それは、
「み国が来ますように」と言う祈りです。
いわゆる「主の祈り」
(本当は「主が強くすすめた祈り」)
の中心はみ国です。
またそのことの大切さは、イエスが
この祈りをすすめたあと再び
神の国と義とを先ず「第一に」求めなさい、と
言われたことでも分かります。2千年前、そして
当然今もイエスの心は正にその点に集中していると
言えるでしょう。
そもそも
それらが書かれているマタイによる福音書とは
「イエスが本当の国王である」ことと
そこの国民はどうであるべきかを
伝えている書です。
一例をいえば、福音書の中で伝えられた福音は
「神の国の福音」であって「恵の福音」では
ありません。(恵の福音は神の国の福音の一部に
過ぎません。)
また、天国は目に見える形においても
間もなく来るのだから、
「あなたの普通の生活が今どうであるべきか」が
パウロやペテロが命がけで伝えたことです。
要するに全聖書は、天国、すなわち
王イエスの支配(キリストの天的な支配)が
この地上にも実現されるためにある、
と言っても言い過ぎではありません。
「みこころが天で行われるように地でも
行われますように!」
従って、私達の総て(一回の呼吸、一度の食事でさえ)は
全部「神の国のため」であるべきです。
だから「み国がきますように」と、週一度
ブツブツ「となえる」だけではまことに不十分です。
私達は「となえる」のではなく、
神の国を心から求めなければなりません。
★16:37
今散歩から帰って来た所ですが
まだ日は高いです。
いつもの「ダビデの丘」方面でした。
大工仕事ですが
ヒンヤリとした気持ちのよい好天の中
三番目のタナ工事に入りました。
これが終わればもう二つです。
今ホトトギスがけたたましく啼いています。
近年少なくなったのかな、それでも
大好きなカッコー、ヨタカ、フクロウのこえも
時に楽しんでおります。
本当に主に感謝な日々です。
6 件のコメント:
sasukeさん、お久し振りです。お元気でなによりです。仕事が見つかってから一年位でしょうか? 仕事も慣れて一段落と云うところでしょうか。
私達は本当にいつの間にか、聖書の重要な聖句=生き様を忘れてしまいがちです。今回も改めて御国の事を思い出させて下さった事を感謝します。
サスケ兄弟
コメント有難う。
一年前と比べると・・それてしまった。
「それる」と言うのは
よくない方向へ行ってしまった、
というケッコウ重い状態を指す
と思いますが、
私の場合、当時と比べて、
そんなにまで「それてしまった」
と言う自覚は、
正直ないのですが・・。
私はドン感かな?
もしもそうであったら
ごめんなさい。
エシュコルさん、
共に神の国とみこころを
求めて行きたいです。
昨日と今日のふたつの記事を拝読し、思いを巡らす中で、夜勤週の疲労が抜けていくような、充足を味わっています。
私の「霊」におられるキリストの統治が、私の「魂」に及ぶとき、行為による自己満足ではなく、主が成された事を感謝を持って覚え、御言葉を喜び、自分の価値基準に執着せず、人の評価を気にせず、自分自身を裁くことさえしないという、神の支配=天国、を味わうことができます。なんと素晴らしいことでしょうか!
地に足をつけ、土に返る者として労しながらも、「国籍は天にあり」と「御子の信仰」で生かされていることは、なんと素晴らしいことでしょうか!
世にあっては艱難がありつつも、キリストにあって平安を持ち、強く雄雄しく恐れなく生きるように望まれていることは、なんと素晴らしいことでしょうか!
願わくば、この喜びを、生活環境で押し流したいものです...。
今日、山からおりました。
疲れて先ほど実家に着きましたが、
兄弟の証しに接し、
何と大きな励ましを与えられた
ことでしょう。
今、経験されている
リアリティ(真に実在するもの実感)は
天、天国、主の支配の中にしかありません
それはこの世にはありません。
しかし
今この世、地上にあってさえ、
少なくもその「前味」を経験できるとは!
だから、
一時的なもの、移り行くもの、
つかの間のもの、
アワのように消え去るものに
捕らえられ、
心が占有されてしますのは
やはりとても惜しいことです。
感謝です。神の国の福音は、特に隠されていると思っています。
マルコ4章「なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。」
王国の真理は、信者のうちに隠されている、神にとって、特別なものだと信じます。
神になりかわって、地上に神の国をもたらすものなどないと思います。
神殿建造のストーリーは、とても美しいと思います。
我々は、哀れみを受けて、ただ、復興の事業に参画させて頂くに過ぎないものです。
黙示録に描かれる壮大なビジョンを、さらに深く知りたいと願います。
そこには川があります。宝石があります。
王国は、聖書の中心点であること、本当に、アーメンです。
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