2009年6月2日火曜日

神に会う備え

*柄沢登兄弟の家で(5)*

ある日、柄沢良子姉妹の心にフトある思いが生れました。
それは、私はキリスト者として今この兄弟の為に何をしてあげるのが
神の御前において最善なのであろうか、と言う思いでした。
それが発端となり、遂に柄沢兄弟の献身が現実のものとなったのです。
ここにおいて、登兄弟の総て、生も死も、一切は神に献げられたのです。
これはどうしても、今しておかなければならない「神に会う備え」です。

神に会う備え:
それは明らかに、何にもまして総ての人が一日も早く実行しなければ
ならない最重要課題です。所が、多くの場合私達はその大切な宿題を
どこかの引き出しにしまったまま にしているのではないでしょうか。

しかし、
キリストの真の救いを経験したばかりの登兄弟と共に
日々一緒に生活しておられた妻良子さんと、また他の
「柄沢家の」人々にとって、それは日ごとに現実味を
帯びて来る重い課題となって行ったのです。
実際の所、もう一日の猶予もないのかも知れません。
姉妹達は必死の思いで、主の前に出たのです。

そのようにして、遂に「その家のキリスト者達」はあたかも一人の人
のようになり、通常の世の人情を超えて、或いは今日のキリスト者達の
常識をさえ超えて、愛する兄弟の「永遠の福祉」の為に、
黄泉の勢力の前に立ちはだかった、と言ってもよいでしょう。

それはあたかも、
なりふりかまわずに、家の屋根まではがし、
必死の思いで、病人(彼らの兄弟)を寝床のまま、
イエスの眼前につり下ろした人々のようでした。


そこで実行されたのが
「まだ言い表わされていない罪」の告白です。或いは兄弟は、神に対して、
ある罪をまだ告白していないが為に、良心に安息がないのかも知れません。
たとえ今それがあるとしても、その状態のまま、キリスト者が
ウソつきサタンによって巧みに攻撃されるならば、
いつ信仰の土台さえくずれてしまうか分からないのです。

「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければ
ならないであろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、
キリストの御血の完全な洗いにあずかり、
清くとがめのない強い良心を持って欲しかったのです。

そこで、先ず取り扱われたのが、夫婦間の問題でした。
今私がその詳細をここに書く必要はないでしょう。いずれにしろ、
御夫妻は、自分の「私は悪くない」を全面的に放棄し、
何と完全な赦し合いに至ったと言うのです。
それは、主の臨在が深く感じられる、ただ
「涙、なみだのひと時」となったのす。

また後日、
登兄弟から、かつてひどい屈辱を受け、今までどうしても赦す事の
出来なかった職場のある人物についての言い表しがなされた、と言います。
そのようにして、兄弟は一点一点、力あるキリストの御血の清めを経験し、
兄弟の良心と霊は徐々に強められて行ったのです。

そして更に神は、
それらの出来事を「彼の自我」を少しずつ砕いて行くと言う
機会とさえされて行ったのではないでしょうか。
そのようにして、それらの神によって極めて圧縮された
登兄弟の生活は、その価値を日一日と高めて行ったのです。

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