2008年11月29日土曜日

簡単ポットロースト

末っ子ワタルとガールフレンドが小屋に来るのは、どうやら
新年3日頃になりそうです。よかった、時間はたっぷりあるぞ。
それで今日はインターネットで見つけた簡単そうなポットローストに
初挑戦して見たいと思っているのです。

材料:
牛もも肉(かたまり・細めのもの) 400g
■ 塩 小さじ1 ■ こしょう 少々 ■ バター 大さじ2
■ 玉ねぎ(薄切り) 1/2個 ■ にんじん(薄切り) 20g
■ セロリ(薄切り) 20g ■ ワイン(赤) 1/2カップ
■ しょうゆ 大さじ1 ■ 砂糖 小さじ1/2 ■ クレソン 適量

作り方:
1. 牛肉はたこ糸でしばり、形を整え、塩、こしょうをすりこむ。
2. 厚手なべにバターを溶かし(1)を転がしながら焼き色をつけ、
玉ねぎ、にんじん、セロリを入れ、赤ワインを注ぎ、ふたをして中火で
約10分蒸し焼きにする。
3. 肉を取り出し、ボウルに入れてふたをし、約10分蒸らす。
4. なべの煮汁に砂糖としょうゆを加えて煮立て、こし器でこし、
ソースにする。
5. (3)のたこ糸を切り、スライスして器に盛り、(4)をかけ、
あればクレソンを添える。
*ランプ肉は牛もも肉の中でも、肉質がよく、やわらかい。できれば、
ランプ肉を用意するとよい。


牛肉より豚の方がおいしい、豚じゃだめなのかな。
肉をしばるだって?何でそんなことするのかな。
煮汁をこし器でこす、こし器?ザルでいいのかな。
クレソン、あるかな。

2008年11月28日金曜日

霊 対 物質


人の物質への執着は
「自分の持ち物・財産→愛する者・家族等の体と命→
自分の体→自分の体の命」へとより重く深刻になります。

今この時代、物質世界を不法占拠している強大なこの世の大王に
私達が対抗する為には、神の敵が「私の命をも含む私に属する
これらのモノ」をどうしようと構わない、と言う彼に対する
「深い覚悟」がどうしても必要であるように思われます。

実は、昨日の午後から今朝にかけて、主はこの面で大いに
私を取り扱われました。それは私にとって、とても深刻で
貴重な時間であったと告白しなければなりません。

要はモノに対する霊の絶対的とも言える優位性を昨晩、僅かながら
経験することが出来たのです。人の命をたてに脅迫する神の敵の
悪巧みにキリスト者は決して屈するべきではありません。その
「覚悟」に至った時(それは全く主からでした)狼狽する私は初めて
深い安息を覚え、深い眠りへと導かれたのです。そして今朝に至り、
その問題は完全に無きがものの如くになっていたことを
知らされたのです。


キリスト者にとって
「私の本質は霊である」とする方が、聖書の様々な真理を
より無理なく説明できるように思われます。

新約聖書は明らかに「霊対肉」と言う図式を見せています。
しかし、それはそれとして「霊対物質」と言う図式も一つの
大きなテーマであることは明らかです。

物質は当然重要です。神もそれに対して一定の
価値を置いておられるからです。
しかし、神の真剣な目は「その向こう」をより注意深く
凝視していることは更に明らかです。

将来、物質は存在するのか、その応えは「しかり」です。
神は人に「復活のからだ」や新エルサレムと言う実体を
啓示しているからです。しかしそれは「霊のからだ」であり
言わば「霊の物質」です。やはりあくまで霊が主体本質なのです。


あのキリストの十字架において、神が真に意図されたことは
「それまでの物質界」の総てを総決算する、と言うことでした。
それは「物質を真の実体であると私達が認識しているその認識」
に対する神の一大チャレンジと
神が実際的に「物質を切り離し取り除く」と言う断行・執行の為の
決定的な法的断罪であったと言ってもさしつかえないでしょう。

にもかかわらず、十字架は神の最終目的ではありませんでした。
それは、神の心にあった別な実体の導入のためであったのです。
そしてその実体とは何と「復活した人とそのからだ」なのです。

それでは、その復活された人の中にあったものは一体何でしょうか。
それは「神性と人性、そして永遠、無制限と不死不朽」です。それら
を総て包含したイエスキリストの復活と言うもの、更にその復活を
内包し運ぶ所の「あの霊」と言う図り難い価値を有するもの、
それこそが神の目的であったのです。

その人の復活の後、宇宙における総ての評価、判断基準は
革命的に変化してしまいました。私達はどうしてもこの革命に
ついて行かなければなりません。
例えばそれ以後、復活だけが神にとっての「合法」であり、合格
ラインとなりました。それは「主イエスは・・私達が義と認め
られる為によみがえられた。」(ローマ5の25)とある通りです。
従って復活でない義など、神の目には
最早ありえないものと私達は思うべきです。


今この時代「あなたの物質」の奥深い所でキリストと一つになって
いる復活の霊、その見えない小さな一点に、永遠における
神と人の希望が総て隠されているのです。
それ故、この神の最重要真理を啓示されるために、私達はただ
「復活者のことば」にだけ耳を傾けるべきです。
それは「復活も出来ないような者」の言葉に
いかほどの値打ちがあるだろうか、と言う意味です。それは日夜
あなたを訴え続けているウソつきサタンを撃退する
強力な証しの言葉となるでしょう。(黙12の11)


その復活と一つになった私の中の人の霊と言う隠された実体、
その実体への私たちの評価というものが、自分の永遠のあり方を
決定してしまう、と言っても決して過言ではない
と今私は考えているのです。

2008年11月26日水曜日

イモクボさんのブログ

イモクボさんのブログを紹介します。
と言うのはこの度、彼は本格的にログハウスの建築に着工した
からです。彼の手によるログハウスは・・

ほぼ完全な「セルフビルド」です。
私の場合であれば、セルフビルドとは言っても、屋根のトタン工事等は
業者に丸投げしたのです。(2バイ4工法。ログではない)
ですから100%のセルフビルドではありません。しかし彼の場合は
限りなくセルフビルドに近い、実はこう言うのは
そんなに多くはないのです。

彼が東京の立派な仕事を「えいやっ」と投げうって、私の近所、
この究極の田舎に移られたのは04年、もやは決して若いとは言えない
年齢で毎日、森林組合の超重労働(要するにキコリ)をこなしながら、
過去数年の準備段階を無事通過、遂にこのたび、自宅の本建築に
こぎつけた。実はここまでの過程で、ギブアップする人が多い中、
よくもまーここまで来られましたねー、イモクボさん。

それから、彼の年齢から見て、まれに見るその体力もミモノです。
「これから年を取って行くのが楽しみ」などとさり気なく言うこのおじさん、
こう言うの、実はこの世の「第一級幸福者」のセリフだと私は思っている。
今後、加齢に賢く抵抗する体力の保持、この点も、これからの
観察ポイントです。この加齢と病気そして怪我の問題、この点でやむなく
断念する人が何と多いことか。これは、「あこがれの田舎暮らし」にも
見られるとても悲しい隠れた現実です。

それから一寸偉そうに言わせてもらえば、彼は、お仕着せのワンパターンで
何となく仕事をする人ではなくいつも、もの事の原点に戻って、
どうやったら一番よいのかを自分の頭で(ここが肝心)考えることが出来る
人です。だから、イモクボ流はこれからも建築の随所に現れ、彼の
ログハウスとブログを意味深く面白いものにすることでしょう。
(きっとよい味が出るだろう、と言うこと。)

と言うわけで、皆さんはこれから何10ヶ月かの間、彼のブログを時々
のぞくだけで、正真正銘の都会人が、阿武隈山中にログハウスを建てる
と言うその実況記録、また本当の田舎暮らしの一端に接することが出来る
のです。やはり彼のブログ、お勧めですね。



これはまだ、地下、基礎工事です。
これから、この上に丸太を組んで行くわけです。


「狩萬の里/山暮らし(旧都路村)」
田舎生活の夢、やみがたく、2004年夏、都路村に単身移住しました。
団塊の山暮らし、山仕事(木こり)五年目です。

ダッチオーヴン、その後

わが家には例のケンとジュンのほか、三男のワタルと言うのが
おります。新潟で潜水士をしているこの末っ子が、この年末、
何とガールフレンドを連れて小屋に来るかも知れない、と言う
のです、これは大変だ!と言うわけで私は今、ある種の小さな
緊張と大きなワクワク感の中にいるのです。

と言うことで、何とかあのダッチオーブンで、あの無愛想な
ワタルとまだ見ぬ彼のガールフレンドを驚かせてやれないもの
だろうかと、きのうから料理の試行錯誤に入っているのです。

野菜の水分だけで十分だから、オーブンに水など入れなくともよい、
と言うことでガス火でガンガンやったら、食材のがコゲるやら、
後でナベがくさくなるやら、ドロッとした黒い汁がなべ底に残る
やらと、オーブンの後始末が気持ち悪いほど大変だったのです。

この原因は、先ずはナベの火が強過ぎたことでした。最初は強火でも
よいのですが、湯気が出て来た段階で初めてフタをして、後は
ごくごく小さなトロ火にかけておけば、十分食材はウマミを
出してくれる、などと言うことは全く知らなかったのです。
それにしてもトロ火の威力には驚きましたね。

だから昨日は初めて、試みに、水では芸が無いと、日本酒をなべ底に
少し敷いて見たのですが、それでも水分が少し多すぎました。
この最初にナベに敷く水分の量はビミョウ、こういうのはやはり
経験しかないのでしょう。

青魚は難しい。
あの臭みのメインの原因は、サンマのハラワタと頭をカットしなかった
せいだったのです。3週間前、小名浜の近くで一箱千円で買った
サンマがまだ残っているので今日あたりトライして見ますかね。
今度はチャンとニオイ取りのネギなどを入れて
アルミホイルでサンマをカバーしたりしてね。

そのほかはですねー、昨日、鶏肉のかたまりに塩コショウを
すり込んで、などと言う「大テクニック」を生まれて初めて
試みたのであります。ああ、それにしてもあの無精者の私が、
鶏肉に塩コショウをすり込んで「料理」をするなんて、
人生の展開、ホンと分からないものです。

PS.こういうたぐいの料理法、大きく言えば
ポットローストと言うのだそうですね。

2008年11月22日土曜日

十字架、復活と昇天の相違(2)

創世記一章に出てくる神の「創と造」における二日目、三日目、四日目
は、十字架、復活、昇天と言うキリストの経験に対応するようです。

二日目の神の作業(実は御子の作業だった)は「上の水と下の水
との区別、分離、隔絶」でした。キリストの死・十字架の御業の
特徴もやはり区別と分別です。中央、中間に十字架が立ち、
その左右、上下にあるもの(例えば二人の強盗)をキリストの死は
決定的に分断隔絶したのです。

三日目はご存知、復活です。死の水の中から、乾いた地が昇って来た
のです。それ以来、神は陸と海の間に境界線を設けられ、神は陸を
守っておられます。しかしながら実は陸地のすぐ側に海(死、罪、肉、
この世等)は依然として存在しているのです(黙示録21の1までは。)
従って私達は、今の時代、自分の態度一つによって、常に海の影響から
自分を守る必要があるのです。しかしそれは難しくはありません。
何故なら私達はただ陸地に留まりさえすればよいからです。
(「留まる」はキリスト者にとって最重要キーワードの一つでしょう)

陸地とはなんでしょうか。陸地とはイエスの復活によって何と神性を
人性と一つにされたある領域です。実に私達は今その中に召し込まれて
いるのです。それは具体的にはどこにあるのでしょう。そうです、
それはあの「今日の復活された奥義的キリスト御自身」以外の
どこにも存在するはずがないのです。そのキリストとの結合により、
私達は初めて、日々キリストと共に復活させられた生活を
この時空の中でさえ送ることが可能となるのです。

四日目の特徴は種々の天体の光です。神は天に太陽、月、
星を「造られた」(クリエーションではありません)のです。
以上のキリストの御業、即ち十字架、復活、昇天は、それらに
自分を重ね、この私達の肉体を通して、キリストの経験をこの地上・
私の時空内に再現する為のものです。従って私達は日々・・

二日目の死ぬ生活、即ちキリストの死の力によって他の
悪しきもの(罪、肉、この世、宗教、律法等)から私を分断する
生活、そしてまた、神が私たちに与えられたあの領域(今日の
キリスト)に留まることによって海の影響から
超越する復活の生活(三日目)
そして太陽と共に天に留まる発光体(月と星)として、暗闇
(サタンの支配)を照らしあばき、その影響を、少なくも私
関連の事象内においては、消し去る生活を、換言すれば
この世においていわゆる「一隅を照らす」生活を営むべきです。
悪しき霊どもの暗闇をキリストの反射光によって照らし、暗闇を
追い払うと言う敵に超越する高貴な生活が昇天の生活の特徴です。


これらは総て「私達のキリストとの結合」と言う事実がもしも
存在しないのであるならば、ことごとくおとぎ話と等しい価値しか
ありません。もしもそうであるならキリスト者ほどおめでたい
人々はこの世にいないことになります。それ故に、パウロは
「キリストにあって」「キリストの中で」を絶えず強調した
のです。したがって「私がキリストの経験を追体験する」は総て
IN CHRISTにかかっていると言っても過言ではありません。

2008年11月19日水曜日

キリストから引き出す

「ただキリストの過去の経験と結び合わされる者だけが、
キリストの将来の栄光と結び合わされます。」
これはあるキリスト者の言葉です。


永遠と言う観点から見て、それがいかなる人の、いかなる経験
であろうと「人の独自の経験」というものに神が評価を与えることは
あり得ません。神が認められるのは唯キリストとその経験です。

ですから私たちの総ての経験というのは、キリストが過去に達成された
キリストの経験から来なければなりません。神がよしとされる私たちの
経験とは、過去のキリストの経験に「自分を重ねる」時に、初めて
無理なく生じるものです。この世、そして親から受け継いだ遺伝や、
自分が獲得したものなどの中から、何とか「私の素晴らしい経験や実行
をひねり出す」と言うのでは「神の基準」には絶対に届かないからです。

何故でしょう。なぜなら、たとえそれが人の目にはいくら立派に見えた
としても、それらの産物は所詮総て第一の人・古いアダム、古い創造に
起源を持つからです。それは私達ではどうにもならない必然です。
ですから神は何と二千年前、既にそれら総てを、最後のアダムの肉の
中で死刑と言う断罪に処してしまったのです。そのことこそ、人類の
歴史の真ん中に立てられた十字架によって、神が今に至るも
全宇宙に向かって宣告している事に他ならないのです。

ですから結論として私達は「どうにかして」ただこの復活された
新しい第二の人・キリストから、即ち死の水から上がって来る
ことが出来た只一人のお方だけから「私の経験」を
引き出さなければならないのです。(実はそのことに対する私の
神への同意として、私はバプテスマを受けた筈です。)


21世紀に生きる私達が、2千年まえのキリストの経験を引き出す?!
なぜこのような途方もないことが可能なのでしょう。

①なぜなら、キリストイエスは私と言うアダムとピッタリ符合し、
ピッタリ重なることが可能な正真正銘の私と同じ人・アダムになられた
からです。即ちイエスは最後のアダム・人類の総合計として、私と言う
アダムを彼の内に含んで十字架に付けられたからです。

もしもあなたがアダムであるならば、どんなアダムであろうと
やはりアダムです。これは生命と言うものの持つ一つの
動かしえない特徴ではないでしょうか。これは即ち、同種の生命に
見られる生命の同一性と言うことです。

「一人の人が総ての為に死んだ以上、総ての人が死んだ」(Ⅱコリント
5の15)このパウロがしばしば主張した主張、即ち「最初のアダムの
中で人類は全員もれなく罪を犯した」と言う主張とそれは原理において
全く同じものです。パウロは続けます:
「もし、一人の人の違反により、一人によって死が支配するように
なったとすれば、なお更のこと・・受けている人々は一人の人イエス
キリストにより、(全員)命にあって支配するのです。」
(ローマ5の17)

②そしてまた同時にイエスキリストは永遠の神でもあられる故に、当然
その総ての経験には、時空を超えた永遠性があるからです。時空の中では
それは二千年前の出来事でした。しかしキリストの十字架は時空を超越して
今この瞬間もあなたが受け入れるばかりの所に存在しているのです。

③更にもう一つの理由は聖霊の存在にあります。
「あなたが、既に神によってキリストと重ねられている、即ち彼と
一つとされている」と言う神の真理に単純に信頼を置く時に、
これまた永遠の中におられ、総ての制限を超える能力をお持ちである
聖霊は、実はキリストの経験をあなたの肉体を通して、時空の中へ出現
させる為に、今か今かとあなたの信仰を待ち構えておられるからです。
それはあなたの為に遣わされている聖霊の言わば「専門職」なのです!

④そもそも私達の父なる神は、人に無理難題を押し付ける神ではなく
あの放蕩息子の父のように、私やあなたの為に総て、全部を
なさりたい方であり、御自分の所有の一切を私達に与えたい
方なのです。もしあなたが「あの兄」の様にそのような
父なる神に「させない」のであるならば、あなたは父に
大きな苦痛を与えることになるでしょう。

三で一の神はあなたの為に働きたい神です。神に感謝します、
正に今は恵みの時代なのです。

ですから私たちに必要とされるものは、ただ二つのこと:
神の言葉と神の能力というものへのあなたの実際的信頼と、
そして自分の存在と能力に対する絶望です。


私達が自分を重ねるべきキリストの経験とは、彼の受肉、人と
しての歩み、十字架に向かわれたこと、死、復活、昇天の中で
十字架に向かわれたこと、死、復活、昇天と言う部分です。



★お知らせ
このブログに何度も登場された、あの台湾の87歳の姉妹
楊劉秀華さんから「皆さんの交わりに参加したいので、次回の
我孫子の集まり(12/6)に行こうと思っています。」との
連絡が台湾からありました。
その次回の我孫子の集まりの時間と場所は
12月6日(土)我孫子「ケヤキプラザ」録音室です。

「ケヤキプラザはJR我孫子駅南口から左に歩いて1分、
イトウヨウカドウのすぐ前の、新しく白っぽい背の高いビルです。
12時半、プラザの玄関ロビーに集まり、皆で食事をしてから
1時半前に録音室に向かいます。1時半に録音室に直接行かれても
いいです。部屋が狭いかな、でも参加はどなたも自由です」との
我孫子の兄弟の言葉です。

2008年11月17日月曜日

あかしやさんのコメントから

(一)
私は難しい解釈は出来ませんが、こう思います。
イエス=神
イエス=人間の姿をとった神
人間とコミュニケーションと関係を持ちたいので、そういった姿に
なられた。神様だからこの世と神の国を行ったりきたりできるイエス。

人間の形をもったイエスにそれができる。 この世にいてイエスを
信じる者たちは、死はこの世と神の国の通過点でしかないということに
希望を見出す。
こんな単純な解釈しかできませんけど。 

先日、”90 Minutes in Heaven"というベストセラーの本を2日で
読みきってしまいました。 確かに、神様の国は存在します。 
いいところみたいです。行ったら、帰ってきたくないところらしいです。

そこで、私たちの家を用意してくれているイエス兄さん。 
さすが、元大工さん。
だから、みーんなが、そこにいかれるように、神さんは、
マルコ16:15、マルコ28:19で命令されているんですよね。
それが一番大事。 

アメリカ選挙で、Abortionだの、Gay Marriageだの、と騒いでいますが、
そんなのどうでも言いや、と思います。
ps。ところで、弊BlogでSugarさんのBlogを紹介させていただきます。


sugar:
あかしやさん、とてもわかりやすい表現を有難う。
あなたの単純、率直な言葉づかいのおかげでピンと来た
人はきっと少なくないのではないでしょうか。

昨日の記事にコメントして下さった、もぶぶさん、
いちはのすずめさん、Mさん、あかしやさん、そして私と、
この五者五様の個性の違いが実に楽しいと思いました。

五人はきっと「あの一人のお方」の中に流れる不思議な川に
身をゆだね、あたりの景色などを眺めながら、ただ楽しく
流されていたのではないでしょうか。そしてこの五人が一様に
タッチしたのはあの不思議なお方・イエス兄さんです。
しかしながら、またもや不思議や不思議、その一人のお方の中に
私たちのお父様だけでなく、古今東西の総ての愛する兄弟姉妹も
全員いたのです!これが私たちのかけがえのない
家族であり、エクレシアです。

こんな「沸き立つ」交わりがこんなブログの上にも存在するなんて、
ただただビックリ、主に感謝です。
これから、このような「キリストの沸き立ち」が、世界中の主をまだ
知らない多くの人々にも触れ、届いて行くことを心から願っております。
イエス兄さん、なにとぞよろしくお願い致します。
ブログの紹介有難う、その結果が楽しみですねー。


(二)
11/14「高山家のお父上(2)」へのコメント

私が余命2ヶ月と言われたら・・。 
今日言われたら、やはり、死ねないなぁ。子供と夫がいるから。
でも、92歳まで生きていて、神さんを信じていれば、そして痛みや
苦しみがなければ、わくわくと楽しみに待つのでしょうね。 
自分の葬式にどの歌を歌ってもらうかを自ら選曲したりして。
死を前にして、こういった心の平安を与えてくれるのが、
神さんなんですよね。ありがたいことです。

千葉のMさんのコメントから

Mさん:
今日は朝から雨です。
静かな午後のひと時が流れていきます。

さて、肉としての我々の根源は、反逆心だと思います。
肉の根源であるサタンの根源は、神の権威への反逆です。
それは実生活、人との関係において露見してきます。それは
理屈ではありません。見えるものは、見えないものに支配
されています。一方、神の子としてのキリスト者がこの時空に
実際のキリストを降ろしてくる方法は、信仰による完全なる服従と
Sugarさんが敢えて表現しました、信仰により
『「あのイエス(今日のキリスト)を自分とする」』
これしか方法はないのでしょうね。

sugar:
もし「聖画に出てくるロンゲのナザレのイエス」を自分である
と言うならば、その人は精神病患者でしょう。また「私は再臨の
キリストである」などといえば、その人も患者さんであるか、相当
危ない人に違いありません。
しかし「今日のキリスト、今現在天と地に同時におられるあの奥義的
キリスト」の中に私は存在している、と言うのはなんらの問題も
ありません。なぜなら私達は「キリストのからだ」であるからです。

さてからだと頭を分断することは不可能です。カクレンボで太郎君
の背中を見つけた次郎君は、その背中だけを見て「あ、太郎君だ」と
言います。私達一人一人は当然、その奥義的なキリストのからだの
ホンの一部に過ぎないのですが、同時に私一人の中におられる
神聖なるお方は「一人の完全なキリストの全体」でもあります。
だから私の中のキリストは部分であって、しかも全体なのです。
これはやはり時空に制限された人の理性では到底解き得ない
一つの奥義であると言わなければならないでしょう。

「私はブドウの木(イエスはブドウの幹とは言われなかった。それに
しても、ブドウの木の幹と枝の境目はどこなのでしょう。)であり、
あなた方は枝です」と主イエスは言われました。ですから私達こそは、
ブドウの木(今日のキリスト)の構成要素です。何故なら枝枝の
総合計がブドウの木であるからです。

今日科学者は、一植物のどんな小さな細胞一個からでも、その植物の
全体を引き出し、再生再現することが出来ると言います。一個の種の
様に何とブドウの木のどの一細胞の中にもブドウの木の全体があると
言うのです。(やはり地上のブドウの木は「天地にある唯一の真の
ブドウの木」を指し示してくれているのです。)

ブドウの一枝は、それが何らかの理由で不幸にもブドウの木の
命から切り離され、火にくべられようとする時に、即ちエクレシアの
交わり、キリストのからだの命の交わりから分断される時に
初めて個の意識、即ち部分感覚、独立独歩感覚、自給自足感覚等が
発生するのです。実のところ、その感覚は、そもそもエデンの二本の
木の中、あの禁じられた木の実を人がとった事に起源を持つのです。

しかしながら、人が真の命の交わりの中にある時、私達が
キリストの中に留まる時、また「枝が自分をブドウの木とする」時、
即ち私達が善悪を知ろうとする呪いから逃れ、あのもう一方の木、
命の木の実・キリストにあずかる時には
そこには「個の感覚や意識、そして主張」は最早消えうせ、
天地におられる唯一の新しい人・キリストだけが
総ての総てであることを知るのです。


・「からだの部分は多くあっても、その全部が一つのからだであるように
あのキリスト(今日のキリスト)も同様です。」(Ⅰコリント12の12)
・「その日には、私が父におり、あなた方は私におり、私があなたがたにおる
ことが分かります。」(ヨハネ14の20)
・「サウロ、サウロ、なぜ
私(サウロが迫害していた当時のキリスト者達)を迫害するのか」
(使徒9の4)
・そこには、ギリシャ人とユダヤ人・・はありません。キリストが総てであり
総ての内におられるのです。(コロサイ3の11)

2008年11月15日土曜日

十字架、復活と昇天の相違

キリストの死、復活と昇天には当然ながら相違があります。しかし
その相違の中で、一番大切なポイントは何なのでしょうか。私は長い間 
これがハッキリしませんでした。しかし今あることを少し見させられつつ
あるように思います。

その前に、死、復活と昇天、この両者の共通点を見て見ましょう。
その共通点とは、神の子キリストが「人の代表として」達成された
ことです。だから、この両者において達成された事実は人に対して、
即ち私たちに対してもたらされたのです。即ち、私達は何とキリストの
死において彼の中に包含され、これらのキリストの経験を彼と共に
通ったことになる、と言うことなのです。


さて本題である「両者の相違」ですが、先ず死・復活は
キリストの「バトル(戦い)と勝利」です。獅子・子羊としての
キリスト(黙5の5、6)は十字架と言う敵の戦場で戦い勝利を
得られのです。即ち敵にとっては全く意外な結果となってしまった所の
「人の復活」においてキリストは言うならば勝利の雄たけびを上げられ、
敵のフィールドにスックと立たれた、と言ってもよいでしょう。これが
キリストの十字架の戦いと復活におけるの勝利の象徴的な表現です。

次に昇天とは、その戦いと勝利の結果、覇者キリストが神によってある
高貴な空間である言わば「天の貴賓室」に導き迎え入れられた
と言う事です。その第三の天と言う貴賓室は総てにおいて卓越した場所に
違いありません。その貴賓室で彼を待っていたものは3つあり、それは・・

①先ず椅子です。(聖書では、椅子などとは言わず「座」と呼んでいます)
座とは権威を執行する場です。天にある座に座すお方は今、宇宙に対して
この時代における神の権威を執行しておられるのです。民主主義国家
日本の総理の椅子に座る麻生さんでさえ、以前と今とでは彼に対する
周囲の反応は全く異なったことでしょう。それは当然アソウタロウの
力と言うよりも総理の椅子が本来持っていて、この度彼に与えた権威と
パワーなのです。しかし天の座は王国の座なのです。

②次は冠です。それは「茨の」でなく「栄光と誉れの」冠でした。
ヘブル書2の9に「御使いよりもしばらくの間、低くされた方である
イエス・・は死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けに
なりました。」とある通りです。戴冠式を経、王とされた人とそれまで
民間の間で暮らしていたそれまでの彼とでは根本的な相違があるのです。
栄光とはその本質が現れ輝き出ることであり、敵は主イエスの栄光の
光について考えるだけでおびえてしまうに違いありません。

③また彼に対して総ての名に超越する御名が与えられました。その御名の
前では「総ての者が膝をかがめなけれならない」と神の言葉は言います。
この第三の天において彼に与えられた「イエスと言う名」はナザレに
おられた時のイエスと言う名と表面上では同じですが、その名の内容、
その力と重量においては全く違うのです。

私達は今、その名の権威を真に知り、更に日常総ての中でこの力ある御名
の中に留まる必要があるのです。それが「御名の中で」と言う意味です。
(よくあるように、祈りの最後に「これで私の祈りを終了します、次の人
どうぞ」などと言う意味でイエスの御名を用いるべきではありません。)


これらの天においてイエスに授与された3つのものは総て
1.「神が」神の絶対的な言葉によって絶対的な権威の下に授与された
ものでした。それは「絶対」なのです。なぜならそれは「神が」である
からです。この「神が」と言う言葉の意味は多分私達よりも、天使や
悪鬼達の方がより深く認識していることでしょう。「神を知り、神を
神とする」と言う単純に見えるテーマこそが最も深遠な課題であることは
論を待ちません。彼は神であり、あれは神の言葉であり、
これは神の権威なのです。

2.そしてそれらは、神によるオフィシャルで公式正式の授与でした。
それはあたかも、ある学者が隠れた研究室で素晴らしい学問上の業績
と言う事実を持つことと、それが皇居でその功績が公式に天下に
号令・布告される、のとの相違を意味しているのかも知れません。

そうです、神の一人子イエスが命を賭して成就された偉大なる功績
に基づき、神がその御子の達成を全宇宙に対し既に公式に号令・布告
されてしまったのです。ダニエルの王の場合の様に、神の意志に
基づいていったん公式にオフィシャルに宇宙に対して布告号令された神の
言葉は、その神といえども再びそれをくつがえすことは不可能でしょう。
しかり、たとえ天地が崩れ行くとも、神の言葉はその一点一画さえ
変更されることなど絶対にあり得ないのです。(にもかかわらず、今
神の国が隠されているこの時代において、この事実を今地上の誰が
真に見ることが出来るでしょうか。)

3.そして当然これら3つは総て、ナザレのイエスに授与されたある
「地位」を意味しています。その地位の特徴は「高貴」です。それは
高度において極めて高く、そして最高度に「貴」です。極めて強大な
パワーも貴に対しては平伏するのです。貴ほど高く権威と栄光あるもの
はありません。しかし人の言語の中に「この高貴」の高度とその
ロイヤリティの極致を的確に表現し得るものはありません。せいぜい
パウロのように「諸々の天(時空宇宙の最高点)よりも遥かに高い」
とでも表現するしか無いでしょう。

そして極めて重要なことは、総じて昇天のイエスは、神が神の敵の陣営に
対して大いに誇り、意識する存在であると言うことです。私達も今
この事実を神が見ておられるように見る必要があるのです。


私達は「以上の神の既成事実であるイエスの死と復活の勝利、そして昇天
における「何者も近づき触れ動かし得ない高貴な地位」の中に「今ある
現実の中の自分」を持って行き、重ね、一つにする、敢えて言うならば
「あのイエスを自分とする」必要があります。換言すれば、それは
信仰によって昇天のイエスと私を一つに結合させる、と言うことです。

しかし何故そのようなことが可能なのでしょう。何故なら、その事実は
神によって既に達成されているからです。従ってあなたのするべきことは、
ただ信じることにより黙ってその事実をいただくことでしかないのです。
それは私達が初めて永遠の命を賜られた時と原則においては
全く同様です。幸いなるかな、今はまだ恵みの時代です。

私たちの総ての今の「のぞみ」はその一点に凝縮されています。なぜなら
私達には「善きもの総て」を、唯「イエスキリストから引き出す」
以外に「方法、手段」と言うものは他にあり得ないからです。それこそが
実際的に「十字架・復活と昇天のイエスを信じる」と言うことです。

そのような意味で彼を信じることによって、それらの霊的な事実を
自分の生活の中に生かし出し、この「私の時空」の中にさえ、それらの
勝利と高貴な地位を再現し、神の敵を辱める生活を日々営むことこそ、
私達エクレシア、教会の使命に他なりません。

2008年11月14日金曜日

高山家のお父上、その後(2)

その緊急で深刻な医師の判断のもと、半分パニックの中で
清子さんは正直に主に次の様に祈ったのだそうです。
「主よ、御心に従います。でもわがままを言わせてもらえるならば、
もうしばらく地上で、父と一緒にいる時間を与えて下さい。
私はまだ父と一緒にいたいのです」と・・
今日のレポートはその続きです。

「もうしばらく父と一緒にいたいのです。」
何と主は今、この清子さんの願いに忠実に
応えておられるようです。

しかし、病状が安定した後、病院で行われた検査の
結果は無情にも相当深刻なものでした。
先ずそれは、前立腺にガンが発見されたことであり、
また心臓がかなり弱っていたことでした。
しかし最も危機的なことは腎臓機能の低下です。父上の腎臓は今、
正常な腎臓の10パーセントの機能しかないそうで、絶対に
透析が必要な程なのだそうです。しかし御高齢の為に父上の体は
最早、透析等に耐えられる状態ではありません。

遂に医師達は次のような結論を下したそうです。それは・・
父上のお体は最早、いわゆる「枯れつつある」状態であり、
余命は残念ながら、あと2カ月ほどでしょう。従ってこの上は 
お父様にとって一番幸せな状況の中で最期の時間を
過ごさせてあげて下さい、と。

一週間の散歩等の病院でのリハビリの後、正に今現在、お父様は
愛する娘の家、高山家で人生の「最期の」時間を過ごされて
おられるのです。

お父様は今、毎度の食事も、いつも「あり難いことだ」と言いながら
おいしく食べておられます。入院前と全く同じように、92歳の
このご老人は朝、目が覚められると、自分でちゃんとパジャマから
日常着に着替え、二階からしっかりと降りて来られます。そして
「ああ今日も生きている、感謝なことだ」と言われるのです。ある日
清子さんは「そうよ、お父さん、お父さんは神様に生かされている
のよ」と言われると、お父様は本当にしみじみと「そうだ、
そうだよねー」と言われたそうです。

そしてその後の日課の第一は天気さえよければ、清子さんと
散歩に行くことです。そのために朝起きてお父様が娘に最初に
する質問は「あなたの今日のスケジュールはどうなの?」なのだ
そうです。そして散歩をした上に、昨日などは娘の運転で何と
一時間半のドライヴにまで行かれたのだそうです。

清子さんが毎夜、万一の急変に備えて、お父様に添い寝をしつつ
つくずくと思うことは・・
「ああこの今の貴重な日々は、高山家にとって正に今でなければ
絶対にあり得なかったことだ、父のために今が丁度いい時期
であったのだ」と言うことだそうです。それは、
清子さんが御主人の会社の一員として忙しかった数ヶ月前であれば、
またあの御主人の入院等で大変な時期であったとするならば、
お父様との今の穏やかな日々など
到底不可能なことであった、と言うことです。

更に清子さんの言葉は続きます:
「余命二ヶ月と言う医師の判断を前にして今の父の様子を見る時、
こんなミスマッチは他にないと思うのです。今我が家にあるのは
安らぎと平和と感謝です。いかなる深刻さも憂いも全く無いのです。
父の人生の最期に、こんなふうに親孝行が出来るなんて
私は何と幸いな娘でしょう。

私は夫の時と同様、病院でも我が家でも、父を覆いに来られている
主を感じないではいられません。そしてキリスト者達にとって、死には
なんらのトゲも無いと信じます。これから必ず訪れるであろう
父にとっての本当の最後の時間に関しても、今私には何と「わくわく
するような、ある種の期待感」のようなものさえあると
言ったら不謹慎なのでしょうか。
主によって我が家の空っぽにされた器を今度は今、主は一つ一つ
こまごまと丁寧にそして丁度よく、祝福の油で満たしておられるのです。」

2008年11月12日水曜日

ダッチオーヴン効果

正直 驚いております。
ハイ、あのダッチオーヴン料理のウソのような効果です。
これを始めてまだ20日足らずなのに、
体調の著しい好転は明白なのです。

とにかく全体的に体感が実にスキッと爽やかです。換言すれば、
若さが相当部分戻って来たとでも言いいますか。(若い頃でも
私こんな爽やかさを感じていましたかねー、と思うほど)

先ずは夜、深くグッスリと眠れるんですよ。そして
年齢的に(と思っていた)すぐに疲れてしまう傾向が
とても少なくなったことも明らかです。
一つ具体的なことをあげて見ると、この時期になると例年 
足の裏のアカギレが酷くなるのですが、今年はそのキザシさえ
ありません。それから結構 年中悩ませられていた体全体の
皮膚のカユミ、これが何と殆ど無くなってしまったのです。

疲れやすさやカユミ等はどうせ加齢によるものだから、これは仕方が
無いのだろう「それにしても年を取ると言うのは辛いもんだなー」と
実は密かにあきらめていたのですが、どうもそうではないようです。
要するに私の山での「栄養失調」に原因があったのだろうと今
結論せざるを得ないと思っておるのです。

ましかし、ダッチオーヴン以来、私が皆さんと比べて、とても
素晴らしいものを食べるようになったのかと言うと、決して
そうではないのであって、今ようやく私も世間並みの食生活を
するようになった、と言った方がよいのかも知れませんね。


それではどう食生活が変わったのかと言うと、
それが実に単純なのです:
①塩分と糖分の激減
②野菜とイモ類を多量に摂るようになったこと、これだけです。
確かにこれ、皆さんから見ても大したことではないですよね。

そこでここに特筆しなければならないのは、ダッチオーヴンのお陰で、
芋と野菜だけでも満足感が十分得られるようになったと言う事
なのではないでしょうか。(確かに私は「幸福沸点」が著しく低い
人間であることは明らかですが)この料理法のせいで毎日毎度、
野菜と芋、そして少しの肉だけで十分おいしいし、またそれだけで
十分幸福になってしまう、ようになったのです。従って間食、即ち
甘いものなど殆ど必要がなくなったのです。(ついこの間まで、和菓子、
カリントウ等をやたらと食べていたと言うのに)

と言うことは、その満足感はまた、食べる量の減少にも
繋がったのです。これもやはり大きなことでしょう。
多少お腹周りもスッキリして来ているようですよ。

とにかく全体的に無理と言うものが無いのです。大げさかも
知れませんが、敢えて言うならばどうも、ダッチオーヴンのお陰で
「今生きていることの深い満足感があるようになった」とでも
言えそうなのです。食生活と人の精神の密接な繋がりと言うのは
どうも本当のようですね。

これ
「真の食べ物であるキリストを正しい方法で摂取するだけで、
人の総てが無理なく自然に調整される」と言うことの絵なのでしょうか。
そう、「無理なく自然に」はやはり総ての正しく美しいものを計る
とてもよいバロメーターなのかも知れませんね。

それにしても突然降ってわいたような今回のこの出来事、
私の実感を敢えて一言で表すとするならば、それは
「不思議だ」とでも言うしか他に方法がないのですが。

2008年11月11日火曜日

ダラスの「あかしやさん」から(2)

Mr. Sugarさん、
ご返答ありがとうございます。
「下界」と書かれると、まるで仙人のようですね!
自然の中に住みながらも、たまに「下界」に降りて行くなんて、
変化があっていいですねぇ。あやかりたいです。山小屋って憧れです。
さらに畑があったら最高。
日本だとアメリカほど遠くへ走らなくとも山、海がすぐそばに
ありますから本当にいいですね。

私なぞ 「たくましく」やっていかんと、あの双子たちと
やっていかれません。今日も怒鳴って、怒っておりました。
娘が先生の話が退屈だから、友達と話をしていて、先生の言ったこと、
質問を逃して、点数が悪い。点数はどうでもいいのですが、その態度が
私は気に食わんので。 
「退屈な先生はいくらでもこれからいる。なら、やることやってから
おしゃべりしろ!」とひどい説教を、
ワンタンを食べながらしておりましたです。

私のBlogは最近は、まじめ調になってしまいましたが、アイデアが
あるときは、結構くだけております。最近は、犬のばかちんもまともに
なりつつあって、なかなか話題がありませんが。

こんなのでよかったら、紹介でもしてください。
こんなアホでも、神さんは愛してくれているってことが分かってもらえたら。
そして、クリスチャン(というか、イエス営業部)てのは、何もこちこちの
凝り固まったまじめ人間だけではなく、欠点ばかりの人間でも
クリスチャンになれる、あなたもなれるのよ、と言いたいので。

ノンクリスチャンの人にどしどし紹介してください。
もともとのこのBlogの目的は、わかりやすく、たのしく、ばからしく、
ノンクリスチャンに伝えて行きたいってことから始めました。
よろしくお願いします。
尚、Mr. SugarさんのBlogもLinkさせて頂きたく存知ます。
いかがでしょうか?
あかしや


と言うわけで、あかしやさんのブログは
http://brotherjesus.blogspot.com/ です。

キリストの力が私の上に幕屋を張る

表題はⅡコリント12の9別訳です。
キリストの力が私の上に幕屋を張るための条件は
唯一私の「弱さ」です。しかしこの弱さは「私の生まれつきの
弱さ」ではありません。多く誤解されているように、そのような
自分の生まれつきの弱さや失敗をいくら誇ったとしてもキリストの
力が私を覆うことは決してないでしょう。

パウロが意味した弱さとは、私の生まれつきの強さが(そして
生まれつきの弱さでさえも)キリストの十字架の殺す力に触れられた
後に初めて生ずる弱さです。いわゆる私の弱さが、生のままその弱さの
中に留まることなく、更にキリストの殺す力によって「キリストの死」を
実際的に経過した後の弱さです。即ちそれはキリストの死の印を帯びた
弱さとでも言えるものでしょう。かようにキリストの十字架の殺す力は、
神にとって、キリスト者の日々の切実な必要であるのです。

それ故、私達は毎日、私の生来の力一切を「喜んで迎え入れようとする」
キリストの十字架の殺す力に向かい、その力を信頼し、尊重し、信じ、
「その殺す力の上に自分を重ねる」(黙って祭壇・即ち殺す十字架の上に
自分の身を横たえる)意志と祈りを必要とします。これが自分の
生まれながらの一切の力に対する十字架の適用です。

そしてそのような私達の日々の「十字架の力への信頼と適用」がある日
必ず自分の生来の強さや弱さが十字架の死のタッチに触れられ、
根本的に「神の前での自分の弱さ」を真に認識させられる所にさえ
私達を導いて行くのでしょう。

(とは言えその後も、私達は日々十字架の力を信頼しなければならない
のであり、聖霊御自身も私達が十字架に向かわざるを得ない、その時の
私にふさわしい環境を忠実に起こして下さるのです。ここに至りそれは
福音書にある「日々の私の十字架」とさえなるでしょう。)
以上が今朝、Ⅱコリント12章を読んで私が主から語られた言葉です。

「私の力は、弱さの内に完全に現れる」
「私が弱い時にこそ、私は強い。」
「私達生きている者は、イエスの為に絶えず死に渡されている。」
(Ⅱコリント4の11)

2008年11月10日月曜日

テントの手入れ

山に戻って少しボオーッとしております。下界の疲れですかね。
でも今日あたりから何かやらないと、と思っております。

ダッチオーヴンの方は順調ですよ。これを始めてから摂取塩分は
ホンと劇的に減ったので、先回少し高かった血圧が次回の測定で
どうなっているか、とても楽しみなのです。

何と言っても健康にとって大事なのは食事と運動です。本当を言って
その必要は私のような高齢者が一番なのでしょう。若い人は特に
意識しなくとも普通の生活をしていれば、若さでおおむねカバー出来る
からです。ですから若い人は、私の若い時のように、筋肉強化運動を
あまりシャカリキにやることなどない、と今の私は考えているのです。

山暮しをしていると必要な運動量など自然にしっかり取れる
のではないか、と誤解されがちですが、そんなことは決してありません。
やはり意識的な筋肉運動は必要なのです。そこで今始めて見ようかなと
思っているのが昨今脚光をあびているスロートレーニングです。
これだと、怠け者の私でもやれるかも知れません。スロートレーニング
これは私にとってどうも大きな朗報となりそうなのです。


最近特に思うのですが、キリスト者と言うのは基本的には「霊の存在」です。
ヨハネの福音に「その霊から生まれるものは霊である」とあります。
この後ろの方の霊と言うのは具体的に言うとキリスト者のことでしょう。
少なくともこの聖句は「キリスト者の本質」を表現していると思われます。
(にも関わらず、キリスト者は「霊」であるだけでなく更に
「霊的」になる必要があるのですが・・Ⅱコリント2章)

そして「本質的に霊であるキリスト者」は今この時代
「この世、この世界、時空」の中に遣わされているのだと思います。
(新約聖書に「遣わされる」は何と頻繁に出て来ることでしょう。)
そしてそれら「この世、この世界、この物質界」と直接に繋がっているのが
私の肉体と言うことになります。従って私は「この世に遣わされる」前に、
第一に先ず私の肉体の中に遣わされている、ことにならないでしょうか。

そのキリスト者の肉体を聖書では幕屋とも呼んでいます。従って
「霊であるキリスト者」は今しばしの間、この肉体と言う
幕屋の中に遣わされなければならないのです。
と言うことなので、自分の幕屋(今的には幕屋を「テント」と
言ってもいいのかも知れません。もしもそうであるならば私達は今
決して快適とは言えないテント生活の旅をしているわけです。)の
手入れや管理はとても大切であると言わなければなりません。
そうです、この時間・時空の中、つかの間のあいだの
私達の短い旅路を終える日までは。


「ことばは肉となって、私達の間にテントを張られた。」ヨハネ1の14
「私がこのテントを脱ぎ捨てるのがまじかに迫っている。」Ⅱペテロ1の14

2008年11月7日金曜日

ダラスの「あかしや番頭さん」から

Sugarさん、
こんな私のアホブログを読んでくれてありがとうございます。
そして、コメントありがとうございます。
福島県阿武隈山地、というのは、中学校の地理の授業で、白地図を
塗りつぶした、という記憶しかなく、また、福島県も実際に行った
ことがないのです。白河のある県ですよね。奥の細道の入り口ですよね。

山小屋、憧れますね~。日本の山は本当にきれいですから。ご招待まで
受けてしまって、うれしいです!うちの子供たち、本当に喜びます。
夫も、自然が大好きです。寝袋持って行きますね! 
山小屋ではタヌキとかイノシシを食べているのですか? 
なんて、きっとそばに村に一つの店があるのですよねぇ。

ここダラスは、都会の部類に入ってしまいますが、自然はまだ
まわりにあります。今、庭に家庭菜園を作っていて、今年は多少の
収穫があります。山小屋は庭には造れませんが、日本のひのきの
お風呂を庭に置きたいな、と夢みています。ヨシズを張って、竹でも
植えて・・・。いつ、できるのか??Sugarさんの山小屋のペースに
なりそうです。(笑)

貴Blogちょこっと読ませていただきました。 
第一印象は、sugarさんは「脳天気のイエス営業部員さん」です。
すべてイエス兄さんに任せてしまうと、なんともはや、平安というか、
「脳天気」の境地になりますよね。
Audio機器を買いなさいといわれて買ったら、あとからお金が入って来た、
という下り。うんうん!とうなずきながら読ませて頂きました。

また、楊姉妹の旦那様の大転回のこと。私も、うちの夫のことは、
神様に頼んでいます。日曜日には、使徒の18章を示されて、口で
言わないとだめなのかな、と思わされました。う~ん、です。

私のくびきは軽いとおっしゃるんだから、イエス兄さん、やってくれよー、
の心境なんですけど。まあ、やれっていわれるんで、やらなきゃ、
と思っています。
Sugarさんは、もしかして、もしかすると、牧師先生ですか?


あかしや番頭さんへ、
いえいえトンでもない、私はやたらに甘いだけの、
ただの初老のおじさんです。
実はついほんの先ほど5時間半車を走らせて「下界」から再びこの
山中に舞い戻って来た所です。この山中、今紅葉は13分咲きと言う
ところですかな。つまりもう葉っぱが結構落ちかけているのです。
でもこの時期の紅葉も悪くはないのです。特に小さなモミジが美しい。
今回の2週間の下界暮らし、新宿や品川あたりをうろうろして来ました。
時々は東京の風も悪くないですね。家族のいる実家は千葉県と茨城県の
県境の所にあって、皆さんあのあたりをチバラキ県と言います。

あかしや番頭さん、あなたのように遠い異国で(私などにはそう
思わざるを得ませんので・・)たくましくお母さんと奥さんをやって
おられるお姿を想像するだけでも実に爽やで私は何故か嬉しいのですよ。
と言うわけで日本の阿武隈山中からひそかに応援しているのです。
で、希望する人にはあなたの「ノビノビ生き生きブログ」を
紹介してもいいですよね。
それでは今日はこれぐらいにしておきます。
PS:
もしかしてイノシシやタヌキのダッチオーヴン料理も
悪くないかも知れない。

2008年11月4日火曜日

楊姉妹との交わりから(2)

既に亡くなられた御主人との若き日の生活の中で、彼女は多くの
辛く困難な経験をされたのだと言います。ですから
「もしもこの人が神を受け入れ、救われてさえくれたなら」と言う
彼女の思いはかなり深刻なものであったようです。そこで彼女は
夫が救われる為の総ての手段を駆使したのです。しかしながら事は
全くたやすくはありませんでした。日本の東京大学を卒業され
出世街道を突き進んでいた御主人は筋金入りの無神論者であった
からです。困難な日々は情け容赦なく続いて行きました。

しかし多くの努力にも関わらずある日、「どうにかして夫を
救いたい」と言う楊さんの万策は総て尽き果て、彼女は
主の前にくず折れたのです。その時に姉妹に語られた主の言葉は
次の様なものだったと言います。

「あなたは夫を自分のものだと思っている。しかし実は彼は
あなたのものなどではない。彼は私のものである。あなたは彼と
どんな関わりがあると言うのか。あなたは唯私に従って来なさい。
彼は私のものであり、彼に関する総ての責任を負うのは
私である」と。その時、楊さんは初めて夫に関する
総ての重荷を下ろすことが出来たのです。

間もなく、主は御主人の前に思いがけなくも、あり得ないような
環境を起こされ、遂に彼はそれを通してキリストを受け入れ、
完全に救われてしまったのです。