2009年6月30日火曜日

感情の三分野:愛情、欲望、感覚

喜び、幸福、愉快、興奮、ため息、いらだち、刺激、落胆、悲しみ、
悲嘆、憂鬱、惨め、悲哀、動揺、混乱、心配、熱烈、冷淡、情愛、
好み、むさぼり、同情、慈愛、嗜好、欲望、興味、願望、期待、
高ぶり、恐れ後悔、憎しみ・・ 
これら総ては私達の感情から出てきます。

人の思考と関係する総ての働きは、考える器官、即ち「思い」
から出てきます。そして物事の決定に関連する働きは「意志」
から生じます。これら思考・思想と、そして決定を除く、
その他の機能は総て感情から出てきます。多くの多種多様な
感覚は感情の機能です。感情は非常に広範囲に及ぶもので、
殆ど魂的な信者は「感情的な信者」です。

以上の数多くの項目を下記のようにまとめる場合もあります。
それは、いわゆる七つの情感です。即ち:愛、憎しみ、喜び、悲しみ、
興奮、落胆、興味(無関心)です。これらは皆、感情に属します。

以上のように、人の感情は広範囲に及ぶ為に非常に複雑です。
今これからの理解を助ける為に便宜上、私達は感情を更に
簡単に、三つの部分に分けたいと思います。即ち、
①愛情、②欲望、③感覚です。この三つの部分は
上記の数多くの項目を総て含むことになります。

ですから、もしも信者が、この三つの面に「打ち勝つ」ことが
出来るなら、彼は速やかに「純粋な霊の命」に入ると言えるのです。
(先人の言葉より)

2009年6月29日月曜日

感情によって生きるキリスト者が多い

キリスト者が十字架の確かな御業を経験する前においては、「罪から
の解放」は経験したかもしれませんが、それでもまだ彼は魂に属して
おり、自分自身の天然の命に打ち勝つことは出来ません。

もしも注意深くその様なキリスト者の魂に属する行為を調べるなら、
その多くは感情から出たものであると分かります。
魂は思い、感情、意志という三つの大きな部分から成っていますが、
たいてい「魂的な信者」は感情によって生きています。ですから彼らは、
殆ど感情の命によって支配されていると私達は言うことが出来ます。
それ故、キリスト者の人生において、思いと意志よりも感情が
より大きな部分を占めているようです。こういうわけで、魂的な信者の
大半の行動が感情から出ているのを見ることが出来ます。
(先人の言葉より)

Sugar 私見:
①「魂的な信者」とは「肉的な信者」と「霊的な信者」の中間に位置する
信者であり、その生活が肉や霊ではなく魂の命(エネルギー)によって
生きている信者です。彼らは肉的なクリスチャンほど悪くはないとしても
霊的であるとは言えません。
上記の著者は、その魂的なキリスト者の多くは、感情主導の生活を
していると言いたいようです。即ち、「聖霊の内住する霊」がその人の
生きる力となってはおらず、その代わり、彼の感情がまるで生き物
のように彼の生活の活力となっている、と言う意味です。

②彼が言う「罪からの解放」の「罪」の意味ですが、ここでは、平たく
言えば「明らかな罪」と言った様な意味で使用されているようです。

聖書で否定的なものとして扱われているものは、罪の外に、肉、古き人、
おのれ、この世等があります。ある人々によれば、それらは総て罪である
と言いたいようです。しかし、それはやはり大雑把過ぎるのです。
いずれにしろそれらの用語を厳密に定義づけすることは容易なことでは
ありません。私達が出来ることは、それらを聖書がどのように使い
分けているかを知るくらいですし、そのような用い方でよいと思われます。

それらのものの中で、著者はこれから「おのれ」を取り扱おう
としております、「おのれ」の中の感情の命を。

2009年6月26日金曜日

感情の命が十字架に付けられる

感情を正しく用いる(2)

「魂を十字架に渡す」とは、魂の総てを失うことではなく、魂の中の
「命」が失われることです。決して魂の機能が失われるわけでは
ありません。魂の命を十字架に釘付けることは、私達がもはや
考えなくなる、決定しなくなる、感じなくなることではありません。
キリスト者がもし魂を失うならば、もはや彼は人の天然の命によって
生きるのではなく、ひたすら絶えず神の命によって生きるのです。

それは「進んで自己に従って生きることをしない」と言うことであり、
また自己の楽しみに従って歩くことをしないのです。そして
神の御こころに服することです。

繰り返しますが、十字架の死とは、感情が消滅することではありません。
魂の命の感情、思い、意志が十字架を経過することによって、それらが
無くなってしまうのではありません。それらはただ、主の死の中で
「天然の命」を失うだけです。

感情、思い、意志は主の命の中で復活します。死と復活は、魂の
機能する器官の中で「その命の部分」を失わせ、そしてそれらを
新しくし、初めて神によって用いられ得るようにするのです。

ですから再度言いますが、霊の人は感情が無いのではありません。
むしろその感情は最も安全で最も高尚であるはずです。彼はあたかも
神の御手によって新しく造られたかのようです。

もし誰かがここで困難を感じるなら、彼の理論のどこかに問題があるので
しょう。なぜなら霊的経験においてはなんらの問題も無いからです。

ですから結論として、感情はどうしても十字架の御業を経過
しなければなりません。(マタイ10の38~39)
それは生来の感情の持つ火のような性質や混乱を除き去り、感情が
完全に霊の支配に服するためです。
十字架の御業の目的は、霊が権威を持って、感情の機能を
支配することです。(先人の言葉より)


Sugar 私見:
命とは何でしょうか。こういう美しい響きを持っていて、しかも
ありふれた言葉は実は曲者です。何故なら普段、分かっている積もりに
させられてはいるが、その実、分かっていないことが多いからです。
私的には、命と言う単語が出て来たらすぐ「生きる力」と言い換えて
見ると、分かりやすくなると思っております。
例えば「キリストは私の命である」は「キリストは私の生きる力である」
と言い直して見るのです。

さて、上記の文の場合、魂を一つのマシーンに例えるならば、その内部の
各機械は思い、意志、感情(それらはまた数多くのパーツに分かれる)
です。それが魂が持つ各種の機能です。そして魂の命は、その各機械を
機能させるためのエネルギー、ガソリンや電力なのではないでしょうか。

元来地から出て来て、どうしても有害なガスや騒音を撒き散らしてしまう
ガソリンはもはや100%十字架で廃棄させられ、クリーンで霊的聖なる
エネルギーである電力が天から到来し、完全にガソリンに取って代わる必要
があります。(漢字の「電」も「霊」も雨冠であるのは面白いことです。
それらは上から、天からやって来てあなたに届き、
あなたの静かでクリーンな力、エネルギーとなるのです。)

2009年6月24日水曜日

人の霊に服するべき人の感情

感情を正しく用いる(1)

もしキリスト者が自分の感情に、十字架のより深い働きをさせる
なら、間もなく彼は、感情が霊を妨害するのではなく、霊と協力
さえすることを知るでしょう。十字架は「感情の総ての天然の命」を
対処し、感情を更新し、それを霊の器具とします。

前述したように、霊の人は霊ではありませんし、感情のない人でも
ありません。かえって、彼は感情を用いて、内にある神聖な命を
表現します。

神によって対処される前、感情は霊の器具になることは出来ません。
むしろ私達の感情は実に自由奔放に自分の願いに従って行動します。

しかし清められた後、感情は霊を表現する器官となります。霊は
感情を通して「真の命」を表現します。他の人の苦しみに対する
愛情と感覚を表現するために、霊は感情を必要とします。また、人に
霊の直覚の働きを感じさせるため、霊には感情が必要です。
霊の感覚は、静かな感情を通して人に知らせます。
もし感情が霊に服するなら、感情は霊によって神が愛する者を愛し、
神が憎むものを憎みます。

「感情に従って生きないと言う真理」を理解した後、「霊的な生活は
感情の無い生活である」と誤解する人がいます。彼らは結局、
キリスト者は木や石のような感情の無い者となるように、感情を
なくする必要があると思っています。信者が「十字架の死の意味」を
理解しないなら、彼は「感情を死に渡し、全く霊に従って生きる
と言う意味」を知ることが出来ません。

最も優しく、同情があり、憐れみがあり、愛のある人が霊の人なのです。
真に霊の人、感情を十字架に渡した人は感情を失って感情の無い人と
なるのではありません。霊的な信者の愛がいかに他の人と比べてその
愛が大きいかを見るとき、私達は霊の人が感情の無い者ではなく、
むしろ、その感情は優れて普通の人と同じでないかを知るでしょう。
(先人の言葉より)


Sugar 私見:
実際問題、上記にある 私の「感情に対して、十字架のより深い働きを
させる」。私の「感情が神によって対処される」「清められる」が極めて
大きな課題となるでしょう。正直、私自身、今それに圧倒されています。

*ケンの調子があまりかんばしくなく、いまだに実家におります。

2009年6月21日日曜日

人の意志

聖書によると、キリストの生涯には(父なる神とは異なった)
彼ご自身の独立した意志が働いていることを見ます。
しかし彼の自由意志は定められていました。

私達も、船のかじの様に「意志を定める」と言うことを
理解する必要があります。あなたが自分の意志を定めて、
神の御こころを行うとき、神は初めて働くことができます。
あなたの側では、絶えず神の御こころをあなたの生活の原則と
するのです。あなたは「このことにおいて神の御こころを
選択します」と言います。あなたは神の側に立ち、神に
その御こころを更に啓示して下さるようにと求めるのです。

キリストの意志は堅く定まっていたために、一瞬たりとも
神の御こころと協力することを失いませんでした。
「見よ、私は御むねを行うためにまいりました。」それは、
キリストが、神の御こころへと御自分の意志を向けるだけでなく、
そのことにおいて、彼の意志を積極的に用いることでもありました。

もしあなたもこれを、霊的生活の中心的な原則とし、あなたの
意志と言うカジを、それが神の御こころであると言う理由の故に、
変わることなく定めるならば、その時、神はカルバリにおける
キリストの勝利を、あなたに力を授けると言う方法によって、
あなたの生涯に適用して下さるでしょう。
それは、他の人たちも邪悪な霊の力から解き放たれるためです。
(ペンルイス・神の御こころの中を歩く)

*Sugar 私見:
「人は何も出来ない。だから神の御こころを選択する意志も神が
与えて下さる。そうでないとするのは傲慢である。だから、
キリスト者は何もするべきではなく、ただ待つべきである」
とする観念が私達の間にあるように思われます。しかし・・

①人が神の御こころを啓示して頂くように神に求める。
②聖霊によって霊の中に御こころが啓示される。
③自分の意志でそれを選び取り、他の感覚を退ける。
と言う原則は決して変わることはあり得ないと思われます。

私達による断固とした③の行為がもしなければ、以前
書いたように、必ずヘビが来て私達をだますでしょう。
人の意志は神とサタンの間において極めて決定的な
役割を演じているのです。今日も私は、エデンの園において
あの二本の木の間に立っているのである、と言えないでしょうか。

2009年6月20日土曜日

狭い道

これは真に狭い道です。しかし、困難な道ではありません。
なぜ狭いのでしょう。それは私達の総ての歩みが「神の御こころ」
によって規制されているからです。

この道は一つの原則があるだけであり、自己のための余地は残されて
いません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、私達をこの道から
運び去るでしょう。

しかしながら、この道は困難な道ではありません。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が一つ一つ
砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、その時
必然的に、私は困難な道であるとは感じないでしょう。

残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を歩いて
さえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に到達する前に
この道から離れてしまいます。

しかし、その困難な期間が長いか、短いかに関わらず、一つのことは
確かです。唯一のこの道は命の道です。これは神の道です。それ故、
それは真実であり、確実です。
豊富な命を願うなら、誰でもこの道を歩く以外に選択はありません。
(先人の言葉より)

*Sugar 私見:
上述の「狭い道」は あの有名なの「山上の垂訓」の中、
マタイ7の14からです。
山上の垂訓は明らかに、未信者にではなく、私達信者、弟子
に向かって発せられたものです。(5の1)
永遠の命を得、永遠の救いを得る道は人々が思っているほど、
狭くはないと私は思います。しかし、キリスト者に限定されたこの
呼びかけにおける「命に至る門」は小さく狭いとイエスは
断言されました。
7の3の「滅び」とは命における永遠の滅びではなく、
(黙示録20の12「命の書」にその人の名前はある。)
神に属する者の生涯における行為や行いにおける崩壊
を意味すると思われます。(Ⅰコリント3の15)

2009年6月16日火曜日

クリスチャンの「商売」

クリスチャンとはキリスト信者です。
キリスト信者とはキリストを信じる人です。ですから、クリスチャンの
「商売、職業」はただキリストを信じることです。ですから、私達は
いついかなる場合でもただ、キリストを信じ続ければよいわけです。
私達の本質は believer であり、それ以下でもそれ以上でもありません。

ある人を信じるとはある「冷静な行為」です。ただ単純にその人の人格と
言葉を信じるのですから、特に興奮することも、盛り上がる必要もないし、
取りあえずは、その人をことさら熱く愛することさえ必要ではありません。
「ハイ私はあなたが一体誰であるかが分かりました。ですから、あなたと
あなたの言葉とを信じるのは当然です」とすることです。それが、本来
ある人を信じるという意味ではないでしょうか。実のところ、神が私達に
要求しているものは別に熱っぽさ等ではなく、私達のそのような態度です。
即ち、いついかなる場合でも、私達がキリストを信じ続けること、
それ以外の何物でもありません。

所が今日 
信仰の意味を誤解し、興奮や、盛り上がりが「信仰の主要な部分である
かのようにイメージされているのではないかと私は懸念しております。特に
キリスト者の集まりにおいては、その評価はひとえに「興奮と盛り上がりと
愛の高揚」にかかっているのでは、と感じるのは私だけでしょうか。

しかしそれは間違いです。本来 信仰と「興奮、盛り上がり、愛の高揚」
は何の関係もありません。むしろ信仰とは冷静な判断と意志によって、
黙ってキリストの言葉を信じることであり、それのみが
「信じるということ」の総てです。従って、よき信仰生活とは、
日常生活において、私達が神によって、いかなる環境、感覚のただ中に
置かれたとしても、先ずはそれらをかたわらに置き、ただ
イエスと彼の言葉とを信じ続けることに他なりません。

繰り返しますが、信仰は、本来人の感情や感覚とは全くかかわりを持たない
のです。信仰は人の生まれながらの感情や感覚よりも遥かに深い部分の
「行為」です。当然、正しい評価と意志によって主を信じた後に、ある種の
感情が付随することは充分あり得ることです。しかし、それは信仰の結果
であって、信仰そのものではありません。肝心なのは信仰であり、
信じた後、気まぐれに訪れる、いかなる「聖なる」感覚も決して過度に
評価されるべきではありません。

むしろそれらは直ちに忘れ去られ、私達は信仰そのものに戻るべきです。
もしもそうでなければ、私達はたやすく敵によって欺かれることでしょう。
何故なら、その時私達は「神が与えたよきもの」を、神であると
誤解するからです。これは極めて巧妙な敵の誘いとなり得ます。

「私達は見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」
(Ⅱコリント5の7)ここで言う「見えるもの」とは
人の環境と人の感じる感覚や「実感」であることは明らかです。
私達の使命、役割はただ神のことばを信じることです。
「義人は信仰によって・・生きる」(ローマ1の17)

2009年6月9日火曜日

サタンを糾弾する声

この世界には至る所、諸々の悪がはびこっていますが、
その大元は人ではなく、サタンです。従って先ず、サタンが
糾弾されなければならない、と言うのは極めて当然の道理です。

世間の人々はサタンは架空の生き物であると「言って」おり、
またサタンについて はなはだしく誤解しております。従って
彼らがサタンを正しく糾弾することは当然不可能です。(彼ら
でさえ心からサタンの存在を否定しているとは考えられませんが)

ですから、正しく効果的に
サタンを糾弾する可能性があるのはキリスト者以外には
あり得ません。(しかし今日キリスト者とて、サタンを
「真剣に」糾弾しているか、となるとそれは大いに疑問です。)


この世界のことを見ても、
事の始めに、即ち実力行使する前に「悪人」は先ず
冷静な正しい情報に基づいて その悪人の悪を非難する多くの声
によってしっかりと糾弾されなければなりません。

第一に悪の存在に気づき、そして誰かが勇気をもってそれに対して
非難の声を上げ、その糾弾が少しずつ大きくなり、それが極めて大きく
なると、遂にその糾弾の「声」に引っ張り出されて、その悪者が
正体を現わさざるを得なくなるのです。そこまで来ると 
正体を現した「悪人」は破れかぶれになって、
全力で彼の悪の限りを尽くすことでしょう。

しかしハレルヤ!
それは彼が現行犯逮捕される絶好のチャンスとなるのです。
そのようにしてサタンは初めて「偉大なる警察力」によって天から
追放され、のみならず「千年間」拘置、監禁されることになります。
(しかし、その後も話は続きます)


今この時代
以上述べた糾弾する役目はおもに、キリスト者にあります。
(神と天使のメインの役割は別にあります。)明らかに神の定めは、
サタンに対する糾弾は私達、多くの「弱き庶民」、神の乳飲み子、みどり児
の口によって行われなければならない、と言うことです。(詩篇8篇)

それは、あのバプテスマのヨハネの場合と似ています。彼は荒野(この世)
で悪に対して叫ぶ「声」でした。(ヨハネ1の23)、声とは目には見えず
実に軽いものです。しかし、霊的な世界においては、声ほど重く強力な
ものはありません。ヨハネの「糾弾する声の総和」がある一定量に
達した時、遂にヘロデが引っ張りだされ、ヘロデはヨハネの首を
切らざるを得なくなってしまったのです。昔も今も
これが「真の殉教」が発生する経過(メカニズム?)なのです。
 
従って、
これは決してヨハネの悲劇などではなく、ヘロデが破滅に至る物語です。
ヘロデは崩壊し、ヨハネは何とキリストを世界に紹介したのです。
これは何たる差異でしょうか。

今のこの時代、
キリストが再びこの世に到来するために必要な唯一のことも全く同様です。
それは、たとえ首を切られようとも、歴代のキリスト者達に続き、私達も、
サタンを糾弾する真理の「声」を、それの総和がある一定量に達するまで、
忍耐強く発し続けること、に他なりません。何故なら総ては、
正しい糾弾から始まるからです。


以上の総ての描写は、実のところ私ではなく聖書です。
かように、この世の悪の一掃に関しては、
キリスト者が先ずは真剣に、サタンを知り、サタンを糾弾することが
もしないとするならば「何事も始まらない」ことは明らかです。

従って
私達に、悪とサタンについての神の真理が
明らかに啓示されることは何と必要なことでしょう。

2009年6月7日日曜日

二つの道

何か特別な事態が発生した際、キリスト者がそれに
どう対応するべきでしょうか。
その答えは唯一キリストです。即ち、私達は目前にどんなことが
発生しようと ただ「キリストの中で」対応するだけです。

このことを更に具体的に言うと、私達は、キリストの命、ないしは
死によって対応する、と言えるでしょう。これ以外他の道は決して
ありえません。正にキリストイエスは「道」そのものであられます。

①命によって対応する道:
それは、私達はその事態の中をそのまま進むのですが、しかしその際
内側をキリストの命によって更に満たしていただかなければなりません。
このようなケースはよくあることでしょう。

②もう一つの道は、決して逃げることなく、先ずその事態としっかり対面し、
次にそれに対してキリストと共に死ぬことです。
これも明らかに、神がキリスト者に与えている有効な道です。

神は二千年前、万物(物と者の一切)をキリストの死の瞬間、
キリストの死の中に閉じ込められました。これは神にとって極めて
重要な霊的な事実、御業です。さてそれは霊的な事実ですから、
同時にまた「永遠性」を持っております。


所が、そのままでは 
今時空の中に生きる私達には、その永遠の事実は全く無関係です。
しかし感謝します。私達キリスト者はこれも「霊的な機能・信仰」を
用いることが出来るのです。

キリスト者の
「時空と物質に連なる体」の中に存在する人の霊(それは今日「永遠の」
聖霊と一つとなっている)に属する信仰を機能させることによって、
二千年前の永遠の事実を、人の体を経由させることによって、
二千年後のこの時空の中にもたらすことが出来るのです。
これは何という真理でしょう!
これこそがキリストの永遠の死を、私と私の時空に適用する方法です。

キリストはあの十字架の死において、人々によって
「この時空とその中の諸々の者と物」から除かれました。人々は、
除け、除け!と叫んで、彼を十字架つけたのです。(ヨハネ19の15)
それによってイエスは一切の物と者から、永遠の死の効力によって、
遠く遠く除かれ、隔絶されてしまったのです。
これが十字架という第一段の神の御業です。
しかし、必然的にここに神の第二段の御業が続きます。
それはキリストの復活です。
その復活によって、イエスは万物から隔絶されただけでなく、
今度は万物から超越されたのです。

それ故 神はキリストのせっかくの死を、キリスト者達においても
この時空中のいろいろな状況の中で、自分の身に適用することを
願っておられることは明白です。


このたびの事態において(直ちに、ではなかったのですが)
神は①の方法ではなく、疑いの余地のないほどハッキリと、私を
②の道へと導かれたのです。①なのか②なのかの判断には、
聖霊の導きは極めて有効です。

①と②のいずれにしろ、聖霊が導かれた結果は明らかな命と平安です。
実はその命と平安が、おとといの下山の旅がとても楽しかった
唯一の理由であった、と言えるでしょう。
このたび 図らずもこのような素晴らしい経験ができたことを
私は神にとても感謝しているのです。

もし出来ることでしたなら、顔と顔をあわせて、その経験の
幾分かについて、あの「匿名」の兄弟(or 姉妹)とも、
ともどもに分かち合えるとするならば、
それは何と嬉しいことでしょう。


①と②の適用の相違は、強調点の相違のみです。
双方に死と復活が存在することは明らかです。
神がキリスト者に与えられる総てのこと、
その実質、中身はただキリストの死と復活です。
そしてこの二つと見える道は実のところただ一つの道であり、
それは唯一の神イエスキリスト御自身であります。


これからしばらく下での生活です。

2009年6月4日木曜日

エクレシアに従います

普通一般的に言って、
「文章によって、A さんの主を愛する姿を、B さんが描写
すること」が禁止されなければならない理由はありません。
もしもそうであるならば、あるキリスト者の内面について
他の人が語ったり書いたりすることが一切出来ないことになります。

もとより
人の言葉によって、特に他人の信仰について描写することには当然
大きな限界があります。それにもかかわらず、ある場合それは必要です。
神は過去において、そして今もキリスト者の伝記等において
人の「不完全な記述」を大いに用いて来られました。

何故神はそれを許されるのでしょうか。
それは、人の言葉は不完全ですが、神には聖霊があるからです。
仮にその描写が不正確でつたないとしても、それをキリスト者達が
読むとき、命の中で、真実をそのキリスト者達に伝達するのは結局、
聖霊であるからです。時に聖霊は「それはだめな伝記であるから、
もう読むのはやめなさい」と指摘することもあるでしょう。
いずれにしろ、神は聖霊を完全に信頼できるのです。
(多少不正確な訳の聖書であっても聖霊は、真に求める
キリスト者に真理を正確に伝達できるのです。)


とは言えその際、重要で大きな前提として、
主の前において「B さんの心根が正しくなければならない」
事は明らかです。(文章表現力などよりも)実は、問題の
総てはこの一点にあるのです。

もしもB さんの心が曲がっているのであれば、その文章が
たとえそつが無くスマートなものであったとしても、
その描写に触れる兄弟姉妹(エクレシア)は、直ちに
ある種の不快感を覚えることでしょう。即ちエクレシアは 
B さんの傲慢さ、不真実さ、人を利用しようとする隠れた意図、
自分を高くしたい心、自分に栄光を帰したい霊を容易に
感じ取るでしょう。当然その場合、B さんは直ちにエクレシアが
受けた感覚を受け入れ、彼の企てを停止しなければなりません。


仮に私が、もしもそのB さんであるならば、
喜んでエクレシアの感覚に服したいと思います。
なぜなら、エクレシアは、キリストの体であり、
今日何と、キリストの思いを地上において反映する
ことが出来るからです。

その場合、私がエクレシアの頭・キリストに服するのは
当然のことであり、全く何の問題も未練もありません。

もしも私がそうであるのならば、
主がエクレシアの兄弟姉妹に、それを明確に感じさせて
下さるように、そして多くの兄弟姉妹が、私にそれを伝えて
下さるようにと、心から願っております。それは、私が主
御自身に反逆すると言う大きな罪を犯すことがないためです。

(私がそんなに清い人間でないことは当然であり、
あなたの心からの交わりを充分受け入れることが可能です。
ですから兄弟姉妹よ、よき交わりの為、匿名でない方が
よろしいのではないでしょうか。)


柄沢兄弟についての私の文章は
実際に兄弟に接しておられた「柄沢家」に属する方の
口頭による描写を基としたものです。
しかし、私の文章表現についての一切の責任は
私自身にあるのは当然のことです。

*5日、10:30am
今から、山を下ります。きっと、
主に祈りながらの楽しい六時間となる事でしょう。

罪の言い表しについて

・・・
或いは兄弟は、神に対して、まだある罪をまだ告白していない
が為に、良心に安息がないのかも知れません。
「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければならない
であろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、キリストの御血
の完全な洗いにあずかり、清くとがめのない強い良心を
持って欲しかったのです。


「もし、神が光の中におられるように、私達も光の中を歩んで
いるなら、私達は互いに交わりを持ち、御子イエスの血は総ての
罪から私達を清めます。・・・
もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、総ての悪から私達を清めて下さいます。」
(Ⅰヨハネ1の6、9)

原則として
罪の言い表しは、神に対してです。それを必ず人の前で行わなければ
ならない、と言うことはありません。罪の自覚があるもので、
まだ神に対して言い表されていない罪があるならば、
それを神に対して言い表せばよいのです。

2009年6月2日火曜日

神に会う備え

*柄沢登兄弟の家で(5)*

ある日、柄沢良子姉妹の心にフトある思いが生れました。
それは、私はキリスト者として今この兄弟の為に何をしてあげるのが
神の御前において最善なのであろうか、と言う思いでした。
それが発端となり、遂に柄沢兄弟の献身が現実のものとなったのです。
ここにおいて、登兄弟の総て、生も死も、一切は神に献げられたのです。
これはどうしても、今しておかなければならない「神に会う備え」です。

神に会う備え:
それは明らかに、何にもまして総ての人が一日も早く実行しなければ
ならない最重要課題です。所が、多くの場合私達はその大切な宿題を
どこかの引き出しにしまったまま にしているのではないでしょうか。

しかし、
キリストの真の救いを経験したばかりの登兄弟と共に
日々一緒に生活しておられた妻良子さんと、また他の
「柄沢家の」人々にとって、それは日ごとに現実味を
帯びて来る重い課題となって行ったのです。
実際の所、もう一日の猶予もないのかも知れません。
姉妹達は必死の思いで、主の前に出たのです。

そのようにして、遂に「その家のキリスト者達」はあたかも一人の人
のようになり、通常の世の人情を超えて、或いは今日のキリスト者達の
常識をさえ超えて、愛する兄弟の「永遠の福祉」の為に、
黄泉の勢力の前に立ちはだかった、と言ってもよいでしょう。

それはあたかも、
なりふりかまわずに、家の屋根まではがし、
必死の思いで、病人(彼らの兄弟)を寝床のまま、
イエスの眼前につり下ろした人々のようでした。


そこで実行されたのが
「まだ言い表わされていない罪」の告白です。或いは兄弟は、神に対して、
ある罪をまだ告白していないが為に、良心に安息がないのかも知れません。
たとえ今それがあるとしても、その状態のまま、キリスト者が
ウソつきサタンによって巧みに攻撃されるならば、
いつ信仰の土台さえくずれてしまうか分からないのです。

「柄沢家」の聖徒達は、
多分これから「肉体の暗闇」の中に突入して行かなければ
ならないであろう登さんに、その体はたとえ弱いとしても、
キリストの御血の完全な洗いにあずかり、
清くとがめのない強い良心を持って欲しかったのです。

そこで、先ず取り扱われたのが、夫婦間の問題でした。
今私がその詳細をここに書く必要はないでしょう。いずれにしろ、
御夫妻は、自分の「私は悪くない」を全面的に放棄し、
何と完全な赦し合いに至ったと言うのです。
それは、主の臨在が深く感じられる、ただ
「涙、なみだのひと時」となったのす。

また後日、
登兄弟から、かつてひどい屈辱を受け、今までどうしても赦す事の
出来なかった職場のある人物についての言い表しがなされた、と言います。
そのようにして、兄弟は一点一点、力あるキリストの御血の清めを経験し、
兄弟の良心と霊は徐々に強められて行ったのです。

そして更に神は、
それらの出来事を「彼の自我」を少しずつ砕いて行くと言う
機会とさえされて行ったのではないでしょうか。
そのようにして、それらの神によって極めて圧縮された
登兄弟の生活は、その価値を日一日と高めて行ったのです。

2009年6月1日月曜日

柄沢登兄弟の信仰

・・・
「今の時代においては」神は御自分の権利を
人にごり押しされることはありません。それは他でもない、
神が人に与えた「自由意志」の故です。

しかしながら、
もし人が、その神の愛と正しさに自ら気づき、  
「私は御子の尊い御血をもって買われたのだから、
私の総ては神の手に委ねるのは当然です」と
主イエスの愛に迫られつつ、
喜んで、自分の総てを神に献げるのであるならば、
神はその人を、真に御自分の手の中の器として
取り扱い始められるのです。

上記の場合、とても素晴らしいのは、
その人は「自分に与えられた自由意志」を正しく用い、
冷静に自分の意志で、神の意志を選び取ったことです。
何故ならそれこそが、神とサタンの前において人がなすべき
最も重要な事であるとさえ言えるからです。

環境と感覚に打ち克ち、自分の意志で自ら、神の意志を
冷静に選び取ること、それこそが
信仰の本質であり、人の役割、使命です。


何とあの病の苦しみの中、ある日ある時、
正に登兄弟はそれをされたと言うのです。

先ず彼は、妻である姉妹から
「献身に関する神の意志」について聞きました。
その時、彼はどうしたのでしょう。
彼は、彼のひどい環境や感覚を ひとまずかたわらに置き、
「その神の言葉・真理」を見つめました。
そして直ちに(これが大切)
「私の体を主に献げます」と口の言葉を用いて、
即ち信仰を機能させることによって、
その真理そのもの(それは主御自身・命の木の実)を
彼の中に取り入れたのです、言い換えれば、信仰によって
真理、神の意志を兄弟自身へと結合させたのです。
(信仰の最も深い意味は「結合」です。信仰には
その様な驚くべき働きがあるのです。)

更にその時兄弟は、間髪をいれずに、
彼にささやきかける「神の意志と矛盾する様々な感覚的邪念」を
断固拒絶したことにもなるのです。


さて今
その時の登兄弟の態度と創世記3章のエバの態度
とを比較して見て下さい。
人はもしヘビ(だます者の意)との
会話に引き込まれたら、ただそれだけで必ず負けます。
その会話のきっかけは「本当に・・?」と言う敵の質問でした。
ヘビがもしその問いかけによって人を釣り上げることが出来る
ならば、あとはやすやすと「理屈と感覚の世界」に人を
連れ込むことが出来ます。理屈と感覚の世界において、
人が「だます者」に勝つのは殆ど不可能です。

しかし、
柄沢兄弟はそうではありませんでした。
その時の「兄弟の態度」は同時に
「彼の霊の姿」でもあったのです。
その肉体の極限的弱さにもかかわらず、
彼の霊は大そう強かったと言えましょう。
どうしてその様なことがあり得たのでしょう。
主に感謝、賛美をささげます、
それは正にあの助け主、聖霊の働きでも
あったからです。


「あなた方の手足を、不義の器として罪にささげては
いけません。むしろ、死者の中から生かされた者として
あなた方自身とその手足を、義の器として神に献げなさい。」
(ローマ6の13)