2009年1月15日木曜日

パソコンが治った

パソコンが不調になったのは10日くらい前でしょうか。
徐々に症状は悪化し、遂におととい?機能停止に至ったのです。
これは困った、あれやこれや考え、Kズ電気に行って見たら、
もう寿命だと思います、修理代は高いですよ、みたいなことまで言われ、
思いと感情が交差し、我が魂は散らかった部屋の様になってしまいました。
もうこれは買い替えは避けられないようだな、
ウーンそれにしても高い出費は困る、と悩みました。

その時「あ、この時だな」とフト気がついたのです。
そこで力を全部抜き「霊の中の聖霊よ、導いて下さい」と
心を主に向けることが出来たのです。
後は全部主に任せて直ちに昼寝。

そしたら何と昼寝のさい中に、ある電話があったのです。その結果、すぐに
「パソコン診療所」と言う修理屋さんに行くことになり、すぐに柏まで車を
飛ばしたのです。着くと修理屋のおじさん、何とかと言うディスクが無いと
難しいかな、と言ったので私「あ、それなら多分阿武隈の山にあるから」と
応えたところ、解決は次回山から降りる今から2、3週間後であろうと
言う結論にあい至ったのです。以上が昨日のこと。

そして今日のお昼ごろ何と、昨日のおじさんから、ニコニコ顔で
全部直りましたよ、と言う電話があったのです。おじさん
ビオス プログラムとかいうものを書き換えたのだそうで、
彼によると、こんなサービスはめったにありませんよ、と言うことでした。
出費は計2万円、パソコンは当分使えそうです。

2009年1月12日月曜日

キリスト者の道程と神の御心

キリスト者には明確な進むべき道があります。
それは大まかに言って
①御血による複数形の罪の清め(御血の認識)
②キリストの十字架によって「身体に関わる罪」に対して死ぬ経験に
入ること(ガラテヤ5章にあるような際立つ汚れた肉からの解放)
③魂に関わる「隠れた精神的な肉」の対処の為に自分の魂の命を死に
渡すべく日々自分の十字架を負うことです。

換言すれば②と③は
私の霊が「罪・この世」と「私」から解放され、唯聖霊にのみ
従うことが出来る段階です。それは即ち
私の魂は②「体の肉の奴隷状態」の中にいるのか、更に進んだ段階として
③私の霊は「魂の束縛」の中にいるのか、と言うことです。いずれの
場合にしろ、私の魂は速やかに私の体の肉の拘束から自由になる必要が
あるのであり、更に私の霊は私の魂の抑圧から解放される必要がある、
と言うことです。

そのようにしてもしも私が
②と③の段階をクリアしたとするならば、私の霊の中の聖霊の命は
私の「魂の機能」を支配下に置き、私の魂を経由して私の体から
この世にさえ流れ出て行くことでしょう。

これらは、イスラエルの民が出エジプトをし、「全く必要の無かった
荒野での長年のさまよい」を経て、ヨルダン川を渡ったことによって
象徴されるでしょう。当然、彼らの真の目的、イスラエルの民が
速やかに到達するべき場所はカナンのよき地でした。


このことをパウロはⅠコリントの2章で、肉的なキリスト者→霊的な
キリスト者の描写によって描いているようです。
(しかし実際には①肉的なキリスト者→②魂的なキリスト者→③霊的と
魂的が混ざったキリスト者→④霊的なキリスト者と言う段階がある
ことをも暗示しているかも知れません。)

Ⅰコリントで示されているもう一つのことは
①のキリスト者が④に至る時間は長くても数年を超えてはならない、
と言うことではないでしょうか。即ちコリントの信者が「真理を語る
ことば」の能力や「霊的な知識」に卓越していること、いろいろな
「神の賜に欠けることが無かった」(1の5、7)にもかかわらずに 
未だに①の肉的な状態(赤ちゃん状態)に留まっていることに
あきれ果てているパウロがこの書に明示されているのです。(汚れた
罪の横行するコリントに住む彼らは、その影響から脱することが出来ず、
またキリストと真理に対して根本的な誤解があったと思われます。)


先ずキリスト者は、自分は一体どの段階にいるのかを真に神によって
示していただく必要があるのであり、自分勝手にスキップすることなく、
順を追って確実に前進する必要がある筈です。

そのようにして、キリスト者が速やかに到達するべき段階は④です。
なぜならこの段階に至って初めてキリスト者は神の為に、神の敵と戦う
ことが可能となるからです。(赤ちゃんや幼子は戦えない)
霊的なキリスト者とは毎日、歓喜に溢れてばかりいるキリスト者
などでは決してなく、神の目的の為に見えざる神の敵・悪霊と格闘する
人々であるようです(エペソ6章)。それはカナンの良き地に入った神の
民の生活を見ると容易に分かります。彼らの生活は荒野での敵に勝る
更に多くの敵達との激しい戦いの日々でした。

しかし良き地(霊の中)における霊的なキリスト者の激しい戦いの
目的は更にその向こうにあったのです。そこにこそ、
この時代における究極的な神の目的、神の御心が存在するのです。


私のパソコンがとても不調です。今日は調子がいいので慌てて
これを書いています。しかしいつまた動かなくなるか分かりません。

2009年1月5日月曜日

K兄弟と「でもクリさん」へ

K兄弟:
今日、Aさんとの交わりの中で、Organic Churchという話題が出ました。
Organicとは有機栽培のことで、今までの牧師 ワンマンショー型の教会
ではなく、一粒の種の中に必要なすべての 栄養分が入っていて、それを
ポンと蒔くと自然に芽が出て育ってい くという考えに基づいた教会
のことを言うのだそうです。いまアメリカだけでなく世界各地で
そのような動きが出てきており、僕自身も主がこのことをなされて
いるのだなと感じさせられています。

Sugar:
オーガニックにはまた「有機的な」と言う意味もあって、
生命的結合を連想させられますよね。確かに聖書で言うエクレシアとは
そういうものでしょう。ある一定の時間と場所を区切ってショウを催す
と言うのではなく、24時間の日常の中で自分と隣人の命を育てる、
そんな中にこそ「教会」の実際がなければなりません。
しかしその「世界各地の動き」の実態はどんなものなのでしょうか。
情報があったらお知らせください。


でもクリさん、ホンとに有難う。
何だかほんわりと心が暖められたのです。

私はとても元気です。
それどころか、今前途を見据える時、そこにある確かな希望に
とてもワクワクしている、とさえ言えると思います。

ただこの様な形でこれまでとても気楽に意見を発表して来た自分を
今一度主に問い直している、と言っていいのかも知れません。

そのワクワクと「主に対するある畏れ」の内容を話し出すならば、
時間がいくらあっても足らないことでしょう。しかしいずれにしろ、これは
「よいこと」それも相当によいことです。あまりよいことなので
今はどうしても書けない、と言った所でしょうか。
一度お会いしてゆっくりお話が出来るといいと思います。