされることは私たちの理解を超えたものであり、
主は制限のないお方であると、登兄弟のことを見ても分かりました。
ですから、これからも登兄弟のために祈り続けます。
登兄弟はまだこの地上で、これからするべきことがあるのでは、
と感じています。主が私たちの祈りに答えてくださると信じます。
ですから、「制限をしない祈り」を主にしていきたいと思います。
これから、たくさんの祈りが立ち上り、主が動かれることを期待します。
「間違いなく主がされたこと」と感じています。
そのことを通し、主は本当に私たちの思いを超えたお方である、
と聖書のみことばを確認した思いです。
これからも、神からのレーマの言葉を、畏れつつ受け取っていきたい、
と思っています。受けた言葉は、絶えず主からのものか、自分の
思いなのかを吟味しながら。
今私たちは、カナンを目指す為に集められているのである、
と感じています。
「立ち止まらずに進め」というような言葉を何度か受けています。
カナンへの道は決して楽なものではないでしょう。
でも、主が先頭に立たれていて、私たちを導き守って下さる!と信じ、
そして確信を持って前進して行きたいと思います。
でも決して頑張らず、いつもの通りに、ですよね。
主は、「私たちが喜んでいること」を喜んで下さると思います。
私たちが喜んでいるとき、主を知らない人達へさえ、
主が伝わって行くのだ、と思います、単に言葉だけによらずに。
これからも、主からたくさんの愛をいただいて、
ご近所の方や、友達ともつき合って行きたい、と思っています。
*
柄沢登兄弟のこと、本当に主が支えておられると思います。
トイレに一人で行ったとありましたが、きっと、一人でトイレに
行きたい、と思う登兄弟の願いを主が聞いてくださり、
主が支えて下さったのだ、と感じました。
主のされることは私たちの理解を超えたものであり、
主は制限のないお方であると、登兄弟のことを見ても分かりました。
ですから、これからも登兄弟のために祈り続けます。
登兄弟はまだこの地上で、これからするべきことがあるのでは、
と感じています。主が私たちの祈りに答えてくださると信じます。
ですから、「制限をしない祈り」を主にしていきたいと思います。
これから、たくさんの祈りが立ち上り、主が動かれることを期待します。
2009年5月11日月曜日
今、登兄弟に何が起こっているのでしょう
このゴールデンウイークの期間中、
兄弟は極めて苦しい中を通られました。
それは黄疸の悪化による、繰り返すひどい吐き気と背中の激痛でした。
余りの苦しさに、兄弟は嘔吐の中、次のように祈られたと言うのです。
「主よ、苦しいです、限界です、もう耐えられません」と。
それを目の前にする姉妹達も、彼の為に最早どう祈ったらよいか、
ただ立ち尽くすばかりであったのです。
ところが、
この9日(土曜日)の朝、ある変化が起こりました。
朝、部屋に入って行った姉妹は、兄弟を見てあることに気付きました。
それは「あ、今日の登さんは話が出来そう」と言うことでした。
しかし、
それまで、言うべきかかどうかと思いあぐねていた姉妹は、
とうとうあることを彼に切り出したのです。
「登さん、今はもう無理をしないで。もし、登さんが
行きたいと言うなら、病院へ行ってもいいんだよ」と。これは、
状況はそれ程であった、と言うことなのでしょう。
しかしその時です。何と登さんは、目をしっかりと見開き、
姉妹を真っ直ぐに見て言ったと言うのです。
「大丈夫、大丈夫です!」と。
そして昨日、日曜日、
相変わらず、吐き気は止まりません。
良子さんが背中をさすりながら登さんに言いました
「もうこうなったら、賛美しかないね」と。
そして、良子さんは一人で賛美を歌い始めたのです。
そのあと、しかし良子さんがビックリすることが起こりました。
何と登さんも吐きながら、良子さんに合わせて、
賛美の唱和を始めたのです。
そして次にある不思議なことが。
水分を吐いた際、登さんは突然言ったのです。
「あ、今吐いたの、オレじゃなかった。つるっと出たんだ、
苦しくも何ともない、ツルッと出たんだ」と。
もう一つ。
それまで、登さんをトイレに連れて行くのは
大変な作業であったのです。
普通なら一動作、布団の上に起き上がるのでさえ大苦労です。
一回トイレに行くのにその他、沢山の大変な作業の手順が要るのです。
所が、
そのあと、姉妹達を驚かせる事態が発生しました。
いつの間にか、
何と登さんが一人でトイレを済ませていたのです。
一体今、登さんに何が起こっているのでしょう。
そして今日、
彼はとても穏やかであり、体調も改善され、祈り、賛美し、
主にアーメンを唱えておられると言うのです。
兄弟は極めて苦しい中を通られました。
それは黄疸の悪化による、繰り返すひどい吐き気と背中の激痛でした。
余りの苦しさに、兄弟は嘔吐の中、次のように祈られたと言うのです。
「主よ、苦しいです、限界です、もう耐えられません」と。
それを目の前にする姉妹達も、彼の為に最早どう祈ったらよいか、
ただ立ち尽くすばかりであったのです。
ところが、
この9日(土曜日)の朝、ある変化が起こりました。
朝、部屋に入って行った姉妹は、兄弟を見てあることに気付きました。
それは「あ、今日の登さんは話が出来そう」と言うことでした。
しかし、
それまで、言うべきかかどうかと思いあぐねていた姉妹は、
とうとうあることを彼に切り出したのです。
「登さん、今はもう無理をしないで。もし、登さんが
行きたいと言うなら、病院へ行ってもいいんだよ」と。これは、
状況はそれ程であった、と言うことなのでしょう。
しかしその時です。何と登さんは、目をしっかりと見開き、
姉妹を真っ直ぐに見て言ったと言うのです。
「大丈夫、大丈夫です!」と。
そして昨日、日曜日、
相変わらず、吐き気は止まりません。
良子さんが背中をさすりながら登さんに言いました
「もうこうなったら、賛美しかないね」と。
そして、良子さんは一人で賛美を歌い始めたのです。
そのあと、しかし良子さんがビックリすることが起こりました。
何と登さんも吐きながら、良子さんに合わせて、
賛美の唱和を始めたのです。
そして次にある不思議なことが。
水分を吐いた際、登さんは突然言ったのです。
「あ、今吐いたの、オレじゃなかった。つるっと出たんだ、
苦しくも何ともない、ツルッと出たんだ」と。
もう一つ。
それまで、登さんをトイレに連れて行くのは
大変な作業であったのです。
普通なら一動作、布団の上に起き上がるのでさえ大苦労です。
一回トイレに行くのにその他、沢山の大変な作業の手順が要るのです。
所が、
そのあと、姉妹達を驚かせる事態が発生しました。
いつの間にか、
何と登さんが一人でトイレを済ませていたのです。
一体今、登さんに何が起こっているのでしょう。
そして今日、
彼はとても穏やかであり、体調も改善され、祈り、賛美し、
主にアーメンを唱えておられると言うのです。
真理はあなたを自由にする
*ある質問に答えて*
私の場合であれば、
①息子の死に関して、邪悪な者から射こまれる諸感覚(虚構)
対
それに対抗する神の真理、
と言う構図を先ず知ること。
②霊を用いて「祈ること」と「宣告すること」(注1)
と言う二つの手段によって、
真理をして、その虚構に対抗してもらうようにするのです。
即ち、働くのは私でなく真理です。
力はあくまで、私からではなく「真理、即ち神のことば」から
来なければなりません。
・祈りの場合:自分の霊を、まっすぐ神にのみ向けて、
神に対し、敵への「仕返し」を求め、要求する。(注2)
・宣告(証しのことば)の場合:「私の霊」を強く用いて
「その虚構(敵が築く、虚偽と言う山)やウソの諸感覚の実体者」
に鋭く真理を「射こむのです」。この場合これは
「私からの、邪霊に対する直接的な攻撃」(悪魔に対する抵抗)に
なりますので、必ずキリスト血の覆いが必要です。
この戦いは実に大変です。
さて、私達の意志力はどうしても必要ですが、
しかし、その意味は
私の意志の力を敵にぶつけると言う意味ではありません。
私達の意志の力で敵と戦うのではありません。
そうではなく、
私が自分の意志を用いて、先ずは①「真理と異なる総ての諸感覚」を退け、
②明確に神の真理を取り、真理の側に立ち、
神の真理が虚構に対して力を発揮出来るようにする、
ということに過ぎません。
私が自分の力を用いるのであるならば、私は必ず敗れるでしょう。
*
あなたの場合は、このたび、
レーマのことば(あなたの霊への聖霊の直接的な語りかけ)
「自分をおさめなさい」があった、と言うことです。
もしそうであるならば、あなたが受けたそのことばは、
聖書のことばと全く等しい権威と力がある筈です!
あなたは先ず、それを信じなければなりません。
それはサタンにさえ効力があるのです。何故ならそれも
「神の真理」であるからです!
(真理とは単なる事実以上のものです。
真理というとき、それは先ずサタンのウソを意識しています。
そして真理は虚偽に対抗し、虚偽を打ち負かすと言う必然的な
機能と力を含んでいます。
真理はそのためにも私達に与えられているのです。)
次に、ですから、
聖書のことばと同様に、その与えられたことばの持つ力と権威を
敵や「あなたの戦いの現場」に対して使用しなければなりません。
「敵よ、これは神のことばである」と。
*
もし、あなたがそうするならば、
確かに「真理はあなたを自由にします」。
即ち、神の真理の言葉には本来充分な力があるのであり、
あなたを「諸霊の縛り、ウソによる拘束」から
容易に自由にする事が出来ます。
もしも、自由と言うものを実際的、具体的に定義するならば、
自由とは、
「諸霊の縛りから解放され、聖霊の保護の元にあること」
に他なりません。そこにこそ「実際的な」自由があるのです。
☆ ☆
(注1)
これが「証のことば」です。(黙12の11)
(注2)
ルカ18章、力のない「寄るべなきやもめ」(私達)の話:
「私の相手を裁いて、私を守って下さい」の別訳は
「私を訴える者に仕返しして下さい」です。
「私を訴える者」とは、キリスト者に攻撃を加え、
「あなたの方に非がある、あなたこそが悪い、そして更に
あなたの状況は暗く、もう救いようがない、と
執拗につきまとう「あのウソつき」のことです。
これは正に法的な戦いです。
その際先ず、あなたに「私は私の為の裁判官や弁護士」の
側に明確に立つのだ!と言う意志がなければなりません。
そうでなく、あなたが何とはなしに受身的な態度であるならば、
ウソの方が必ず勝ちます。
それは、この世の法廷においては時に、ウソや金が
勝利するのと全く同様です。あなたには先ず、ぜひとも
「私はこれから法廷闘争をするのだ」と言う
明確な覚悟や意志が必要なのです。
私達の真の裁判官は
ルカ18章とは違い、愛のある全能の神ですから、
あなたは「見えないやくざ」の空しいオドシの「実感」に恐れることなく、
先ずは「あの裁判官・神」に日夜しつこくつきまとい、
あの嘘つきのことを日々刻々訴えるべきです。
「神よ、彼に仕返しして下さい!」と。
それが、私達の祈りに他なりません。そうするならば、神は
あなたの状況に現れ、力を出される事でしょう。
私の場合であれば、
①息子の死に関して、邪悪な者から射こまれる諸感覚(虚構)
対
それに対抗する神の真理、
と言う構図を先ず知ること。
②霊を用いて「祈ること」と「宣告すること」(注1)
と言う二つの手段によって、
真理をして、その虚構に対抗してもらうようにするのです。
即ち、働くのは私でなく真理です。
力はあくまで、私からではなく「真理、即ち神のことば」から
来なければなりません。
・祈りの場合:自分の霊を、まっすぐ神にのみ向けて、
神に対し、敵への「仕返し」を求め、要求する。(注2)
・宣告(証しのことば)の場合:「私の霊」を強く用いて
「その虚構(敵が築く、虚偽と言う山)やウソの諸感覚の実体者」
に鋭く真理を「射こむのです」。この場合これは
「私からの、邪霊に対する直接的な攻撃」(悪魔に対する抵抗)に
なりますので、必ずキリスト血の覆いが必要です。
この戦いは実に大変です。
さて、私達の意志力はどうしても必要ですが、
しかし、その意味は
私の意志の力を敵にぶつけると言う意味ではありません。
私達の意志の力で敵と戦うのではありません。
そうではなく、
私が自分の意志を用いて、先ずは①「真理と異なる総ての諸感覚」を退け、
②明確に神の真理を取り、真理の側に立ち、
神の真理が虚構に対して力を発揮出来るようにする、
ということに過ぎません。
私が自分の力を用いるのであるならば、私は必ず敗れるでしょう。
*
あなたの場合は、このたび、
レーマのことば(あなたの霊への聖霊の直接的な語りかけ)
「自分をおさめなさい」があった、と言うことです。
もしそうであるならば、あなたが受けたそのことばは、
聖書のことばと全く等しい権威と力がある筈です!
あなたは先ず、それを信じなければなりません。
それはサタンにさえ効力があるのです。何故ならそれも
「神の真理」であるからです!
(真理とは単なる事実以上のものです。
真理というとき、それは先ずサタンのウソを意識しています。
そして真理は虚偽に対抗し、虚偽を打ち負かすと言う必然的な
機能と力を含んでいます。
真理はそのためにも私達に与えられているのです。)
次に、ですから、
聖書のことばと同様に、その与えられたことばの持つ力と権威を
敵や「あなたの戦いの現場」に対して使用しなければなりません。
「敵よ、これは神のことばである」と。
*
もし、あなたがそうするならば、
確かに「真理はあなたを自由にします」。
即ち、神の真理の言葉には本来充分な力があるのであり、
あなたを「諸霊の縛り、ウソによる拘束」から
容易に自由にする事が出来ます。
もしも、自由と言うものを実際的、具体的に定義するならば、
自由とは、
「諸霊の縛りから解放され、聖霊の保護の元にあること」
に他なりません。そこにこそ「実際的な」自由があるのです。
☆ ☆
(注1)
これが「証のことば」です。(黙12の11)
(注2)
ルカ18章、力のない「寄るべなきやもめ」(私達)の話:
「私の相手を裁いて、私を守って下さい」の別訳は
「私を訴える者に仕返しして下さい」です。
「私を訴える者」とは、キリスト者に攻撃を加え、
「あなたの方に非がある、あなたこそが悪い、そして更に
あなたの状況は暗く、もう救いようがない、と
執拗につきまとう「あのウソつき」のことです。
これは正に法的な戦いです。
その際先ず、あなたに「私は私の為の裁判官や弁護士」の
側に明確に立つのだ!と言う意志がなければなりません。
そうでなく、あなたが何とはなしに受身的な態度であるならば、
ウソの方が必ず勝ちます。
それは、この世の法廷においては時に、ウソや金が
勝利するのと全く同様です。あなたには先ず、ぜひとも
「私はこれから法廷闘争をするのだ」と言う
明確な覚悟や意志が必要なのです。
私達の真の裁判官は
ルカ18章とは違い、愛のある全能の神ですから、
あなたは「見えないやくざ」の空しいオドシの「実感」に恐れることなく、
先ずは「あの裁判官・神」に日夜しつこくつきまとい、
あの嘘つきのことを日々刻々訴えるべきです。
「神よ、彼に仕返しして下さい!」と。
それが、私達の祈りに他なりません。そうするならば、神は
あなたの状況に現れ、力を出される事でしょう。
2009年5月9日土曜日
自責の念 対 キリストの血(1)
*真理は悲しみに打ち勝つ5*
ここに神のことば・即ち「真理」があります。
「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、総ての悪から私達をきよめて下さいます。」
(Ⅰヨハネ1の9)
さて、ここに述べられている罪のきよめの為の条件は何でしょうか。
それは唯一「自分の罪を言い表すならば」です。
誰に対して、でしょうか。それは明確に神に対してです。
これが真理です。
しかしもしも、子供がまだ死んでおらず、あなたの目の前にいるのであれば、
直接一言「ごめんね」と言えばよいでしょう。何も長々と、小説の描写
のように述べ立てる必要はありません。彼もそれが何であるのか、すぐに
分かるでしょう。だから、一言「あの事、ごめんなさい」と
言えばそれでよいのです。
*
しかし彼がこの世にいない場合はどうでしょう。
その場合あなたは、あの世にいる彼に向かって決して謝ってはなりません。
その理由については後で述べることになるでしょう。
もしもあなたがそうするならば、霊的にあなたは大きな失敗を
することになります。あなたがパラダイスにいる息子に涙の中で罪の
告白をする時、あなたはある種の心地よさと甘さを感じるかも知れません。
しかしながら、あなたはそれを決して行ってはなりません。
もしもそれをするならば、真理はあなたの味方になることはないでしょう。
従ってそれ以後、真理が、あなたに降りかかる敵からの多くの邪悪な
諸感覚を退けることが困難になるかも知れません。
それはとても重大な問題です。
「何が真理であり、何が真理でないのか」そのしゅん別は極めて大切です。
あなたは明確に真理の側にシッカリと立つ必要があるのです。
あなたは「唯、神に向かって」あなたの罪を言い表すべきです。
それが真理です。
*
あなたが、そうするならば、その結果はどうでしょう。それは
「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、総ての悪から
あなたをきよめて下さるのです。」
その神の赦しの根拠は、神の太っ腹ではなく、唯一キリストの血です。
あなたの多くのとても重い罪のための弁償代金・キリストの血は、
もう既に充分な額として支払われました。その支払いの相手は
「神の義の要求」です。あなたの罪がいくら重く、高いとしても、
神の子、キリストの血の値は無限です。ですから、あなたの罪の為の
弁償代金としては、それは際限が無いほどの「有り余る金額」なのです。
それは必要額を遥かに超えるのです。従って神の義の要求は既に
完全過ぎるほどに満たされているのです。
キリストの血の代価によって満足されたのは先ず神です。ですから、
神には全く問題はありません。ですから、あなたはただその「神の御血に
対する評価」を受け入れればよいのです。即ち、神のことばを信じ
受け入れること、これがただ一つの条件です。
ここに神のことば・即ち「真理」があります。
「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、総ての悪から私達をきよめて下さいます。」
(Ⅰヨハネ1の9)
さて、ここに述べられている罪のきよめの為の条件は何でしょうか。
それは唯一「自分の罪を言い表すならば」です。
誰に対して、でしょうか。それは明確に神に対してです。
これが真理です。
しかしもしも、子供がまだ死んでおらず、あなたの目の前にいるのであれば、
直接一言「ごめんね」と言えばよいでしょう。何も長々と、小説の描写
のように述べ立てる必要はありません。彼もそれが何であるのか、すぐに
分かるでしょう。だから、一言「あの事、ごめんなさい」と
言えばそれでよいのです。
*
しかし彼がこの世にいない場合はどうでしょう。
その場合あなたは、あの世にいる彼に向かって決して謝ってはなりません。
その理由については後で述べることになるでしょう。
もしもあなたがそうするならば、霊的にあなたは大きな失敗を
することになります。あなたがパラダイスにいる息子に涙の中で罪の
告白をする時、あなたはある種の心地よさと甘さを感じるかも知れません。
しかしながら、あなたはそれを決して行ってはなりません。
もしもそれをするならば、真理はあなたの味方になることはないでしょう。
従ってそれ以後、真理が、あなたに降りかかる敵からの多くの邪悪な
諸感覚を退けることが困難になるかも知れません。
それはとても重大な問題です。
「何が真理であり、何が真理でないのか」そのしゅん別は極めて大切です。
あなたは明確に真理の側にシッカリと立つ必要があるのです。
あなたは「唯、神に向かって」あなたの罪を言い表すべきです。
それが真理です。
*
あなたが、そうするならば、その結果はどうでしょう。それは
「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、総ての悪から
あなたをきよめて下さるのです。」
その神の赦しの根拠は、神の太っ腹ではなく、唯一キリストの血です。
あなたの多くのとても重い罪のための弁償代金・キリストの血は、
もう既に充分な額として支払われました。その支払いの相手は
「神の義の要求」です。あなたの罪がいくら重く、高いとしても、
神の子、キリストの血の値は無限です。ですから、あなたの罪の為の
弁償代金としては、それは際限が無いほどの「有り余る金額」なのです。
それは必要額を遥かに超えるのです。従って神の義の要求は既に
完全過ぎるほどに満たされているのです。
キリストの血の代価によって満足されたのは先ず神です。ですから、
神には全く問題はありません。ですから、あなたはただその「神の御血に
対する評価」を受け入れればよいのです。即ち、神のことばを信じ
受け入れること、これがただ一つの条件です。
2009年5月8日金曜日
真理は悲しみに打ち勝つ4
自死によって
我が子を失った親の悲しみには極めて深いものがあります。
多くの親が、自分も死んで我が子に会いたいと思う心理には
相当 共鳴出来るものがあるのです。
私の経験から、その親の心理は三つの範疇に分けられると思います。
①自責の念、即ち自分に罪があると言う心理です。
②「子供が余りにかわいそうだ」と深く思う思いです。
親はこの二つの思いに日夜さいなまれる、と言っても
決して過言ではないでしょう。
そして、最も難しいのは
③深い喪失感から来る
・子供と「一目会って謝りたい、そして交流したい」です。
その切実さの故に、それらは時に
・子供の名を呼ぶ、子供に願い事をする、そして死者を礼拝をする、
に容易に変容する可能性があると思われます。
ここで触れておきたいのは、
これら三つの辛く苦しい思いには、ある奇妙な心理が伴う事です。
それは、その深く暗い穴の中に引き込まれて行く時、そこにはある種の
かすかな薄明かりの中の「快感や甘さ」の様なものが存在することです。
それは確かに「むしろこのまま私は、死んだ子供の所に、どこまでも
どこまでも引き寄せられて行きたい」と言う心理に通じるものがあるのです。
それは親をして、その穴の中にいつまででも留まらせておくのに、
充分な効果があると思われます。
それでは、その正体は一体何なのでしょうか。
それは、明らかに「ある種の奥深い暗い誘惑」に違いありません。
従ってそのような親を真に慰め、そこから引き離すのはとても
難しい事と言わなければなりません。
そうです、それはとても難しい事なのです。
従って私には、この種の問題の解決にはどうしても「霊的な分野」の中へ
一歩踏み込まざるを得ない、と思われるのです。
*
それでは以上のような「この世の最大の苦しみ」に
解決は無いのでしょうか。あります!
何故なら、
私達の主イエスキリストは「その死の苦しみ」の真っ只中に
敢えて入って行かれ、その死の根本的な力を内側から
完全に爆破し粉砕し尽くしたお方であるからです。
そして今私達の手の中には、そのイエスキリストのことば、
死をも打ち砕く力を内に秘めた「神の真理」があるからです。
そうです、私達には神の真理があるのです。
確かに、真理は悲しみに打ち勝つのです。
我が子を失った親の悲しみには極めて深いものがあります。
多くの親が、自分も死んで我が子に会いたいと思う心理には
相当 共鳴出来るものがあるのです。
私の経験から、その親の心理は三つの範疇に分けられると思います。
①自責の念、即ち自分に罪があると言う心理です。
②「子供が余りにかわいそうだ」と深く思う思いです。
親はこの二つの思いに日夜さいなまれる、と言っても
決して過言ではないでしょう。
そして、最も難しいのは
③深い喪失感から来る
・子供と「一目会って謝りたい、そして交流したい」です。
その切実さの故に、それらは時に
・子供の名を呼ぶ、子供に願い事をする、そして死者を礼拝をする、
に容易に変容する可能性があると思われます。
ここで触れておきたいのは、
これら三つの辛く苦しい思いには、ある奇妙な心理が伴う事です。
それは、その深く暗い穴の中に引き込まれて行く時、そこにはある種の
かすかな薄明かりの中の「快感や甘さ」の様なものが存在することです。
それは確かに「むしろこのまま私は、死んだ子供の所に、どこまでも
どこまでも引き寄せられて行きたい」と言う心理に通じるものがあるのです。
それは親をして、その穴の中にいつまででも留まらせておくのに、
充分な効果があると思われます。
それでは、その正体は一体何なのでしょうか。
それは、明らかに「ある種の奥深い暗い誘惑」に違いありません。
従ってそのような親を真に慰め、そこから引き離すのはとても
難しい事と言わなければなりません。
そうです、それはとても難しい事なのです。
従って私には、この種の問題の解決にはどうしても「霊的な分野」の中へ
一歩踏み込まざるを得ない、と思われるのです。
*
それでは以上のような「この世の最大の苦しみ」に
解決は無いのでしょうか。あります!
何故なら、
私達の主イエスキリストは「その死の苦しみ」の真っ只中に
敢えて入って行かれ、その死の根本的な力を内側から
完全に爆破し粉砕し尽くしたお方であるからです。
そして今私達の手の中には、そのイエスキリストのことば、
死をも打ち砕く力を内に秘めた「神の真理」があるからです。
そうです、私達には神の真理があるのです。
確かに、真理は悲しみに打ち勝つのです。
二つの意志の対峙と人の意志
*真理は悲しみに打ち勝つ3*
世界(時空、特に地上)には明確に二つの意志が働いています。
一つは神の意志であり、他は神の敵の意志です。
神の意志はただ聖霊によって人に伝達されます。更に言えば
聖霊の意志は、聖書の真理と人の環境を介して、先ずはただ
人の霊にだけ伝達されるのです。方や、神の敵の意志は人の
環境を介して、人の霊以外の総ての器官(魂と体の)に伝達される、
と言ってもよいでしょう。
従って神の敵が人を偽る領域は、神が人に真理を伝達する領域に比べる
ならば、相当広いと言えるのです。その状況の故、私達はひたすら、
「聖霊と人の霊」に注意を集中しなければならないのです。
神が人の思いや感情、ましてや体に、直接御心を伝えることは決してあり得
ません。もしも思いや感情そして体に、ある「霊的、超自然的な」興奮を
覚えるとするならば、それらの興奮の起源は聖霊ではない別の霊から
であると知るべきです。キリスト教社会においてこの類の誤解と実行は
今日広く行き渡っており、その度合いは今後必ず増大し続けること
でしょう。この点については今後多くの言及が必要であると思われます。
次に、神の意志は真理で構成されている、に対して、
今日年を経たヘビ(偽る者の意)の意志は、極みに至るまでに巧みな
虚偽で構成されています。実に彼が本音を語るとき、それはそのまま
ウソとなるのです。イエスも言われました。「悪魔(誘惑する者の意)は
初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼の内には真理は無い
からです。彼が偽りを言う時には、自分の持っているものから語るのです。」
(原文、ヨハネ8の44)彼にはただの一個の真理さえありません。
どうか覚えて下さい、神の真理と矛盾するサタンの構築したもの、
の一切、私達の眼前に展開されている、実にリアル感覚に溢れた情景は
総て完全に100%虚偽のみで構成されているのです!
*
さて、以上の二つの意志の中間に人の意志があります。ここで仮に
神の意志は既に発動したとします。そうする時、直ちに、
第三の独立した意志、即ち私達人の意志は立ち上がり、
神の意志を断固選択しなければなりません。
さて、ここで強調されねばならないことは、人の意志の発動に際して、
「神は手出しが出来ない」という事です。何故なら、神は人に自由意志を
既に与えてしまったからです。これは実に大きなポイントです。
神は、エバがあの二本の木の間で迷い、そして遂に「自分の意志で」・・
( と言うよりは、エバはその時、怠惰な優柔不断の中で、
ある感覚の誘導に応じて、言わばウス笑いを浮かべながら、いい加減に
彼女の身をその場の雰囲気に委ねた、と言うのが実情だったでしょう。
にもかかわらず、それでも彼女はその時「極めて重大な運命」を選び取る
と言う決定的な誤りを犯してしまった、と言わざるを得ないのです。
余談ですが、総ての発端は、エバが誘惑者の問いかけに応じて、つい
うっかり、ある反応を示してしまったことでした。そこに、神のことば
即ち真理に対する彼女の認識の軽さが現れ出た、と言えましょう。)
・・エバが「自分の意志で」
知識の木の実を取ろうとして行動を起こした時でさえ、神はエバの
為に天使を送って、彼女を阻止しようとはなさらなかったのです。
何故なら既に神は、真理の伝達によって御自身の意志を人に明確に
語り済みであったからです。実に人は神の意志を退ける主権をさえ、
神によって与えられている、と言えるのです。神がその時点で
人を助けることはあり得ません。従って正に人の意志こそ、
その人の総てを握っている、と言えるのです。
所が、創世記でエバの前で働く悪魔であるヘビの姿を見る時、彼は充分な
手出しが出来るように見えます。何故なら敵は、エバの持つ広範囲な
感覚器官の総てに対して、時間をかけ「ねんごろに」誘惑の手を伸ばす
ことが出来たからです。(彼女の思い、感情、美的感覚、食欲等に、
即ち人の体と魂の知覚総てに。)
*
次にその二つの意志の意図とは何でしょうか。それは、
先ず神の意図は、人の中に永遠の命と真理を入れ込むことによって、
神と人との一つを実現すること(一の原則)であり、敵の意図は、
神の命から人を隔絶し(それが死の機能です)ウソと言う毒を人に
注入することによって、世界に「二の原則」即ち「対立の原則」を
創設することだったのです。それ故、今日この世界に
一の現象はとても少なく、一方、対立の現象は、
この地上の至る所に満ち満ちているのです。
世界(時空、特に地上)には明確に二つの意志が働いています。
一つは神の意志であり、他は神の敵の意志です。
神の意志はただ聖霊によって人に伝達されます。更に言えば
聖霊の意志は、聖書の真理と人の環境を介して、先ずはただ
人の霊にだけ伝達されるのです。方や、神の敵の意志は人の
環境を介して、人の霊以外の総ての器官(魂と体の)に伝達される、
と言ってもよいでしょう。
従って神の敵が人を偽る領域は、神が人に真理を伝達する領域に比べる
ならば、相当広いと言えるのです。その状況の故、私達はひたすら、
「聖霊と人の霊」に注意を集中しなければならないのです。
神が人の思いや感情、ましてや体に、直接御心を伝えることは決してあり得
ません。もしも思いや感情そして体に、ある「霊的、超自然的な」興奮を
覚えるとするならば、それらの興奮の起源は聖霊ではない別の霊から
であると知るべきです。キリスト教社会においてこの類の誤解と実行は
今日広く行き渡っており、その度合いは今後必ず増大し続けること
でしょう。この点については今後多くの言及が必要であると思われます。
次に、神の意志は真理で構成されている、に対して、
今日年を経たヘビ(偽る者の意)の意志は、極みに至るまでに巧みな
虚偽で構成されています。実に彼が本音を語るとき、それはそのまま
ウソとなるのです。イエスも言われました。「悪魔(誘惑する者の意)は
初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼の内には真理は無い
からです。彼が偽りを言う時には、自分の持っているものから語るのです。」
(原文、ヨハネ8の44)彼にはただの一個の真理さえありません。
どうか覚えて下さい、神の真理と矛盾するサタンの構築したもの、
の一切、私達の眼前に展開されている、実にリアル感覚に溢れた情景は
総て完全に100%虚偽のみで構成されているのです!
*
さて、以上の二つの意志の中間に人の意志があります。ここで仮に
神の意志は既に発動したとします。そうする時、直ちに、
第三の独立した意志、即ち私達人の意志は立ち上がり、
神の意志を断固選択しなければなりません。
さて、ここで強調されねばならないことは、人の意志の発動に際して、
「神は手出しが出来ない」という事です。何故なら、神は人に自由意志を
既に与えてしまったからです。これは実に大きなポイントです。
神は、エバがあの二本の木の間で迷い、そして遂に「自分の意志で」・・
( と言うよりは、エバはその時、怠惰な優柔不断の中で、
ある感覚の誘導に応じて、言わばウス笑いを浮かべながら、いい加減に
彼女の身をその場の雰囲気に委ねた、と言うのが実情だったでしょう。
にもかかわらず、それでも彼女はその時「極めて重大な運命」を選び取る
と言う決定的な誤りを犯してしまった、と言わざるを得ないのです。
余談ですが、総ての発端は、エバが誘惑者の問いかけに応じて、つい
うっかり、ある反応を示してしまったことでした。そこに、神のことば
即ち真理に対する彼女の認識の軽さが現れ出た、と言えましょう。)
・・エバが「自分の意志で」
知識の木の実を取ろうとして行動を起こした時でさえ、神はエバの
為に天使を送って、彼女を阻止しようとはなさらなかったのです。
何故なら既に神は、真理の伝達によって御自身の意志を人に明確に
語り済みであったからです。実に人は神の意志を退ける主権をさえ、
神によって与えられている、と言えるのです。神がその時点で
人を助けることはあり得ません。従って正に人の意志こそ、
その人の総てを握っている、と言えるのです。
所が、創世記でエバの前で働く悪魔であるヘビの姿を見る時、彼は充分な
手出しが出来るように見えます。何故なら敵は、エバの持つ広範囲な
感覚器官の総てに対して、時間をかけ「ねんごろに」誘惑の手を伸ばす
ことが出来たからです。(彼女の思い、感情、美的感覚、食欲等に、
即ち人の体と魂の知覚総てに。)
*
次にその二つの意志の意図とは何でしょうか。それは、
先ず神の意図は、人の中に永遠の命と真理を入れ込むことによって、
神と人との一つを実現すること(一の原則)であり、敵の意図は、
神の命から人を隔絶し(それが死の機能です)ウソと言う毒を人に
注入することによって、世界に「二の原則」即ち「対立の原則」を
創設することだったのです。それ故、今日この世界に
一の現象はとても少なく、一方、対立の現象は、
この地上の至る所に満ち満ちているのです。
2009年5月7日木曜日
真理は悲しみに打ち勝つ2
*Ⅲ、Ⅳのアウトライン*
Ⅲ神の真理と矛盾する諸感覚
1.愛する者の死による絶望的喪失感。
2.彼の死の責任の一端は明らかに私にある、とする自責の念。
あの時どうしてこうしてやらなかったのだろうとする後悔と責め苦。
3.故人は今 非常にかわいそうな境遇にあるに違いない、だから
何とかしてあげないと、と言う思い。
4.故人に一目会いたいとする切なる心、せめて故人との交信を願い、
故人に思いを集中し、故人の名を呼ぶ、故人に罪の赦しを請う、
遂には故人を礼拝をする願いを持つ。
Ⅳ神の真理によって諸感覚に対抗する。
1.神の真理と矛盾する総ての感覚は一切敵からである、ことを知る。
2.神の真理の特質
3.諸感覚の特質
4.受身的な態度を一切排除し、神から人に与えられた意志を行使し、
神の真理を自分の意志として立ち上がる。
5.神の真理をして、実際的に虚偽の感覚に対抗させ、聖霊の力によって
諸感覚を徐々に死に追いやる。
Ⅲ神の真理と矛盾する諸感覚
1.愛する者の死による絶望的喪失感。
2.彼の死の責任の一端は明らかに私にある、とする自責の念。
あの時どうしてこうしてやらなかったのだろうとする後悔と責め苦。
3.故人は今 非常にかわいそうな境遇にあるに違いない、だから
何とかしてあげないと、と言う思い。
4.故人に一目会いたいとする切なる心、せめて故人との交信を願い、
故人に思いを集中し、故人の名を呼ぶ、故人に罪の赦しを請う、
遂には故人を礼拝をする願いを持つ。
Ⅳ神の真理によって諸感覚に対抗する。
1.神の真理と矛盾する総ての感覚は一切敵からである、ことを知る。
2.神の真理の特質
3.諸感覚の特質
4.受身的な態度を一切排除し、神から人に与えられた意志を行使し、
神の真理を自分の意志として立ち上がる。
5.神の真理をして、実際的に虚偽の感覚に対抗させ、聖霊の力によって
諸感覚を徐々に死に追いやる。
2009年5月6日水曜日
真理は悲しみに打ち勝つ1
Ⅰ.今「愛する者」が救いに入れられていると言う真理の確認
1.
ロゴス(恒常的神のことば)による確認。
彼は、主の名を呼び、バプテスマをした。
「主の名を呼ぶものは皆 救われる」(使徒2の21)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ16の16)
2.
レーマ(即時的神のことば)による確認、言わば「状況証拠」。
これは御言葉や様々な状況の中で「彼は大丈夫だよ」と言う
「私の霊」に対する聖霊の静かで一貫した語りかけです。
この語りかけは数多くあり、しかも日を追ってそれは深くなり、
その静けさも増し加わっているようです。以下はその中の数例です。
①その死は人の力によってはどうしても避け得なかったこと、即ち、
彼を地上から取り去ったのは神であった、と知らされたことです。
神が「永遠に救われているキリスト者」を敢えて肉体の死に
至らせる場合はあり得ます。(Ⅰコリント4の9、Ⅰコリント11の
27~30)しかし、このたびのケースはそれらⅠコリントの例とは
更に別の意味を持つと思われます。
②死の直後の遺体の状態。
③彼の死後、間もなく家庭を訪れた平和と安らぎ。(人と神、人と人との)
④エクレシアにおける、キリスト者間の繋がりの中の呼応、共鳴において。
・その死の2、3日前、息子の為に聖徒達が祈った後に彼らを
訪れた予知的感覚において。
・兄弟姉妹の納得と賛美において。
・「この死は永遠において知られ、神によって注意深く準備された
ものであった」と言う私の文章を読んだ一姉妹の内側から、
直ちに湧き出た復活の認識と大きな賛美において。
⑤ルカ16章の貧乏人ラザロは我が息子であったことを
知らされたことにおいて。
Ⅱ.今現在、彼はどうしているか、に関する真理。
1.
その霊魂は完全な安息(眠り)の中にある。
・アブラハムの懐にいる(ルカ16の20~23)即ち
・キリストと共にパラダイスにいる。(ルカ23の43)
2.
再び体が与えられる次の時代においては、先ずはキリストの
ジャッジを受け、ある任務や「学習」に入って行くために、今は
待機の状態にあります。キリスト者が体を持たない期間は、ただ
この時期に限定されるのであり、それは例外的な時期です。
霊魂のほか、体を有して初めて人は「完全に人」であり、その時
キリスト者もその任務の遂行や学習が可能となります。
(ただパラダイスにおいて体のない霊魂が活動している例が僅かに
見られます。黙示録6の9~11。これはしかし、大艱難直前だけ
のことであり、それも「一部の勝利を得た聖徒の霊魂に限る」と
私的には考えております。これ以外にもう一つ、サムエルの例があると
言えるかも知れません。)
従って原則的に言って、パラダイスにいるキリスト者の「仕事」はただ
安息です。故に、そこは安息と待機の為の場所なのですから、神はそこを
その目的の為に明確に確保、守護している筈です。安息場や保養の
場所とはそういう所であるはずです。従ってそこにいる人の霊魂が神や
聖霊のようになって、地上に舞い戻ったり地上の人間と交信することなど、
絶対にあり得ません。これは、時にキリスト者の間でさえあり得そうな
発想ではありますが、断じて「真理」ではありません。
(しかし、人の血から湧き出てくる宗教にはことごとく
その思想があります。これにはよくよく注意しなければなりません。
尚このことには後ほど更に触れたいと思います。)
彼はある意味でそこで「眠り」についているのです。眠っている人に
対してはやはり一定の私達の態度と言うものがあるでしょう。
それはこの上ない平安と安息の場所に違いないのであり、私達が
憶測でいろいろと彼のことを心配するなど正に余計なことです。
*
聖書によると、
この場合のパラダイスは天ではなく「地下」にあるでしょう。
なぜなら「ダビデは天に上ったわけではありません」(使徒2の34)等、
それを擁護する少なくない聖句があるからです。
地下は必ずしも不快な場所ではありません。否、むしろそこは、
聖徒達の為に神によって用意されたのですから、
アブラハムの懐にふさわしい、温まりのある霊的に実に清潔で
非常に心地よい場所であるはずです。
ただ、体を有したまま地上から取り去られたエノク、エリヤは別です。
彼らは体を持っているのですから、パラダイスにはいません。
この二人は(一人はエノクでなく、モーセであると言う人もいます)
黙示録11章における、特別な彼らの任務遂行の為に、例外的な神の
取り扱いを受け、今彼らはパラダイスとは別の場所(天のどこか)で
神によって待機させられ、その活躍の時を待っているのでしょう。
1.
ロゴス(恒常的神のことば)による確認。
彼は、主の名を呼び、バプテスマをした。
「主の名を呼ぶものは皆 救われる」(使徒2の21)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ16の16)
2.
レーマ(即時的神のことば)による確認、言わば「状況証拠」。
これは御言葉や様々な状況の中で「彼は大丈夫だよ」と言う
「私の霊」に対する聖霊の静かで一貫した語りかけです。
この語りかけは数多くあり、しかも日を追ってそれは深くなり、
その静けさも増し加わっているようです。以下はその中の数例です。
①その死は人の力によってはどうしても避け得なかったこと、即ち、
彼を地上から取り去ったのは神であった、と知らされたことです。
神が「永遠に救われているキリスト者」を敢えて肉体の死に
至らせる場合はあり得ます。(Ⅰコリント4の9、Ⅰコリント11の
27~30)しかし、このたびのケースはそれらⅠコリントの例とは
更に別の意味を持つと思われます。
②死の直後の遺体の状態。
③彼の死後、間もなく家庭を訪れた平和と安らぎ。(人と神、人と人との)
④エクレシアにおける、キリスト者間の繋がりの中の呼応、共鳴において。
・その死の2、3日前、息子の為に聖徒達が祈った後に彼らを
訪れた予知的感覚において。
・兄弟姉妹の納得と賛美において。
・「この死は永遠において知られ、神によって注意深く準備された
ものであった」と言う私の文章を読んだ一姉妹の内側から、
直ちに湧き出た復活の認識と大きな賛美において。
⑤ルカ16章の貧乏人ラザロは我が息子であったことを
知らされたことにおいて。
Ⅱ.今現在、彼はどうしているか、に関する真理。
1.
その霊魂は完全な安息(眠り)の中にある。
・アブラハムの懐にいる(ルカ16の20~23)即ち
・キリストと共にパラダイスにいる。(ルカ23の43)
2.
再び体が与えられる次の時代においては、先ずはキリストの
ジャッジを受け、ある任務や「学習」に入って行くために、今は
待機の状態にあります。キリスト者が体を持たない期間は、ただ
この時期に限定されるのであり、それは例外的な時期です。
霊魂のほか、体を有して初めて人は「完全に人」であり、その時
キリスト者もその任務の遂行や学習が可能となります。
(ただパラダイスにおいて体のない霊魂が活動している例が僅かに
見られます。黙示録6の9~11。これはしかし、大艱難直前だけ
のことであり、それも「一部の勝利を得た聖徒の霊魂に限る」と
私的には考えております。これ以外にもう一つ、サムエルの例があると
言えるかも知れません。)
従って原則的に言って、パラダイスにいるキリスト者の「仕事」はただ
安息です。故に、そこは安息と待機の為の場所なのですから、神はそこを
その目的の為に明確に確保、守護している筈です。安息場や保養の
場所とはそういう所であるはずです。従ってそこにいる人の霊魂が神や
聖霊のようになって、地上に舞い戻ったり地上の人間と交信することなど、
絶対にあり得ません。これは、時にキリスト者の間でさえあり得そうな
発想ではありますが、断じて「真理」ではありません。
(しかし、人の血から湧き出てくる宗教にはことごとく
その思想があります。これにはよくよく注意しなければなりません。
尚このことには後ほど更に触れたいと思います。)
彼はある意味でそこで「眠り」についているのです。眠っている人に
対してはやはり一定の私達の態度と言うものがあるでしょう。
それはこの上ない平安と安息の場所に違いないのであり、私達が
憶測でいろいろと彼のことを心配するなど正に余計なことです。
*
聖書によると、
この場合のパラダイスは天ではなく「地下」にあるでしょう。
なぜなら「ダビデは天に上ったわけではありません」(使徒2の34)等、
それを擁護する少なくない聖句があるからです。
地下は必ずしも不快な場所ではありません。否、むしろそこは、
聖徒達の為に神によって用意されたのですから、
アブラハムの懐にふさわしい、温まりのある霊的に実に清潔で
非常に心地よい場所であるはずです。
ただ、体を有したまま地上から取り去られたエノク、エリヤは別です。
彼らは体を持っているのですから、パラダイスにはいません。
この二人は(一人はエノクでなく、モーセであると言う人もいます)
黙示録11章における、特別な彼らの任務遂行の為に、例外的な神の
取り扱いを受け、今彼らはパラダイスとは別の場所(天のどこか)で
神によって待機させられ、その活躍の時を待っているのでしょう。
2009年5月3日日曜日
教会を敢えてエクレシアと呼ぶ理由
聖書には教会が出てきます。そして聖書は
「聖書が指し示す教会」を私達に提示しております。
ですから私は教会を否定することが出来ません。
私が否定出来ないのはその「聖書が指し示す教会」です。
所が「今日のいわゆる教会」の殆どは「聖書が指し示す教会」
と比べる時、余りにも変質してしまっており、それらを教会と呼ぶ
ことは到底不可能です。ですから、私はどうしても「今日の
いわゆる教会」を「カッコ」でくくらなければならないのです。
所がいくらカッコでくくって見ても、人々がその言葉・教会に接する時、
聖書が指し示していない、余りにも多くの不必要なイメージを抱いて
しまうのです。例えば人々は「屋根に十字架のついた建物、一人の牧師、
そして日曜礼拝と言う三点をワンセットとしたコミュニティ」を容易に
連想するでしょう。しかし、その三点セットは断じて聖書で指し示す
教会ではあり得ません。
(教会はそれら三点ではなく、ただ「一点キリスト」です。)
当然それらの中にも「本来の教会」が持っている性質、即ち「真正の
キリスト者の中の復活の命」が含まれていることは充分あり得ることです。
(故に厳密に言って、その部分だけは教会と呼べるでしょう。)
しかし、そのコミュニティそのものは、「聖書が指し示す教会」
でないことは余りにも明らかです。
ですから最近私は敢えて、教会と言う言葉の使用を避け、
その言葉の原語・エクレシアを用いているのです。
*
さて、神から生まれた、
「真正な古今東西のキリスト者の中に存在するキリストの復活の命の総計」
がエクレシアであることは明らかです。それは時空を超えたエクレシアです。
しかし、問題なのはそのエクレシアが時空の中にどう現れるか、です。
どうすれば、時空に現れるエクレシアであっても、その変質から逃れ、
聖書が指し示す本来のエクレシアの性質をキープ出来るのだろうか、
これが問題なのです。
「聖書が指し示す教会」を私達に提示しております。
ですから私は教会を否定することが出来ません。
私が否定出来ないのはその「聖書が指し示す教会」です。
所が「今日のいわゆる教会」の殆どは「聖書が指し示す教会」
と比べる時、余りにも変質してしまっており、それらを教会と呼ぶ
ことは到底不可能です。ですから、私はどうしても「今日の
いわゆる教会」を「カッコ」でくくらなければならないのです。
所がいくらカッコでくくって見ても、人々がその言葉・教会に接する時、
聖書が指し示していない、余りにも多くの不必要なイメージを抱いて
しまうのです。例えば人々は「屋根に十字架のついた建物、一人の牧師、
そして日曜礼拝と言う三点をワンセットとしたコミュニティ」を容易に
連想するでしょう。しかし、その三点セットは断じて聖書で指し示す
教会ではあり得ません。
(教会はそれら三点ではなく、ただ「一点キリスト」です。)
当然それらの中にも「本来の教会」が持っている性質、即ち「真正の
キリスト者の中の復活の命」が含まれていることは充分あり得ることです。
(故に厳密に言って、その部分だけは教会と呼べるでしょう。)
しかし、そのコミュニティそのものは、「聖書が指し示す教会」
でないことは余りにも明らかです。
ですから最近私は敢えて、教会と言う言葉の使用を避け、
その言葉の原語・エクレシアを用いているのです。
*
さて、神から生まれた、
「真正な古今東西のキリスト者の中に存在するキリストの復活の命の総計」
がエクレシアであることは明らかです。それは時空を超えたエクレシアです。
しかし、問題なのはそのエクレシアが時空の中にどう現れるか、です。
どうすれば、時空に現れるエクレシアであっても、その変質から逃れ、
聖書が指し示す本来のエクレシアの性質をキープ出来るのだろうか、
これが問題なのです。
御霊は直接教えてくれますよ
*あるメールから*
私は今、内村鑑三の「キリスト教問答」という本を読んでいます。
私はこの本を読んだから「教会」を離れた、というのではなく、
「教会」を離れたから、彼の本に出会うことが出来たのだ、
と言うことが今、私を楽しくさせているのです。
この本の「教会問題」の部分には、体験してきた15年間の
教会生活の中で私が感じて来たことが書かれていて、既にあんな昔に、
もうそのことを感じていた人がいたのだ、と驚きました。
Sugar 兄弟もそんな人なのでは?
私は「無教会」という言葉すら知らず、そういう人がいるなんて
全く知らなかったのです。今「教会」に属している人で、この人の
主張を知らない人がたくさんいるのでは、と思います。
今まで知らずにいたことが、今になって私に少しずつ明らかに
されて来ていると言う今日このごろ、これが私にはとても楽しいのです。
「個人的啓示の道」を読みました。
私も、御霊が直接教えてくれる、ということを体験しています。
「教会」を離れた途端、主はまるで「待っていたよ」と言わんばかりに、
今いろいろな真理を私に分からせて下さっているのです。以前はなぜ
この聖書の箇所を、あんなふうに理解していたのだろうか、
などと今思うのです。
所で私の15年間の「教会」生活は決して無駄ではなかったと思うし、
必要だったのだと思います。そして、今「私をそこから出させたのは
主御自身だったのだ」と感じます。当時私にも、狭い部分しか見えて
いなかった事が今分かるのです。
主に感謝する日々が続いています。
主が私の牧者なのですから、今からも主御自身によって、いろいろ
教えてもらえるのだ、と期待充分です。
何故なら主の教えは真理なのですから。
ではまた。今の私の思いでした。
私は今、内村鑑三の「キリスト教問答」という本を読んでいます。
私はこの本を読んだから「教会」を離れた、というのではなく、
「教会」を離れたから、彼の本に出会うことが出来たのだ、
と言うことが今、私を楽しくさせているのです。
この本の「教会問題」の部分には、体験してきた15年間の
教会生活の中で私が感じて来たことが書かれていて、既にあんな昔に、
もうそのことを感じていた人がいたのだ、と驚きました。
Sugar 兄弟もそんな人なのでは?
私は「無教会」という言葉すら知らず、そういう人がいるなんて
全く知らなかったのです。今「教会」に属している人で、この人の
主張を知らない人がたくさんいるのでは、と思います。
今まで知らずにいたことが、今になって私に少しずつ明らかに
されて来ていると言う今日このごろ、これが私にはとても楽しいのです。
「個人的啓示の道」を読みました。
私も、御霊が直接教えてくれる、ということを体験しています。
「教会」を離れた途端、主はまるで「待っていたよ」と言わんばかりに、
今いろいろな真理を私に分からせて下さっているのです。以前はなぜ
この聖書の箇所を、あんなふうに理解していたのだろうか、
などと今思うのです。
所で私の15年間の「教会」生活は決して無駄ではなかったと思うし、
必要だったのだと思います。そして、今「私をそこから出させたのは
主御自身だったのだ」と感じます。当時私にも、狭い部分しか見えて
いなかった事が今分かるのです。
主に感謝する日々が続いています。
主が私の牧者なのですから、今からも主御自身によって、いろいろ
教えてもらえるのだ、と期待充分です。
何故なら主の教えは真理なのですから。
ではまた。今の私の思いでした。
2009年5月2日土曜日
個人的啓示の道
*「鷲のように翼を張って」さんへ*
「その不思議な御言葉の真実を捜し求める者に、神は惜しみなく
その意味するところを教えてくださいます。・・・
主の導きを慕うようになります。」
とてもアーメンです。
言われるように人が真実に「真理」を求めるならば、聖霊は必ず
その人に「個人的に」教えて下さいます。これは確実です。
「この道」は決して「集団教えられ体制」などではなく
徹底した、神御自身からの「直接的、個人的啓示の道」です。
もしもその点で「少しの後退」があるとすれば、正にその程度の
堕落が始まっているのです。
従って新約聖書には・・
「真理の御霊が来ると、あなた方を総ての真理に導き入れます。」
(ヨハネ16の13)と言うイエスのことば、また
一寸それは少し極端ではないですか、と言いたくなるような、
「キリストから受けた注ぎの油があなた方に留まっています。
それで誰からも教えを受ける必要がありません。
彼の油が総てのことについてあなた方を教える・・」(Ⅰヨハネ2の27)
などと言うことばをさえ記録しているのです。
しかし普通、人はこの事実を信じようとしません。ですから、聖霊ではなく、
人に聞こうとするのです。このような人の傾向に乗じて、例えば一人の人が
教える実権を握り「全員いっせいに」、その上「競って」その一人の人の
教えに聞き従おうとするような、とんでもない状況が生じて来るのです。
その結果、そこには自ずと、さまざまな弊害が生み出されるのです。
(例えば「知っていることを装う」或いは「人に合わせる」等の偽善)
聖霊が人を真理に導き入れる方法とテンポは千差万別です。
しかしある人が「神によって定められている真理の道程」を
どこまで進んで行けるのか、それは、その人が日ごろ
「どんなふうに真理の門を叩いているか」にかかっているでしょう。
「それはそれとして、私達は既に達しているところを基準として、
進むべきです。」(ピリピ3の16)
「その不思議な御言葉の真実を捜し求める者に、神は惜しみなく
その意味するところを教えてくださいます。・・・
主の導きを慕うようになります。」
とてもアーメンです。
言われるように人が真実に「真理」を求めるならば、聖霊は必ず
その人に「個人的に」教えて下さいます。これは確実です。
「この道」は決して「集団教えられ体制」などではなく
徹底した、神御自身からの「直接的、個人的啓示の道」です。
もしもその点で「少しの後退」があるとすれば、正にその程度の
堕落が始まっているのです。
従って新約聖書には・・
「真理の御霊が来ると、あなた方を総ての真理に導き入れます。」
(ヨハネ16の13)と言うイエスのことば、また
一寸それは少し極端ではないですか、と言いたくなるような、
「キリストから受けた注ぎの油があなた方に留まっています。
それで誰からも教えを受ける必要がありません。
彼の油が総てのことについてあなた方を教える・・」(Ⅰヨハネ2の27)
などと言うことばをさえ記録しているのです。
しかし普通、人はこの事実を信じようとしません。ですから、聖霊ではなく、
人に聞こうとするのです。このような人の傾向に乗じて、例えば一人の人が
教える実権を握り「全員いっせいに」、その上「競って」その一人の人の
教えに聞き従おうとするような、とんでもない状況が生じて来るのです。
その結果、そこには自ずと、さまざまな弊害が生み出されるのです。
(例えば「知っていることを装う」或いは「人に合わせる」等の偽善)
聖霊が人を真理に導き入れる方法とテンポは千差万別です。
しかしある人が「神によって定められている真理の道程」を
どこまで進んで行けるのか、それは、その人が日ごろ
「どんなふうに真理の門を叩いているか」にかかっているでしょう。
「それはそれとして、私達は既に達しているところを基準として、
進むべきです。」(ピリピ3の16)
2009年5月1日金曜日
もしもそれが
神の敵をサタンと呼ぶとき、
そのサタンという語の意味は「憎しみや敵意」
であると言います。創世記3章を見ると、
神は「キリストとサタンの間に敵意を置く」とあります。
サタンは必ずキリストを憎みます。
これは避けられない必然です。
しかし、
何故サタンは、取るに足らないキリスト者をも憎むのでしょうか。
そのわけは、キリスト者がキリストと一つであるからです。
他の理由はありません。
キリスト者はキリストとの結合の故に、
どうしてもサタンによって憎まれるのです。
これは、第二の必然と言ってもよいでしょう。
キリスト者に降りかかる困難が、
たとえサタンの憎しみからであったとしても、
「もしもそれが」
私達がキリストと一つであると言う理由からであるならば、
それは何と素晴らしいことでしょう。
そのサタンという語の意味は「憎しみや敵意」
であると言います。創世記3章を見ると、
神は「キリストとサタンの間に敵意を置く」とあります。
サタンは必ずキリストを憎みます。
これは避けられない必然です。
しかし、
何故サタンは、取るに足らないキリスト者をも憎むのでしょうか。
そのわけは、キリスト者がキリストと一つであるからです。
他の理由はありません。
キリスト者はキリストとの結合の故に、
どうしてもサタンによって憎まれるのです。
これは、第二の必然と言ってもよいでしょう。
キリスト者に降りかかる困難が、
たとえサタンの憎しみからであったとしても、
「もしもそれが」
私達がキリストと一つであると言う理由からであるならば、
それは何と素晴らしいことでしょう。
第三の意志
*キリスト者は死後、どこで何をしているか3*
この地球とそれに属する天空は戦いの現場そのものです。
その戦いそれは、決してぶれることなどあり得ない二つの意志、
神の意志とサタンの意志の戦いです。
その戦いにおいて、神の手段は真理と命であり、
サタンの手段は虚偽と死です。
この場合、真理は虚偽に対応し、命は死に対応します。
神は人に真理を介して命を与えようとし、サタンは人に虚偽を
提供して(神の命から引き離す)死に至らせようとするのです。
それでは人の役割は何でしょうか。それは:
神から与えられた意志を十分に機能させ、神の意志を選択し、
サタンの意志を断固退けることです。
ここに、その二つの大きな意志の中間に、人の意志と言うものが
存在すると言う図式が浮かび上がるのです。このように世界の中で、
大きな二つの意志が戦っているのですが、人に与えられた
第三の意志は、そのはざ間において
極めて重大な役割を担っていることが分かります。
それでは、神はどのようにして、人に真理を提供するのでしょうか。
それは神のことばの人への語りかけによります。それに対して、
サタンは「ウソの語りかけ」(その中に死を含む)によって、
神からの真理が人に到達することを全力で阻止しようとします。
何故なら、その真理の語りかけによって、人に永遠の命が
入り込んでしまうからです。
しかし、いくらサタンの虚偽が巧妙であるからと言って、もしも
「人の神への信頼」が堅固であるならば、人は単純に神のことばを
選択するでしょう。何故なら彼は、神は神であり、神はとても誠実
なので、決てウソなどつくはずはないことを知っているからです。
だから人がもし、決してぶれることなく、その態度をしっかりと
とり続ける限り、何の問題も起こり得ないはずです。
この地球とそれに属する天空は戦いの現場そのものです。
その戦いそれは、決してぶれることなどあり得ない二つの意志、
神の意志とサタンの意志の戦いです。
その戦いにおいて、神の手段は真理と命であり、
サタンの手段は虚偽と死です。
この場合、真理は虚偽に対応し、命は死に対応します。
神は人に真理を介して命を与えようとし、サタンは人に虚偽を
提供して(神の命から引き離す)死に至らせようとするのです。
それでは人の役割は何でしょうか。それは:
神から与えられた意志を十分に機能させ、神の意志を選択し、
サタンの意志を断固退けることです。
ここに、その二つの大きな意志の中間に、人の意志と言うものが
存在すると言う図式が浮かび上がるのです。このように世界の中で、
大きな二つの意志が戦っているのですが、人に与えられた
第三の意志は、そのはざ間において
極めて重大な役割を担っていることが分かります。
それでは、神はどのようにして、人に真理を提供するのでしょうか。
それは神のことばの人への語りかけによります。それに対して、
サタンは「ウソの語りかけ」(その中に死を含む)によって、
神からの真理が人に到達することを全力で阻止しようとします。
何故なら、その真理の語りかけによって、人に永遠の命が
入り込んでしまうからです。
しかし、いくらサタンの虚偽が巧妙であるからと言って、もしも
「人の神への信頼」が堅固であるならば、人は単純に神のことばを
選択するでしょう。何故なら彼は、神は神であり、神はとても誠実
なので、決てウソなどつくはずはないことを知っているからです。
だから人がもし、決してぶれることなく、その態度をしっかりと
とり続ける限り、何の問題も起こり得ないはずです。
登録:
投稿 (Atom)