2009年6月20日土曜日

狭い道

これは真に狭い道です。しかし、困難な道ではありません。
なぜ狭いのでしょう。それは私達の総ての歩みが「神の御こころ」
によって規制されているからです。

この道は一つの原則があるだけであり、自己のための余地は残されて
いません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、私達をこの道から
運び去るでしょう。

しかしながら、この道は困難な道ではありません。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が一つ一つ
砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、その時
必然的に、私は困難な道であるとは感じないでしょう。

残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を歩いて
さえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に到達する前に
この道から離れてしまいます。

しかし、その困難な期間が長いか、短いかに関わらず、一つのことは
確かです。唯一のこの道は命の道です。これは神の道です。それ故、
それは真実であり、確実です。
豊富な命を願うなら、誰でもこの道を歩く以外に選択はありません。
(先人の言葉より)

*Sugar 私見:
上述の「狭い道」は あの有名なの「山上の垂訓」の中、
マタイ7の14からです。
山上の垂訓は明らかに、未信者にではなく、私達信者、弟子
に向かって発せられたものです。(5の1)
永遠の命を得、永遠の救いを得る道は人々が思っているほど、
狭くはないと私は思います。しかし、キリスト者に限定されたこの
呼びかけにおける「命に至る門」は小さく狭いとイエスは
断言されました。
7の3の「滅び」とは命における永遠の滅びではなく、
(黙示録20の12「命の書」にその人の名前はある。)
神に属する者の生涯における行為や行いにおける崩壊
を意味すると思われます。(Ⅰコリント3の15)

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