2008年3月22日土曜日

キリストの給食と渡海から

Ⅰ給食と渡海に見る一つの意図

・第1回目の給食は5千人に対するもので、食べた余りは12のカゴを
一杯に満たし、第2回目は4千人で、余りは7つのカゴに一杯になった。
・第1回目の渡海でイエスは眠られ、第二回目では先ず弟子達だけを
船出させ後にイエスが海上を歩行され 弟子達の乗った小船に同船された。
・実は意外にも この2つの出来事は一つなのであり、その背後には 
一つの明確なある意図が隠されているのである。それはマルコ6の51、
52の記述においても暗示されている。

Ⅱキリストとはどの様に見るべきお方なのか

つごう4回にも渡るこの出来事と、その周辺に関する福音書の
記述において 私達は「弟子達(キリスト者)が適切かつ十分にキリストの
真の姿を見、そして唯そのキリストのみを信じるように」との 彼の
「痛いほどの希求」とを感じないわけには行かないのではなかろうか。
さてそれでは 人はどのようにキリストを見るべきなのか。
 
一 邪悪な見方
それは「キリストに似て非なるもの」を構築する人の宗教性において見られ
「大きな木」マルコ4の30~32、と「パン種の入ったパン」8の14、15
等に象徴されている。イエス(聖書)はこの一連の期間、特に
このパン種に「執拗に」言及しておられることは注目に値する。
a スタイルだけの礼拝:マルコ5の6、7の7
b 一見キリストを探してしているようだが、その実
人間的欲望から即物的な益を求める:ヨハネ6の26、27
c 天からのしるしを求める:マルコ8の11

二 不十分な見方
a 「神の力を引き出すのは唯信仰だけである」ことを知らないので
平気で 神に代わって、自分で神の業をおこなおうとする:ヨハネ6の28
*このa は文脈からすると上の一、
「邪悪な見方」に該当するものかも知れない。
b 単にキリストを超人か驚くべき人であると見る:マルコ6の51、52
   
三 神の啓示による見方
a 
啓示によってイエスの中に神の子・キリストを見る:
キリストの本質は、実は神の啓示によってしか見ることが出来ない。
マルコ8の29、マタイ16の15~19
b 
復活の中の時空を越えた無限なるお方、そして
神と人の必要の総てとしてのキリスト・イエスを見 信じる。
c 
更にその「今日のキリスト」と自分が一つである事を知り、信じ、
その「今 天地にあるキリストの中のその交わり」にあずかる。   
*このb とc は次に見るようにこの給食と渡海と言う
2つの出来事の全体に示唆されている、と言える。

Ⅲ給食に見るキリストの無限性、永遠性、復活性
a
イエスはしきりに給食の余りでさえ12カゴと7カゴもあったことを
強調された。12と7は永遠の完成と完全を意味する。
即ち 給食の残余、こぼれ落ちたパンくずでさえ(或いはこぼれ落ちた
パン屑であればこそ)無限なのである。
b 
実はキリストは 人から彼の手に渡された数個のパンと魚が
仮に無かったとしても、人々への無限の給食が可能であったことを、
せめて弟子達には分かって欲しかったのである。
(しかしある真理啓示の必要の為 敢えて人を介された)
c 
後ほど間もなく、特にヨハネ福音書において見られるように、強力で 
過酷な反対する雰囲気にもかかわらず(これが遂にはイエスを十字架に
つけずにはおかない死と暗闇のエネルギーへと増大して行くのであるが)
彼は果敢に「真のパン」とは、実は御自身であることを断言された。
確かにキリストの復活以後2千年間 キリストと言うパンを食して
満たされた人は無数に存在したし、これからも永遠に存在するであろう。
 
Ⅳ渡海に見るキリストの無限性、永遠性、復活性
a 
時は夕方、即ちこの時代の終局であり、すぐに夜に突入して行く。
b 
イエスの目的は明確だった。それは対岸、つまり王国の全き表現の
段階に到達することであった。
だから、対岸に到着するや、悪鬼の追い出しと癒しとがあった。
それらは王国顕現時代の特徴である。
c 
従って私達はキリストの小船に乗りさえすればよい。
そうすれば私達は自ずと神の御心の中にいることになる。
しかしキリストの小船とは今日どこにあるのだろうか。
それは「復活のキリストと言う範囲」の中に、である。
d 
あなたが「今日のキリスト、と言う範囲」におりさえすれば
時空のいかなる場面にいるとしても、あなたはキリストの中に存在し、
あなたの中にキリストが生きられ、そしてあなたは総ての聖徒達との
交わりの中にさえいることになる。従って、
単に時空の中にある肉の目に写る状況によって左右されてはならない。
復活のキリストとは今日明確な「一つの範囲」であり、もしあなたが
その中にいるならば、たとえイエスがこの時空の中で一見船の中におられず
①彼が 山の上におられようと
②群集を解散させておられようと
③海の上を歩いておられようと
④眠っておられようと、全く同じである。何故なら今
彼は時空を超えられた天地にある今日のキリストであるのだから。
e
我々はこのキリストと今 一つであることを覚え、
今「キリストと言う範囲」にいると言う信仰を働かせるべきである。
①先ず私は今キリストと共に山(最も高い場所、御座)にいると信じよう。
 そのようにして、時空の中にある総ては私達の足の下にあることになる。
②だから私達は群集(人々)の間でも適切に麗しくさえ行動できるであろう。
 たとえ人々がそれをイエスの奇跡だとは気づかないとしても、私達の故に
 彼らがあるレベルにおけるイエスの恩恵に預かることさえ可能なのである。
③海とは(陸と違い)サタンの死の力の中に横たわっており、
 その死と虚偽の力によって汚染され尽くされているこの世界を意味する。
 それは完全に死の水の中である。しかし もしもキリストと一つ
 であるならば、私達もその死の世界の上を悠々と歩行できる筈である。
④イエスは父の御心に従い父に信頼していた。だから彼は必ず向こう岸に
 到達することを確信していたが故に、どんな状況の中でも安眠することが
 出来たのである。私達もそのキリストと一つであるならば、たとえ船が
 沈みそうに見えたとしても 母親の胸に安息する赤ちゃんのように
 安らかに眠るであろう。なぜなら、私達も神の御心の只中にいるのだから。


結論として私達は、
給食においては:私達の命、生活、人生(LIFE)における無限の供給
としてのキリストご自身を見、
渡海においては:私達の目指すべき目的に到達する為の総て としての
復活と永遠であられるキリストを見るのである。

この実際的「実用的な」復活のイエスとの一つの中で私達は 
サドカイ人のようにトンでもない思い違いをすることなく 
聖書と神の力を真に知って行くべきなのではなかろうか。(マタイ22の29)

2008年3月18日火曜日

2つの対応策(3)

*「神が要求し、神が行う」と言う原則*
人が聖書に触れるとき、一般的にはそこからどのような神を
感じるのでしょうか。それは多分「神とは人に対する要求の神であり、
それに人が応じられない場合、それに刑罰を与える神」
と言うような神ではないでしょうか。

しかし、もちろんこれは誤解です。
神は確かに要求される神です。しかしそれに応え、それを実行するのは
やはり神なのです。「神が要求し、人が行う」ではなく、
「神が要求し、神が行う」のです。

それでは、先回扱った「死を支配する」等を私達はどの様に見るべき
なのでしょうか。確かに神は私達に「死を支配する」ように語られ、
要求されます。しかし真に「死を支配する」のは神です。「神が要求し、
神が行う」のです。私達が死を支配するのではありませんし 出来る
はずもないのです。どうして罪の中に生まれた私達が死に打ち勝つこと
など出来ましょう。それは復活の神による「神業」にして初めて可能
なのです。「総ては神が行う」のです。
私達は決してこの素晴らしい原則から離れてはなりません。

それでは何故神は 先ずあなたに要求されるのでしょうか。
何故なら神は「あなたと言う人間において」死を支配すること
を願われるからです。神が単独で死を支配するのはあまりにも 
たやすいのです。だから神は「死に支配された人」において神が
死を支配したいのです。
従って、神の要求は先ずはあなたに向けられなければならないのです。
しかし実際に事を行い、力を出すのは完全に神です。「神が要求し、
あなたにおいて神が100%行う」これは極めて重要な原則です。


以上が今回 私の言いたいことの総てです。
それではこれから、余談として「神が要求し、あなたにおいて
100%神が行う」のホンの一例を挙げて見たいと思います。
私達は人間ですから、人間生活をします。ですから、死はその人間生活の
只中から私達に対して表れ、私達を脅迫し、神から離れさせようとします。

私の知人に精神病の息子を抱える父親がいます。
10年来の病歴の後ようやく息子は医者から「寛解」(治癒ではないが、
一時的に 或いは永続的に軽減、または消失すること)のお墨付きを
頂いてようやく退院したのです。やれやれと安堵していた矢先の旅先で、
彼は妻から突然「息子がおかしい。すぐ戻るように」
との連絡を受けたのです。

さて皆さん、ここでもうその父親は注意深くあらねばなりません。
なぜなら この妻の連絡の中に既に彼を死へと閉じ込めてしまう
圧倒的な敵の殺す力が含まれているかも知れないからです。
それは多分「敵から送られた小包」だったのでしょう。
このように「小包」は殆どの場合 予期せぬ方法で
突如としてあなたのもとにも届けられるのです。

しかしながら 神はこの父親に要求します。
「あなたはこの死を支配しなければならない」と。
さて皆さん、ここでこの父親はどうするべきでしょうか。
あわてる必要はありません、彼は2つの手続きを的確に行えばよいのです。

1.先ずこれは この父親に向けられた状況であり また神の要求です。
ですからこの父親はこの要求を 完全に我が物として受け止めなければ
なりません。なぜなら彼はこの息子の父親であるからです。
人は人としていつでも淡々と自分のなすべきことをなす必要があるのです。
それにしても今回は少し特別です。今回彼はキャッチャーがピッチャーの
投げる剛速球に対して構えるように、今回の状況に対して更にしっかり
真っ向から立ち向かうべきです。その角度は正確に真正面で
なければなりません。ハスに構えて見たり、特に大切なこととして
絶対に少しの逃げの気持ちも持ってはならないのです。

そこで この父親は何と「息子自身とその周辺の状況総て」を
一枚の着物のようにその身に着たのです!息子そのものを着たのですから
彼はまるで息子の中に閉じ込められてしまったようなものです。
もうその父親はどこにも逃げられません。彼は全く自由を失いました。
要するに彼はしっかりと「死ぬ覚悟を決めた」のです。
換言すれば、父親は既にこの段階で 自分とこの総ての状況をキリストの死
と言う「型枠」の中に置いたのです。即ち、敵から送られたのであろう
この死の状況を 敵の手の下に隠れて存在する神の偉大な手から
頂き キリストと共にわざと不自由の究極、死の閉じ込めの只中に
自分を置いたと言うことです。これが「包括的なキリストの死」の適用です。
ここまでが彼にとって絶対に欠かすことの出来ない1の段階でした。

2.更に彼にはもう少しするべきことがあります。それは直ちに次の
段階を踏むことです。それは:
今度は積極的に「息子とその関連の状況と言う重い着物に 自分を
プラスした更に重い大きな着物」をしつらえ、それをそっくり
「キリストに着て頂く」と言うことだったのです。つまり父親は息子を
おんぶしたわけですが、今度は「その息子をおんぶしている自分の総て」を、
「息子と息子の状況、そしてそれらを総て抱える自分」をキリストに全部
おんぶしてもらう、と言うことだったのです。
父親はそれもクリアし、これで目出度く彼の重荷は総てキリストの肩に
かかることになったのです。父親はこの時既に不思議な安らぎを覚え、
一人小さな声で「ハレルヤ!」と言ったと言います。

今回 以上のわずか2つの事がこの父親の行ったことの総てでした。
私の想像では この段階に至って、即ち父親に降りかかった総てあらゆる
死の状況をキリストに明け渡した段階で、初めてキリストは、その十字架の
死の力とそしてその死を打ち破った復活の力とを100パーセント
発揮することが出来たのだ、と思います。

彼によると妻から次のような連絡があったとのことです:
翌日 「状況が変わったので 一寸待機していて下さい。」
2日後「今回あなたは来なくてもよいようです。」


死は切り離す力です。人がそれをサタンの手から受ける時、
つまり暗い自分の穴の中に逃げ込み 事を成り行きに任せるだけか、
クヨクヨあれやこれやと思い巡らし、唯 ぼうぜんとその状況を嘆き
しかも責任を他人に転化するばかりの時、簡単に言えば信仰を有効に機能
させようとしない時 死はひたすら人を神から切り離す作用をするのです。
そのようにして人はサタンの死の害を受け、命なる神から
切り離されるのです。これこそ正に敵のねらい目です。

しかし、人がその死の状況を一旦 真正面から受け止めた後、
即ち「死と見える状況の総て」を神の手から頂いた後、
直ちに今度は それをそっくり神の手にお返しするのです。
つまり信仰によって 総ての重荷をそっくりキリストに着て頂くのです。
そうするならばそれはキリストの復活の命が現わされるチャンスとなり、
復活の命が死を支配するのをあなたは目の当たりにする事さえ
出来るのです。このようにして死の状況がむしろ逆に、
人をサタンから切り離し、人をして死を支配させると言う
素晴らしい結果を生むのです。

かように死の力は 双方(神とサタン)において大きいのです。
私達人は常に その双方の中間に立っていると言えるでしょう。
私達は日常どんな時にも 私達のもとに突然送られて来る死の状況を
ただ神の偉大な手からのみ頂く備えをしなければなりません。
これこそ「神が要求され、神が総てをなさる」ための、私達の道です。


☆  
下の写真は小屋の西側に広がる眺望。左手の奥の高い山を 勝手に
「マイマウンテン」と命名しました。この小屋が登山道入り口です。
この山、 小屋から意外に近く、3時間もあれば往復出来ます。
何とこの15年間、この山で一度も人間に遭遇したことがないのです。
このあたり もしかして人の数はイノシシよりも少ないのかも知れません。

2008年3月16日日曜日

2つの対応策(2)

*支配すると支配される*
支配と被支配は創世記から黙示録に至る聖書の首尾一貫した
大きな流れです。その点に神の並々ならぬ心が込められている
事は極めて明白です。
そしてとても驚くべきことに神は、神ご自身が直接支配する
のではなく、人を通して万物を支配なさりたいのです。
今現在 それは一人の人において既に達成されております。
その一人の人とは 他ならぬ主イエスキリストです。既に
「神は万物をイエスの足の下に従わせられた」のです。
(ヘブル2の8)

しかし神はそれに留まらず この一人の人の万物支配を 
キリストに属する総ての人に至らせようとしておられるのです。
もしもこれが達成されなければ神の心が
真に満足させられることはあり得ません。
今の時代があり 次に「彼らはキリストと共に千年の間 
支配する」時代があり、遂には「彼らは永遠に支配する」
時代に至ります。(黙20の6、22の5)
私達は必ずある日 キリストと共に万物を支配するでしょう。


しかしここに一つの厳粛な事実があります。
それは 神の言葉が「あなたは次の千年の時代の支配と言う
大きな特権と喜びを獲得そこなうことが無いように」と
再三に渡り切実に呼びかけていると言う事です。

その大きな喜びの中の支配と言う「御褒美」を得るか得ないか、
その成否はひたすら 今現在のこの恵みの時代における
私の状態にかかっております。

それでは どうであればミスしないのでしょうか。それは今私が
この私の肉体の中にある時間の中、この万物を支配すると言う
学びにおいて 私が上昇する確実な路線にいると言うことです。
換言すれば現在 私が日々万物を支配すると言う学課を着実に
学んでいるかどうか、と言うことです。
即ち私において 昨日の支配よりも今日の支配の方が
勝っていなければならないのです。
もしそうであるならば、即ちこの上昇線に乗っているならば、
次の時代においても 自然に私は支配するでしょう。

そうでなく今逆に私が日々 様々な事物に支配されており、
来る年も来る年もなんらの成長も見られないのに、ある日 
目が覚めたら 唐突に私が支配することになっていた、
等と言うことがあり得るでしょうか。
これはよくある「死ねば総てはうまく行く。死ねばもしかして人は
仏か神になるのかも知れない」と言った人の希望的宗教意識と
合い通ずるものなのでしょう。

そのような観念は命の原則、命の自然な成長と言う原則に反します。
神は命なる神であり義なる神です。「王として支配する命」の成長は
絶対的に 既に今日始まっていなければならないのです。
蒔かれた良い種は寝起きしている間に健やかに成長して行くはずです。
(私達は今自分の中にある様々な石やヤブに気づかなければ
ならないのです。)


万物とは「総ての物そしてあらゆる事象」であり、それには当然
昨日述べた 総ての具体的現実的な「死の現れ」一点一点も
含まれます。次の時代でなく幸いにも今日 私が死に支配されて
「暗闇で歯噛み」出来るのは 明日 私が逆にそれらの死の現れを
支配するようになるためです。

とても有難いことに この学課の材料は
(1)で述べた様に 私達のとても身近にあるのです。
その学課の材料とは 一つ一つの今あなたをまだ
支配している「死の現れ」そのものです。
もしもいつになっても 自分の中の「死の小さな表れ」さえも
支配出来ないとするならば、次の時代 私が町々を支配する
ことなど到底出来るはずがありません。

この際 最も必要とされるのは あなたが「内側に頂いた命
にあって万物を支配するに至りたい」と言う切実な願いです。
ですから私は「悠然とあらゆる死を支配したい」と言う真剣な願い
のもと 真実に神の門を叩くべきです。
もしそうであるならば 聖霊は確実にあなたに適切な環境を送り 
啓示を与え、実際の経験に導かれるでしょう。
それは 単なる頭脳の知識によって安易に与えられるほど
安価なものではないことは明らかです。


「もし一人の人の違反によって死が支配するようになった
とすれば、なおさらのこと・・一人の人イエス・キリストにより、
命の中で支配するのです。」(ローマ5の17)

ローマ書を執筆する際パウロの中には、もしかして
間もなく襲い来るであろうキリスト者に対する大迫害をも
予知する中、ローマのキリスト者が「命の中でネロの迫害をも
支配するように」との願いさえあったのかも知れません。
しかし同時にそれは今日 神があなたの将来を予知する中
あなたにあてた心からのメッセージでもあるのです。

2008年3月15日土曜日

2つの対抗策(1)

実のところ 人は「死の中で生まれた」のです。そしてその誕生に
引き続き 罪が死によって私達を支配し続けております。
キリスト者であったとしも 神に対して善を行うことについては
私達は「腐乱死体」、死の体に過ぎません。
以上が私達の真の有様です。
ですから 私達の生まれながらの命の源泉から容赦なく
絶えず湧き上がって来るのは「苦い死の水」に他ならないのです。

具体的に言うと 死は次のような感覚としてしばしば私達を訪れます:
腐敗感覚、敗北感覚、失敗、責められる感覚、自責の感覚、赦されない
罪を持っていると言う感覚、恐怖感、苛立ち、深い闇の悪夢感覚、
深い孤独感、得体の知れない不安感、「放浪と飛行」(勝手にどこにでも
飛んで行く思い)、粗暴感覚、投げやり感覚、怠惰 無能 無力感覚、
疲労感、その必要がないのにやたらに急がせられる感覚、焦燥感、
過剰なこだわり、異常な執着心・・エトセトラ、エトセトラ。

例えば腐敗感覚:それは さっきまでは何とか立っていた筈の私の
存在の中心に何故か腐敗が発生し、自分を自分が制御できなくなり、
自分と言うものが崩れ落ちて行くような奥深い感覚です。

そして厄介なことに これらの感覚は私の内部から出て来るだけでなく 
私の外部 この世界のあらゆる事象(必ずしも悪しき事物とは限らない)
との接触を通しても訪れます。それらの接触から外部の死が
私に触れ注入されると 私の内部の死が現れて来て
その外部からの死を喜んで迎えるので、
上記の様な様々な感覚は更に増幅されるのです。

その上 このような今現在の事物との接触からだけでなく、
それは遠い過去からもやって来ます。
突然 過去のある場面がアリアリと私の眼前に映し出されると 
私はよせばいいのに ついそのシーンを凝視してしまう。 
その結果その画面にしっかり捕らえられ 引きずり込まれ 
私はその映像の中の嫌な主人公となり、議論が始まり あーでもない、
こーでもないと思いは全力であちこち駆けまわり、そして傷つき 悲しみ
人を疑ぐり 怒り 暗くされるのです。

他に 死の感覚は過去の出来事からのみならず 何の根拠もない 
例えば他人への私の勝手な類推や想像からさえ起こり得るのです。

この様な 私が私でないような私の真の姿、
それは一体どこから来るのでしょう。
それは述べたように私達の内部で「生きて働く」死から来るのです。
実を言えば このような感覚は一日と言わず 一時間の間でさえ
何度私を訪れるか分からない位なのではないでしょうか。


私達はこれに対して明確な対抗策を必要とします。
そしてキリスト者は既にそれを所有しているのです。
それではその対応策とは何でしょう。
それは二つあり、一つは「キリストの死」による対抗策であり、
もう一つは「キリストの命」による対抗策です。
私達はキリストから頂いたこの二つの武器:死と命の武器
についての真の知識を得るべきであり それらを有効に用いる方法を
日常生活の中でしっかりと訓練し、遂には 
それらの死を瞬時瞬時 私達の足の下にしなければなりません。

 

2008年3月14日金曜日

先輩達の言葉から

・私達人は、既に神によって十字架に閉じ込められているのです。
・汗をかくとは、主の祝福が無く 肉の力で力むことです。
 主の前で霊的な力を用いるのには汗をかきません。
・神は私達に 聖所を保持しそこで光を発し、聖と俗、聖潔と不潔を
 区別する事を求められます。
・神は一つ一つの言葉の背後で総ての環境を作り出し、私達がどのように
 御言葉を受け入れたかを実証されます。
・最も危険な生活は、唯人前だけの生活です。最も穏やかで無理の無い
 生活はただ神の前での生活です。
・主の血は完全に注ぎ出されました。ですから主は私達に、
 「一切の天然の命を注ぎ出せ」と言われます。


今日は自室の掃除と歯医者、午後はケン部屋に向けての
「第二物置」作りですね。昨日「第一物置」が出来ました。
(意外と簡単でした)ケン部屋は もしケンが不要になっても、
当山小屋の客室が増えることになるので都合がいいのです。今のところ
地下に6畳大の部屋二つを考えているのですが、どうなりますことやら。

2008年3月12日水曜日

突然の変化

これも不思議現象なのでしょうか、今日の午後 突然
「ケンは今 早急に山に行かなければならない」と言う状況から
いま暫く様子を見る方がよいらしい、と言うことに
変わってしまったのです。
ま、要するに妻の状況判断が少し「早とちり」だった
と言うことなのかも知れません。しかし、正直「実態」は分かりません。
いずれにしろ、今日の所本当によかったと言うことだけは言えそうです。

にもかかわらず「ケン部屋」はやはり作った方がよさそう、
と言う感じは残るのです。と言うのは、
これから小屋に来て下さる聖徒達に 無理にならない範囲でケンが
自由に接触出来ると言うことは ケンの成長(11日のコメントで
リチャードさんの言う「キリストへの継ぎ合わせ」)の為にも多分
とても有効であろうと思われるからです。その為には ケンが
自分の調子に応じて自由に行動出来るように 一寸離れた場所に
自分専用の部屋が必要と言うことになるわけです。

だから工事は続けて行こうと思っております。専用のトイレや
流しはいつになるかわかりませんけどね。

「ケン部屋」工事初日です

*「ケン部屋」工事初日です
とにもかくにも 今ケン部屋へと改造するべき物置を占領している
沢山の物を別の所に移さないとケン部屋工事は始まらない。
ですから 先ずは新しい物置を作らないといけない
と言うことになるのです。ヤレヤレですね。なかなか物事
というのはそう単純には行きません。
で今日はその物置製作に取り掛かるわけですが、先ずは床張り
と言うことになるのでしょう。
でも天気はいいし、楽しい作業になりそうです。

*山の独り言
・地上で敵を縛る。
・刻々 私の野放図な思いへ十字架を適用する。
・「不思議な天のインターネット」で発信する。
・主とのお付き合いにおいて やはり主に対する私の「精一杯の」真実は
 やはり欠かせない。これは人付き合いの基本ですよね。
・高く高くされたる「ただの人」ナザレのイエスよ。
・十字架はオセロ、真っ黒から真っ白へ。
・「死に至るも 己が魂を愛せざりき。」黙12の11(永井訳)

2008年3月11日火曜日

3月11日です

*この数日の聖徒達のことばから
・圧迫され追い詰められ、どうしようもなかったその時 初めて
 「あ、私はもう死んでるんだ」と分かった。そして感謝の涙が・・
・終わりの時代、クリスチャンは山に逃げ込めばいいのかも。
・お腹も心も満たされた。甘く濃厚な臨在に満たされて幸せだった。
・主は真実でユーモアのある方、祝福された日々。
・ここでは誰も何も企てない、総てはジーザスまかせなのです。
・「あ~来れた~」で始まり「何だかやっとノビノビ生きはじめたかも」
・薪ストーブの周りに集まって全員ウトウト、母の胎にいるような。
・実に生きている実感をここの人たちは・・

*ケンが山に来る?
実家の状況からケンを山に連れてくるべきかな、と思案しております。
もしそうなれば これは私にとって相当大きな生活の変化となるでしょう。
このことから逃げてはいけない。この問題を私の真正面にデンと据え 
私はしっかりとこの身に「ケンを着る」べし。次に
「この大変な親子」の全体を今度はキリストに着ていただくべし。
そして既に今日今から この状況総ての詳細部分へと
キリストに来て頂くのだ、彼は「私達のキリスト」なのだから。

そうなるといずれ、地下に超ヘビースモーカー・ケン専用の部屋を
作るべきだろう。その内トイレも要るし流しもいる。
さあ、大きな工事になるぞ、
と言う覚悟を先ほど決めたところです。
主を仰ぎます、常に最善をなさる主を。
「キリストよ、総てよろしく」

2008年3月10日月曜日

3月10日です

待望の春、今日カリマンの柔らかな雨です。

昨日、5名が帰られました。感想ですか?
エーやっぱりこの小屋には本当に「山暮らしのキリスト」が
常駐されておられるのかなーと、今一寸メルヘンチックな幸せ感ですかね。

小屋暮らしの主キリストが、もう春の林道なのにまだ所々ツルツルに
凍結した場所を敢えて残され、私に「レストランに行く夜のドライヴは
ルーク氏の夏タイヤでは危険そう」と思わせ、そして遂に私に
カレーライスを作る決心をさせたのではないのかな、等と。

と言うわけで料理不精のこの私がインターネットを見ながら凝りに凝って
(コーヒーを入れたりして)作った一日目夜のカレーライスと そして
ダッチオーヴンで蒸し焼きにしたサツマイモ。この焼き芋が好評
だったんですよ。で或いは皆さん、ダッチオーヴン料理でもっとおいしい
のを食べて見たいとの食欲が刺激されたのかな?「このダッチオーヴン
というのは 適当な食材を突っ込んで薪ストーブの上に置いておけば 
それだけでおいしい料理になってしまうんですよ」との私の何心無い
説明から それじゃー明日 お風呂に行った時 食材買って来たら
と言う満場一致の結論に至ったのであります。

で2日目は午後から 若手3人は大張りきりのにわかコックに。
シェフはもちろん遠来三重県から来られたコージさん、彼の
料理に関する薀蓄(うんちく)には皆さんただただ
舌を巻くばかり。と言うわけで、私達ずうっと食べていたと言う、
なんだかそんな3日間だったのです。
(下のナベがダッチオーブン)



と言うわけで続きはまたにしましょうか。

遂に春、カリマンの青空

2008年3月5日水曜日

安定でなく 唯一点キリスト

現代人の宇宙観には中心がありません。
ある科学者達は「確率的に言うと一つ銀河宇宙にさえ高度な
文明を持つ数多くの星が存在する」等と言っているようです。
確かにそこには一片のロマンを感じさせてくれるものはあります。
それにしても私達はそこからどんな確かな「真理や事実」を
引き出せるのでしょうか。
無限とも見える空間とその果てに様々な天体が何処までも存在している
としても、その広がりにどんな「意味」があるのか、何がそれを支えて
いるのかは皆目分からない、と言うことだけは確実に言えそうです。
要するにその宇宙には中心が無いのです。

外の宇宙だけではない、自分の内面と言う宇宙にさえ
中心が無いのです。人は自分の奥底に一体何があるのか
全く知るよしもないのです。そこには中心も周辺もありません。
ただ あるからある、それだけなのです。
どうでも良い無数の項目については非常に詳しく知っているとしても 
「肝心要」なことについては、真に知らなければならない事については 
突き詰めて行けば行くほど 
結論的には「何も分からない」と言う事です。

しかし聖書には中心があります。
宇宙にはキリストと言う一点があるのです。
しかも更に聖書は 時空とその中の万物は
キリストと言う一点の中で創造された、とさえ断言するのです。
だからもしもあなたががキリストを持つならば、
あなたは総てを持つことになるのです!
キリストとは何と「とてつもないお方」なのでしょう。
その一点は 方や宇宙よりも大きく、方や私よりも小さいのです。


さて話しは突然変わりますが、
7日にあのルーク氏がこの山奥の小屋に来られます。
(彼が来て3日間どうなることやら 今誰も何も分からないのですが。)
じゃあ、横浜の集会はどうなるの、と私達は思うでしょう。

しかし、このとても困った事態が逆に不思議なチャンスとなるのです。
何故ならばその不安定さの中にあって あなたの心は一点キリストに向かう
からです。そして そこに存在する「不安定と言う圧迫」の只中にこそ
キリストと共に「あなたを死に至らせるもの」が潜んでいるからです。
あなたはそこで「人知れず密かに」死ぬべきです!
そこでもしもあなたが真にその死を神の手から受け取るならば あなたは
必ずや「キリストと共なる復活」を経験することになります。

そのようにして 
あなたは初めてキリスト者の集まりの中に生けるキリストを
もたらすことが出来るのです。実の所 これのみが「集会の方法」
なのであり、他の方法はありません。
従って またそのようにして私達を通して現れた復活のキリストのみが
「教会の実質」なのであり、それ以外の一切はいかなるものも教会を
構成することはあり得ません。教会とは一体どこで見い出だすことが
出来るものなのでしょうか。それは絶対的にただ
「十字架の向こう側で」なのです。


人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。
即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を
高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能が働いているのです。

その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。

(私は真の礼拝を否定するものではありません。私は時々山中の林の中に
跪き、両手を天に差し伸べ神を礼拝します。しかし、もし私の「礼拝」が
単にスタイルだけであるならば 福音書が告げるように 
悪鬼達でさえも真剣にそして正確にイエスを「拝み」
「アビスに行けとは命じないで下さい、私達を滅ぼさないで下さい」と
イエスに熱心に懇願した事実を知るべきです。)

これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。
そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う人の奥底に居座る根深い
願望なのです。それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。


教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22)

2008年3月3日月曜日

総ての名の上に

キリスト昇天後の歴史の
その開始の封印を解いたのは誰あろう あの子羊であった。
(黙5の5)その歴史は今この瞬間にも進行中であり、そして
7つの封印の中で、遠からず7つのラッパが鳴り響き、
最後に7つの鉢がぶちまけられるであろう。
誰がこの歴史の運命を止めることなど出来ようか。

宇宙の歴史でさえ この子羊の手の中にあるのだ。
神は総ての名の上に この子羊を高く置かれたのである。
(エペソ1の21)総ての名とはこの時空の中にうごめく
あらゆる一切の邪悪な意思である。

それでは私達は何をするべきなのか。
それは唯「この偉大な子羊と私との一つ」の中に留まり、
そこに安息し、子羊を高く高くかかげるだけである。

このような私達(子羊と私達)を揺れ動かすもの等あり得るだろうか。
あるはずが無い。

「私は天においても、地においても、一切の権威が与えられている。
見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」
(マタイ28の18、20)

2008年3月2日日曜日

3月2日です

7:49、
今朝早く外の気温はマイナス5度でした。
さて暫くぶり 朝の散歩に行って来ました。やはりいいですね。
とにかく朝の陽光を浴びるだけでも凄く得した気分になる。
実際得をしているんでしょう。

その得の一つ:
散歩から帰った際 直ちに、その勢いを利用して外の仕事を少しこなして
しまうと言うのはいい方法です。いったん小屋に着いて自分の部屋に
どっかり落ち着いてしまってからだと どうにも億劫になってしまう
ような事でも その勢いを利用すると何の苦も無く出来てしまう。
「勢いのエネルギー」ですね。これバカにならない。

暫く前 ロフトの窓から 小屋の前の道を野うさぎが左から右へ正に
「脱兎の如く」疾走するのを目撃しました。その野生のスピードの凄さ。
野うさぎが林の中でなくて 人間の作った道路をオリンピックのアスリート
よろしく真っ直ぐに走るなんて面白い。
だからこそ そのスピードが増幅されて感じられたのでしょう。

さあ今日は何があるのかな。外は明るい春の日差しです。

2008年3月1日土曜日

3月1日ですよ

お蔭様で「外の水道から水をくんで生活する」は早くも夕べと今朝で
終了することが出来ました。なぜか、例の水が出っぱなしの洗面の
カランは 洗面台下の水とお湯の2つの管を一時的に封鎖して
しまったからです。(いわゆる「メクラにする」と言う作業です)
それでこれから洗面の装置をどうするかですが、今の所
お湯と水を適温に混合すると言う 今ではどこにでもある例の高級な
装置はもうやめて 昔ながらのお湯はお湯、水は水の2つのカランを
つけようと思っております。高級よりも故障しない方がいいのです。
特にこれから自分でメンテナンスをして行くとなると、特にそうですね。
単純、簡単、気楽が一番。人生もそうなのかな?

それで次は 郡山までカントリータッチの蛇口を買いに行くか、
と言うことですが 蛇口のためにわざわざ郡山まで行くと言うのは
チト辛いものがありますね。で、洗面台使用は5月あたりから
と言うことになるでしょう。(今度のお客様には不便をおかけ致します)

それで明日からは次週来られるお客様達の為の準備にかかります。
どうしても必要なことは ストーブの薪、それと寝具の点検、
シーツの洗濯と掃除、片付けくらいかな。

セルフビルドのこの粗末な小屋に皆さんに来ていただいて 
一番喜んでいたのは実のところ 当の自分だったなんて 
これを発見したのはつい数年前のことでした。
人って分からないものですね、他人が分からないのは当然です。
なにしろ何十年もの間 自分が自分の好みを全く知らなかった
と言うのですから。

日も傾いて来ました。
今日あたり散歩に行くべきタイミングなのですが今 
相当強い風が吹いています。これでは一寸無理でしょう。
今日はあと 小屋でゆっくりと過ごします。
夕食はインスタントラーメンにキャベツ、玉ねぎ、あとは豚肉と
ソーセージを加え、それで足らなかったら
追加で餅でも入れるとしますか。

それでは今日はこの辺で。