2009年6月4日木曜日

罪の言い表しについて

・・・
或いは兄弟は、神に対して、まだある罪をまだ告白していない
が為に、良心に安息がないのかも知れません。
「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければならない
であろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、キリストの御血
の完全な洗いにあずかり、清くとがめのない強い良心を
持って欲しかったのです。


「もし、神が光の中におられるように、私達も光の中を歩んで
いるなら、私達は互いに交わりを持ち、御子イエスの血は総ての
罪から私達を清めます。・・・
もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、総ての悪から私達を清めて下さいます。」
(Ⅰヨハネ1の6、9)

原則として
罪の言い表しは、神に対してです。それを必ず人の前で行わなければ
ならない、と言うことはありません。罪の自覚があるもので、
まだ神に対して言い表されていない罪があるならば、
それを神に対して言い表せばよいのです。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

他人の卵の上に羽を広げてそれを孵し、自分のものだと言ってはいけない

 起こった出来事、証はその人と主の中で実に繊細ないのちへと導く。

 それを他の人が証することはできない

 光がレンズを通すと屈折してしまうように
繊細ないのちの証が微妙に屈折して他の人のところに届けられるからです

 

Mr.Sugar さんのコメント...

御指摘を有難うございます。

もしもそうであるならば、
主が 私にも直接 真実を見せて下さい
ますようにと祈っております。