*柄沢登兄弟の家で(5)*
ある日、柄沢良子姉妹の心にフトある思いが生れました。
それは、私はキリスト者として今この兄弟の為に何をしてあげるのが
神の御前において最善なのであろうか、と言う思いでした。
それが発端となり、遂に柄沢兄弟の献身が現実のものとなったのです。
ここにおいて、登兄弟の総て、生も死も、一切は神に献げられたのです。
これはどうしても、今しておかなければならない「神に会う備え」です。
神に会う備え:
それは明らかに、何にもまして総ての人が一日も早く実行しなければ
ならない最重要課題です。所が、多くの場合私達はその大切な宿題を
どこかの引き出しにしまったまま にしているのではないでしょうか。
しかし、
キリストの真の救いを経験したばかりの登兄弟と共に
日々一緒に生活しておられた妻良子さんと、また他の
「柄沢家の」人々にとって、それは日ごとに現実味を
帯びて来る重い課題となって行ったのです。
実際の所、もう一日の猶予もないのかも知れません。
姉妹達は必死の思いで、主の前に出たのです。
そのようにして、遂に「その家のキリスト者達」はあたかも一人の人
のようになり、通常の世の人情を超えて、或いは今日のキリスト者達の
常識をさえ超えて、愛する兄弟の「永遠の福祉」の為に、
黄泉の勢力の前に立ちはだかった、と言ってもよいでしょう。
それはあたかも、
なりふりかまわずに、家の屋根まではがし、
必死の思いで、病人(彼らの兄弟)を寝床のまま、
イエスの眼前につり下ろした人々のようでした。
*
そこで実行されたのが
「まだ言い表わされていない罪」の告白です。或いは兄弟は、神に対して、
ある罪をまだ告白していないが為に、良心に安息がないのかも知れません。
たとえ今それがあるとしても、その状態のまま、キリスト者が
ウソつきサタンによって巧みに攻撃されるならば、
いつ信仰の土台さえくずれてしまうか分からないのです。
「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければ
ならないであろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、
キリストの御血の完全な洗いにあずかり、
清くとがめのない強い良心を持って欲しかったのです。
そこで、先ず取り扱われたのが、夫婦間の問題でした。
今私がその詳細をここに書く必要はないでしょう。いずれにしろ、
御夫妻は、自分の「私は悪くない」を全面的に放棄し、
何と完全な赦し合いに至ったと言うのです。
それは、主の臨在が深く感じられる、ただ
「涙、なみだのひと時」となったのす。
また後日、
登兄弟から、かつてひどい屈辱を受け、今までどうしても赦す事の
出来なかった職場のある人物についての言い表しがなされた、と言います。
そのようにして、兄弟は一点一点、力あるキリストの御血の清めを経験し、
兄弟の良心と霊は徐々に強められて行ったのです。
そして更に神は、
それらの出来事を「彼の自我」を少しずつ砕いて行くと言う
機会とさえされて行ったのではないでしょうか。
そのようにして、それらの神によって極めて圧縮された
登兄弟の生活は、その価値を日一日と高めて行ったのです。
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