2011年9月9日金曜日

うまく行くかな、デッキの床の防水工事

今日、ロフトデッキの床を全面・濃いみどり色のトタン板で
カバーし、床を雨から守る工事をします。下に守るべき板が
あるのですから、釘は絶対に使えません。だからポイントは
よい接着剤です。しかし、素人大工にとって防水工事ほど難しい
ものはないのです。うまく行くとよいのですが・・


★キリスト者vs悪鬼★

真の夫・イエスは天に帰られました。
従って地上に取り残された私達は「あのやもめ達」です。

さて聖書によると、
主イエス対サタン、「父なる神」対この世、聖霊対肉
という3つの対比が見て取れます。

サタンはイエスキリストのマネがたくみです。だから今彼は
天(多分第三の天ではないと思われます)にいて、
堕落した天使達(彼等は別の天、空中にいるのでしょう、
エペソ6ノ12、コロサイ2ノ15)をさしずしているのですが、

近い将来サタンは「ある一人の人物」に受肉して、地上に
現れます。その魅力は甚大(じんだい)で「地に住む人々」は
彼を救い主として喜んで礼拝し、全世界、全人類は一つに
統一されるでしょう。それはある意味で彼等が今心に
抱いている理想(ヒューマニズム・人間主義)の実現です。

しかしこのことの序曲は既に始まっているようです。それは
人々が「自分を救ってくれるかのように見える美しい存在」を
「自分の神」(アイドル)として慕い愛すること等です。

さて福音書を見ると
①サタン②堕落天使以外に、悪の勢力がもう一つあることが
分ります。それは③悪鬼(悪霊)達です。この悪鬼達は
サタンや堕落天使達とは違って、天ではなく、明らかに
地上に存在しています。この時代、その表れはとても
顕著(けんちょ)です。

太古において、堕落する前、彼等は人に似た、霊を持つ高度な
生き物として地上に存在していたのですが、アダム以前に
神の裁きによって体が奪われた結果今、彼等は日夜、付着する
べき人の体の機能を求めているのです。その体には、
キリスト者の体も十分に含まれます。

だから私たちは自分の体(目、耳、口、手、足、舌・胃袋等)を
シッカリと治める必要があります。それこそが真の自治です。
私が何を見、何を聞き、何を語り、何に触れ、どこに行き、
何をどう食べるか、は神の御前に、決して軽いことでは
ないでしょう。
(堕落天使には自分の「霊の体」があるので、人の体に
取り付く欲望はあり得ません。)

以上を見るとき、一つの結論が出てきます。
それは神の陣営の中で、明らかに地上に残されているのは
キリスト者であり、悪の陣営の中で明らかに地上に存在するのは
悪鬼達であるという事です。

ですから私達は特に、この悪鬼達を治める必要があるのです。
何故なら、実に日常生活の只中で、絶えず私たちの体に直接
触れようとしているのは、地上をはい回る見えない邪霊(サソリ)
達であるからです。従って上記の「真の自治」なしに、この地上に
神の国が現れることはあり得ません。神は言われたのです、
人に「地をはう総ての生き物を支配させよう」と。
(創世記1の26)

この事実は、かつて地上におられた時の人の子なるイエスの言動を
見れば明らかです。だから「神の国の表れ」と「悪霊達の後退」は
完全に同じ意味です。(注:これはいわゆる「悪霊追い出し」
とは全く異なります。)

今キリストの体は地上でなく天にあるのですから、
今悪鬼に対抗する存在は「キリスト人」しかありません。
そしてこの両者・キリスト者と悪鬼の争点は、
人の体を経由した人の魂です。

「私が・・悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国は
あなた方の所に来ているのです。」(マタイ12の28)


*
真の自治とは:
自分にぞくする総て、即ち魂と体のあらゆる機能は
真の自分、即ち私の霊が治めるという意味であり、
それらを他者に治めさせない、触れさせない、侵入させない
ということです。

この他者というのは、人の体の機能に付着し、その機能を占拠し
ついには根城(ねじろ)にするべく絶えず付けねらっている
上記の高度な見えない生き物達です。

もしもそのような意味での自治がなければ、人の自由は
あり得ません。何故なら他者が私を治めているからです。

2011年9月8日木曜日

当時のお金

当時のお金の価値を実感するには
1デナリが当時の一日の賃金であったことから考えると
分りやすいです。
やもめのレプタは、1デナリの128分の1だそうです。
だから、今の日本での一日の賃金を仮に1万円とすると
1レプタは大体78円、レプタ銅貨2つで156円ですから
このやもめの貧しさはかなりのものなのでしょう。

また、マルコに出てくるコドラントはローマのお金であって
「2レプタは1コドラントに当たる」とマルコは、当時のローマの
読者の為に書いています。当時のローマの大衆用銭湯の料金が
1コドラントであったことはおもしろい情報です。
これからすると、やもめの全財産とは、ローマ大衆のたった
一回の入浴料だった、と言えるようです。

さて
キリスト者であるならば例外なく必ず与えられている
と言う「主にある働き」の為の「最低保証の資本金」
1タラントとは以下のようになりそうです。

これは、やもめの話とは大違いで、
1タラントは何と6000デナリに当たるそうです。
ですからそれに1万円をかけて見ると
6000×10000=60,000,000円
(6千万円)にもなります。

こうなるとクリスチャンでありさえすれば、神の働きのために
既に最低でも6千万円と言う大金が与えられていることになり、
神に対して「私はたった1タラントしか頂きませんでしたので」
等と言う言いわけはかなり難しいことになりそうです。
(マタイ25の14~30)

*
或は間違いがあるかも知れませんので
お気づきの方はお知らせください。

貧しいやもめの献金

ルカ21の1~4、マルコ12の41~44:
福音書に出てくる貧しいやもめの献金の話ですが・・

それはたったのレプタ銅貨2つでした。これは
私の計算によると、今の日本では156円に相当します。

所がイエスはこの200円にも満たないお金の価値は
神の前では極めて大きいとされました。その理由は、やもめは
神の前で実質・彼女の「生活費全部」を投げ入れたからです。

さてしかしイエスはここで私たちに(物理的に)
常に生活費全部を献金することを勧めているのでしょうか。
そうではないでしょう。何故ならそれは不可能であるからです。
そういうケースも時にはあるかも知れませんが、原則として
神が不可能なことを人に無理強いされることはありません。

所が、不思議なことに
私の「生活費の大もと」、即ち私にぞくする総ての生活の手段、
要するに「私自身と私の力の総て」を主の足元に投げ出すことは
どんな人にでも、どんな場所にいても、どんな瞬間でも可能
なのです。「私たちの総て」とは、私の体、魂、霊の総てと
私の所有物(私の能力、私に残された人生の総ての時間をも含め)
に他ならないでしょう。

言いかえれば
神が私たちに望むことは、どんな瞬間でも、総てを神に開き
自分自身と自分の所有物を自分の手で少しも握(にぎ)らないこと
であり、いかなる事物でも自分の為には少しもとって置かない事、
なのではないでしょうか。この原則は、臨終のベッドに横たわる
人でも、健康な大金持ちでも全く同じであり、これが
この話におけるイエスの真意であるはずです。

この原則
(これは実は献金の話ではない)
に従って歩む人生は、私たちの予測に反し、常にいかなる不足も
生じることがなく、最も身軽で喜びに満ちたものとなるのでは
ないでしょうか。

「主は私の羊飼い、私には乏しいことがない。」
(詩篇23編)これはやもめの対極・一国の王ダビデの実感です。

2011年9月7日水曜日

大道と小道

主よ、あなたの道を私に知らせ、
あなたの小道を私に教えてください。
(詩篇25の4)

主には大道と小道があるようです。
それは主の大きな「みこころ」と小さな「みこころ」です。
しかし結局この二つの道は一本であり、
そのいずれも人にとって唯一の道なるキリストです。

ダビデはこの「ただ一本の道」を知っていたのです。
彼の人生をたどれば、常に彼の目は一つの目的地と
そこにいたる只一本の道に注がれていたことが分ります。

しかし彼の最小の小道とは、ダビデの日常生活において
些細でこまごまとした出来事の中で歩むべきものでした。
当然ダビデにとって、その小道をどう歩むかについて
決していい加減にすることは出来なかったでしょう。
何故なら大道と小道は結局同じ一本の道であるからです。

私たちも
大きな「みこころ」を知り、まじめにその上を前進しようと
する心さえあるならば、主は必ず小さな「みこころ」も教えて
下さり、間違いなく主が意図(イト)されている正しい目的地に
連れて行ってもらえると信じます。

山小屋に行くには第一に
先ず国道6号線に入らなければなりません。
これは大道であり、これを間違えたら元もこもなくなります。

その正しい大道を進むと、徐々に
より小さな道に導かれます。それは
県道や林道であり、最後は草深い私道です。
そうするならば、確実に山小屋に着くことが出来ます。
くりかえしますが、
最後まで私の必要は「唯一の道」であられるキリストです。

2011年9月5日月曜日

今朝の通読から

新約:ルカ18の17
「真にあなた方に告げます。
子供のように、神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに入ることは出来ません。」

ここのみならず、ルカの18章あたりのイエスの
切実な力説に接する時、多くの人々の慰めの言葉に反し
正直、神の国に入ることはきわめて難しいはずであると
感じざるを得ません。


旧約:詩篇27の5
主が「その幕屋のひそかな所に私をかくまい。」

私はエクレシアの「ひそかな所にかくまわれている」のでしょうか。
それとも人目につくにぎやかな場所を獲得したいと
願っているのでしょうか。

*
利根川のほとり
小さな秋を楽しんでいます。

2011年9月3日土曜日

デッキの床にトタンを張るか

昨日も雨の合間に
ロフトのデッキの床の数箇所、その腐食の修理をしました。
今度、修理したこの木の合板の上に、防水状にトタンを
張ろうと思っております。床にトタンとはあまり聞かない
話ですが、トタンは意外と雨でもすべりにくいのです。
それにしても「石巻合板」の合板はすごい。なにしろ
戸外の床に使用して10年以上もったのだから。

★
有名な創世記3の14、ヘビに対する主の言葉ですが
新改訳では「お前は一生腹ばいで歩き、チリを食べ
なければならない」と訳しています。

しかしここの「ねばならない」は全く余計です。
口語訳でも「総べての英語の訳」でも、ここに「ねばならない」
はありません。どうしてここに、原語にない「ねばならない」を
加えたのか、はなはだ疑問です。

チリとは人であり、ここは「サタンは人を食して生きる
ことになる」と言う意味であって、神は「サタンよ、あなたは
人を食べなければならない」と言ったわけではありません。
この差異は小さくはないでしょう。

日本語としての「美しさ」などはどうでも、原語の意味を
愚直に示すことだけを目的としら日本語訳が待たれます。
(それはきわめて困難な仕事であることは分っておりますが・・)

ちなみに、詩篇27の2
「悪を行う者が私(ダビデ)の肉を食らおうとして」と
ありますが、この「食べる」はヘブル語のakalであり、
この語は創世記3章のヘブル語と同じです。

またこの「肉」はヘブル語のbasarであり、新約聖書の
肉・sarxに該当する語であることは意味が深いです。

サタンの食料は人であることは明らかですが、サタンは何も
人の全体を食べるわけではなく、彼が食べたいのは、ひたすら
ただ人の肉だけなのでしょう。キリスト者の中には、サタンが
食べたいどころか「近寄りたくも、考えたくもない」という部分が
きっとあるのです。

それにしても、サタンがこの地上で、食料にことかくように
なるのは、一体いつのことでしょうか。

2011年9月2日金曜日

完成する前にクサレかけた

昨日は雨の合間を見て
とても古くなったロフトのデッキの修復にかかりました。
この小屋はまだ完成していないのにもう腐りかけている
のです。(これは何かを表していないでしょうか。)

★
聖書の通読、旧約は今まだ詩篇です。詩篇26の4~8:

①私は不真実な人と共に座らず、偽善者と共に行きません。・・
②主よ、私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを
歩きましょう。
③感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しき御業を余す
ところなく、語り告げましょう。
④主よ、私はあなたのおられる家と、あなたの栄光の
住まう所を愛します。

この旧約時代のダビデの言葉の中に
新約の②キリストの血と③私達の宣言と、そして④エクレシアが
あります。

②祭壇とは新約では十字架です。ここにおいてダビデは
動物の血から見る真の子羊・主の血を、彼の生活の場において
あり難くいただき、日常どうしても自分の手が触れてしまう
小さな罪やけがれ、過失、失敗をさえ、ただイエスの血によって
そのツド洗っていたことでしょう。

③「くすしき」とはヘブル語のpala'で
「ワンダフル 不思議な、考えられないような」と言う
意味だそうで、正に新約とピタリです。
これは明らかにキリストの十字架、復活、昇天、御座を
言っています。私達はこのイエスの圧倒的な勝利と敵の敗北を、
総ての造られた者達に日々「声に聞こえさせ、余すところなく、
語り告げる」必要があります。

④神の家は当然新約ではエクレシアです。私たちが愛すべきものは、
ただ主とそして神が愛するもの、即ち神の家以外にはありません。

①しかしまた私達は「この世との交流」には十分気を配る
必要があります。私達は絶対に修道院に行くべきではありませんが
この世と「共に座り、行く」べきでもありません。



2011年8月31日水曜日

空気は秋

ケサはずい分涼しく、今上に三枚着ています。
空気は完全に秋です。

★
創世記1章の26節から28節を見ると、人は

「ヘビを初めとする、総べての被造物を治めるように」
と、神によって創造されたことが分ります。(1の27と28)
だから本来・人の目的は「万物・特に神の敵を治めること」です。

所が事は全く逆となり、
人はヘビによって支配される、という結果になってしまいました。
だからヨハネは
今「全世界は悪いものの支配下にある」(第一の手紙5の19)
と言うのです。ここの原語の意味からすると、人は
「サタンのまな板」の上の魚状態であると言ってもよいでしょう。

更に聖書によると
ヘビはアダム以来「地のチリ」(人)を食べて生き続けており
(創世記3の14)遂には龍のように巨大になって、最終的には、
悪人の最後のあがきのように、人類をヒドク痛めつける
ことになるのです。これは何たる悪の姿でしょう。

以上の意味は今、全世界的なスケールで
人類はサタンの意のままに動かされているだけでなく、

総べての人間、一人一人の人生も、その細部にいたるまで
見えない神の敵(ヘビやサソリ)によって
侵略され、圧迫され、苦しめられているということです。

だから人類は、良かれという善意のもとに
大変な努力をして幸福を追い求めているにも関わらず、いつに
なっても、本当の意味での喜びや自由には到達しません。

また個人のレベルにおいても
痛みや苦しみや圧迫の全くない日はただの一日とてない、
というのが正直な所ではないでしょうか。
このことこそが人の根本的で深刻な問題です。

従って、私たちは一人一人が
今日・見えないヘビやサソリ達の悪意ある意志から自由にされ
自分が自分を治めると言う「真の自治」を獲得しなければ
ならない、のではないでしょうか。

確かにイエスは言われたのです:
「私はあなた方に、ヘビやサソリを踏みつける権威を
さずけたのです。」ルカ福音10の19




2011年8月27日土曜日

静かな奇跡

神は何故か私達の
普通の生活を、ことのほか重んじられます。

福音書を見てもイエスは、人による人らしい生活の
中にこそ、あえて入って来られたように見えます。※1
そして時に、とても当たり前のように不思議を
されました。

それは実に自然だったので、何千人もの人々に、
パンと魚を満腹するほど食べさせられた時でさえ、
騒ぎ出す人はいなかったのです。※2。
そのこと自体がまた大きな不思議ですが
しかし御国の王イエスにとってそれは正常です。

おびただしい群集は実に整然としており、とても
静かでした。記者もそれをさりげなく書いています。
このさり気なさが、このエクレシアの時代における
みこころです。この時代における神の方法、
イエスによる支配の様は、
神の法に従った地球の運行のように
美しくまた静かです。

※1
多くは自然な食事の場面、人の病や死という悲しみの
場面、婚礼、旅行、男達が仕事に疲れた場面等です。
「集中的に私を拝みなさい」と言ってイエスが
ウヤウヤしく現れた、などと言う場面はありません。
※2
事後、自分のためにイエスの力を利用しようとした
ある人々が騒ぎだしたことを聖書は告げています。
これはみこころではなく不法です。


ある証し2

言われたように、一見他人からみたら、取るに足りない
出来事であり「単なる思い込みなんじゃないの?」と
笑われてしまうなか、というような事でもあったので、
書くべきかどうか迷ったのですが、全てを益と
変えて下さる主を信じて、書いてしまいましたー。

「電光のように神の声が聞えた」とか「不思議な
感覚が全身をつらぬいた」というような「超自然的
感覚」があったわけでもなく「夕食の支度」という
ありふれた日常のワンシーンに、主はあまりにも
自然に、あまりにもナチュラルに働かれたので、
うっかり自分自身でも偶然として片付けて
しまいそうでした。

しかしあれは
「祈った→治った」と言う明確に目視できる
事実だったので、フトこれは神さまだ~! と
再びタマネギを刻んでいて分ったのです。

「きっと主は今までもずーっと生活の中で
たくさんの小さな奇跡をくださったんだろうなぁ、
気がつかなかっただけで」とあらためて感謝が
芽生えました。神様はジェントルマンですね♪

2011年8月26日金曜日

小さな奇跡

普通の生活の中で
「2千年前に、イエスキリストによって
既に達成済みの真理」を、
「私はもうそのイエスと一つにされている」と言う
事実とともに信じ、そして「この場面」の私に適用していると

また
神が私の為に用意された小さな十字架を否まないで
主の手から頂いていると、自然にムリなく

先ず
「どうにも不思議だ、これは主だ」と深い所で感じてしまう
ことが起こりますが、この頻度はむしろしばしばです。
このレベルの場合は それを他人に説明したとしても
「別にどうってことはない」とされるような事ですが、
私の中では明らかに不思議(主)なのです。だから同時に
「主と私だけの密かでミツな幸せ」を覚えます。そんな事なので
このレベルでは人に話さないことが多いのです。

しかしその不思議が、人に現れる現れ方や程度によって、
その不思議現象を 奇跡→更に「しるし」と言っていいケースも
これからは十分に起こり得ると思います。今回の場合も
「小さな奇跡」と呼んでもよい、のではないでしょうか。

いずれの場合でも、その特徴は・・
これは全面的に神御自身がなさったことであり
自分の功績や能力とは何のかかわりもない、とムリなく心から
思うことと、また神からのある「暖かさ」を感じることです。

キリスト者の普通の生活と「不思議、奇跡、しるし」を
完全に切り離すことはむしろ難しいようです。

ある証し

今夜の出来事です。
家事がなんだかいつもよりはかどらず、
あっという間に 夜になってしまい、家族が帰って来る
前にまだまだやって おきたい事はいろいろあるけど、
とりあえず、夕食の準備に取りかかろう!と
夕食を作りはじめていた時の事です。

「痛っっ!」親指を見ると、タマネギと一緒に切って
しまったのです;

血がにじんでいる親指を水で洗い流し、切った所を
ギュッと押さえながら『神様、イエス様、サタンが、この私の
からだという神の神殿を攻撃してます。
それは不法な事です。今すぐサタンをうち滅ぼして下さい
ますように!そして 神の神殿・神の「とりで」である
このからだに、イエスの復活の命を表してください!!』
と懇願しました。

『この指が今すぐ治ったら、家族に証しします。
そうしたらますます あなたの事を信頼し、信じるように
なりますから!』
『ご飯も早く作らなくっちゃ、お腹へらしてる夫がかわい
そうです。神様、なので、一秒でも早くお願いします~!!』
…とほんの数分の間、懇願しつづけ、そっと親指を
見てみると…
なんと、傷口がふさがっているではありませんか!
感動にひたる間もなく、夕食を無事に作り終え、食べ終わり、
再び傷口を見ると、どこを切ったのかもわからないくらい、
治っておりました。☆
もちろん、神様とのお約束ですから、夫に傷口を見せながら
話しましたよ♪

今日の私は、自分で自分の評価をつけるとしたら、決して
合格点ではなかった のですが、自己評価や、何を成し遂げたか
等に関わらず、イエスキリストにある ありのままの私を
受け入れて下さり、ご自分のものとして下さって
いるんだなぁ、と思い、神のあたたかい眼差しを
感じたように思いました。

これから先、親指を見つめる度に今日の日を思い、
神様の気配を感じるんだろう と思います。

2011年8月24日水曜日

シンク用電灯のスイッチを設置しました

昨日オソルオソル小さな電気工事をしてみました。
どうして普通の電気コードには必ず線が二本
入っているのかが70歳になってようやく分りました。

天(電源・遠い発電所)から流れて来る聖霊は、
私たち(エクレシア)の霊(発光器具)を経由してまた天に
帰って行き、そしてまた地にいる私たちに戻って来るという
瞬間的・永遠のサイクル・循環(即ち交わり=礼拝)のため
なんですね。

即ち、線が二本入ってないと、天地にまたがる
「巨大な一つの輪」(これがエクレシア)を形成することが
出来ないからです。それは往復用であり、
無限にくりかえす交流のためです。


★ある対話★
ルシファーは限度を越えて、自分を高くしようとするトンでもない
不法に陥り、自らを無限に落下させる原因をつくりました。
不法(的外れ)があれば、それが堕落であり、必ず墜落に
至ります。(この二つの漢字・堕落、墜落はよく似ています)

しかしイエスはただ、みこころ(神の喜び)のために、
自らを低くされた(ただ死のみでなく「十字架の死」に至る
までも)ので、神は彼(人の子)を無限に高くされました。
全聖書を通して、上記の二者をクリアに対比(コントラスト)させ、
それを全被造物に見せることに神の深い深い意図があるようです。

Aさん:今日はなぜか「敵へ放つ神の言葉」が止まりません。

アーメンです。時間の中では
私たち(やはり人の子)の口から発せられる神のことば
(真理と命と光)は一回一回「ウソと死と暗黒によって生きて
いるサタン」を少しずつ後退させ、遂には落下(裁きの執行)
に至らせるのだ、と思います。

このことは深い神のみこころと完全に合致するので
(神のアーメンがあるので)あなたの霊の中で、
「真理の宣言」は止まらない、と感じられるのでしょう。

私達はこの世で、神のアーメンがある「小事」を
日常生活の中で淡々と行って行けばよいのだと思います。

*
シンク(台所の流し)の上のライトが、スイッチ・オンで
パッと灯った瞬間は、嬉しかったですねー。

2011年8月23日火曜日

額を作っています

寒いですね、というあいさつが
ちょうどいいような阿武隈の朝が続きます。
それと雨のせいで、冬のためのマキの仕事は
さっぱり進みません。この分だと冬に間に合いませんね。

この数日、むき出しで長い間・壁に張っていた風景写真を
ホコリから保護するための額を作っております。ワクを作り
プラスチック板でおおうのですが、全部初体験なので
試行錯誤の連続はしかたがありません。
紙の写真のシワを取るにはどうしたらよいのでしょう。


★
神はただお一人なのですが
詩篇に「神の会議」や「神々」が出てきます。
またイエスも「神々」の存在を暗示されました。
多分その神々とは霊的な被造物、天使達でしょう。
天使の能力はすごいです。ただ一人の天使が一寸現れただけで、
それに遭遇した人間は死人のようになったといいます。

もしも非常に多くいる天使が神々とさえ呼ばれた
とするならば、彼等と比較しても
極めて卓越した力、権威、美を与えれたルシファー
(堕落以前のサタンの名)はどんなだったでしょうか。
また彼の心境は。

もしも神の存在が作り話でないとするならば、
確かにサタンも実在するでしょうし、今現在、
神に反対して、人の上に駆使(くし)している
サタンの権威、力、美はただならぬものに違いありません。
確かにそれは、彼がこの世の神と呼ばれるゆえんです。

2011年8月22日月曜日

古い布に穴を開ける虫

ギリシャ語原語によると、新改訳聖書で虫けら
と訳された言葉は、成虫ではなく、幼虫時の、はう虫
を指しているようです。

自分を虫と言ったのはダビデとイエスです。
有名な詩篇22に「私は虫けらです」と言っています。
ギリシャ語の注解には、この言葉は女性名詞で
「崩壊の原因になるもの」と説明しています。彼等は
一体何を崩壊させるのでしょうか。

またイザヤ41の14で神は、恐れるな「虫けらヤコブ」
と言っています。この英語訳は「O,worm.Jacob」です。
だから神の民とは、一つの意味ではそのような虫であり、
明らかにこの世ではバカにされる存在です。

ヨブ記13の28では
「虫に食われた衣服」が出てきます。(a garment that
is moth eaten )この虫は原語ではガですが
ガが衣服を食べるのはやはり幼虫の時です。

しかし青虫や毛虫のような真にみにくい生き物でも遂に
成虫になる時、全く新しい、第3次元の世界に飛び立って
行きます。

またイエスは「虫が食い、サビがつく」この世の宝の
ことを言っていますが(マタイ6ノ19)この虫も原語では
ガです。それも「布を食べるガ」だそうです。当然
ここで虫と呼ばれているものも、古い衣服に微小な穴を開ける、
めったに人の目には 触れることのない、とても小さな幼虫達
を指していることでしょう。

上記のヨブ記13章の「衣服」は、どうしても福音書の
イエスのことば「新しい布で古い衣服にツギはあてない」の
「古い衣服や新しい布」を連想させます(マルコ2ノ21等)。
しかし 生まれながらの人は、間もなく古びるこの衣服の
中で生きざるを得ません。

所がイエスはその古い世界に、新しい天からの布で ツギを
あてがうような一時しのぎの改善はしないと言っています。

しかし将来、私達は全き状態において
「もはや永遠に古びることのない新しい布」でおおわれて
生きることでしょう。しかしその事実は今すでにin
Christ(キリストの中にいる)という状態において
開始されていなければならないはずです。

この布はまた、ペテロの前に四隅をつるされて天から
降りてきた「汚れた生き物」即ち生まれながらの様々な
人間、を入れた布を思い出させます。
その時、神はペテロに「ほふって食べなさい」と
言われました。ほふるとは十字架を暗示しており、
その意味は、布の中の生き物(人)は必ず処理され
(十字架の死を通り)エクレシアの中の交わりに入るべきである、
ことを意味するのでしょう。

当時のペテロやユダヤ人達にとって、そのような様々な人々を
受け入れることは相当困難な「神のみこころ」であったのです。
しかし感謝です、ペテロは神からの啓示に従い、そのような
「汚れた異邦人達」をも受け入れたのです。

また
「虫にかまれて死んだヘロデ王」の虫は「虫達にかまれた」
という形容詞一語で表現されているのだそうです。
(使徒12の24)この用法は新約聖書中 ここだけで
用いられているとのことですが ギリシャ語にはそんな
形容詞があるのかと不思議です。

さて
実際にヘロデを打ったのは「主の使い」でした。これは
黙示録で 悪魔を天から地に投げ落とすミカエルを
連想させます。

そうなると「ミカエルと虫達(複数)は天と地で 一つとなって
働く」という事実を見て取れるのですが、虫たちの役目は、
地上をはいまわり、古い布ぎれに 微小な穴を開けて、
天の光を地上に導入する事ではないだろうか、
と考えると これは素敵な想像ではないでしょうか。

以上、虫と訳された語は、同じ一つの原語からでは
ありませんが、全部「はう青虫状の虫」(幼虫、幼い虫)
を指しているらしい、というのは 面白いことです。
その虫とは、地をはうように生きる、寄るべなき私たち
(赤ちゃん)のことかも知れません。

2011年8月20日土曜日

ケサはストーブですよ

福島の阿武隈は比較的に首都圏からも近く、標高も
そんなに高くないのに、どうしてこんなに「寒い」ので
しょうか。

★
さてある対話です。↓

イスラエル人達が
私たちをさばく王をください、と言ってサムエルに
強く迫った時、サムエルは気に入らなかったようですね・・

*
その通りだと思います。
それはまた神ご自身の御おもいでした。
私達は神の「初めからのみこころ」に従うべきであり、
私達の「かたくなさ」の為に「引き下げられた水準」を見て
「神が許された」と言って満足するべきではありません。

かたくなな「試みる者」がたくみにイエスに迫りました。
(マタイ19章)「妻を離別することをモーセ(神)は認めた
ではないか」と。

しかしイエスは言われました「初めは(In the beginning)
そうだったのではない。それは人のかたくなさの故である」と。

子供が「肉が食べたい、食べたい」とダダをこね、父の第一の
「初めからのみこころ」にいつまでも従わないと、神は
大量のウズラの肉を送られるかも知れません。
しかしそれは明らかに神を悲しませることです。
(究極的には人も満足することが出来ませんし
いずれ悲劇に至ります。)

「初めに神」(創世記1の1)の「みこころ」があるのであり、
「初めに人の」ではない、のではないでしょうか。

2011年8月19日金曜日

山小屋の飲料水はシロ

私が毎日・山小屋で飲んでいる水の放射能検査を
してもらいました。8月17日に、私が
2リットルの水を業者に渡しました。
(田村市がこの専門業者に検査を委託したのです。)

その結果が今日出たのですが
放射性物質は全く確認できなかった
ということでした。不検出です。

この水は近くの「マイマウンテン」である
天王山(標高900m)から湧き出る沢水です。

トミーさんとの対話

私は、信仰を持ちたての頃、自分の神に対する罪の故に、
イエス様に十字架にかかってもらうことは申し訳ないと
思いました。神に対する自分の罪の罰は自分で受けることが
ふさわしいと思ったからです。

主イエス様にそのことを祈ったところ、イエス様は言いました。
「あなたは地獄を分かっていない。私にまかせなさい。」と。
↑
主らしい語りかけですね。とてもアーメンです。

あ今この瞬間、結構大きな地震が来ました!(14:37)
家具を押さえながら、いつものように
「サタンよ、あなたの国も間もなく神によって
激しく揺り動かされるよ」と言いました。

結果:
福島県沖で震度5弱、
家具がユサユサ揺れましたが、物が落下するなどは
全然ありませんでした。3・11があまりに巨大だったので
余震は数年続くだろうと言う説もあり、個人的には
全く心配しておりません。
今日はとても涼しく、長袖を着ています。

2011年8月18日木曜日

「小さな群れ」の貴重さ

キリストは
「小さな群れ」の重要性を強調されましたが
その継続は簡単なことではありません。

そのような集まり方・・
即ち、少数のキリスト者達が、全く対等な関係を
守りながら、しばしば集まること・・は
性質上、他の集まり方とは
根本的に完全に異なったものであるからです。

普通の一人のキリスト者が(単なる一兄弟として)
普通のなんでもない人間生活の中で、しかし人々には
知られることなく、
1.いかに御血にあずかったか
2.いかに神の敵に対して、証のことばを口にしたか
3.いかに自分の命を惜しまなかったか(黙示録12章)
によって、数名からなる
「普通のキリスト者の普通のあつまり」が 初めて継続可能な
ものとなる筈です。その一つでも欠けるともう難しいでしょう。

この二千年間、キリスト者達は容易に
先ほどの三点は「とても難しいものである」と結論づけるので
彼等はどうしても「他の方法」に流れて行かざるを得なかった
のです。(その流れが「キリスト教というもの」の歴史です。)

だからこの20の世紀の長い時間の中でさえ
初代のある時期を除き、そういう小さな集まりの継続は、
そんなに多くはなかったのではないでしょうか。
イヤ、とても少なかったはずです。

くりかえしになりますが、先ほどの「天来の三つの条件」が
本当に存在してこそ、人の目には簡単そうに見えるが、
内的には「天の性質を帯びた稀有(けう)な集まり方」が
初めて現実のものとなるのでしょう。

だからある意味で、それは
奇跡(天の法則が地上の法則を越えて現れること)です。
だから、もしもそんな奇跡がいたる所で起って来るならば
(当然隠された方法で)私達は 主の再来は極めて近い
と知るのではないかと考えております。

2011年8月16日火曜日

泊り客第一号

昨日から、一人・客人が来られている。
あの事故いらい初めての、記念すべき泊まり客である。
横浜の方だが、岩手でのボランティヤの帰りにわざわざ寄って
くれたのだ。何と交通手段は電車の「オール鈍行」。
彼は正直に「放射能は気にならないことはないですよ」
と言っておられたのだが、私としてはやはり嬉しい。

「自然は大好きです」と殆どの方は言われるが
その意味合いや程度は真に様々なので「油断はならない」。
しかしより若い頃、彼は台風になると嬉しくなって
外に飛び出したとか、何とあのチョウ危険な「沢登り」も
やったことがある、というのだから、その「自然大好き」の
程度は常人をはるかに超える。

だから昨日夕方「草深いこの小屋」に
車がいくら近づいても、彼には全く驚く風はなかった。
これも嬉しい。

彼はまだグッスリと眠っておられます。
「あれもう秋が来たのかな」というような
とてもとても涼しい山の朝、どうか、彼の都会生活の疲れが、
ここで少しでも癒されますように。


2011年8月15日月曜日

入道雲

小屋内外の雑物のカタヅケをしています。
ようやく「こざっぱり」として来ました。
そういう空間にくつろいで、森や空を眺めるのは
気持ちがいいものです。盛夏、特に空高くそびえる
モクモクとした壮大巨大な入道雲が好きです。

★
さて、法とはすごいものです。
「神は法そのものである」とも言えるかも
知れませんが、その法の制定者神でさえ、
法、法則、御自身のことばの制限を受けられるほどです。

旧約とは要するに「律法(法)と預言者」ですが、
預言者とは、法に基づいた
私のための日々毎分の「法の詳細」でしょう。

しかし、新約においては、総てが一気に単純化されます。
(これに気付かないと大変です)神は
イエスキリストを唯一「律法と預言者の具体化」と
定められたのです。
それは要するに、キリストを持てば、律法と預言者の
総てを持つ、ということです。それ故、神はモーセ(律法)
とエリヤ(預言者)を断固退けて、ただ一人キリストを
推薦(すいせん)して見せたのです。(マタイ17)

しかし、この啓示においては
私達は眠ってしまうか、トンチンカンなことを言って
しまいがちです。

だから後に新約聖書の手紙は改めて、いろんな角度から
「キリストイエスが私達の総てである」と言うのです。
聖書が総てというからには、キリストは本当に総てです。
(キリストは私たちの総ての必要の満たし、私たちが
必要とする総て力の源・・・)

所が、この表現(キリストは総て)はとても
美しいので、その真意が私たちに届かないことが多い
ようです。それ故「私たちが生きること=キリスト」である
とさらにパウロは言ったのではないでしょうか。

2011年8月12日金曜日

震度5弱だそうです

早朝の地震、震度5弱だそうです。
ほんの少しだけ、タナのものが落ちましたが、まあ
どおってことはありません。またか、
ということろでしょうか。

今小屋内外の整頓をしています。
地下の客間を一つ物置としてつぶしたら
1、2階のカタヅケがずい分ラクになりました。
これでようやく
この小屋の震災からの復旧が総て完了したことに
なります。自分に「おめでとう」と言いましょう。

★
朝、詩篇とルカを読んでいます。

詩篇18の3:
主は・・ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、
私は敵から救われる。

ダビデの場合も
賛美と懇願が彼を敵から救いました。

このダビデの言う「彼(神の民)が敵から救われる」
というその分量だけ、敵が後退し、結果その分量の
神の国が地上に現れることになります。だからダビデの
祈りにおける賛美と戦いはとても「真剣」なものでした。
真剣とはまた神のことばのことであり、それを敵に対して
突きつける時、敵は「後づさり」せざるを得ません。

ルカ12の31、32、37:
何はともあれ、神の国を求めなさい。・・・
小さな群れよ。恐れることはありません。
あなた方の父であられる神は、
喜んであなた方に御国をお与えになります。・・
目を覚ましている所を見られる「しもべ達」は幸いです。

「御国が与えられる」というのは、ダビデ同様
今すでに私達においても始まっていなければなりません。
この前後のルカの記述を見るまでもなく
御国とは、キリスト者が死んだら突然与えられるもの、
である筈はありません。



2011年8月11日木曜日

立ち上がったダビデ

私たちにとって
「取り返しのつかない失敗」はあり得ます。
しかし、神にとって
私たちの取り返しのつかない失敗はあり得ません。
イエスの無限に尊い御血以上に重い
人の罪は断じてあり得ないからです。

早速
とても素晴らしいコメントをいただきました。
ありがとうございます。↓

*
昨日、ちょうど「霊の人」の2巻の”悔いる”という所を
読んでましたが、まさにダビデは詩篇の中で、賛美の前に
悔いる、砕かれた魂が見られます。(特に6篇など)
ダビデはその失敗を本当に悔いたことでしょう。
それは本当に敵を意識した神への懇願だったと思いました。

この悔いるということは、敵には絶対不可能ですが、
人にとってはとても貴重なことですね。賛美もそうです。

「悔いる者の霊は神の霊と共にあり、悔いることによって
目を覚まして歩むことが出来る」とありました。
まさにそうです。

しかしその明確な悔い改めの後、シッカリと立ち上がった
彼の姿は、神への大きな賛美と敵に対する大胆な糾弾へと
極めて大きな変化をとげたのです。

イザヤ57:15
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖と
となえられる方が、こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人
とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を
生かすためである。」

★sugar:
きのう突然、東京から6名の方たちが訪問してくださいました。
私は「勇気のある皆さんを歓迎します」と言いました。




ダビデのうたた寝

ケサも詩篇を読んでいましたが、
詩篇のテーマは正に賛美と戦い、そして十字架です。
この三つが一貫して流れています。

その中でも、敵に対する
「仕返し・報復を神に懇願する祈り」はとても大切です。

ダビデの祈りはその点、何と具体的で強烈、そして
数多いことでしょう。
(私たちの祈りもそのようであるべきです。)

ダビデの実際的な戦いために、彼の隠された
そのような懇願は、相当大きな役わりを演じた筈です。
その点彼は、ルカ18章の
神に対して「しつこい」ヤモメと全く同じです。

ですから、神の国のために、
常に戦いの渦中にあるべきダビデに「霊的なうたた寝」を
する時間などあろうはずがありませんでした。

しかしⅡサムエル11の1,2を見ると
春のある日、そのダビデも、怠惰な長いうたた寝の後、
取り返しのつかない大きな失敗をしてしまったようです。

霊的うたた寝とは、
悪霊が私の霊を閉じこめようとする力に反発するべく、
聖霊と共にある自分の霊(きわめて深い所にある自分自身)を
外面に強く押し出すことをおこたり、
「自分のベッド」にもぐりこみ「自分の世界」の中に
引きこもってしまうことではないでしょうか。

「だから目をさましたいなさい。」(マタイ24ノ42)

2011年8月9日火曜日

賛美は敵をはずかしめる

正にその通りだと思います。

賛美とは当たり前ですが「神だけへの」賛美です。
その意味は・・

私はこれまで、自分やこの世に頼り、人間をほめたたえる
ばかりでありました。即ちそれは、結果としてその背後にいる
「自分とこの世の深い力・サタン」に従い、彼を
賛美していたことになります。実際のところ、私はサタンに
よって大いに苦しめられて来たにもかかわらずです。
(ホンとにおかしな話です!)

しかし神は、御子の十字架の御業によって
私たちを苦しめ続けた神の敵をうち砕いて下さったので
今は「ただ神だけを」賛美するのです。そして
「神以外の総て」の背後にひそむ諸悪の根源・サタンを
引き続いて退けます。

と言う意味なのですから
賛美はサタンをヒドク辱(はずか)しめることになり
それは同時に、その手下ども・悪霊達を退散(たいさん)
させます。(その結果、賛美する者はたやすく
あるフシギな精神的解放を感じるのです。)

要するに神への賛美とは、結果的に
「サタン、あなたはあの十字架上で、既に神によって
打ち負かされているのだよ!」という真理を
サタンに対して私たちが力強く宣告することです。

だから「人の口による」心からの賛美によって、既に敗北
させられている悪霊達の真のありさまや正体の暴露(ばくろ)
することほど、彼等をおののかせるものはありません。

従って、乳飲み子、みどり児(私たちです)が
「詩歌」を心から歌う、気持ちをこめて歌うことは
悪霊達に対して
とても効果的であることは疑うよちがないのです。
(またそれは「人の霊を強くする」訓練としても
大いに役に立つことでしょう。)

詩篇8編、ミュージシャン・ダビデの詩は
「賛美による悪霊に対する勝利」という彼の
実体験から生まれたものに違いありません。

2011年8月5日金曜日

晴天はあさってから

きのう、
「ジメジメ天気はいつまで続くのだろう」と
つぶやいたら、今日の朝、ホンの一時的に、パーっと
全面とても美しい青空になりました。(神様、有難う。)
本格晴天、今日の予報は「あさってから」だそうです。

★
ほんとに敵は、とことんワルですね。
正解は『悪の根源は人ではなく、サタンにある』のです。
(イザヤ14-12~15)
↑
コメント感謝です。
本当にサタンはワル「ウソと死のカタマリ」です。
彼のどこを切って見ても、その二つ以外のものは流れて
来ません。即ち、この二つはサタンの血です。
その意味は「彼にとって、彼の命・彼が生きることは
即ち、彼の死といつわりである、死といつわりが
彼の総てである。」 と言うことです。

イエスも
「サタンがいつわりを言う時、彼自身のものから語る」
と言われました。(ヨハネ8の44)
しかし、
「私達が生きるということ」はパウロのように、ただキリスト
であるべきです。To.me.to.live.is.Christ(ピリピ1の21)

*
「聖なる創造主・神」対
「無限とも言えそうな、被造物サタンの悪」
(神はこのテーマだけでも大変です)

これが聖書の「最も深いテーマで」あり、首尾一貫して
聖書を流れる背景です。これは背景ですから、
隠れているサタンが読者の目に入らないことも多いのです。
(目前の展開に気をとられますから)

さらに「主要なテーマ」は
その二者(神とサタン)の間に、あえて中立的な存在、
全く自由な意志を持つ人を置かれ、

しかし神はついには、 どうしようもないと見える
サタンの支配に引きずり込まれてしまった人をして、
(引き続き自由意志を与えたまま)信仰を賜(たまわ)り
神と共に「サタンを含む万物」に勝利させ、
万物を支配させるにいたる、と言うことかも知れません。
(これは神にとって、さらに大変なことです。)

しかし、神は神です。かれは以上の遠大なご計画を
必ず達成されます。イナ永遠においては既に
総てを達成されずみである、とも言えるのです。

結局私達は、
「ああ神よ、あなたは真に偉大です」と叫ぶ以外
何をすることも出来ないのです。

*
ですから聖書を読むとき、神の愛に加え、
「万物」「サタン」「だれが支配するのか」「信じること」
「戦い」「人の自由意志」などから目を離すわけには
行きません。

2011年8月4日木曜日

外仕事がしたい

夏だというのに、毎日ジメジメとした天気が
続いています。(今も外は霧)どうしたことでしょう、
いつになったら外仕事が出来るのかな、
予報をみると面白いことに(くやしいことに?)
晴れの日は毎日「しあさってから」なのです。

★
さて、私達キリスト者は、実は神によって
「24時間、常に法廷に置かれている」のです。
あなたの「普通の人間生活」が総て法廷であり、
今とは法廷の中ですごす時代なのです。

しかしサタンは、まんまと、ほとんどのキリスト者
に対して、この事実をかくすことに成功しております。
私達は、自分は法廷にいるという自覚がないので
日々気ままに、ただ自分のための生活を送るばかりです。

従って、法律の中に何が書かれているのか、今、法律の
中でポイントとなる法律は何かを知ることはないし、
ましてや「適切な法律を取り出し、どうやって法廷で
敵を追いつめるべきか」等の研究をすることもありません。
極端(きょくたん)になると、法廷や法律等の
存在を知らない人さえいるようです。

しかし中には
あの悪者にウスウス気付いている人もいるのですが、
この悪人の黒い影というハリコのトラのオドシにおびえ、
「さわらぬ神にたたりなし」と事実を見ても見ぬふりをする
ばかりです。(それとなく恐れさせる手法は古今東西、
「暴力と悪」が使用する、ありふれた手口なのに・・)

これでは汚染、腐敗は広がる一方です。悲しむべきは
「悪の根本」に迫ろうとする人、悪に対抗して、真剣に
立ち上がろうとする人、即ち「真の義人はとても少ない」
と言うことです。
(ロトでさえ少しは義人でしたよ!Ⅱペテロ2の8)

私達の状況がこうなのですから、本当の悪人、諸悪の根源は
今日「彼の本当の姿、彼のヒドイ悪事があばかれる」ことから
ゆうゆうと免(まぬが)れているのです。

これは神の敵の大きな成功です。
自分を物や事の背後に隠すこの黒幕(くろまく)は、実の所
正に野放し状態なのです。なぜなら彼は、彼の無数の手下、邪悪な
チンピラである霊どもを日々使って、ほとんど彼のしたい放題の
悪事を人々や神の民に対してさえ、ヤスヤス実行することが
出来るからです。

真に、悪の本質と手段とは、隠蔽(いんぺい)であり、真相を
かくすというウソ、すなわち虚偽(きょぎ)なのです。その中でも
最大級のものは「悪の根源は人間にある」という「彼の隠蔽」
即ち自分を隠して、悪事を総て他のせいにすることです。
聖書は言います「この悪魔に立ち向かいなさい。」
(Ⅱペテロ5の9)

2011年8月2日火曜日

ルカ18章のヤモメも参考にして下さい

ルカ18章のヤモメとは私達、
ヤモメをひどい目にあわせる相手とはサタン、
裁判官は神です。

ここでは、ヤモメが
裁判官に対して、相手のムゴさ、ヒドイいじめへの
「仕返し、報復」をして下さいと、日々「うるさいほどに」
しつこく訴える点に強調があります。

このことを私達に当てはめて見るとき、
日夜サタンと悪霊によって手ひどく苦しめられている
私達がこれを実行しない理由はどこにもないのです。
実はこれこそ、この最後の時代に、主イエスがキリスト者に
求めておられる要求です。(8節のイエスのことばに注意して
ください。これは彼の「ひめたる」大きな期待から
発せられたことばに違いありません!)

さて、ヤモメが裁判官に対して、要求・懇願(こんがん)した
時に用いた言葉は「裁判」「さばき」という上品な言い方
(新改訳)ではなく、リベンジや「あだうち」と言った
強烈(きょうれつ)な意味をふくむと言います。

結論として
私達が霊的戦いにおいてするべき2方面とは
①直接私達が、サタンに向かって発する糾弾(きゅうだん)と、
②私達が神に対して「カタキ・サタンを滅ぼして下さい」と訴え、
懇願(こんがん)・要求するという二つです。

いずれにおいても、極めて大切なことは
「神のことば」である真理(法)にかたく立ち、
それを実際に具体的に口にすることです。

私達がサタンを糾弾(きゅうだん)する場合
神のことばをも悪用するサタンの巧妙なダマシに対抗し、
神のことばを正しい方法で、私達の口からサタンに向かって、
真っすぐに突きつけることが大切です。悪霊に対して、
私達の口からもツルギがつき出るべきです。
それは荒野における主イエスの戦いと同じです。

エデンにおいて、
人はサタンのたくみな言葉に破れました。
しかし、荒野において
人の子はサタンに、やはりただ神のことばによって
勝利されたのです。(マタイ4章)

階段のかべを作っています

雨降りなので、中で階段横の壁を作っています。
これが終われば、二階を一階から遮断(しゃだん)
するために板で階段をおおうのですが、そのための
よい方法をきのうフト気づいたのです。それは実に簡単で
効果的なやり方なので、自分ながらちょっと驚ろきました。
(それまでは相当面倒な方法を考えていたのです。)
山で一人で大工をしていると、時にこう言うことが
起るので面白いです。

★
さて
私達がサタンを糾弾(きゅうだん)することは、
実に奥が深いです。 黙示録12章によれば・・

先ずは、①御血が、絶えず、絶対的に必要です。
それを忘れ、自分で出て行ったら(サタンに対抗したら)
戦う前にボロ負けが決まっています。

次は②「証しのことば」ですが「証し」とありますから、
それは、私達が 法律(神の言葉)をよく知った上で、
法廷に立つ姿を連想させます。法廷とは当然、ことばが
大いに飛びかう場所です。

その証人(私達)の前には、裁判官なる神と、
私達の横には、敵である巧みな「訴える者」がおります。
その訴える者(サタン)はきわめて勤勉で、実に口八丁
手八丁、とても高い能力を持ち、とうとうとして、私達を
(本当は日夜)訴え続けるのです。(何とずうずうしい!)

彼の本質は悪(ウソと人殺し)なのですが、法廷の
場面においては、必ずしも正義が勝つとは限りません。今とは
「あなたの現場で」常時開かれている「法廷の時代」なのです。

また背後には 無数の傍聴人(ぼうちょうにん)すなわち
有形、無形の被造物(天使達)がいて、一言も聞きのがす
まいと、カタズをのんで主役の対決を見つめているのです。
当然、傍聴人が発言することは許されません。

裁判官も、法廷においては、特に今、
(サタンの不正に対する彼の激怒(げきど)は明白なのですが)
その最終判断をかくし、あまりしゃべりません。

だから あの訴える者に対する私達の言葉や弁明等
(法律が正しく適用されているか等々)に加え、
私達の態度、目つき、顔つき、語調などが
総ての「なり行き」を決定するかのようです。

最後に
私達は③「自分の命」を惜しまないことです。
これは日々負うべき私達の前に置かれた十字架です。
実は「自分の魂の命を捨てた者」以上に、この世で
強い者はいないのです。

もしも以上をクリアすることが出来れば、あのたくみな
訴える者も、何回でも!イナヅマのように、天から地に投げ落と
されるでしょう。 今日でさえ、主イエスは(時空を越えて)
それをご覧になるのがとてもお好きです。(ルカ10章)

2011年7月31日日曜日

お見舞い有難う

早朝の地震は大きかったですね。
私も目が覚めました。
大丈夫でしたか?
ズーッと気になっていたのでメールしました。

*
ハイ、有難うございます、大丈夫でしたよ。
相当、ゆれはゆれたのでしたが、被害はゼロです。

ふり返って、3・11ですが、
近所の別荘では壁がめちゃめちゃになって、
全部・作り直しだそうです。でも、この小屋の母屋はヘンです、
全く大丈夫だったのです。

「電柱のやぐら」の上に建っていて、地球に直接接してない
建物なので、ゆれ方は物すごいのですが、その構造がかえって
免震効果になっているのかも知れません。

それはそれとして、寒いですよ。
やはり夏は夏らしくカッと暑い方がいいです。

2011年7月30日土曜日

ベッドの高さ

自分にちょうどよい
ベッドの高さの「みきわめ」は微妙(びみょう)です。
それが少しでも高すぎると、部屋の中での
「おさまり」が悪くなり、人も落ち着きを失います。
このことは霊的なことがらにも当てはまりそうです。



*二つの協力(祈りと十字架)*

さて、敵の手段とは、私達に対する
いろいろな程度のウソと殺し(死)であり、
彼等の願望、意図は この二つを用いて、人をして
「自分の滅亡という運命」の中に引き入れることです。
彼は人を「とも連(づ)れ」にしたいのです。

しかし、彼等の画策(かくさく)は、とうぜん神の微妙
(びみょう)なサジ加減によって制限されます。※1

この局面でこそ、私たちの祈り、懇願(こんがん)の必要が
生じます。実のところ「敵の手前」、神でさえ、人の祈りを
必要とされるのです。何故でしょう。それはその際
人の懇願(こんがん)は、神が敵に対してその力を「公に」
発動することを可能とする根拠、あるいは「うしろだて」とさえ
なるからです。だから、そのような祈りは神への大きな
協力となる、と言うことが出来ます。

そのような「神とサタン間の敵意あるやりとり」をへて初めて
「サタンに許された分量の攻撃」が私たちに及ぶのですが、
当然その背後には「サタンを出しぬく」神の知恵が
隠(かく)されております。

それゆえ、祈り以外に キリスト者が自分の意志で
「十字架を自分に適用する」と言うもう一つの
「神への協力」が、ここで必要とされることになります。

今回くわしく書くことはできませんが、この十字架は
(特にサタンに対して)神が上記の「神の知恵」を発揮
(はっき)されることと実に深い関係があるのです。それゆえ
キリスト者が、日々自分の十字架を負うことは、神にとって
とても大きな価値を持つのです。

(十字架とは「みこころの中において」自分を閉じこめ、
制限し、不自由にする状況を喜んで受け入れることです。)

ところがこの際、実はその事態を私達が
①「十字架として受け入れる」べきか、
②「敵に対して直ちに命を適用するべきか」(※2)という
問題がここにはあるのですが、そのいずれを選ぶべきかは
必ず主が私達の霊の中に示して下さるはずです。
(この段落の記述は今分かりにくいかも知れません。
お許し下さい。)

いずれにせよ私達の敵への対抗手段は
「(私を経由しての)キリストの効き目のある死と命」です。
人がサタンに対抗する手段は、キリストにある「死と命」
以外にはあり得ません。しかし感謝なことに、
この片方には他方も含まれているのです。


※1
この事実はヨブ記などでも分かるのですが、しばしば
その神のサジ加減は 人が頭で考える程度を越えます。
従って、神への信仰はどうしても必要となります。
要するに信仰とは「何がどうであろうと、あなたは
神なのですから、あなたに信頼します」と言うことに
つきるでしょう。

※2
「みことば」をツルギとしてつきつけ、
悪霊を追いつめることなどです。

2011年7月29日金曜日

ベッドけん食卓が完成

まるでツユのような空模様(もよう)、
涼しいというよりはチョッと寒いです。

きのう一日もかからずに、ほぼイメージピッタリの
「ベッドけん食卓」が完成しました。
(あまりに早く簡単にできたので、フシギな感じです。)
ふだんはこれをデーベッド(昼寝台?)にするつもりです。

もしも客が来てくれたら
(そのようなことはとても少ないでしょうが・・)
直ちに天板を高くして食卓に早がわりさせます。
そのシカケはきわめて単純ですが、とても実用的です。

★
「みこころ」の中にある
強い祈り、神への懇願(こんがん)は
神の敵の巧妙(こうみょう)な画策(かくさく)でさえ
破壊(はかい)し・つぶすだけでなく
神のものを立ち上げ、建て上げます。 何と祈りは
結果「十字架や聖霊」とほぼ同様の働きをするのです。

だから敵にとって
キリスト者の祈りほどイヤナものは無いはずです。
なぜなら祈りは 悪霊達のまん前に
「神の力」を引き出し、招(まね)き入れるからです。

霊的な戦いに関して言えば
私達は絶対的に無力ですが 、真に
その「無力の認識」に立つことが出来るならば、
祈りという霊的な手段を持つがゆえに
キリスト者は「神の敵の道」の真ん中に
上からおりて立つ障害物、強力な妨害(ぼうがい)者
となることさえ可能でしょう。

私達は、むしろ事の始まる前にこそ 祈りによって
静かに働き、そして戦うのです。


★美しい言葉★

「ただおことばをいただかせて下さい。」(ルカ7ノ7)
これは
異邦人である百人隊長が、遠くから部下をつかわして
うやうやしくイエスに伝えたことです。
とても美しい言葉だと思います。

2011年7月28日木曜日

マキ置き場1が完成しました

きのうはマキ置き場の一つが完成し、
マキを少し積みました。
電柱と電柱の間に、森からとって来たミズナラを
3m二本に切って、レール状に置き、その上に、
板を打ち付けたのです。大きなミズナラの木を森から
引きずり出すのには骨が折れました。

電柱というのは
小屋の周りを囲むデッキ(ベランダ)を作るために
地中にうめたものです。地震でデッキが落下した部分等
を利用して、ここにマキ置き場を作っているわけです。

今日は雨模様、ベッド作りになるのでしょうか。

★
詩篇9の1:

私は・・ あなたの奇(くす)しい業を
余すところなく語り告げます。
(I will recount all of your wonderful deeds.)

「あなたの奇(くす)しい業」とは せんじつめて言えば
神の勝利と敵の敗北であり、
その実質は
キリストの戦いとその結果の中にあります。

ダビデは
①その事実の上に立っただけでなく、さらに
②彼はその内容を「余すところなく語り告げ」ると言っています。

これは確かに 彼の賛美(2節)と共に
「ダビデの有力な戦いの方法」であったのです。

語り告げる(recount)とは
「…を詳しく話す、詳述する、物語る、
…を順を追って話す、…を列挙する」
と言う意味だそうです。

だから私達も
神の勝利と敵の敗北とは「どんなものであるか」を
霊の中で明確に知り・その上に立ち、次に
その内容を余すところなく
万物に対して語り告げる必要があるのです。

「奇しい」とはワンダフル(wonderful)であり、
キリストの御業は、wonder(驚異・きょうい・不思議)で
満ち満ちている、 と言う意味です。

確かにキリストの死、復活、昇天、御座は
「驚異、ふしぎ」でいっぱいなので
私たち信じる者が
日々「ワンダフル!」と叫んでしまうのに
なんのフシギもないのです。

2011年7月27日水曜日

冬対策

間もなく来る(実際そうでしょう)冬の為に
けっこう作業を急がなければならないようです。
相当の仕事量になります。

1
ストーブで燃やせる建築残骸(ざんがい)を、
小さな四角形を形成する森の4本の木の間に、
うず高く積み上げたのだが、
その上に防雨シートを屋根状につるす。
2
マキ小屋以外に、マキ置き場を「電柱間に」作る。
なるべく真っ直ぐな木を周囲の森から伐採して利用する。
電柱間は9フィートはあろうか。これが4、5か所ある。
3
あちこちに散乱しているマキを、2のまき置き場に
積み上げて干す。
早く干さないとマキが冬に間に合わないので、
マキ小屋作りは後回しです。
4
マキ小屋を完成させる。
屋根は波トタンとする、この手が一番安くて丈夫そう。
5
一階だけで生活出来るように、一階に
「ベッドけん食卓」を作る。この作業は雨天にやる。
2バイ10使用で1×2メートルの大きさです。

6
一階だけで生活するために、部屋の「模様がえ」をする。
おもにタンス、本棚等の移動である。
7
階段の左右の壁に合板等を張って、壁をある程度仕上げる。
(これは8のため)
8
ロフト(二階)への階段を封鎖、密閉する。しかし
何とかして開閉も出来るようにしなければならない。
9
壊れた地下の客室を整備する。
10
地下の客室にある水道管に凍結防止対策を
ほどこす。

ヤレヤレ
「人が暮らす」ということは大変なことですね。

急きょ入山しました

突然ある事情が発生し、入山しました。

★
元来、祈り・神への懇願(こんがん)は
・私には「神の業」を行うことなど
全く不可能であるという認識と
・神にだけ
それは可能であると言う認識のもとに

自然に発生するものではないでしょうか。
その時私はいやおう無しに
どうしても祈らざるを得ないのです。

なぜなら、
潜在(せんざい)的にせよ、心のどこかで
「私にも少しは出来るのではないか」と
感じているならば、もともと何も祈る必要などなく、
自分でやればいいわけで、
その神への祈りは真実性に欠けるのです。

事実、
時間と空間の中に制限され、
自然界しか知らない私たちに、

超自然的力を持つ神の敵の
周到(しゅうとう)な 画策(かくさく)に
対抗する力など モウトウあるはずがありません。
それは悪漢の前の赤ちゃん同様です。

しかし時がいたり、
「私は本当に全く何も出来ない!」と
シミジミ感じること、
私の無力と神の有力を本当に「知る」こと、
これが霊的学課のレッスン1であり、

神でさえ苦労されて
私たち一人一人にどうしても教えなければならない
基礎中の基礎であるはずです。

しかし一面
「その認識の程度」は生涯にわたって
深まって行くことも確かなようです。

2011年7月26日火曜日

虫が少ない

今日も早朝
利根川の散歩が出来ました。
広い大きな空と朝日に輝く雲が美しいです。
ここは虫が少ないので助かります。

★
十字架は、
私の中にある「敵のもの」を破壊(はかい)し
その後、聖霊は私の中に
「神のもの」を建(たて)あげます。

この二つのものは一つの中で働きます。
すなわち、
十字架は、私の中の「神のものでないもの」を
倒しますが、そのこわしの後、私たちを
必ず復活の聖霊のもとにある「立ち上げ」に導かれます。
ところがその聖霊は再び「十字架に向かうように」と
私たちを促(うなが)すのです。

神が私達の中でなさりたい業とは、要するに
この二つのもの(破壊と建造)の循環(じゅんかん)
に過ぎません。

今の時代と次の時代において、
神はキリスト者達の中に
「王国の立ち上げ」を意図(いと)されているのであり、
(今は隠された方法で、次の時代にはオープンに)
究極的には必ず新エルサレムという建造に到達されます。

しかし今この時、この循環がとどこおりなく
行われるためには私に対する「神の働きかけ」への
「私のアーメン」がどうしても必要とされるでしょう。
(私にとって、どんな貴重なものが倒されるとしても・・)

2011年7月25日月曜日

利根川の土手

利根川のどて(堤防)は巨大です。
もしもこの川が氾濫(はんらん)したら
その被害はそうとうなものでしょう。
早朝、
その土手の上をユックリと歩くのが好きです。

★
「小さな群れよ、恐れることはありません。
あなた方の父なる神は、喜んであなた方に
御国をお与えになるからです。」
(ルカ12の32)

私たちキリスト者はよく
「自分たちのグループ」が偉大になることを夢に見ます。
しかしその願いの本音が「私達は大きい」と誇りたい
所にあるとするならば
そのような発想の源はどこにあるのでしょうか。

実際、永遠において
「エクレシア(教会の原語)ほどに
高く偉大なものはありません。」
しかし神は
今時間の中に存在するエクレシアの中にいる人々に
「私たちは大きくてスゴイ」という感覚を
与えたいとは決して思われません。

神がキリスト者をして
「普通の家々で集まるように」意図されたことには、
深い神の知恵が隠されております。
私達はこの世において
「よるべの無い小さな群れ」に過ぎない、
という感覚はむしろ正常です。

聖書は
「小さな群れ」と正反対である大いなる宗教を
見せております。そこには、人間が大好きな
「グレート」という言葉が何度も現れます。

彼女(大バビロン)は心の中で「私は女王の座に
着いている者であり、やもめではないから、
悲しみを知らない」と言う。(黙示録18の7)

※
ここで言う宗教とは
「神のもの(金と宝石と真珠)を飾りとした(利用した)
自分のための業」のことです。(黙示録17の4)

2011年7月23日土曜日

今、実家にいます

利根川のほとりも結構寒いですね。
さて、ケサある別のことを書こうとして書き始めたら、結局
次のようになってしまいました。これはままあることです。

*
「あまたのこの世の者、モノ、物、もの」の中で特に
一つか二つが、キリスト者をして強力に、この世に粘着
(ねんちゃく)させます・・」という意味のことを暗示
(あんじ)された直後、イエスは

「何はともあれ、
あなた方は、神の国を求めなさい。・・」
(ルカ12の31)と言われました。
だからキリスト者は
「何はともあれ」日々神の国を求めなければなりません。

「者、モノ、物、もの」の粘着力は
相当なものであり、実はキリスト者を苦しめます。
(一見それを楽しんでいるように見え、
また見せてはいますが、そこには欲望、愛欲による
「縛(しば)られ」があり
「真の自由」がないので分かります。※

ここでキリスト者はよく
「それを捨てることなど私には出来ない、
神が私に代わってして下さらないと・・」と言って
退(しりぞ)き、再び世に向かうのです。
その言葉自体はナンだか霊的に聞こえ、他人には奇妙な
説得力を持ちますが、それは霊的ではなく単に
怠惰(たいだ)から来る神に対するツブヤキです。

このような、いつまでもグズグズした弁解(べんかい)や
「さきのばし」を神が正当化されることはありません。
このたぐいの、神に対する「霊的姿勢やスタンス」についての
警告(けいこく)は聖書に多いのです。

イエスはハッキリと
神の国を「求めなさい」といわれたのであり、それは
「明確な命令」です。ですから、少なくともキリスト者には
その罪を憎み、主を正視(せいし)し「おことばですから」と
自分の足でシッカリと立ち上がる意志が要求されるのです。
聖書の中ではこの実例もしばしば見られます。

ふしぎですが、
信仰は「正にその時を」基点(きてん)として、生きて働き始め、
その後も、神の一歩一歩の導きが、あなたの一歩一歩の意志の
応答に伴(とも)なって、初めて現実のものとなる、という
現象(それは神の力)を、あなたは見ることが出来るのです。
これは間違いなく霊的な経験です。

※
神の国とは、
実際的には霊的な「支配」です。それはまず
「人々が、一人の人、イエスキリストにより(総てのものを)
いのちにあって支配する」現象において現れます。
(ローマ5の17)

2011年7月21日木曜日

ストーブをつけていますよ

その上、上は三枚、下は二枚着ています。
まだ山におります。

*
さて、きのう以下のように書きました:

「永遠の」事実、すなわち真理を 、
今この望みのない時空の中で 生きざるを得ない人々に、
また 総ての造られた者達、また悪魔に対して
力強く宣告するために・・と。

全く同じ真理の内容でも
①人に対しては(自分もふくめ)命と光になりますが
②悪霊に対しては剣(ツルギ)となって、彼等を退かせ、
③神と良き天使達に対しては大きな喜びとなります。
(実は、誰が、どんなことばを、誰に向かって、
どんなふうに発するかは宇宙的時代・天地の時代をも
変えるほどのことです!)

当然、それぞれに対してその「語調」は異なるでしょう。
しかしまた、
神をふくめた「総ての生きもの」に対して、
一度に宣告することも不可能ではありません。
(むろん、対象を明確に意識することは重要です。)

確かに世界に真理は存在するのですが
ウソの方がはるかに優勢(ゆうせい)に見え
真理はどこかに押しこめられているかのようです。
(だから「真理がある」だけでは不十分なのです)

今この時代(艱難前)実際に口を用いて
真理を宣告するのは、天使でなく人の役目です。

しかし、
あれこれリクツをこねるのではなく
人の前でラッパを吹きならすのでもなく、
他人に教えをたれるのでもなく、
日常の隠れた小さな場面で、意識を持って立ち止まり、
一人見えざる敵に対して、オリにふれしばしば
神の真理を宣言する人はきわめてマレです。

いずれ来る艱難の時になると、
天使が空から大がかりでオープンな宣告をしますが
(黙示録14の6、7)今「か弱そうな人の子」による
「ささいな人間生活の中での隠された宣言」の価値は
それよりも実ははるかに大きいのです。

あなたの霊が
「何者かによって」押しこめられることに反発し、
意志を用いて自分の霊を外界(がいかい)に向けて
強く押し出すべきです。
本来、宣告や宣言は決して気楽なものではありません。
宣言とは実は霊的なバトル(戦闘)であるからです。

※
神のことばを宣告することによって
「天地の時代」をさえ変えた人の一例は
パプテストのヨハネです。何故なら彼は
初臨のキリストをこの時代の中へ導入したからです。

2011年7月20日水曜日

真の汚染(おせん)

そうです、
神の敵はこの地を深く深く汚染(おせん)しました。
その汚染は 元来人の欲望、特に安楽願望等の
心に乗じた「悪魔」を起源(きげん)とするものであり
その悪の根は無限と言えるほどの深さです。

そして それは人の体と心から、
この世界全体へと世代世代において増し加わり
浸透(しんとう)して行ったのです。 この汚染は
人の力の全くおよび得ないほどのものです。

私は今回の出来事を通しても 改めて
日本のみならず、この世界のどこにおいても
200%一切の望みがないとの 確信に至りました。

ところが
この惨禍(さんか)は、この程度で終結することは
決してなく 、人の努力と善意をあざ笑うかのように
浮沈(ふちん)をくり返しつつ、さらに徐々に、
しかも確実に 全く絶望的な次元(じげん)にまで
深まって行くことでしょう。

*
しかし感謝します。
ここに一すじの光があります。

それゆえ
上記の ヒドイ現実にもかかわらず、
2千年前、神が「最後のアダム」である
イエスという青銅(せいどう)のヘビの上に
その総ての汚染を置かれ、それをのろい、
すでに黄泉(よみ)にまで送られたという
永遠の真理にもとづき、

間もなくもう一度、主イエスが来たりて
具体的、徹底的、抜本的(ばっぽんてき)に
人の心の汚染に留(とど)まらず
物質的な汚染をさえ
遂には永遠の火の池深くへと
投げすてられることを私は信じます。

そしてこの「永遠の」事実、すなわち真理を 、
今この望みのない時空の中で 生きざるを得ない人々に、
また 総ての造られた者達、また悪魔に対して
力強く宣告するために

主のたまわる清い純粋(じゅんすい)な食物、
すなわち、神の口から出る聖なる食物を
日々食べ続けて行くことを心から願い、

人類にとって唯一の希望である
「あの青銅のヘビ」(民数記21ノ8)を見上げます。

アーメン、
主イエスよ、早く来て下さい!

2011年7月19日火曜日

ダビデのプロスキネオ

主よ、
朝空けに、私の声を聞いてください。
朝空けに、私はあなたの為に備えをし、見張りをします。
(詩篇5の3)

ダビデは「朝型人間」だったのでしょうか!
そうとう早く起きて、かなり大きな声を出し、
主に祈ったようです。
(・・そこには必ず賛美があったはずです。)

また
「備えをし、見張った」とありますから
彼は真のウオッチマン(見はり人)であり
その心は常時、敵に対する警戒(けいかい)に満ち
早朝から「あなた」(神の国)のために敵を見はったのです。
(・・これは戦いです。)

*
「主よ、
朝空けに私の声を聞いてください。」

それにしても、この表現には
何と彼のプロスキネオ(真の礼拝)の心が
あふれていることでしょう。
彼は目覚めと共に主を愛し、
早朝「一人」深く神を礼拝したに違いありません。

プロスキネオ(礼拝)とは
「愛をこめて、主にとても親しく触れること」です。

2011年7月18日月曜日

余談ですが・・

さらに最も短く表現するならば、プロスキネオとは
①「神との交わり」であると言えるでしょう。
「交わり」はキリスト者の最深の部分(霊)の中の
三つの主要な機能の内の一つです。

他の二つとは
②ある事実を「霊的に知る」機能(霊的知覚機能)
である「直覚」と
③信者の中で「今この時点で」彼のある行為や
傾向に禁止を発する「良心」です。

そのようにして、キリスト者とは常時・霊の中で霊的に
①神と交わり(礼拝、プロスキネオし)
②神を知り
③何かを断って神に従う者ですが、
この三つは絶えず交互に深く関係し、生き生きと循環
(じゅんかん)しているのではないでしょうか。

★
マキ小屋作りはうまく行っています。
今、屋根のタルキをのせる台を
柱ケン基礎にあたる電柱の上に作っています。
水平器が大活躍しております。実際に屋根が乗るのは
「次回の入山」まで待つことになるでしょう。

この珍しい電柱の説明は、長くなりますので
いずれまた・・

プロスキネオ

これはギリシャ語のことばで
προσκυνέωです。

これを英語的に書くと、proskyneo(プロスキネオ)で
新約聖書に52回も出て来ると言います

その語源的な意味は
「犬が主人の手をなめるように、キスすること」
だそうです。キスするです!

これをクリスチャン的に言いかえて見ると
「敬愛をこめて、主にとても親しく触れること」であり
簡単に言えば「主に対する愛と接触」です。
すなわちプロスキネオには
「神への真の愛と実際的なタッチ」が
どうしても必要なのです

聖書の訳者達は
これを多く「礼拝する」「拝む」と訳しています。
あえてその訳は間違っているとは言えないでしょう。

しかし確かに言えることはこうです:
キリスト者の「主に対する真の愛とタッチ」は
目には見えない心の中のことであり「神へのキス」は
極めて貴重な「霊的な」経験です。それは魂的、
肉体的、物質的なことではありません。

いずれにしろ、
プロスキネオがそのような意味なのですから、少なくも
「一つの時間と場所を定めた形式的行為」を高くかかげ、
それを特別あつかいにして、プロスキネオと呼ぶのは、
どう考えて見てもムリのようです。

永遠の滅亡から救い出された罪人として
神への礼拝(プロスキネオ)すなわち
「敬愛をこめて神の手にキスすること」は私達の
「24時間の経験・姿」でなければならないはずです。

2011年7月17日日曜日

もう冬じたくです

マキ小屋ですが、
床は張り終え、今日は、今立っている直けい25cm
ほどの長ーい電柱を二本カットしなければなりません。
これに屋根用の「土台」をのせるわけですが
さらにその土台に、合板をはるためのタルキを
並べるという寸法です。

それにしても私の小さいチェンソーで大丈夫でしょうか。
これは多少危険な作業になります。(危険とは
カット直後の電柱の落下です)それにしても
回りの森の伐採(ばっさい)等の、今後の作業を
思うと、どうしても大きいチェンソーがいりますね。

きのうは上の別荘、中村さんちの「地震で出なく
なった水道」をお手伝いができてよかった。
(中村邸は「おも屋」も相当やられたのです)
その時、ブヨかなんかにさされて、左手がハレ
かゆくてかゆくて大変でした。今もはれています。
私はどうも虫に弱い。きのうは蚊とり線香を
切らしており、いつもするように腰か首に
「携帯蚊とり線香」をぶら下げられなかった
のが原因でした。

今ある客用食卓ですが、
これを冬はベッドに、夏は食卓にできるように
改造しなければなりません。天板は2バイ8の
板を並べればいいでしょう。本当は立派な一枚板
でも欲しい所ですが、ま、これでもいいでしょう。

冬になぜ下にベッドを置くのか、それは、夜昼一個の
マキストーブで総てすむように、ロフトへの階段を完全
封鎖(ふうさ)して、暖気を一階に閉じこめるためです。

以上のようなことですので、
これから、冬じたくがたくさんあるようです。

2011年7月16日土曜日

キリスト者の賛美

キリスト者の賛美は
「キリストの十字架における勝利」を
根拠(こんきょ)にしています。
その勝利とは、サタンに対する勝利ですので、
(女のすえイエスキリストはサタンの頭をくだいた)
私達の賛美はサタンを強く意識したものであるべきです。
従って今日「悪霊との日ごとの戦い」と賛美を分ける
ことは出来ません。

確かに私達は、
堕落(だらく)を知らない天使達と共に
「神の創造の偉大さ」を賛美することもありますが、
しかし「人であれば」その賛美の後でさえ、「完全な」
創造(自分をふくむ)に侵入(しんにゅう)したサタンの
深い汚染(最も深刻な内部ひばく)に気づかないわけには
行きません。(それは放射能どころではありません)
だからここでも、人は十字架にもどらされるはずです。

従って神の二つの偉大な業とは
創造と「あがない」であると言えるでしょう。
この二者の間に、サタンの侵入があるわけです。
(創造→サタンの汚染→贖い)

しかしサタンの侵入(しんにゅう)は、神にとって
神の第二の創造(新創造)を、キリストの復活の中に
導入する機会となりました。
これは何と偉大で計りがたい神の力と知恵でしょう。
それを見るとき、キリスト者は「最も深い賛美」を
ささげ、ただ神を礼拝せざるを得ないのです。
(初めの創造→サタンの汚染→贖い→新創造)

2011年7月14日木曜日

けさのメールから

Dear シュガー
その後どうしておられますか?
私たちは、もう少し前にbay area( San Francisco方面)
から帰ってきたところです。・・・
主の恵みが共にありますように。

*
兄弟姉妹
今14日、午前9:49、大工仕事の休憩タイムです。
今日は7時頃から大工を始めたのですが、これは
いい方法です。第一涼しいし、この現場は、午前中は
日陰になるので汗もかかないしとても能率が上がります。
(午後になると滝のような汗ですよ。)

今5、6坪のマキ小屋を作っているのですが、
ネタは殆ど張り終え、午後は床板を張ることが
出来るでしょうか。
壁、屋根と出来上がって行くのが楽しいです。
(この小屋には、マキ割りをしたマキを入れようと
思っております。割る前のマキは露天につんでおいて・・)

さて
私は震災前と比べて、生活も心境もほとんど変わって
おりません。我ながら一寸ヘンなのですが、ここでの
生活がこんなに楽しいと感じたことは今までに
無かったように思いますし、さらに
ここの山と森が「こんなにも美しかったかな」等と思うほどです。
なぜそうなのかは私にもよく分かりませんが・・

最近、
「私とは何なのか」と言うと、私とは霊であり、
魂と体は、この世に触れるための単なる手段なのではないか、
と言う思いが強くなって来ております。
これは奥深い課題となりそうです。これをさらにつき止め、
実際生活で経験して行きたいと願っております。

今、高原の涼風がとても気持ちがいいです。
さ、それではこれからまた大工です。

*
あ、今地震です。
小屋がユサユサと揺れています。
驚かれるでしょうが、こういうのは殆ど毎日ですよ。

2011年7月13日水曜日

ダビデの詩

主よ何と私の敵がふえて来たことでしょう。
私に立ち向かう者が多くいます。1節
私を取りかこんでいる、いく万の民をも私は恐れない。6節
あなたは私の敵のほほを打ち、
悪者の歯を打ちくだいて下さいます。7節
(第3編)

これはその生涯(しょうがい)
日々戦いに明けくれたダビデの詩ですが
ここで言われている、彼の命をねらう無数の敵とは
新約的に言うと、決して人ではなく
目に見えない神の敵・悪しき霊どもです。

今とは
ソロモンの「あからさまな王国時代」の前の、
日々戦わなければならない時代です。しかしそれは
人々には隠(かく)されており、ひそかに王国が
芽(め)を出す時代でもあります。

だから
私達は内的に激しく戦っているとしても、ことさら
そんな様子を人に誇示(こじ)するべきではありません。
むしろ何が起ろうと騒(さわ)ぐことなく、
淡々(たんたん)として、今日も、私に「わり与えられた」
普通の生活を送るだけです。

ダビデもこう言います:
「私は身を横たえて眠る。私はまた目をさます。
主が支えて下さるから。」5節

*
「神への賛美と敵との戦い」、それが詩篇ですが
実は賛美と戦いは一つであり、一つのことの表とうらです。
(ここで言う「賛美」とは歌を歌うことではありません。)


★
今日は、マキ小屋の
「ネタ張り」に入りたいと思っております。
今しがた、ゴジュウカラ?の夫婦が
「巣が作れる場所はないかな」と
西デッキのあたりを調べに来ておりました。

2011年7月12日火曜日

食卓用ベンチ

今日はまず、
食卓のベンチを作るための2バイ8の板を見ます。
それは、きのう落下させた北デッキの一部から出たもの
ですが、腐食(ふしょく)が進んでいればダメですね。

次にマキ小屋作りに取りかかって見ます。
マキ小屋だから暖房はいらないし、スキ間風も
オーケーですからラクなものでしょう。しかし
雨だけはなるべく当たらないようにしないと。
建材は北デッキの残骸(ざんがい)を利用します。

★
さて
神に喜怒哀楽(きどあいらく)はあるのでしょうか。
当然あります。

例えば、詩篇2編は「天の御座におられる方は笑う。
主はその者どもをあざけられる。・・燃える怒りで
彼等をおののかせる。」と言い、

ルカ10の21では「ちょうどこのとき、イエスは・・
聖霊によって喜びにあふれていわれた。」とあります。
だから神も、彼の幸せを求めておられることは明らかです。

人は例外なく、自分の幸福を求めます。しかし、
キリスト者であれば、まずは神の幸福を求めるべき
ではないでしょうか。(その時に神は人に必ず
「真の幸福」を与えられます。この順番は重要です。)

聖書では、この神の喜怒哀楽は総て、
神の敵に関連して、神の敵の存在を背景(はいけい)
として表現されております。例外は一つもないと
言えそうです。(ハッキリ言えば、神は、
悪魔をひどく憎んでいるのです。)

具体的な話、
もしも神がいるのであれば、悪魔もいます。
キリスト者が
神の敵の存在を大いに意識しなければならないことは
きわめて明白です。

2011年7月11日月曜日

北デッキの解体がほぼ完了

山の上とは言え、結構暑い。
きのう、地震のあと、残った北デッキの撤去(てっきょ)を
始めました。くされかけた高さ4・5メートルのデッキの
作業はそうとう危険です。炎天下(えんてんか)の作業、
熱中症にもゆだんなりません。

そうしていたら・まもなく、たちまち空はかき曇り、
雷、大雨の襲来(しゅうらい)、夕立です。

ピアノをひきながら、しばらく待っていると雨はやみ、
北デッキの解体は、ほどなく終えることが出来ました。
(これは予定以上だ)

★
この世界は
「真理対ウソ」という構造です。
「小さな」真理によって、
ウソで築(きず)きあげた巨大で複雑な
サタンの建築物(けんちくぶつ)を
じょじょに破壊(はかい)してゆくこと、
これが現在における神の深い意図(いと)です。
(神は破壊者ですよ!)そこで一言サタンに物もうす:

私達が宣告する
「小さな」神の言葉の本質は真理であるが、
あなたが人に感じさせるもの、目に見させる現象(げんしょう)
状況、すなわち大きな山(マルコ11の23)の正体は
実はウソです。
サタンよ、
「真理対ウソ」ではしょせん問題にならないでしょう。

明快な真理の宣言は、ウソを消し去ります。
より正確に言えば、ウソを後退させます。
(上の記事とは関係ないですよ)

*
今日も無風快晴、
解体した残骸(ざんがい)の山のかたづけです。
(ツユ、終わったのかな)

2011年7月10日日曜日

あれはキツツキですよ

このところ毎日、予報に反して美しい朝です。

地震でこわれた北デッキの解体はきのう終わりました。
これで震災の後始末はほぼ終えましたね。
それにしても長くかかりました。ささやかな山小屋の、
この小さな災害にしてこうなのですから・・・

最後に残った、地震で壊れた地下室のフィックス
窓は冬までに新しくすればいいでしょう。

今日は北デッキの
地震で壊れなかった部分も解体しようと思います。
なぜならケッコウ腐食(ふしょく)が進んでいますし、
これを使用することは殆どないからです。でも
4・5mから落ちないようにしないと。

マキ小屋はやはりいるかな、と思います。
できれば、長野の友人のように冬中ストーブを
つけっ放しのストーブライフをして見たいからです。
そうすれば冬用・老人部屋(私のことです)を
新築しないですみますし・・

薪小屋を作るのはラクでしょう。というのは
この小屋の付属物(古電柱)を柱に利用すればホイホイ
出来てしまうだろう、と今のところは思っているのです。
いよいよ「震災の修復」でない工事を開始できるのは
とても楽しいことです。

今キツツキ(アオゲラでしょう)が、隣(となり)の別荘を
つついています。そうとう大きな音ですが、これはドラミング
とは違います。まるで大工さんが仕事をしているよう。
初めて聞く人は、あれがまさかトリだとは思わないでしょう。

今思い出しましたが
今年シオカラトンボをたくさん見かけます。これは
小さいころ沢山いたトンボで、嬉しいかぎりです。

ところが、バッタはいなくなりましたね。
昔は、色んなバッタがあんなに沢山いたのに・・
夏のさかりの、あの巨大なトノサマバッタの豪快な
羽音がなつかしい。

2011年7月8日金曜日

北デッキ解体初日

昨日、午後のこと:

北デッキの解体をしようと、現場に行った。
巨大なデッキが3、4m落下して地面にななめに
立っている。少し動かすだけでも大変そう、
その上、現場は傾斜地(けいしゃち)である。

かねてから「ネタからクギを一本一本抜くしかない」と
思っていたのだが、ためしに1、2本やって見ると、
それはとてもムリと分かる。釘が太い上に、釘の数が
ハンパではないし、何しろ足場が悪いから、このままでの
状態では、この方法はかなり難しい。

「合板はカットしたくない」と思っていたのだが、
こうなると、それは出来ない相談である。結局
「チェンソーでバリバリと切断するしかないのか」と
あきらめた。「頭と現場は違う」と改めて
思わせられたのであった。

ところがである。
さらに肝心のチェンソーが動かないのだ。これには困った、
森林組合で働いていたイモクボさんの所に行って
聞くしかないか、と思いつつも、チェンソーのフタを開けて
何心なくフタの「カス」を掃除(そうじ)して見たら、
何とチェンソーは元気良く動いてしまったのである。
これ一体どうなってるの?

かように、
山暮らしは「思いがけない」の連続です。でも
「思いがけない」のは山暮らしだけではありません。
(誰が3・11を予測できたでしょう)

さて、今日の作業はここまでとしましょう。
こんな時、意気ごんで、足場の悪い現場で、
チェンソーを動かすのは危険です、と言うわけで
きのうは早めに散歩にでかけてしまいました。

*
「古くなった合板でも、カットしたくない」というのは
この「石巻合板」と言う会社の製品がすばらしいから
です。特にその腐食(ふしょく)に対する強さには
ビックリです。(ま、値段もいいのですが・・)

2011年7月7日木曜日

コウモリが帰って来た

地下の暗さが、
ちょうどよい洞窟(どうくつ)状態なのか、
一羽のコウモリが住みついていて、
私が入って行くとヒラヒラと飛びます。

今、朝の6時半、
予報に反し天気はよいが、
3枚着て、ちょうどよいのです。その上
とうとうストーブをつけてしまいました。
これが阿武隈の夏、冬が寒いわけです。

きのう中に焼却(しょうきゃく)完了まで行けたので、
今日は「例の北デッキ」の解体に取りかかることが
出来るでしょう。よい合板を使っているので、
ストーブで燃やしてしまうにはもったいない。
(ネタに使った2バイ6もですが・・)
だから薪小屋の壁にでも利用しましょうか。

★
①
主よ、
あなたは既(すで)にサタンを襲(おそ)いました。
サタンよ、あなたはキリストに襲われたね!
「キリストというワシ」に襲われて
滅(ほろ)ぼされない者があろうか。

しかしながら
十字架におけるキリストの勝利は
一見彼の敗北とさえ見えるほどの
隠(かく)された方法においてでした。
(だから、あの時の彼の
「完全な勝利」を見る人はとても幸いです。)

②
さらに、①の「集約された勝利」はオープンな方法で
時間の中に「一部」引き出され、間もなく
総ての人々が「猛禽類(もうきんるい)なるキリスト」
を見るでしょう。

①もっと強い者(キリスト)が襲ってきて、
彼(強い人)に打ち勝った。(ルカ11の22)
②死体のある所にはハゲタカ(orワシ)が集まります。
(ルカ17の37)

注:
ハゲタカが複数であるのは、①とは異なり、その時の主は
勝利者達を伴(とも)なっておられるからです。

2011年7月6日水曜日

「御こころの外(そと)」は不法

いわゆる「山上の教え」は明らかに
キリスト者に対して語られたのですが
その最後(マタイ7ノ21~27)で(結論的に)
イエスが強く主張されたことは
「御こころを行うことが一番大切です」
ということでした。

「主よ、主よ」と言うこと
予言をすること
悪霊を追い出すこと
奇跡を行うことは
最高級のことのように言われておりますが、

しかし、それらでさえ
もしも「御こころ(法)の外で」行うならば、
そのキリスト者は
不法(anomia、lawless)を行う者であると
イエスは見なされます。

他の聖書のか所で、この不法という言葉は
サタンに対して用いられておりますので
その意味あいは深刻(しんこく)です。

★
今日の作業は
焼却(しょうきゃく)の下準備でしょうか。
昨晩、山の端(は)に輝く三日月は
ことのほかきれいでした。
今日もよい天気です。

2011年7月5日火曜日

整理整トン

ケサは「寒い」です。上に三枚も着ています。
ツイ先ほど一時的に
物すごい突風、雷、豪雨がありました。

*
さて、地下に
地震で壊(こわ)れなかったタナも4つほどあります。
大変ですが・今日あたりついでに、その棚の整理もしようと
思っているのです。しかし、

言うはやすし、それはけっこう難しい仕事です。
私も「これは捨てないでおこう。その内・何かに使えるかも
知れない。」とよく思うタイプですので。

でも今回はどうしてもやらないと!
「不要なもの」をいつまでもかかえていると
人生を「不幸」にしてしまうからです。

収納(しゅうのう)のコツは、
「一見して・あれは何」と分かるように「しまう」ことでしょう。
その点、物とモノを積み重ねたりすると、ものカゲになって
見えなくなり、たちまちそれは「無用の長物(ちょうぶつ)」
(不幸の原因)になってしまうようです。

だから、同類の物は、「透明な」一枚の大きな
ビニール袋に入れます。(ビニール袋はとても安い)
こうやって置けば、その棚をちょっと見るだけで「これは何、
あれは何」とスグに分かるのです。だから、
使うにも捨てるにも、パッと行動に移せるでしょう。

★
話は変わりますが・・

聖書のイエスの言葉を読むと、彼は決して
「分かりやすく」話そうとはされなかったように見えます。
(彼の表現は平易(へいい)ですが
内容はけっこう難しいし、その奥深さは無限です。)

なぜでしょう。それは、彼はただ
「聖霊を信じておられた」と言うことに違いありません。
彼は深く認識(にんしき)しておられました、
もしも聖霊が人に教えるのでなければ、その人は
「何も分かったことにはならない」と言うことを。

「しかし、その方(聖霊)が来ると、あなた方を
総ての真理に導き入れます。」(ヨハネ16ノ13)

2011年7月4日月曜日

十字架と宣言は一つです

「私と福音のために命を失う者は
それ(自分の命)を救うのです。」(マルコ8ノ35)

福音とは
「主の勝利とサタンの敗北」の事実です。
この福音は必ず
「総ての造られた者達」に
布告(ふこく)宣言されなければなりません。

それは第一に、
堕落(だらく)した見えない生き物達に対してです。
(何とイエスは「自分を失った」あと「よみ」に
行かれても、それ(宣告)をされました。Ⅰペテロ3ノ19)

だからその宣べ伝えは、もしも人が、
自分・自分の命(魂)を失うのでなければ
容易(ようい)なことではありません、

結論として
自分の命が救われるために、最も大切なことは
自分を失うこと(十字架)と
福音を「宣べ伝え」ることです。そして
この「十字架と宣言」という二つを
切り離すことは不可能です。


★
風の強い曇り空です。

今日以後の作業:
①ボイラー室においた建材等を新しく作ったタナに収納する。
③大量にたまってしまった雑物の焼却(しょうきゃく)
②↑火事になったら大変ですので、先ずは
焼却場の整理が先決(せんけつ)。
④落下させた北デッキ(2×3m)の解体(かいたい)
⑤地下の客室の窓(この窓だけが地震にヤラレタ)を
片付けて、全く新しい窓を手作りする。プラスチックの
フィックス窓ならば簡単。

以上で地震の後始末は完了ですが、まだまだかかりますね。

⑥小屋の周囲に散らばっている一年分のマキの整理。
(どこに保管しましょうか)

2011年7月3日日曜日

地球はまわっています

真理・事実・神のことばは、
私の「気分や機嫌(きげん)」とは
全く関係がありません。

私の気分がどうであれ、
太陽が西から昇ることはありえません。
私の機嫌と関係なく、地球は太陽のまわりをまわり、
太陽は必ず東から昇ります。

そのように神の真理・キリストの達成は、
私の状態とは関係なく常に一定不動です。

さて、
サタンはその神の真理を
「人が知り、それだけでなく次にそれを表明すること」を
恐れます。(世界の歴史をも変えるのは、第一に人の
小さな口です、ガリレオの時のように!)

サタンは、真理が「そこにあるだけでは」恐れません。
それは「悪をさばく立派な法律があっても」
誰もそれを口に出して抗議しなければ、
悪人は全然恐れないのと同じです。

今サタンは安らかです。なぜなら、
サタンの悪事を糾弾(きゅうだん)し「サタンへの
神の裁(さば)き」をオオッピラにする人がどこにも
いないからです。(人は人を相手に戦うだけです。)

実はサタンは人間を自分の子分だと思っています。
だからもしも、ある子分が、悪から足を洗い
法律を手に取り、立って(気分に打ち勝ち)
条文を声高らかに宣言するならば、
彼は相当アワテふためくでしょう。
これがキリスト者の戦いです。

*
旧約聖書ヨブ記に
「地動説」を暗示する記述があります。
「神は・・何もないところに地球をかける(つるす)」
(26の7)神によって何もないところにかけられたのですから
地球は空間に浮かんでいる、のではないでしょうか。

2011年7月2日土曜日

あるごあいさつ

お元気のことでしょう。

私は相変わらず、平気で山暮らしと
「下界」の生活を楽しんでおります。
(このノンキさは一体何でしょう)

地震の後始末(しまつ)はまだまだですが、
ようやく先が見えて来た感じです。
ふしぎと母屋(おもや)は守られたのですが、
デッキや地下のタナが手ひどくやられたのです。
それでも、山はいいです。

もうこれから、ここに来てくれる人は
ほとんどいないでしょうが、
この山の快適さは何にも代えられない、
と言ったところでしょうか。

主にあっては、あえて
毎日「スリリング」な日々を送っているとでも
言いましょう。

ただただ、この素晴らしい主を賛美し
感謝するのみです。

シュガー

2011年7月1日金曜日

タナに建材をしまう作業です

風のある、とても美しく晴れた朝です。
今、新設したタナに、外に放り出したままの
建材等をしまいこむ作業をしています。
今日で殆ど終わるでしょう。ただしあの
「一年分のマキ」は明日以後です。

★
「虫食い」がいつの間にか「大きな布」に、とても
小さな穴をあちこちに開けるように、神の国は、決して
目立たず、少しずつ、しかし確実に拡大して行くのかな、
と思っております。

その布とは、神にとっては、どうにもならない
古い不要な布ですので、ツギをあててよくすることは
出来ません。

そうするときに、ある日、主イエスが来られて
布全体がドサッと落下し、
「天国の時代」が明らかに幕(まく)開くことでしょう。

古い布とは、四スミを持ち、
地上の総ての生き物を入れる今の世界のことであり、
「新しい布」とは、次の時代において、王イエスの支配が
つつみこむ神の国の範囲を表します。その神の国は「死の大水」
の中を通った後、総てに超越(ちょうえつ)したあの箱舟に
よっても表現されています。それゆえ、私達は今既に
「その新しい空間」の中にいる必要があるのです。
(この場合、箱舟はキリストであり、その新しい空間とは
キリストの中、in.Christです。)

*
今朝、
自発的服従、主体的服従ということを
思っておりました。
私達は神の意志(みこころ)に服従すべきですが、
それは主体的服従であるべきです。
神は、私達が「意識的に」彼に従うことを喜ばれる
のです。これは今日失われつつある大切な真理です。

神は人に自由意志を与えられた、と言う
「人間創造の大原則」を決して忘れるべきでは
ありません。そうでないと悪しき者が忍(しの)びこみ
私を奪(うば)い去るでしょう。
(エバ母さんとアダム父さんを奪ったように)

私達にとって今日の一日が、
その忍び込む者の存在を知り、対抗し
果敢(かかん)に立ち上がる日でありますように。

2011年6月29日水曜日

悪霊達の「礼拝」

汚れた霊どもが、イエスを見ると、
みもとにひれ伏し「あなたこそ、神の子です。」
と叫ぶのであった。(マルコ3の11)

ここに
「今日のいわゆる礼拝」に勝る「礼拝」を見ます。
彼等のイエスを見る認識は今日の礼拝者を
はるかに越えていたことでしょう。(彼等は何も彼等の
親玉・サタンを拝んだのではありません。)

ところで「彼等の礼拝」において、「イエスを信じる」
(believe.into.Jesus)ということがあったでしょうか。
それはイナです。その時、彼等にはもはや、それをする機能は
失われていたのです。
彼等はただ「神はお一人だと信じて恐れていただけ」です。
(ヤコブ2の19)実にそれこそが、彼ら悪霊達の、
そして今日の宗教における「いわゆる礼拝」の本質です。

だから今日「父が求めておられる礼拝」とは
「このような礼拝以上」でなければならない
ことは明らかなのです。

イエスは彼等を救われたでしょうか。当然イナです。
彼等の「礼拝」を神は喜ばれ、評価されたでしょうか。
断じてイナです。救われるどころか、今彼等のために
準備されているものは「想像を絶する悲惨な滅亡」です。

問題はどこにあるのでしょう。
それは時です。彼等は過去のある日「彼等に準備された時」
をムイに過ぎ去らせてしまったのでしょう。

私達にとっても
神と神の言葉を真に「信じる」ことができる日は
そんなに長くはないことを知るべきです。

2011年6月27日月曜日

「立ち上がる」のはあなたです

① 「私が」願いを持ち
② そして
「私が」立ち上がって、
主により頼みつつ、一つ一つの事を行動に移す、
(日常の小事でさえも!)
という昔から言い古されたことが
とても大切な聖書の教えです。

確かに聖霊は働かれますが、それは
「私が自立的に願う、ようにと働く」という範囲です。
だからあくまで「私が願う」必要があるのです。
そこにはハッキリと人の意志があるべきです。
「人に明確な意志を持たせ
人をして、神により頼ませる」ように神は働く、
これが神のとても大きな原則です。

※ 意志や自己や「信仰」さえも捨て去り、
私は何もせず、自分を何かの上にフワフワと浮遊(ふゆう)
させるばかりの「怠惰」の中で、ただ神を待つのが
最も深い信仰である、・・・これは今日「進んだキリスト者」
の間に行き渡っている とても大きな誤解です。

神は
「あなたが立ち上がる」のを待っておられるのです。
あなたが、あの二本の木の間で、
ハッキリとあなたの意志を表明する時
神は「待ってました」と喜んで、
初めてその状況の中に介入することが出来るのです。
(ですからこの点においては「神にも限界がある」と言えます)

神はそれほどまでに(御自分を尊重されるほどまでに!)
あなたの人格を尊重されるのであり、絶対にあなたを
「神のロボット」にしたいのではありません。

だから、私達は次の有名な聖句を誤解しないように
気をつけるべきです:
「神の大いなる喜びの為に 願わせ、働かせるのは
あなた方の内で活動する神です。」
(ピリピ2の13)

何故なら、※のような時、神をよそおい
あなたの人格を無視してさえ介入してくるのは悪霊達
であるからです。(私の全面でないとしても、私のある
部分が、既に「敵の霊」の介入を受け、原因を知らずに苦しめ
られている可能性は十分にあり得ます。しかし
その事実に気がつくのはやさしいことではありません)

神はあなたに
「暗示し、すすめ、励まし、時には命令」さえされます。
しかし断じて強制されることはありません。
(この差は重要です)

再度言います。私は
神とサタンの二つの意志の間に立ち
立ち上がって「私の意志を用いて」
「悪い意志」(しばしばよさそうに見える)
を拒絶し、断固「神の意志を取る」
(神の意志を私の意志として取る)べきです。

パウロも言っています:
あなたは「悪魔の策略に対して立ちあがり・・なさい。」
(エペソ6の11)

2011年6月25日土曜日

主の手から受け取る

十字架とは
困難、制限、圧迫を感じ、「なんで私だけ」と思う時
それらを「主の手から」受け取ることです。
そうすれば、主ご自身が、あなたと共に
その重荷を背おって下さるでしょう。

しかし、
それらの圧迫を「何となく悩む」だけなら
あなたは「敵の手から」受け取ることになってしまい、
その制限や「つらさ」は、あなたを神から離します。
(当然そこには「十字架の不思議な効果」は現れません)

「何となく悩む」はよくありません。
それは総ての人々が日夜行っていることです。
しかし、あなたは心の中で立ち上がり
「この状況を主の手から受け取ります」という意志を
神に対してハッキリと表明する必要があります。

そうする時そこで、あなたの
「サタンに対する拒絶」と
「神に対する従順」が表明されるのです。その
「小さな宣告」こそが「人の取るべき最高の行為と選択」です。
決して「エバお母さん」のように
「何となく」に身を委ね何かに流されてはなりません。

心の中の、この二つの相違(そうい)は
微妙(びみょう)に見えますが、
それはその後、正に天地の差を生じさせるでしょう。

2011年6月24日金曜日

今日は下山日

梅雨(ツユ)に入ったばかりだと言うのに、
ケサは実に美しい梅雨の晴れ間、今日は楽しい移動日です。
大好きな、深い奥山に迷(まよい)こんだかのような
国道399を走ります・・・
というわけで話を手みじかにすると、

人々は
「地球に住むのがこんなにも大変で、人々の不幸は限りがない、
という原因」は人間にある、と思っております。

だから皆さんそれぞれ
自分の正しさを主張して戦い、それが高じて人を攻撃(こうげき)
するのです。そのようにして今地球上のいたる所に、その大小の
攻撃や争いが無数に渦巻(うずま)いているのではない
でしょうか。
(私も言いますよ:それにしても、ああどうして人類は
こんなにもヒサンなのでしょう!)

しかしながら
聖書の、神の、イエスの、パウロの考えは全く違います。
彼等の考えはとても明快(めいかい)で、それは
全世界の限りなく深い不幸の根本原因は人にあるのではなく、
「神の敵とその手下ども」にある、というものです。

創世記は、「最初の人」に悪が入りこんだ時、決して
その時が「悪が始まった時」ではなく、
もう既にそこに、悪者が存在していたことを断言(だんげん)
しております。

確かにエバは悪いです。
私達は彼女のせいで(東電どころではない)大へんな迷惑を
こうむってしまいました!
しかしながら、もしもエバをだました者がいるとすれば・・
その者が最も悪いことは明らかです。
だから私達はあまり「エバ姉妹」を攻めるべきではありません。
むしろその「諸悪の根源(こんげん)」こそが第一番に
糾弾(きゅうだん)されなければならないでしょう。
これはとても単純な理屈(りくつ)ではないでしょうか。

エバの悪い理由は、実は
彼女がその悪に「ついていった」からです。今日もそれは同様で、
人は「あの悪者」に追従(ついじゅう)するから、その理由で
悪いのです。だから再びサタンが最も悪いのです。

時間がないので、今日の話は以下のようにまとめます。
私はこれを声を大にして言いたいのですが:
今キリスト者がこの地球に置かれていると言うのは、
正に「その悪の根絶(こんぜつ)のため」であります!

今地球と人の心はこんなにもダメにされてしまいました。
しかしながら、それでも決して、そして断じて、人は捨てたもの
ではありません。実は、人と地球に、約束されすばらしい希望が
あるからです。そしていずれその希望は現実のものとなる
でしょう。なぜでしょうか、それは・・
今ここにチャンと「キリスト人」であるあなたが
存在しておられるからです!

それでは・・

2011年6月23日木曜日

キリストの勝利とサタン滅亡の展開3

キリストの勝利はすなわちサタンの敗北です。
時空の中においては、キリストが、信者を通して
勝利した分量だけ、敵は滅亡に向かって後退する
のです。サタンの後退の一歩一歩はすでに
彼の滅亡の一部であるとも言えるでしょう。
(彼は遂には火の池にまで後退するのですが、
火の池だけがサタンの滅亡ではありません。)

総てのキリストの勝利と敵の滅亡は、既に
「あの永遠の十字架」と言う一点の中にありました。
しかしそれは種のような小さな一点です。にもかかわらず
それは完ぺき完全な勝利であり、しかも膨大(ぼうだい)な
勝利の詳細(しょうさい)をふくむ驚くべき種です。
(地上の種も驚くべきものですが)

種とは永遠を説明する一つの絵です。もしも種に対して
何もしなければ、すなわちある意図(いと)を働かせなければ
種は時間を越えて、そのまま何千年でも存在します。確かに
そこに永遠の命はあるのですが、いくら種をながめても
キリストの勝利の展開は見えません。(あなたはあの「一点
十字架」から多くの勝利を引き出さなければならないのです!)

敵の敗北の種も、あなたの内におられるキリストの中にある
のですが、そのままだと、種はいつまでもそのままです。
これは大きな悲劇(ひげき)です。もしも鳥が来て「土への
落下を拒否するあなた」を食べると、あなたから何とサタンの
勝利が展開されてしまうからです。

解決はどこにあるのでしょう。
神は種(永遠)を持つあなたを、時空世界の中で、真っ暗な
地の中に深くうめるようにと意図(いと)されました。「私達
がまだこの世にとめおかれている」とはそういうことです。

キリストの勝利という「種を人の霊の中に持つあなたの魂」
は必ず地の中へと落下させられ、土の中の「水と熱」
(神が許される「軽い」さばきor艱難)によって破壊(はかい)
されなければなりません。

それこそが「愛なる神」のみこころであり、神の子・あなたに
課せられた日々の十字架です。それはすなわち、あなたをして
「イエスと全く同じ人生を歩んでもらいたい」と言う
切実な「神の願い」を表現しているのです。

もしもその時、神に対するあなたの従順(じゅうじゅん)が
あればあなたから3日後、キリストの勝利(サタンの敗北)が
少しだけこの地上に芽を出すことができるでしょう。

それがあなたにおける「キリストの勝利と敵の滅亡の展開」の
開始となり、さらに日夜寝起きしている間に、開花の日を迎え、
遂には結実に至るのです。

2011年6月22日水曜日

キリストの勝利とサタン滅亡の展開2

だから、
そこに彼を追いつめる者がいなければなりません。
上の3つの大きなサタンの後退(刑の三大執行)は
主ご自身や天使によりますが、今現在、サタンを追いつめ、
後退させるべき被造物は何と、キリストを内に持つ
キリスト者達です。

しかし、もしもキリスト者が常に目を覚まし、
強い霊によって彼等を追いつめていないならば、逆に
必ず追いつめられていることになります。それは人の霊が
悪霊達によって取り囲まれ、圧迫され、遂には眠らされ、
死に至ってしまう、という大変な状態です。霊的な戦いは
まるで人の霊対悪霊の「押し相撲」のようです。

「上の3つの目立つ後退、サタンの投げ落とされ」の原因に
なるのが、今の時代における、さきほど述べた悪霊達(無数の
サタンの子分達)の後退です。それは現実的に、今私達の日常
生活の中で起らねばなりません。

しかしこの時代においてそれは、必ず目立たない隠された
方法によるべきであり、キリスト者がよく見聞きする
「悪霊追い出し」とは似てもにつかないものです。

黙示録の予言によれば、もしも、悪霊達の後退が
この時代の中で、ある程度にまで至らないならば、上のサタンに
対する神の裁(さば)きの3回にわたる大執行(しっこう)は
ドンドン先のばしにされることでしょう。それは当然この
地球上の「真の平和」も先送りされることを意味しております。

永遠の十字架においてサタンは滅亡しました。しかし、この
エクレシアの時代、キリスト者が信仰によって「既に完成した
サタン滅亡」を根拠に、その事実を時空に引き出し、現すことを
神は心から願っておられるのです。「永遠の中の真理」は、
「時空の中の事実」に遥かに・ハルかに勝るからです。
(これこそ本当の「天地の差」です。)

最後にもう一つの理由を言えば
キリスト者とは(一寸信じがたいほどですが)将来何と、神の
栄光に共にあずかるべき存在でもあるからです。(ローマ8章)
それにしても私達の神は何と不思議でありがたい神でしょう!

キリストの勝利とサタン滅亡の展開

永遠において
十字架におけるキリストの勝利とサタンの滅亡は、一つの
点のように見えます。それは一粒の種のようです。
(キリストの勝利=サタンの敗北、滅亡です)

それは小さな一点ですから、そのくわしい内容は
外側からはあまりハッキリとは分かりません。
(特にあのゴルゴタの現場においてはそうでした)

従って、その一点にふくまれる膨大(ぼうだい)な内容が、
永遠の中から時間の中へと一つ一つ引き出され、展開され、
見届けられ、確認され、体験される必要があるのです。
(それは黙示録の中の「小さな巻物の封印」が一つずつ
開かれるようにです)

さて、時間の中でのサタン滅亡の程度や過程は、
サタン後退の程度や過程です。簡単に言えば、
サタンの滅亡とは彼の後退です。それは地上の戦争の
ようです。(余談ですが、サタンの後退は、実はかなり
昔から始まっているのです)

その中でも、とても目立つ後退は、将来サタンが
①天から地に投げ落とされ、
②地から、さらに深い穴にとじこめられ、
そこからついには
③火の池の中へと投げこまれると言う3つの事件です。
(黙示録に出てきます。この3つ以外にもありますが・・)
それは言わば、追いつめられた悪人が背後(はいご)の
ガケから何度でも転落させられるようなありさまです。
当然その悲惨(ひさん)さの程度はそのツド増加します。

★
今日はキレイな晴天ですが、スゴイ強風です。
棚工事ですが、どうやら今日の午後で殆ど完成にこぎつけられ
そうです。4つの収納場所に全部で5つの棚を作りました。
これでようやく、外にほったらかしの建材等が片付きます。
しかし、小屋全体の復旧はまだです。こう見ると私も小さな
(立派な?)被災者ですね。(今、昼の12時半)

2011年6月21日火曜日

完了した

*ある兄弟のことばから*

ヨハネ19:30で
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、
「完了した」と言われました。

この完了したとは、
永遠における贖いの完了と
サタンの究極的な滅亡を意味しているのでしょう。
だから最後に酸いぶどう酒を受けられたのです。

「永遠において完了された御わざ」の実際を
今度はこの地(世)に引き出し表すべし、という
クリスチャンの役目を感じるこのごろです。

*
アーメン、感謝です。
死刑の執行(しっこう)の苦しみの最後に
「完成した」などと誰が言えるでしょう。

そうです、
「悪魔の滅亡のための業が総て完了し」
「御父のみこころが、あますところなく達成された」
という、それは深い深い御子の満足を表現しているのです。
一億分の1でも、不安があったとするならば
絶対に彼はそうは言われなかったはずです。

完了したということは、さらに
その後、イエスが神によって復活させられ、
さらにみ座に座され、御父と共に
心から安息(あんそく)された事実を見ても分かります。

かりにそれが失敗であったならば、
彼は黄泉に留めおかれたはずです!
神の御業の最重要局面において、不完全さ、
あいまい、中途半ぱなどは絶対にありえません。

天における「御父と御子の今現在のお姿」は
彼の十字架が完ぺき完全な成功であった、
ことを証明しているのです。

彼は神の子、
あの十字架における最後の小さなことばは
真実のきわみであったことを
私達は信ずべきです。

「悪魔よ、
あなたはあの十字架上で完全に滅亡した!」

2011年6月20日月曜日

山に来ました

今日の午後、入山しました。

昨日は水海道(みつかいどう)のケンを訪問、
ずい分よくなった感じで感謝でした。
最後に二人で祈りました。

先回は妻とある姉妹が行ってくれたのです。
精神病院の中にも神の国が現れたら
すばらしいですね。

本日、山に来る途中(とちゅう)、
下の村々はケッコウ人々の生活が
戻(もど)って来ているようなふんいきでした。

今ここカリマンの緑はとても濃(こ)く、
小屋は正に「緑の海」の中です。

明るい曇り空から太陽が顔をのぞかせ、
鳥達の歌声がたいそうにぎやかです。
しかし人の気配(けはい)は
全くありません。

みなみ東北の梅雨(つゆ)はいつからでしょうか。
「お天気」を見ると
23日あたりからは「カサマーク」が続くようです。

今回は、
建材と山の道具を入れるタナ3つを仕上げることが目的。
短い滞在(たいざい)になります。

2011年6月15日水曜日

第一の祈り

それは、
「み国が来ますように」と言う祈りです。
いわゆる「主の祈り」
(本当は「主が強くすすめた祈り」)
の中心はみ国です。

またそのことの大切さは、イエスが
この祈りをすすめたあと再び
神の国と義とを先ず「第一に」求めなさい、と
言われたことでも分かります。2千年前、そして
当然今もイエスの心は正にその点に集中していると
言えるでしょう。

そもそも
それらが書かれているマタイによる福音書とは
「イエスが本当の国王である」ことと
そこの国民はどうであるべきかを
伝えている書です。

一例をいえば、福音書の中で伝えられた福音は
「神の国の福音」であって「恵の福音」では
ありません。(恵の福音は神の国の福音の一部に
過ぎません。)

また、天国は目に見える形においても
間もなく来るのだから、
「あなたの普通の生活が今どうであるべきか」が
パウロやペテロが命がけで伝えたことです。

要するに全聖書は、天国、すなわち
王イエスの支配(キリストの天的な支配)が
この地上にも実現されるためにある、
と言っても言い過ぎではありません。
「みこころが天で行われるように地でも
行われますように!」

従って、私達の総て(一回の呼吸、一度の食事でさえ)は
全部「神の国のため」であるべきです。
だから「み国がきますように」と、週一度
ブツブツ「となえる」だけではまことに不十分です。
私達は「となえる」のではなく、
神の国を心から求めなければなりません。

★16:37

今散歩から帰って来た所ですが
まだ日は高いです。
いつもの「ダビデの丘」方面でした。

大工仕事ですが
ヒンヤリとした気持ちのよい好天の中
三番目のタナ工事に入りました。
これが終わればもう二つです。

今ホトトギスがけたたましく啼いています。
近年少なくなったのかな、それでも
大好きなカッコー、ヨタカ、フクロウのこえも
時に楽しんでおります。
本当に主に感謝な日々です。

2011年6月14日火曜日

永遠のキリストの御業(みわざ)によって

★7:35

「永遠のキリストの勝利のみわざ」によって
私はもう既(すで)に救われているので、
今救って下さい、と祈り、信じ、
そして賛美をするのです。

「永遠のキリストの勝利のみ業」によって
悪魔の働きが既に打ち壊(こわ)されているから、
「今ここにある悪魔の働き」を打ち壊し下さい、と
祈り、信じ、そして賛美をするのです。
(Ⅰヨハネの手紙3の8)

永遠の中に無いものを、
時間の中に引き出すことは
できません。

しかし逆に言えば、
永遠の中で完成していて、そこにあるものは、
ただそれを信じるだけで、今時間のなかでさえ、
その勝利は私のものとなるのです。
何と不思議で、感謝なことでしょう。

★9:00

今朝、カリマン室内の線量は
0・54マイクロシーベルトとのことです。

★17:13
午後タナ工事、二つ目が完成しました。

またついさっき業者が来て
パソコンを光に変えました。
(何のことか、よく分かりませんが・・)
それで今、パソコンがスゴク早く動くので
ビックリしています。

それでは今から散歩に行って来ます。
とても美しい夕刻(ゆうこく)です。

2011年6月13日月曜日

時空世界と永遠の世界

★6:10

地上のキリスト者の霊と天にあるキリスト(の事実)は
一連(いちれん)のものです。
それらは
水源(すいげん)水道管、手もとのコック・スイッチのように
「一つながり」です。「手もとのスイッチ」は、最も深い私、
すなわち「私の霊」の中にあります。

天もキリストもキリストの勝利も
「時空世界をこえた世界」のものですので
時空内のもの(物・脳みそなど)をいくら働かせても
理解(りかい)することは不可能です。

それはまるで、寒暖計(かんだんけい)で
一生けんめい「重さ」をはかっているようなものです。
(ホーキング博士の高性能の寒暖計でもムリです)

その理由は
時空世界と永遠の世界との間には大きな淵(フチ)があって
こちらから向こうへとび越(こ)えることは
不可能であるからです。(向こうからこちらへは別です)

しかしキリスト者には、霊の中に、そのフチを
とび越(こ)える信仰という道具がプレゼントされております。
これは大した特権(とっけん)です。そしてこの信仰も実は
向こう側のものであり、霊に属(ぞく)するものです。

キリスト者とは
時空世界に体で触(ふ)れ、自分の霊を通して時空を
越えた世界にも触(ふ)れることができると言う
とてもめずらしく貴重(きちょう)な生き物です。
(しかし霊を用いないで、脳みそだけを使っているならば、
それは別の話です。)

聖書では、
永遠の世界をよく「天的、上の(上位の)、霊的、永遠の」
等と表現しています。聖書によく出てくる神、キリスト、命、
信仰、「ことば」等はことごとく天的、霊的で永遠性のものです。

だから聖書で言う永遠とは、「エンドレスなこの世界の時間」
ではありません。「永遠の命」がそんな命だとしたら、
5千年も生きたらタイクツになってしまうでしょう。私だったら
「そんな永遠の命」はいりません。

さて
聖書ではこの時空世界を「この世」とか「地」と呼んでいます。
二つあわせて天地です。しかし「地に属する天」もあるので
要注意です。たとえば聖書で大空を天と呼ぶことが
あります。しかし大空はまだ「物」であり、時空世界内です。
(聖書はそんなに単純でもありません。注意深さがどうしても
必要です。)

せっかく人間に生まれたと言うのに、
時空内の小さな世界しか知らなかったとしたら、
それはとてもとても惜(お)しいことです。
(ところで、チンパンジーに霊はありませんよ)

★6:49
最近の値:
今日の朝は1・07マイクロシーベルト
12日は1・43と1・45
11日は1・21と1・43
(近所のイモクボ氏の計測)

今日は地下の棚(たな)二つ目の工事にかかります。

★19:48
二つ目のタナ工事は今日
土台部分が終わり、明日はネタの部分を
やります。こちらは連日、梅雨とは関係のない
爽やかな初夏が続いております。

★20:33
水質検査(放射性ヨウ素):
ここカリマンは検査したことはありませんが
ここより原発に近い、都路町古道地区ではこれまでの所、
検出されていないようです。(田村市の発表)

2011年6月12日日曜日

ある対話(Oさんの祈り会での経験から)

Oさん:

今日のことです。私が祈り終えて、
次の人が祈っている最中、突然・胸部中央
(狭心症や 心筋梗塞で痛みを覚えるところ)が、
中から膨張するような感じがし、それが何と
ノドの方までやってきた。
今日、体調は良かったのに!

一瞬不安を覚えたが、なぜかすぐに
「これはサタンだ」と思った。
そのように思ったのは「御霊によって気づかせられた」
と言うことなのか。

いずれにせよ、私は直ちに心の中で
「主の御名によって命じる。
胸部不快を起こしているサタンよ退け!」と命じた。
胸部及びノドに及んでいた膨張・不快・圧迫感は、
直ちに消失した。

敵は、私の弱点の心臓を攻撃してきた。
しかし、主が勝利をとられた。

S:

私も今日、
私達には「既に完全な勝利が与えられている」
と言う真理を改めて見させられました。

主の側では、私達のために
もう「総ての備え」をなし終えられたのです。

私達は その事実を、
「信仰という管」の小さなコックを一寸ひねって
「私の現場に」スッと流していただくだけです、
天の水源にある「主の勝利と言うあふれる水」を。

サタンよ、あなたが見せているものは
虚像、虚構です。

2011年6月11日土曜日

パンと剣(つるぎ)をとりましょう

私達は進んで「神のことば」を取るべきです。

神のことばを取り、
①口に運(はこん)でよく噛(か)めば、それは
「命のパン」からの栄養(えいよう)となります。
②次に、口に運んだ神のことばを今度は手にとって
敵に向かって「つきつける」と
そのことばは、剣(つるぎ)となって敵(てき)を後退
(こうたい)させることでしょう。この①と②である
神のことばは、キリスト者の健康(けんこう)な
生活にとっては欠かせないものであるはずです。

①
イエスは「人は(この世の)パンだけで生きるのでは
なく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」
と言われました。(マタイ4の4)
だから彼は
「私は天から下って来た生けるパンです。」
(ヨハネ6の51)とも
「私があなた方に話したことばは、霊であり命である。」
(ヨハネ6の63)とも言われたのです。

だから、
キリスト者と言えども、日々ちゃんとした霊的な食もつを
取らなければ、そのうち必ず霊的に死人のような生活を
するでしょう。この死人と言う意味は
「この世に対してや、罪をおかすことでは」生き生きと
しますが、神に対しては死人となる、即ち「神の子」としての
働きを果(は)たせない、と言う意味です。それは正に
「生きた死人」です。これが神と聖書の見方のです。

②
また私達は
神のことばを手に取り、それを敵に「つきつける」
必要があります。その「つきつける」手段(しゅだん)は、
私達のような弱い「みどり児(ご)、乳のみ子」の口です。
「霊的な乳飲み子」が、何と、自分の命となった神のことばを
今度は敵をめがけて、口から「はき出す」のです!

その意味は、与えられた御ことばを自分にだけでなく、見えない
敵に「つきつける」、宣告する、提示(ていじ)する
と言うことです。このようにキリスト者が、口を開き、神の
御ことばを実際に声に発することはとてもとても大切です。
(詩篇8編を見てください)

それにしても、なぜ小さな「赤ちゃん」が巨大(きょだい)
な神の敵と戦う必要があるのでしょう。確かにこれは
ちょっと理屈(りくつ)にあわないように見えます。

その一つの理由を言えば(他の理由は後日に)
キリストの敵は
「真のキリスト者」を見るとき、同時に
「私達の霊の中のキリスト」を見るので、彼は
そのキリストに対して攻撃(こうげき)をしない
わけには行かないのです。なぜなら、創世記3章を見る
ならばキリストとサタンは正に敵どうしであるからです。

そしてその攻撃はキリストの体の「かかと」である私達に
必ず苦難(くなん)を与えます。ヒドイ苦しみを与える
相手がハッキリと分かっているのに、いつまでも私が黙って
いるとすれば、それはずい分おかしなことではないでしょうか。

しかし私達には、神の敵と戦う力などとてもありません。
どうして「この時間と空間(いわゆる自然)の中でしか
生きれない人間」が、時空を越えた力のある生き物と戦う
ことが出来ましょう!ところが不思議なことですが、
正にそれを神は私達に期待(きたい)されるのです。
(この理由も長い話となりますので、後日とします。)

しかし、感謝します。私達は力のない赤ん坊であっても
神のことばには、敵を退(しりぞ)かせる力が
十分にあるのです。(この点もまた後日に)

以上の理由で、私達は、毎日、毎時、毎分
①命としての神のことばと
②聖霊の与える剣である神のことばとを
受け取り使用する(エペソ6の18)必要があるわけです。
(明日は「敵の攻撃」について、と思っておりますが・・
本当に時間が足りません。)


★
水道工事は、しばらく後回しにして(というのは
水もれはそんなに多くないからです)今
地下の棚(たな)作りをしています。
大地震で、五つの棚のうち、三つが崩壊したのです。
きのうから・その内の一つの修復にかかっております。
建材等を入れる棚はどれも2坪はある大きなものです。

2011年6月9日木曜日

天国は来る(天国へ行く、でなく)

天国や神の国とは、イエスご自身であり、
王キリストの統治(とうち)や支配の及ぶ範囲
(はんい)のことです。

だから、
イエスの先駆者(せんくしゃ)ヨハネと、初期の頃の
イエスは「天国は近づいた」と言い、

後に、彼が人々に囲まれていた時
「神の国はあなた方の間(among)にある」と
言われました。(ルカ17の21、新共同訳、NLT訳)

そして復活後、無制限になられたキリストは
彼を受け入れた者の霊の中に(in)おられます。

だから天国は人々に対して
「近づき」⇒「間におり」⇒「中へと」来られた
ことになります。
したがって、聖書で言う天国とは、ある日突然「行く」
かも知れない、あるいは「行きたい」所などではなく、
むしろ今日とても具体的に「来る」のです。

しかし
私が「自分を自分の主や王とする」ことを
完全にあきらめ、ただキリストだけを
実際的に私の主や王としなければ
彼がその支配(神の国)の実際を
私において表現することは不可能です。

なぜなら彼は、人の意志を
とても尊重(そんちょう)されるからです。
だから私達は、ゼヒとも祈らねばなりません。
「御国が来ますように!」(「主の祈り」)
そして「天国が私から人々へと
流れ出て行きますように!」と。

★
止水栓開閉器の製作は完全に失敗でした。
クギがいとも簡単に折れ曲がってしまったのです。残念ですが、
今日はその道具を船引まで買いに行かねばなりません。

2011年6月8日水曜日

サタンは幸福です

サタンは安らかで幸福です(ルカ11の21)
もしも事実(真理)を声高(こわだか)に
告(つ)げる人がいなければ。
・
この世の総てのモノと事の後ろで
「ある霊達」が日夜働いており、セッセとあなたの前に
「山」を築(きず)き上げています。(マタイ17の20)
・
「だからサタンよ、これからあなたに
本当のことを言ってあげましょう。」

*山とは
「普通では動かないもの(状況)」のことです。

2011年6月7日火曜日

止水栓開閉器を手作りする

昨日から水道工事にかかっています。

奥の沢から長距離流れて来る山の水は、先ずは
中村さんの家の敷地(しきち)にある水槽(すいそう)
にたまり、 それが落下してこの山小屋に
至(いた)るのです。

ところが、その水槽手前の道路下の水道管の一か所に
小さなモレが出来たと見えて、水がその道路に
流れ出ているのです。
これはどうしても止めなければなりません。

先ずは、水道管がハルバル奥の沢に向かう
遠くの山道にある大きな止水栓(しすいせん)をしめて、
その漏水(ろうすい)か所に水が来ないように
しなければ なりません。そうでないと工事が
やっかいです。

ところが止水栓は、どうも器械で開けたらしく、
しめようとしても、私の握力(あくりょく)ではビクとも
しないのです。 (止水栓は直けい10数センチの塩ビ管の
下の方にあるので、器械がなければ、とても「きゅうくつな」
カッコウで、かた手をのばし開閉しなければなりません。)

それで今日は、どうしてもその「止水栓開閉器」を
木と釘で手作りしなければなりませんでした。試行錯誤
(シコウサクゴ)のすえ、午前中で何とか完成したのですが、
しかし果たしてこれで、あの大きな止水栓がしめられる
ものでしょうか。 しかしその実行は明日にしましょう。
(ただ一人の作業、根をつめての労働はかたくキンモツです)

このように、山で暮らしていると、時々思いもよらない事を、
どうしてもしなければならなくなるのです。

午後は、地下の
大地震で崩壊(ほうかい)したタナの修復にとりかかりたい
のですが・・(基礎と土台はすでに全部完成しております。)

主の口から出る二つのものは一つです

私達は
主の口から出る息
すなわち「聖霊である言葉」を
先ずは
①私の命、生活、人生(life)の源として吸い込み、
次に、それを
②剣(つるぎ)として手に取り、
悪霊達にするどく突(つ)きつけるべきです。

主の口から出るものは、
「彼の語りかけ」として
私たちに対しては、
命の息(命・聖霊を含む言葉)となりますが、

不思議なことに敵に対しては
剣となって殺すか、敵を退(しりぞ)かせます。
私達は「かたく立って」(すなわち意志を用いて)
それを手に受け取り、悪霊の前に立ちふさがり、
その剣をするどくつきつけ、彼等を退かせるべきです。
(今の時代においては悪霊が退いたその分だけ、
神の国が来るからです。マタイ12の28)

聖書:

・「私(主イエス)があなた方に話したことばは
霊であり、また命です。」ヨハネ6の63
・「聖霊の剣である神の言葉(真理)を受け取りなさい。」
エペソ6の17
・「イエスは彼等に息をふきかけて言われた。聖霊を受けよ。」
ヨハネ20の22
・「(主の)口からは、するどい・もろ刃(ハ)の剣が
出ている。」黙示録1の16
・「主はみ口の息をもって彼(反キリスト)を殺す。」
Ⅱテサロニケ2の8
・「私達の格闘(かくとう)は血肉(人)に対するものでは
ない。・・もろもろの悪霊に対するものです。」エペソ6の12

頭のよい悪霊は、人を人と、キリスト者をキリスト者に
対して日夜戦わせ、すなわち「どうし打ち」をさせ、
ついには人生の総てを消耗(しょうもう)させることに成功し、
(今日、地球上に見られる光景の総てはこれです)
自分は「かくれみの」を着て笑っています。

・「では、しっかりと立ちなさい。」エペソ6の14
なぜなら私達の前には
主の軍の大将であられる一人の人が、ぬき身の剣を手に持って
立っておられるゆえに、勝利は確実であるからです。
(ヨシュア記5章)

*
以上述べたことは
「いわゆる悪霊追い出し」とは全く別のものです。

2011年6月5日日曜日

小さな言葉をくり返し「となえる」祈り2

従ってその「自治を守ること」はあなたがしなければ
なりませんし、それは完全にあなたの責任です。その限りに
おいては神は、あなたを助けることをしません!そこには常に
「あなたの意志」が存在していなければならないのです。

何故なら真の神は人の自由意志をとても重んじられるからです。
宇宙の歴史の中で「一度神はその原則、神の法を定められた」
のであり、従って神ご自身でさえそれを安易に破ることは
出来ません。法とはそのようなものではないでしょうか。

この事実を明示する絵は、創世記3章に大きくかかげられて
おります。そこにあるのは、神とヘビと人間の「独立した
3つの意志」です。(それゆえ神は、エバとヘビの間に
割って入ることは出来ませんでした。)

①
しかしながら、悪霊のやりかたは全く異なります。
ある集会の中などでヘビは「そのあなたの自由意志」をさえも
放棄させ、全くの受身状態にならせ、あなたを完全に無防備
(むぼうび)にし「あるものの上に自分をフワフワとただよわ
せる」ことが深い信仰であるかのように思わせたいのです。
そのようにして悪魔はむしろ「道を求める真剣なキリスト者」を
誘惑するでしょう。悪魔とは誘惑者という意味であり、
その際の有力なエサは、ある種の美や「心地よさ」です。

くりかえしますが、悪霊は、常に何とかして人に意志を
放棄(ほうき)させ、人の中に入り込みたいのです。
そのようにして最後には邪霊の意志のまま、機械かあやつり
人形のようにキリスト者を動かし、次に今度はキリスト者を
大いに苦しめ、そのあげく、出来れば自分の「ともづれ」に
することを切望しているのです。(彼は、破滅というさけ
得ない自分の運命を感じているからです。)

かように、人が自分の頭・思いをふりはらい、二、三の単語を
早口にくりかえすことによって受身状態になり、何かを呼び込む
ように「となえ続ける」時に、そこにある現象(げんしょう)が
発生せざるを得ません。
(何故ならその時人は結果的に、それとは知らず、悪霊が
取り付く条件を満たしてしまうからです。)

以上の事実を見るとき
①の原則から「聖霊が来る」などということは
絶対にあり得ません。
しかし、②の原則のゆえに、その人に、待ってましたとばかりに
飛来し・とどまり、時に「すばらしい恍惚(こうこつ)経験」を
人に与えるのは悪霊達以外にはありません。

対キリスト者であればこそ、
悪鬼、邪霊達はしばしば、美しい「光の天使」をよそおい、
聖霊のマネをし、キリスト者に一時(とき)大きな幸福感や奇跡
をさえ与えるのが、とても上手であることを私達は知るべきです。

付け加えますが
「私は聖霊体験をした、私は不思議を行う能力がある」などと
言って誇る人たちの私生活をよく見るならば、その霊がどういう
種類の霊であるかは容易にサッシがつくでしょう。

2011年6月4日土曜日

私は年間2・4ミリシーベルトか

私の計算では
今実行している「実家と山の二重生活」では
年間大体2・4ミリシーベルトくらいを浴びる
ことになりそうです。

これは「理想の」1と比べると2・4倍に
なりますが
「年間100ミリシーベルト」と比べたら相当少ない
ことになります。
この100ミリシーベルトとは
「ガンになるリスクが起り始める」という値です。

*
実家での屋外と屋内の生活は、
大まかですが「0・1マイクロシーベルト毎時」とします。
計算:
0・1×24時間×185日として=
年間444マイクロシーベルト、
即ち年間0・444ミリシーベルトです・・・・・・①

また山小屋内での値は、
イモクボ氏の助言から、平均して0・3位のようです。
山小屋はオール二重窓であり、2バイ4建築ですので
気密性は結構高いはずです。
計算:
0・3マイクロ×屋内にいる21時間×年180日として=
1134マイクロ、即ち1・134ミリシーベルトです。・・②

前に書いたように山における
屋外活動時間(一日3時間として)は
年合計:0・81ミリ・・・・③

①②③の合計は2.388ミリシーベルト、
約2・4ミリシーベルトということです。

☆
ケサの値:1・45マイクロシーベルト

2011年6月3日金曜日

小さな言葉をくり返し「となえる」祈り

①
それは「ハレルヤ」「イエス」などの単語を何度も
何度も早口でくり返しとなえ、自分から自分を追い出し、
忘我の境(ぼうがのきょう)に入るというものです。
それをするネライは、理性や意志を追い出し、遂には
自分を完全無防備、無抵抗にすることです。この
「忘我」(失我かな?)は、キリストの十字架をわが身に
適用する所の、パウロの言う「生きるはワレにあらず」とは
全く似ても似つかぬものです。

今日、そのようなやり方が、簡単に「聖霊に満たされる」
便利な方法としてもてはやされてようですが、それは
聖霊に満たされるどころか、極めて危険な火遊びである
と言わなければなりません。

実はそのような方法はキリスト教に限らず、古今東西、
邪霊を呼び込む超能力者達、民間信仰、また殆どの宗教
において、奥義的で不思議な経験に入る方法として
受け入れられているものです。

当然そこには、
キリスト者が「みこころ」に向かう時、キリストと共に
「神から与えられる制限を深く喜んで受け入れる」という
本来の十字架は全く不要です。

実際これ以上に、人々の宗教心にとって
魅惑的(みわくてき)なものは他にはないでしょう。
なぜならそこには時に「霊的」と見られる超自然現象さえ
現れるからです。

悪霊とは実は、宗教的な魅力をちらつかせ、人をして
「キリストの十字架」から遠ざけることを目的として、人を
巧みに誘惑する頭のよい「だまし」の本家本元なのです。

そのワナにかかる人々は、初めきっと「私はスゴイ」と内心
思うことでしょう。しかし「宗教的に私はスゴイや、スゴク
なって人々に尊敬されたい」の源は深い深い暗やみの世界です。
マタイ4章前半をお読み下さい。悪魔は「奇跡を行う」ようにと
イエスをさえ誘惑したのです。

聖書で見る奇跡とは決して「行う」もの、パフォーマンスとして
あなたが「実行する」ものではありません。故にあなたが「奇跡を
行って人の注目を受けたい」という願望をいだくとするならば、
その願望の源にすばやく気付き、その申し出を断固否(いな)ま
なければなりません。

キリスト者は日々多くの事物を「否む」意志を必要とします。
「真の自由と喜び」はその拒否の後ろからついて来るのです。
実の所エバはその拒絶に失敗したのです。あの時の彼女の
「小さな心の向き」は何ととてつもない結果(人類の苦痛と
悲しみ)を生んでしまったことでしょう!それは私たちの個人の
歴史においても全く同じことです。

②
以上のことから「真の神」は
私たちがそのような方法で祈ることを絶対に望まれません。
何故なら彼は、私たちが「神が人に与えた自由意志」を用い、
神の敵に対抗して立ち上がり、シッカリと神のみこころを
「自分で」選び取ることを「強く望まれる」からです。

この時代、神は愛の中で人にすすめ、うながし、命ずることは
あっても決して「強制」することはありません。この微妙
(びみょう)と見える違いは実は大きいものであり、
それゆえ、とても重要です。

2011年6月2日木曜日

カリマンの線量です

6:00と20:00の二回測量
(マイクロシーベルト毎時)

5月
27日:1・45、1・41
28日:1・46、1・34
29日:1・35、1・15
30日:1・27、1・38
31日:1・41、1・43

6月
1日:1・31、1・40
2日:1・38、1・41

田村市は原発から近いのに、
その割には線量は低いのです。
しかしここカリマンは山の上にあるせいでしょうか
高い値(郡山市なみ)です。

おおよその田村市がとても低い(0・2位)のは、
まことにちょうどよく、原発からの風が山にさえぎられる
と言うほぼ真西方向にあるから、かも知れません。

懸念していた
初夏の原発方向から吹く風「やませ」の影響は
今の所なさそうですね。

改めて
「カリマン測候所」の毎日のレポートには感謝です。
http://white.ap.teacup.com/imokubo/

ps:

現実問題として
(即ち、これからの時代、どこにいようとも
もはや無菌状態の中で生きることなど望み得ないと言う
逃げ場のない現実の中)シッカリと腹をくくり
「どう放射能とおりあいをつけて、より楽しく生きる
べきか」は重要です。
(危ないのは放射能だけではないようですが)

その中でも
「幼い人達、またこれから子供を生もうとする人たち」と
私のような「高齢者」とでは全然話が異なると思います。

私達老人は要するに、これから悪条件の中で
生きざるを得ないと言うありのままを冷静に受け入れ
そんなに長くはない残された年月をどうすれば
「より値打ちのある生き方が出来るだろうか」
という視点から測り、考え、実行すればよいと
考えております。

しょせん、この世は天国ではなく、
この世を改善することなど基本的には不可能です。
むしろこの世界は、これから一定数の浮沈をくり返しつつ
徐々に、しかしながら確実に悪化の道をたどるであろう
という「人類の運命」を回避(かいひ)することは不可能です。

だからと言って
過剰(かじょう)に恐れる必要は全くありません。

2011年6月1日水曜日

グズとは「愚かな図」?

今「朝の儀式(ぎしき)」がほぼ終えて、
これから午前の仕事です。
ケサその仕事は先ずは「シュガー式まとめ料理」です。

朝の儀式とは「霊的なものからピアノまで」いろいろある
のですが、 私は相当グズ人間なので、これまでは
ダラダラとずい分時間が かかっていたのです。
でも今日はとても早く終わりました。

グズとは愚図であり「愚(おろ)かな図」なんですね。
とは言え、何も ものすごい効率(こうりつ)のよさをねらって
「魂をフル動員(どういん)」するのでは決してありません。
逆にそれは神を妨害(ぼうがい)することになるでしょう。
要(よう)は「安らかに淡々(たんたん)と」今やるべきこと
「私の分」を行って行けばよいのですが、
愚図はやはりだめですね。

祈りとは「霊を動かすこと」「霊の機能(きのう)を働かせる
こと」なのでしょうが、さらに具体的に言うと
「意志を用い、自分の霊を外に向けて押し出すこと」かな
と思います。
敵は外から、私たちの霊をおさえこみ、閉じこめよう、
霊が働かないようにしようと 46時中フルに働いている
のですから、もしもキリスト者が祈らなかったら それは
それは大変なことになります。
したがって祈りにおいて「神の敵を意識(いしき)しない」
と言うことは 決してあり得ないことでしょう。

その意味において
「たえず祈る」ことによって「総ての霊的なまどろみ」を
取りのぞくことができたらいいな、とけさ思ったことでした。

聖書にある「目を覚まして祈る」と言うのは実は
そういうことなのかも知れませんよ。

2011年5月31日火曜日

山に来ております

今日は9時頃・実家を出ました。
「いわき」から、好きな山道399を走りました。
この道は 「物すごい山奥に来た」と言う感じがいい
のです。 (ホンとはそうでもないのに。)

小屋に着いて少し疲れていましたが、片付けをし、
インスタントコーヒーを 飲んでから「ピアノ」に触れました。
今やこれも確かに山での私の楽しみと なってますね。
月光の一楽章は「一応」終わりまで来ましたので、今
ショパンのノクターンの初めの所に触れて見ています。
これは「チョー」難しそう! 特に左手が・・。どこまで
行けますか。行ける所まで行って見ましょう。

二人の兄弟のやりとりを拝見していたら
なんだかとても嬉しくなりました。ホンとに
「キリストをいただいた」という感じでした。

*
今回下山中、
幾つかのことを感じさせられました。特にマタイ
12と ルカ10から。

悪霊を追い出し、喜んで帰って来た70人に対してイエスは
「喜んではなりません」といわれました。
そういえばイエスも使徒達も、悪霊をいくら 追い出した
としても、有頂天になる、などと言うことは絶対
ありませんでした。多分その原因は、彼等の日常が正に
戦いそのものであったからでしょうね。 即ち24時間、
彼らが生きると言うことは即ち激しい戦い
(極めて強力な 宇宙的暗闇の陣営との)であったからでしょう。
決して「対ひと」ではありません。

そのようにして
「彼等のゴク普通の生活」のところどころがしばしば、
超自然的な表れを示したのです。それは即ち、彼等にとっては
当たり前の人としての生活から・時に奇跡として「天的能力が
こぼれ落ちた」とでも言えるのではないでしょうか。

ですから、よく誤解されているように
それは絶対に、デモンストレーション的に力をふりしぼり
顔をゆがめて、エイヤッと悪霊を追い出す、
などというのではまるでないと私は確信しているのです。

*
もう6時です。今日はあと食事をし、寝るだけに
しましょう。こん回は中15日の長い滞在となる予定です。

2011年5月26日木曜日

私が山で戸外活動の際に浴びる放射線

それは
年間0・81ミリシーベルト(810マイクロシーベルト)
ほどのようです。

仮に
・山小屋の数値がこれから1・5マイクロシーベルト毎時
とします。
・山小屋に滞在している時
戸外で年中一日も欠かさないで3時間ずつ
散歩や大工仕事をしたとします。
・また私が一年間の中で、
山小屋で暮らす日数が6ケ月くらい、
180日とします。

以上で計算すると
1・5×3時間×180日=
年間810マイクロシーベルト、
即ち0・81ミリシーベルトとなります。

当然、これにプラスして
・実家(千葉、茨城の境目)にいるときと
・窓を閉じた山小屋の中にいる時
また、
・夏分小屋の中にいるとしても窓を開けている
場合(ここは寒いので多くはないが)

の値を、810に加えないといけません。
結論としては皆さんよりは年間、相当多く
浴びることにはなるでしょう。


☆
悲観的、否定的な専門家も含め、
殆どの学者が共通して認めることは
「ガンになるリスクが高まる」
という数字は
年間100ミリシーベルトだそうです。
(必ずガンになる、というのではない)

だから今「一応安全」とされるのは
以下の3つの数字と言うことになります。
・100(年間、ミリシーベルト)
・20
屋外活動を制限する基準として
国が定めた毎時3・8マイクロシーベルトがこれ。
・1
即ち、事故前の基準

さて
野口邦和・日大講師(放射線防護学)は
次のように言っているそうです。

100、20、1、いずれもICRPから
「安全」の根拠を得ているが、
さらに「そのもとは何か」と言われれば、
本当に妥当なラインはよく分からないのです。
ここから先は科学の話ではなく、研究者の哲学、
人生観、立ち位置が反映されると思います。

当たり前ですが
今後、カリマンが1・5に安定せず、
急激に上昇に転ずる場合が来るようであるならば
よく考えなければならないことは明らかです。

いずれにしろ
私の健康について心配されている皆様方には
本当に感謝しております。

*
同じカリマンの住人
イモクボさんの今朝の計測では1・47だそうです。

イモクボさん、
ログハウス建築の再開、おめでとうございます。
さてさて、
我々のしめっきった建物内ではどんな値が
大よその平均値でしょうか。
また、オープンした窓での屋内の値も・・。
ずうずうしくてスミマセンね。

2011年5月25日水曜日

余震がありました

★6:26
浜どおり5弱とのことですが、
大して大きいとは感じませんでした。
(この小屋にしてはめずらしい)
それにしても
今日もすばらしい緑と日の光です。

*
ヨシュア記を見ておりました。

1の3
(主は「サタンが占拠している地」を私達に与えては
いるが、キリスト者は それを時空の中で、実際に
その中に入り込み、その地を 踏まなければならない。)
1の6
律法(神の法、真理のことば)を口から離さず、
昼も夜もそれを口ずさまなければならない。
1の6
強く、雄々しくあれ。

2の24
主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。
(これは十字架と復活における永遠的主の勝利と獲得
を意味しており1の3と同じです。)
この世を占領している住民(悪しき霊達)は、
私たちのことで、震えおののいています。
(これが悪霊達の心理状態とは!)

6章
・「万軍の大将」の確かな守り、
・契約の箱(主ご自身)との一つの中で、

・角笛を吹く、
・ときの声を上げる
(この二つは、キリスト者の霊から真理を外に向かって
言わば発射、発砲することです。黙示録にある、ラッパを吹く、
ハチをぶちまける、また詩篇最後の、大いに楽器をかきならす
等も基本的には同じことでしょう。それをおこたると私たちの霊は
いつの間にか、敵によってとりかこまれ、幾重にも圧迫されます)

・敵が守っている城壁の周りを回る(キリスト者の敵とは誰か、
どこにいるのかを明確に知り意識し、霊の中で敵と対抗しつつ)

以上のことで、最も基本的に大切なことは、キリスト者の
霊の姿勢です。 私たちはシッカリと敵(絶対に人ではない)に
対立して 立つ、という霊(最も深い私の存在)の態度を
取るべきです。

それは決して(よく誤解されているように)魂や体における
「いわゆる勇ましさ」等ではなく、むしろ「落ち着きや
静けさ」の中でこそ表現されるものでしょう。

神に従いなさい。悪魔に立ち向かいなさい。(ヤコブ4の7)

*
今日は1・47マイクロシーベルト:
「やませ」・おおよそ原発方向からの初夏の風
の状況はどうなのでしょうか。・・あ、明日は東からですね。
明日に注目です。

2011年5月24日火曜日

今日の作業

寒い朝です。
ストーブをつけています。

今回、滞在の目標は:
外に放りぱなしの板等の大量の建材を
収納するための棚作りが可能なように
前回まで修復した基礎、土台を仕上げることです。
そうでないと小屋の周辺に散在している大量の建材が
片付かないからです。
(3・11に殆どの地下の棚が崩落)

具体的には
・基礎土台の垂直と水平を確認し、修正する。
・最後の締めをする。
・釘打ちをする、
ということになります。

言うは簡単ですが、この目標、今日終わるのでしょうか。
やってみないと分かりませんね。

*
本日は1・42マイクロシーベルトとのことです。
ここは高地なので「平地」岩井沢より高い数字なのでしょうか。
明らかにここの方が高いようです。

2011年5月23日月曜日

したたる緑

先ほど山に着きました。
四方八方、どこもかしこも
したたるような緑です。
今年もまた小屋が、
緑の海に沈むような初夏が来ました。

居間の窓から見ると今回は
展望が実によく開けており
樹木に妨げられずに遠くの山が美しい。
冬、この時期の葉の茂りを考えて
彼がちょうどいいアンバイに
木々を伐採してくれたことがよく分かる。

今回は中3日だけの山暮らし、
もう週末には下山しなければならない。

相変わらず
3・11の後始末を少しだけ前に進められれば
それだけでいいでしょう。

*
「いもくぼブログ」はありがたい。
今日のカリマンは1・33マイクロシーベルト毎時とのこと。
夢の世界から現実へ、ですね。

2011年5月22日日曜日

何を信じるかです

心配してくれて有難う。
でも結局のところ、
「何を信じるか」ということではないでしょうか。
で、私の場合は
「学校での戸外の活動の基準は3・8マイクロシーベルト毎時」
を信じますし、これで行きますよ。

今、色んな人がさまざまなことを言っていますが、そんな
際限の無い情報にいちいち振り回されていたら、実家にいても
和歌山に逃げても、いずれノイローゼになってしまうでしょう。
それは楽しくないし、とてもソンな生き方ではないでしょうか。

しかし、
「間違いなく、一年後に動けなくなるほど」の健康被害がある
という状況になった場合はスタコラ山をおります。それは当たり
前ですし、山小屋などどうなってもかまいません。

さて現実問題、放射能によって私が「不自由な健康状態」になる
よりも、今既に私の体のどこかにガンが発生しているという
可能性の方が、ハルかにハルかに高いのです。要するに、
放射能等と関係なく私はもうすぐ確実に死にますが、その確率は
100%であり、このこと以上に重要で確かな「情報」はありません。

いずれにしろ私の場合、主の恵みを得て
これから10年間、元気で活動できるとすれば
他に言うことは全くないと思っております。

それに、今一日一日、
私の霊は不思議なほどに安らかです。
そのようにして死ぬ日も迎えられたら素敵ですね。

2011年5月21日土曜日

ポイントは今後10年間?の私の健康です

「都路はセシウム137だけだと6Ci/km2
チェルノブイリの第二区分(保障付き任意移住)に相当する」
との情報、有難うございます。
しかし、さらに深刻なのはこれから数値は確実に上昇する、
とのことですね。

*
それで教えてください。
これから5年~10年、一年の半分近くを都路の岩井沢で暮らした
場合、私の体、健康は具体的にどのように悪化するのでしょうか。
その確率も知りたいのです。(可能性がある、ではなく)

「この場合」福島や日本がこれからどうなるか等はどうでもよい
ことであって、ポイントは正にそこ(神に仕える為の「私の」
体力状態)なのです。

もう10年で80歳、私に残された時間は僅かです。
これからの10年間?ひたすら祈りとエクレシアの為にささげた
生活をしたいだけであり、他に欲しいものは全く何もありません。
(その点、山は祈りに最適)

だから、確実に健康が損なわれることがハッキリしているのに
「自分好みの山暮らし」をしたいから、というので私が山に通い
続けるならば、それは明らかに理屈に合わないことであり
明らかに「みこころ」にも反します。また当然、そこには十字架も
何もないのです。
さらにキリスト者は「聖霊の宮、自分の体」のを重んじる
べきであり、そのような好き勝手な生き方は、
キリスト者として神の前に当然・非常によくないことは明白です。
「イエスこそ私の主」であり「私が私の主」ではないのです。

そうした場合、この時代において、或は次の時代において
この違反のゆえに、私が「神からの悪い報い」をまぬがれる
ことは決してあり得ないでしょう。
それは私にとっては更に深刻な大問題です。

だからよろしくお願いします。

2011年5月19日木曜日

コメントをいただきました

・・・
そう
①みこころ②十字架③万物への宣べ伝への中で。

*
アーメンです。
今日は、創世記34、35章を聞いていました。

「そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。
私はそこで、私の苦難の日に私に答え、
私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に
祭壇を築こう。」(創世記35:3)

ここに至るまでも、ヤコブは主の御心の内を
歩み続けられたわけではなく、
多くの問題行動がありました。
しかしそれでも
「私たちは真実でなくても、神はいつも真実」
ですから感謝です。

「いつも私とともにおられた神」
この神の故に私はホッと肩の荷が下ります。
事実「聖霊は私のような者の内に
住み続けてくれている」
のですから本当に感謝以外にありません。

イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりに
感謝し、また今日は、ブログのことばの内に
兄弟との交わりを頂いて感謝です。

これから老犬と
ノソノソと家の周りを散歩です。

☆
この兄弟は、とても大きな心臓の手術のあと、
生活上、極めて制限された行動をよぎなくされて
おります、自宅でお仕事をなさりながら。

さて、十字架とは他でもない
人が「自発的に主からいただく」制限や不自由
のことです。

また神のみこころは他でもない
主が私に下さる十字架を
生活のささいと見える場面で、人知れずに黙って
受け入れることの中にあります。

しかしその「3日後」私達は確実に
「キリストにある真の自由」を
主と共に密(ひそ)かに楽しみ、そして
一人深い礼拝をするでしょう。(復活とは、
十字架の死を経過した後、神からいただく無制限です)

また大切なことは
本来十字架と復活は人々に隠されており、
世界がそれを見ることは不可能である、
という事実です。
それも大きな神のみこころです。

(それにしても多くの人々は十字架について
何とヒドイ誤解をしていることでしょう。
「十字架の実質」は決して目には見えないものなのに
十字架の外側のみを見て、それを迷信的に自分や他人に
適用しています。そのような思いと行為は間違いなく
「邪悪な霊達」によって用いられるでしょう)

2011年5月18日水曜日

みこころ、十字架、万物への宣べ伝への中で

言われるように
今の時代が黙示録の中であることは論を待ちません。

今生きている総ての人は、もうスグ確実に死にます。
その、他人や人類でなく「自分が死ぬ」ことこそが
「大艱難」そのものです。それは明日かも知れません。

しかし、
死ぬこと自体は大した問題ではなく、
「どういう内面(霊)で死ぬか」こそ極めて重要です。

ですから
福島、日本、世界に「漂う空気」が
今どうであろうと、またどうなろうと、

みこころ、十字架、万物への宣べ伝への中で、
今主が私に与えられた場所に身を置き
日々淡々として、今日与えられる「私の生活」を
生き、また死ねばいいのです。

それこそが、絶対に確実不変な人にとっての
最上の暮らしであるからです。
そう、
①みこころ、②十字架、③万物への宣べ伝への中でです。

2011年5月16日月曜日

土台修復工事進行中

このところ、土台の修復をがんばっています。
(フショクした独立基礎1本の取りかえは既に終わっています。)

今分かっているダメな土台は4本、
これもかなり腐食(ふしょく)いていた上に、あの大地震に
よって結構な損傷(そんしょう)を受けてしまったのです。

(正直、初め発見した時はややゾッとしましたね。
それに、家の完成は遠い先だと言うのに
もう土台がクサっていた、というのはあまり聞かない面白い話
です。この理由の説明は長い話になりますので・・)

なにしろ事は土台、早く何とかしないと大変なことになる。
下手すると家屋がドサッと落下して、もう住めなくなってしまう
かな、と思ったほどでした。

しかし不幸中の幸い、
その部分は、そんなにスゴイ重量がかかる
ところではなかったのです。(南デッキの床部分です)

方法としては、
土台をすっかり取りかえるということはあきらめ、
その土台のスグそばに新しい土台をはめ込み、
それを太い鉄パイプ(単管)で支えることを考えました。

工事中、実に面白いことがいろいろと出て来ましたが、
それらの話は全部ハショッて手ミジカに書きますと・・

1地面に穴を掘り、車のホイールを埋める。
2それに鉄パイプを立ててホイールに固定する。
(後日ホイールにコンクリートを流し込んで安定を更に堅固にする)
3単管の上部を新しい「土台ケン、ネタ」に固定する
というすんぽうです。
今日までで、地下に5本の単管が立ち上がり、明日はもう
2本を立てます。(長いのは1・5mほど)

この方法は、比較的作業が楽であり
お金もそんなにかかりません。
われながらグッドアイディアだと思っております。
それにしても、孤軍奮闘(こぐんふんとう)は疲れます。

2011年5月14日土曜日

コメント有難う3

いまだに
コメント欄に私のコメントが載らない状態が続いて
おります。私のパソコンが古いせいかな。

*
主はそう言う「しつこい」祈りを喜ばれるのでしょうか。
↓

はい、ルカ福音の「やもめ」によると確かにそのようですね。
さて
1・神がキリスト者に御自身の「みこころ」を啓示される
2・キリスト者がそれを「自分の願いとして」 神に「しつこく」
懇願する
3・神がそれをかなえられる

どうも、以上は神が意図された定めのようです。 だから、
シッカリと「みこころを知ること」が 総てのよきことの
始まりなのでしょう。 それにしてもキリスト者の祈り無しに、
神は何事もなさらないとは実に不思議なことですね。
だから今私達にとって「真の祈り」を学ぶことが
緊急の課題であるはずです。

さて
私は物すごく健康であるというわけでもありません。今年は
新年に風邪をひいて寝込んだし、きのうあたりまで
花粉症で結構不快な時を過ごしておりました。

熱心なキリスト者は霊を重んじるあまり、肉体を軽視、または
蔑視する傾向があるように思いますが、「私の霊の真の状態」は
私の肉体を通して現れざるをえません。即ち、私が肉体において
行う総ては私の霊の現れ、真相である、ということです。私が
断定できることは、神の目から見て 人間の体は本来、とても
すばらしいものに違いない、ということです。

だから私は「聖霊と共なる私の霊」が無理なく自然に
私の魂と体に対して、その聖なる支配を表現する、
というような キリスト者でありたいのです。

もしもそうであれば、彼はキリストと共に 今でさえ万物をも
治めるでしょう。その時、彼は「キリストを王にいただいた
天国の一表現」そのものに違いないのです。

(「支配」は非常に重要な聖書のテーマです。また神の言葉に
よると「支配」は人民によってでなく、王によります。だから
聖書に民主主義はありません。そしてそのような天的な
王による支配を天国、御国、神の国と呼んでおります。また
「キリスト者が死ぬと天国に行く」という記述も、少なくも
聖書では、どこを捜しても見出すことが出来ません。)

*

サスケさん
今御座におられるキリストは、今度は「彼の総ての達成」すなわち
キリストの完全な勝利とサタンの全き敗北・滅亡(福音の中身)をさえ
含んだ聖霊として今、私達の最も深い部分におられます。

しかし言われるように、その「天国としてのキリスト」は
とても隠されており、あたかも小さな種か、黙示録に出てくる
あの封印された小さな巻物のようです。
(こんな神秘なことが他にあるでしょうか!)

しかし更にすばらしい事実は
もしもある人が、日常において、喜んで土に埋められるという
「自分の十字架」を否むことが無ければ、
その隠された永遠の種は、今度は時空の中でさえ 発芽、成長を
経(へ)、キリストが支配される御国として彼から徐々に現れ、
遂には開花に至る、ということです。(永遠と時空は対比され
ます。また「完全な全き開花」は次の時代において、
でしょうが・・)

その時に彼はキリストと共に 命と愛の中で 万物
(彼の魂や体をも含めた彼をとりまく総ての環境)をも、何事も
無いかのように自然に支配し、治めることが出来るはずです。

(しかし普通見られる光景は、魂や体が、その荒々しい自分の
欲望のままに「霊からの繊細で聖なる主張」を抑圧し無視して
います。これは混乱、混沌であり、聖なる王の「不到来」を表して
おります。それは逆に「神の敵・この世の王」の支配を示す
ものでしょう)

そのように私達は、もともと神が意図されたように、
サタンの支配を退け、万物を支配する存在でありたいのです。
聖書によると、キリスト者とは本来その身分上何と「王達」でも
あるのですから!むろんキング、オブ、キングスは
ただ一人、主イエスキリスト以外にはあり得ませんが・・。

2011年5月12日木曜日

コメント有難う2

なぜか再三の試みにも関わらず、私のコメントが
コメント欄に載りません。やむなくここに掲載する
ことをお許し下さい。

*
匿名さん、感謝です。お会いすればもう互いに知って
いる人なのでしょうか。
心から・またのコメントをお待ちしております。

サスケ兄弟
真に「御国」(サタンに代わるキリストの統治、支配)
が「近づく」だけでなく、そのリアリティが今の時代、
実際にこの地上に現れますように!

「キリストの完全な支配、統治」は次の時代に、
この世界にも「公に」(誰の目にも分かるように)出現しますが、
「この時代における御国の現れ」に関しては
そのカギを握るのが、今現在のキリスト者達の姿・実際です。

即ち
今この時代、少数のキリスト者達を通してであったとしても
ある程度「その御国のリアリティ」が現に地上に出現するか
どうかはとても重要であると言うことです。

その理由は
その分量(キリストの実際的な支配の分量)がある一定に
達する時点で、初めて教会時代は終結し、時代が転換する
からです。

*
そのために必要なのがひたすら祈りです。
それは「キリスト教宗教」のように、人の願望、欲望を
かなえていただくための「お祈り」であってはならない
でしょう。(そういう祈りはダメだとか、そういう祈りを
神は決してかなえない、とは言いませんが)
この時代、神が心からキリスト者に要求されている祈りとは・・

・悪らつなサタンに対して神が報復して下さることを
神に日夜懇願する(しつっこいあきらめない)祈り。
(ルカ福音18の「やもめ」のように)

・キリスト者が直接、サタンを糾弾する証しの言葉(黙示録12)

・サタンが万物を用いてキリスト者の目前に構築する
「山」(御国の現れの上で、殆ど不可能であり、極めて困難と
見える状況)さえ移すキリスト者の言葉(マタイ17)などです。
(以上を「祈り」と総称することは可能でしょう)

そして
それらは日夜、キリスト者が自分の口を開き、自分の霊を
前面に押し出し、外の世界(霊的な神の敵の支配)に向け、
神の言葉(キリストの勝利、即ち福音)が、自分を含めた
総ての創られたモノ達に対して発せられねばなりません。

その際、当然のことながら
敵は霊であるゆえ、私達も霊の中に入り、霊によって
対抗し、また攻撃する必要があります。(攻撃は最大の防御
であり抵抗でもあるからです。真に神の国をこの世に出現させる
ためには、「祈り」が実は「祈り風、魂のツブヤキ」であるならば
殆ど何の意味もなさないでしょう。)

さて、先ほどのルカ18によると、イエスはその時、
この最後の時代において「地上にそのような信仰が見られる
であろうか」と言われましたが、それは決してイエスの
ため息ではなく、そのようなキリスト者の祈りこそ、今再臨を
願われる神の子キリストにとって、切迫した切実な願いであった
ことを意味しているのではないでしょうか。

しかし、そのようにして今の時代に「隠された方法で」
この地上に現れるであろうキリストの統治(神の国、天国)は
決して、この世やキリスト教世界によって賞賛されることはなく、
むしろ迫害されるであろうという事実を
私達は今から知っておく必要があるでしょう。

また以上のような祈りにおいては
「人の魂を源泉とする血肉の熱心」は絶対的に
退けられねばならないことも肝に銘じるべきです。

2011年5月11日水曜日

昨日のコメント、有難う

こんなことを感じました:

「宣言する」はやはり
「神につかわされ外国に出て行って宣教をする」
と言う意味も持っているでしょう。

しかしながら
ある人が真の命を神からいただいた 本当のキリスト者
であるならば、彼は 例外なくそのミッションを神から
託された 正式で公的な布告者「ミショナリー」(宣教師)
でもあるはずです!

なぜでしょう。それは
「全世界という外国」はすでに日常の私達の身の回りに
存在しているからです。(私達は実は外国人です!)
人々が「つまらない」ものと見ている日常生活は、
決してつまらなくもスモールワールドでもなく、
「あるネットワーク」で全世界とつながっているからです。

さて
「その外国」に住んでいる無数の、人の目には見えない
「極めて知的で高度な住人達」は常に
私の体と魂を通して
私の霊(私の中の「最も奥深い私」)を 圧迫、抑圧し、
私をユーウツにし、私の霊をマヒさせ眠らせるか、
あるいは「さまざまなこの世界のモノ」へと
私達の心をそらすようにと 働いております。

ですから、私が「そのミッション」を達成しようと
するならば 24時間・目を覚まし、心のナマケをしりぞけ、
戦うために積極的に霊を外に向ける意志、
私の霊を「その外国」へとおし出す意志が
どうしても必要なのです。なぜなら
彼等は極めて勤勉(きんべん)であり、
眠ることさえしないからです。

出て行って
全世界の
総ての創られたもの達に
福音(キリストの勝利とサタンの敗北の確定した事実)を
宣べ伝える、は一句一語

イエスが天に帰られる際に、総てのキリスト者に
残された 「あの極めて重要な命令」を
形成(けいせい)しているはずです。

70歳になりました

この5月5日で満70歳になりました。
これで私は
名実(めいじつ)ともに老人・おじいさんになったのだ、
と言ってもいいでしょう。(今の日本ではそれは
75歳だよという人もおりますが・・)

実はある意味、私はこの日を楽しみにしていたのです。
それは、老人であるとは一体どんなものであるか、
その実体験をこれから日々味わうことができるからです。

さて
これから80歳までが一区切りです。
それまでの、多分アッと言う間の10年間、
その一日一日、その日々の刻一刻は一体
どんなスリリングなものとなるのでしょうか。

☆☆
前回の記事に
コメントをいただきました。
有難うございます。
↓

>人の口が何を発するかは極めて重要です。
ほんとうに!
主を語るために備えられたであろう「口」という器官を、
今までいかに、この世に同調するために使ってきたことか!

マルコ:16-15
『全世界に出て行き、すべての造られた者に、
福音を宣べ伝えなさい。』
宣べ伝える=宣言する、これなら何時でもどこでも、
一人でも、出来ますね♪ 

2011年5月10日火曜日

7日、カリマン(小屋付近)の線量です

イモクボさんが実際に線量計で計っています。
それによると
(小中学校等で、外で体育などをするときの安全基準が
3・8マイクロ・シーベルトですので)
この小屋は安全と言えるでしょう。

*
イモクボさんのブログ
↓
Sさんから、線量計を一日借りて遊んでしまいました。
・国道(288)で0.8~1.0マイクロシーベルト位。
・カリマンのMさんちの田んぼ脇(地表)の
タンポポの横で1.5マイクロシーベルト位です、
・家の中では0.5~0.8マイクロシーベルト、
本日午前11頃の測定です。


☆・☆
今朝のメールから:

昨日(9日)小屋に戻りました。
今ようやく黄緑一色の若葉の山小屋です。

今ロフトの窓から、
何と言う名前なのでしょうか
「山桜」の花びらが風に舞っています。

Yさん、Tさん達のこと教えてくれて感謝です。
そのような
このごろの出来事に接するときに

私達が出て行き(即ち、自分の霊を前面に押し出し)
日常生活のささいな場面で、自分の小さな十字架を負い
総ての創られた者達
(特に見えない被造物達、そして自分にも)に対して
福音(十字架、復活、御座に関する
イエスの勝利とサタンの敗北の事実)を
宣べ伝える(宣言する)時に初めて

神が御使いを遣(つか)わされ
神の敵達を追い払われる、
という現象(法則、法、定め)を見る思いです。

「あなたは
幼子、乳飲み子達の口によって
「とりで」を設けられました。
それは、あなたに敵対する者の為に
敵と復讐(ふくしゅう)する者をしずめるためでした。」
(詩篇8篇より)

即ち、
(か弱き)キリスト者の口が
神の真理を宣告することによって
「とりで」(小さな城)を設けるならば、
初めて神が敵を静められるのです。
人の口が「何を発するか」は極めて重要です。

2011年5月6日金曜日

北デッキを切り落とした

昨日、北デッキを、文字通り切り落とした。
よく見るとデッキの東半分はチャンと土台の上に根太が乗っかって
いるではないか。だったらその部分は廃棄(はいき)することは
ない。あとで下に壁を作り、薪小屋の屋根にでもするとよい。
というわけで、ネタがはずれている西半分のみを
切り落とすことにした。

デッキに足を踏み入れ、ネタが土台に乗っている部分と、
乗っていない部分の境目におそるおそる丸ノコを入れた。
デッキの奥行き1・5間を切ると、最後に、二坪以上のデッキが
3m近い下の地面にフワリ、ドサリとばかりに落下した。
うまく行った、これでよい。

それにしても早くその薪小屋の建築にとりかかりたいものである。
実は今、小屋の西部分に何と大量の薪が地面に散乱している。
と言うのはこの冬、ある人が小屋に来てくれて、周囲の森を
一部伐採(ばっさい)し、たった2日で雪の中、一年分の薪を
作ってくれたのである。(これは本当の話です)
このように一人老人が、山奥で山小屋などを作っていると神は
時々不思議なエンジェルを遣(つか)わしてくれるのである。

今度の冬
ストーブに連日マキをドンドンくべるために、
早く3・11の痕跡(こんせき)を小屋から完全に
消し去り、その薪小屋の中に、芸術的な美しさで薪を
積み重ねて見たいものである。

2011年5月5日木曜日

南デッキの修復

次に南デッキであるが、それは角(かど)部分でないから
三脚(さんきゃく)は使えない。
つり上げ(or押し広げ)にはどうしてもジャッキを使うしかない。

そのためには、ジャッキを安定的に置く台を作らねばならない。
これは相当の手間がかかり出来ればさけたい、と思っていた
のだが、フト「この前買ったサポートを地面にうめ込んで、
それにジャッキを置いたらどうか」と気がついた。結果的に、
これが実にうまく行ったのである。ジャッキもかなりな力が
出るものであると感心した。

①ジャッキでデッキを押し上げて少しの間隔(かんかく)余裕を作る。
②二枚重ねの「数メートルの重い2バイ8」をはずして
一枚ずつにする。
③一枚ずつを丸ノコでわずかに細くする。
④デッキと基礎の間に一枚ずつはさみこむ。
⑤わずかに生じたデッキとの隙間(すきま)は、後でクサビを
打ちこめばいい。

南西と南の二つのデッキの修復が、何とわずか半日あまりで
終わってしまったのである(5/3)。正に「案(あん)ずる
より生むが易(やす)し」であった。

☆
さて突然・話題は変わりますが

どうして永遠に対して
今のような「時間・空間の時代」があるのでしょうか。

それは:
一点に凝縮(ぎょうしゅく)され、
隠(かく)されている「ある実在」を
引き出し、詳(くわ)しく見せるため、
ではないでしょうか。

なぜなら
「ある実在」とは、確定ずみの
「完全なイエスの勝利とサタンの滅び」のことですが
それは(十字架と復活という)①一点であると共に
②経過(けいか)や過程でもある、からだと思います。
(当然①と②は全く同質です)

即ち、十字架と復活そして御座という隠された永遠は
今度は時空の中においても、
総ての創られたもの達に対して
くわしく展覧されることを、
神は大いなる喜びとされるからでしょう。

それは
①一粒の小さな小さな金と
②それを広大な面積にまで押し広げた金の紙(金ぱく)
のようなものかも知れませんし、あるいは簡単に言って

①種と
②その萌芽(ほうが)、開花、結実
のようなものではないでしょうか。

私達が目にする一粒の種とは、
その後の莫大な時間と空間をさえ含むところの永遠
を指し示すための一つの絵なのかも知れません。

従って、私の中にまかれた「永遠の性質を持つ一粒の種」
(イエスの十字架と復活、御座を含む)も
「私の死」を経て初めて現れ、その中に含まれる永遠の真実を
この時間と空間の中に萌芽、開花、結実させるのです。

2011年5月4日水曜日

西南デッキの修復

小屋のデッキ(ベランダ)は全部で4つあり、内3つが
3・11でヒドイ損傷(そんしょう)を受けた。

北デッキは、今無残にも中空にぶら下がっており、
これはとても修復できそうにない。
いずれ何らかの方法で、危険ではあろうが
地面にドサリと数メートル落下させなければならない。

居間に直接接している西デッキであるが、これのみが健在である。
南デッキに続く、西南デッキは基礎からはずれ、大きく傾いて
しまった。

一番大きな南デッキ
(この上を歩いて、小屋の「玄関」にいたる)は、
「2バイ8を二枚重ねた土台」が、西南デッキに
合わせて斜めになってしまったのである。しかし、デッキ
そのものは全く健在であったことはとても感謝であった。

さて昨日昼から、南西デッキの修復にとりかかった。
その作戦とは:
まずは、鉄パイプ三本のアタマを太い針金でくくって、
大きな三脚を作る。そこにイモクボさんから借りた
レバーブロックを取り付け、私を乗せたままデッキを
つり上げるのである。

いろいろと試行錯誤(しこうさくご)した結果、
(機械の威力は偉大)重い重いデッキはつり上がった。
初体験の私にはこれは一寸した感動であった。

後は
基礎の上に適当なライナーを置き、水平機を見ながら
デッキ全体が水平になるようにつり下ろすのだ。
そのようにして、遂にしばらくぶりで、私は春の西の森を
見下ろす、地球に水平なデッキの上に立つことが出来たのであった。

そういえばダビデも
「主は私を水平なところに立たせられる」
見たいなことを言ってましたね。
(水平感、安定感の無い場所に人は暮らせないのだ。)

2011年5月2日月曜日

山ではまだ桜が

ついさっき、小屋に着きました。
今日はまず午前、千葉ニュータウンのジョイフルホンダで
鉄パイプ(単管と言うのかな)を買いました。
3・4メートルを1本、3メートルを二本です。
(そこではパイプの切断や穴あけもやってくれるのです)
それを積んでから出発したので、こちらに着いたのは
5時半でした。やはり少々疲れましたね。
でもこれから片付けて、食事を作らねばなりません。

山はようやく木々から新緑が出始めたといった所です。
こちらの平地ではまだ桜が咲いているのですから。

*
聖書について大切なことは、
ただ「そこに重要な真理が書いてある」ということ
だけではなく、
それらの事実が「総ての創られたもの達」に対して明確に
宣告されなければならない、と言う点にあるように思われます。

「みことばを宣べ伝える」と言うフレーズは今日
全くいいフルされ、しかもとてもせまい意味で
使用されています。しかしその本来の意味は決して
そうではないでしょう。

その真意は、
神の重要真理(十字架、復活、御座に関する事実、即ち福音)は
本来(イエスが言われたように)対人のみならず
「総ての創られた者たちに」対して
「いちいち日々」明確に宣言されなければならない
と言うことです。

「宇宙の法」の制定者である神は、人によって随時(ずいじ)
それらの真理がハッキリと宣告されることをとても
重んじられるのです。(そして神は「宣言を聞く」
ことがとてもお好きであるはずです。)

また、実際的に言って、どんなにすばらしい法であっても
ただ存在するだけでは「その力と効果」は
殆ど現れないのではないでしょうか。

以上のようなことを
今日道々考えておりました。