クリスチャンとはキリスト信者です。
キリスト信者とはキリストを信じる人です。ですから、クリスチャンの
「商売、職業」はただキリストを信じることです。ですから、私達は
いついかなる場合でもただ、キリストを信じ続ければよいわけです。
私達の本質は believer であり、それ以下でもそれ以上でもありません。
ある人を信じるとはある「冷静な行為」です。ただ単純にその人の人格と
言葉を信じるのですから、特に興奮することも、盛り上がる必要もないし、
取りあえずは、その人をことさら熱く愛することさえ必要ではありません。
「ハイ私はあなたが一体誰であるかが分かりました。ですから、あなたと
あなたの言葉とを信じるのは当然です」とすることです。それが、本来
ある人を信じるという意味ではないでしょうか。実のところ、神が私達に
要求しているものは別に熱っぽさ等ではなく、私達のそのような態度です。
即ち、いついかなる場合でも、私達がキリストを信じ続けること、
それ以外の何物でもありません。
所が今日
信仰の意味を誤解し、興奮や、盛り上がりが「信仰の主要な部分である
かのようにイメージされているのではないかと私は懸念しております。特に
キリスト者の集まりにおいては、その評価はひとえに「興奮と盛り上がりと
愛の高揚」にかかっているのでは、と感じるのは私だけでしょうか。
しかしそれは間違いです。本来 信仰と「興奮、盛り上がり、愛の高揚」
は何の関係もありません。むしろ信仰とは冷静な判断と意志によって、
黙ってキリストの言葉を信じることであり、それのみが
「信じるということ」の総てです。従って、よき信仰生活とは、
日常生活において、私達が神によって、いかなる環境、感覚のただ中に
置かれたとしても、先ずはそれらをかたわらに置き、ただ
イエスと彼の言葉とを信じ続けることに他なりません。
繰り返しますが、信仰は、本来人の感情や感覚とは全くかかわりを持たない
のです。信仰は人の生まれながらの感情や感覚よりも遥かに深い部分の
「行為」です。当然、正しい評価と意志によって主を信じた後に、ある種の
感情が付随することは充分あり得ることです。しかし、それは信仰の結果
であって、信仰そのものではありません。肝心なのは信仰であり、
信じた後、気まぐれに訪れる、いかなる「聖なる」感覚も決して過度に
評価されるべきではありません。
むしろそれらは直ちに忘れ去られ、私達は信仰そのものに戻るべきです。
もしもそうでなければ、私達はたやすく敵によって欺かれることでしょう。
何故なら、その時私達は「神が与えたよきもの」を、神であると
誤解するからです。これは極めて巧妙な敵の誘いとなり得ます。
「私達は見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」
(Ⅱコリント5の7)ここで言う「見えるもの」とは
人の環境と人の感じる感覚や「実感」であることは明らかです。
私達の使命、役割はただ神のことばを信じることです。
「義人は信仰によって・・生きる」(ローマ1の17)
4 件のコメント:
今までにない、繊細なことばを感謝します。
はじめはよく理解できませんでしたが、今はよく分かりました。たしかに、ダビデは神を喜び踊って迎えましたし、キリストご自身も、「いつも喜んでいなさい」と命じられています。信仰には喜びも愛の高揚もともなうものです。しかし、その人の背後に、日々の生活に主の御心を絶えず求める生活がなければ、正しく主を喜ぶことはできませんね。主の恵みは日々新しく、導きも日々新鮮で決してパターン化されることがありません。ですから、尽きない恵みに日々驚かされながら、敬いながら、主を楽しむことになるのでしょう。だから、新鮮な生けるキリストと交わって、声を聞いて、御言葉をしたい求めている者には、その違いが分かります。その人自身の感覚で喜んでいるのか、主からの喜びなのかが、なんとなく分かるんですね。まるでディスコのように騒がし賛美で酔いしれているように感じる礼拝もあります。わたしは、そんな騒がしいなかでは神の静かな声を聴くことは絶対できません。パターン化されるメッセージはまるで人間の作った水ためからの御言葉で、ぐるぐるいつも同じこと語って、成長がありません。それでも、満足しているのは自分の感覚で喜んでいるからでしょう。
真に愛するとは
真に信じることでしょう。
ペテロが十字架に向かうイエスをいさめた
のは相当に強い愛からでした。しかし、
イエスは直ちにそれをサタンからの
ものであると断言されました。
今日もてはやされている
「愛」は(多分最上であっても)
殆どがそのような愛ならぬ「愛情」か、
それ以下の「愛」です。
(多分雰囲気的気分の高揚に過ぎない)
なぜこのような失敗をペテロはして
しまったのでしょうか。一つに
当時、ペテロは他の弟子達と同様に
イエスの言葉をよく聞いていなかった
のではないでしょうか。
福音書を読むとき、イエスは弟子達の
ひどい無理解の中で随分さびしい思いを
されておられたと私は思います。
今日私達も聖書の中心的な大切な御言葉を
随分見落としていることでしょう。ですから
イエスが真剣に語りかけている言葉を
先ずはよく知り、それを真に信じるという
ことは たやすいことではないと
思われます。
何故なら、それらの言葉は殆どが
「私達の生来の好み」と合致することは
99パーセントあり得ない、と思われる
からです。
「彼らが信じられなかったのは、罪を悔いあらためなかったからです」という御言葉があります。「自分の行いが悪いので、光のほうに来ない。」とも書かれています。確かに、私たちは自分の汚れの部分がありますが、自分ではその罪を認めることも出来ない者です。
ですから主は、互いの足を洗い合うようにと弟子たちに教えられました。「このことが分かったら、すぐに実行しなさい。これこそ祝福される道です」ヨハネ13:14-17
どんなにひどいキリスト者でも、決して裁いてはならないことがローマ書2章に書かれています。サタンは中傷するものですから、私たちもこの誘惑にはまらないように、十分注意する必要があります。足を洗うほうも洗われるほうも、キリストによって助けられるとき、私たちは一丸となって、サタンに対して神の知恵と勝利を見せ付けるのです。これこそ、神の御心のひとつであると思うのです。
その通りだと思います。
それは
充分こころしなければならないことです。
感謝します。
さて、
要するにとどのつまり、敵は人ではなく
サタンです。
キリストのゴルゴタでの勝利が
完全であったのなら、サタンの敗北、滅亡
も完全であったはずです。
それは永遠において、キリストの中において
完璧です。これを先ず堅く信じます。
今神によって ある意図のもとに、
時空の中に「存在させられている」
サタンにとって、前述の真理は
絶対に聞きたくない事実の宣告となります。
ですから、私達は日夜それを敵に
しっかりと
聞かせてやるべきなのです。
なぜなら、敵も日夜、神の御前で私達を
訴えているからです。
コメントを投稿