Ⅰ給食と渡海に見る一つの意図
・第1回目の給食は5千人に対するもので、食べた余りは12のカゴを
一杯に満たし、第2回目は4千人で、余りは7つのカゴに一杯になった。
・第1回目の渡海でイエスは眠られ、第二回目では先ず弟子達だけを
船出させ後にイエスが海上を歩行され 弟子達の乗った小船に同船された。
・実は意外にも この2つの出来事は一つなのであり、その背後には
一つの明確なある意図が隠されているのである。それはマルコ6の51、
52の記述においても暗示されている。
Ⅱキリストとはどの様に見るべきお方なのか
つごう4回にも渡るこの出来事と、その周辺に関する福音書の
記述において 私達は「弟子達(キリスト者)が適切かつ十分にキリストの
真の姿を見、そして唯そのキリストのみを信じるように」との 彼の
「痛いほどの希求」とを感じないわけには行かないのではなかろうか。
さてそれでは 人はどのようにキリストを見るべきなのか。
一 邪悪な見方
それは「キリストに似て非なるもの」を構築する人の宗教性において見られ
「大きな木」マルコ4の30~32、と「パン種の入ったパン」8の14、15
等に象徴されている。イエス(聖書)はこの一連の期間、特に
このパン種に「執拗に」言及しておられることは注目に値する。
a スタイルだけの礼拝:マルコ5の6、7の7
b 一見キリストを探してしているようだが、その実
人間的欲望から即物的な益を求める:ヨハネ6の26、27
c 天からのしるしを求める:マルコ8の11
二 不十分な見方
a 「神の力を引き出すのは唯信仰だけである」ことを知らないので
平気で 神に代わって、自分で神の業をおこなおうとする:ヨハネ6の28
*このa は文脈からすると上の一、
「邪悪な見方」に該当するものかも知れない。
b 単にキリストを超人か驚くべき人であると見る:マルコ6の51、52
三 神の啓示による見方
a
啓示によってイエスの中に神の子・キリストを見る:
キリストの本質は、実は神の啓示によってしか見ることが出来ない。
マルコ8の29、マタイ16の15~19
b
復活の中の時空を越えた無限なるお方、そして
神と人の必要の総てとしてのキリスト・イエスを見 信じる。
c
更にその「今日のキリスト」と自分が一つである事を知り、信じ、
その「今 天地にあるキリストの中のその交わり」にあずかる。
*このb とc は次に見るようにこの給食と渡海と言う
2つの出来事の全体に示唆されている、と言える。
Ⅲ給食に見るキリストの無限性、永遠性、復活性
a
イエスはしきりに給食の余りでさえ12カゴと7カゴもあったことを
強調された。12と7は永遠の完成と完全を意味する。
即ち 給食の残余、こぼれ落ちたパンくずでさえ(或いはこぼれ落ちた
パン屑であればこそ)無限なのである。
b
実はキリストは 人から彼の手に渡された数個のパンと魚が
仮に無かったとしても、人々への無限の給食が可能であったことを、
せめて弟子達には分かって欲しかったのである。
(しかしある真理啓示の必要の為 敢えて人を介された)
c
後ほど間もなく、特にヨハネ福音書において見られるように、強力で
過酷な反対する雰囲気にもかかわらず(これが遂にはイエスを十字架に
つけずにはおかない死と暗闇のエネルギーへと増大して行くのであるが)
彼は果敢に「真のパン」とは、実は御自身であることを断言された。
確かにキリストの復活以後2千年間 キリストと言うパンを食して
満たされた人は無数に存在したし、これからも永遠に存在するであろう。
Ⅳ渡海に見るキリストの無限性、永遠性、復活性
a
時は夕方、即ちこの時代の終局であり、すぐに夜に突入して行く。
b
イエスの目的は明確だった。それは対岸、つまり王国の全き表現の
段階に到達することであった。
だから、対岸に到着するや、悪鬼の追い出しと癒しとがあった。
それらは王国顕現時代の特徴である。
c
従って私達はキリストの小船に乗りさえすればよい。
そうすれば私達は自ずと神の御心の中にいることになる。
しかしキリストの小船とは今日どこにあるのだろうか。
それは「復活のキリストと言う範囲」の中に、である。
d
あなたが「今日のキリスト、と言う範囲」におりさえすれば
時空のいかなる場面にいるとしても、あなたはキリストの中に存在し、
あなたの中にキリストが生きられ、そしてあなたは総ての聖徒達との
交わりの中にさえいることになる。従って、
単に時空の中にある肉の目に写る状況によって左右されてはならない。
復活のキリストとは今日明確な「一つの範囲」であり、もしあなたが
その中にいるならば、たとえイエスがこの時空の中で一見船の中におられず
①彼が 山の上におられようと
②群集を解散させておられようと
③海の上を歩いておられようと
④眠っておられようと、全く同じである。何故なら今
彼は時空を超えられた天地にある今日のキリストであるのだから。
e
我々はこのキリストと今 一つであることを覚え、
今「キリストと言う範囲」にいると言う信仰を働かせるべきである。
①先ず私は今キリストと共に山(最も高い場所、御座)にいると信じよう。
そのようにして、時空の中にある総ては私達の足の下にあることになる。
②だから私達は群集(人々)の間でも適切に麗しくさえ行動できるであろう。
たとえ人々がそれをイエスの奇跡だとは気づかないとしても、私達の故に
彼らがあるレベルにおけるイエスの恩恵に預かることさえ可能なのである。
③海とは(陸と違い)サタンの死の力の中に横たわっており、
その死と虚偽の力によって汚染され尽くされているこの世界を意味する。
それは完全に死の水の中である。しかし もしもキリストと一つ
であるならば、私達もその死の世界の上を悠々と歩行できる筈である。
④イエスは父の御心に従い父に信頼していた。だから彼は必ず向こう岸に
到達することを確信していたが故に、どんな状況の中でも安眠することが
出来たのである。私達もそのキリストと一つであるならば、たとえ船が
沈みそうに見えたとしても 母親の胸に安息する赤ちゃんのように
安らかに眠るであろう。なぜなら、私達も神の御心の只中にいるのだから。
*
結論として私達は、
給食においては:私達の命、生活、人生(LIFE)における無限の供給
としてのキリストご自身を見、
渡海においては:私達の目指すべき目的に到達する為の総て としての
復活と永遠であられるキリストを見るのである。
この実際的「実用的な」復活のイエスとの一つの中で私達は
サドカイ人のようにトンでもない思い違いをすることなく
聖書と神の力を真に知って行くべきなのではなかろうか。(マタイ22の29)
13 件のコメント:
豊かな主にある交わり、そして、すばらしいメッセージをありがとうございました。
交わりの本質と永遠について、深い示唆をいただけたこと、感謝です。
お別れしたばかりですが、また近いうちにお目にかかりたい。そんな思いがすでに胸にあります。
これからもよろしくお願いします。
神ご自身が明確に何かを開始されて
おられる、
そんな感動に満ちた3日間でした。
私はただ その小船の中におらせて
いただきたいだけ。
必ずや 主ご自身が総てをなされ、
ご自身の栄光を
「少数の者達」に見せて下さる。
許されるならこれからも その彼の栄光を
兄弟達と共に随所で拝して行きたい。
本当に有難うございました。
おお兄弟!主が兄弟に会わせてくれた。ハレルヤです。
不思議なるかな、人と人との出会い!
完全な 聖霊によるこの働きの尊さは
今後益々明白になって行くことでしょう。
しかしまだ見ぬ多くの聖徒達とさえ
私達はもう既に「その交わり」の中にいる、
のではないでしょうか。
ただ主を褒めたたえるばかりです。
兄弟、山小屋にもお出でください。
天理カナン教会での交わりとメッセージありがとうございました。
本当にすばらしいときを過ごさせていただきました。
みさんに啓発されてブログを再会しました。
よろしくご教授ください。
デンスケ@奈良県生駒市でした。
私がキリスト者達の間で「どんな所に
置かれているか」等は人の肉に過ぎません。
大切なのは「キリスト御自身」と
「私が十字架に付けられること」だけです。
兄弟、共にこのことの真の意味を真剣に
学んで行きましょう。
先週の交わりを、思い返しています。
キリストとともにあることの意味を
思うときに
交わりがいつも存在することを
感謝します。
お会いできて感謝でした。
「交わりがいつも存在する」アーメンです。
もう既にその中におかせられ、私が
父、御子、そして総ての聖徒達との交流
の中にあるとは!その交流の実質こそ、
エクレシアなんでしょうね。ミーク兄弟とも
今、この瞬間においても「その交わり」
の中にある。
ただ神とキリストを拝するばかりです。
カナン教会で皆さんにお会いできたことはほんとうれしかったです。ちょっとその雰囲気をflushにしましたので、こちらをクリックしてみてください。
・Photo Gallery-2008 Spring-
http://www.kingdomfellowship.com/cgi-bin/diarypro/data/upfile/0331.html
↑スペルミスです
flush→flash
天理カナン教会での交わりをありがとうございました。私もLukeさんのフォトを見ながらその余韻に浸っています。
本当に「主がそこにおられる」「主がその交わりを共に喜んで下さっている」と感じました。主を御名をほめたたえます。
機会がありましたら、いつの日か私もSugarさんの山小屋に行ってみたいです。
私のふるさと、奈良の旅はいかがでしたか?
またLukeさんと共に是非お越し下さいませ。
お待ちしています。
キリスト者たちの間で「どんな所に置かれているか」等は、人の肉にすぎません。大切なのは「キリストご自身」と「私が十字架に付けられることだけです。」アーメンです。
昨日ようやくロンドンに到着して、それまでの旅の日々を振り返って、そのことを思わされています。キリスト宗教の偉大なこと!人の肉の勝っていること!
一寸PC を離れてまして 失礼しました。
さっちゃんさん、いつでも&いつでも
いらしてください。
奈良。
今何も語らぬ人々の
その上に過ぎ行く
春の明日香の風。
しかし、ここにある
永遠の確かさ。」
かな?
匿名さん 有難う。外国ですか?
この世界、ああ、
いずこも真のリアリティの周りで、
人々のつかの間の時が過ぎ去る。
私もすっかり、スプリング
センチメンタル ジャーニーでした。
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