2008年3月18日火曜日

2つの対応策(3)

*「神が要求し、神が行う」と言う原則*
人が聖書に触れるとき、一般的にはそこからどのような神を
感じるのでしょうか。それは多分「神とは人に対する要求の神であり、
それに人が応じられない場合、それに刑罰を与える神」
と言うような神ではないでしょうか。

しかし、もちろんこれは誤解です。
神は確かに要求される神です。しかしそれに応え、それを実行するのは
やはり神なのです。「神が要求し、人が行う」ではなく、
「神が要求し、神が行う」のです。

それでは、先回扱った「死を支配する」等を私達はどの様に見るべき
なのでしょうか。確かに神は私達に「死を支配する」ように語られ、
要求されます。しかし真に「死を支配する」のは神です。「神が要求し、
神が行う」のです。私達が死を支配するのではありませんし 出来る
はずもないのです。どうして罪の中に生まれた私達が死に打ち勝つこと
など出来ましょう。それは復活の神による「神業」にして初めて可能
なのです。「総ては神が行う」のです。
私達は決してこの素晴らしい原則から離れてはなりません。

それでは何故神は 先ずあなたに要求されるのでしょうか。
何故なら神は「あなたと言う人間において」死を支配すること
を願われるからです。神が単独で死を支配するのはあまりにも 
たやすいのです。だから神は「死に支配された人」において神が
死を支配したいのです。
従って、神の要求は先ずはあなたに向けられなければならないのです。
しかし実際に事を行い、力を出すのは完全に神です。「神が要求し、
あなたにおいて神が100%行う」これは極めて重要な原則です。


以上が今回 私の言いたいことの総てです。
それではこれから、余談として「神が要求し、あなたにおいて
100%神が行う」のホンの一例を挙げて見たいと思います。
私達は人間ですから、人間生活をします。ですから、死はその人間生活の
只中から私達に対して表れ、私達を脅迫し、神から離れさせようとします。

私の知人に精神病の息子を抱える父親がいます。
10年来の病歴の後ようやく息子は医者から「寛解」(治癒ではないが、
一時的に 或いは永続的に軽減、または消失すること)のお墨付きを
頂いてようやく退院したのです。やれやれと安堵していた矢先の旅先で、
彼は妻から突然「息子がおかしい。すぐ戻るように」
との連絡を受けたのです。

さて皆さん、ここでもうその父親は注意深くあらねばなりません。
なぜなら この妻の連絡の中に既に彼を死へと閉じ込めてしまう
圧倒的な敵の殺す力が含まれているかも知れないからです。
それは多分「敵から送られた小包」だったのでしょう。
このように「小包」は殆どの場合 予期せぬ方法で
突如としてあなたのもとにも届けられるのです。

しかしながら 神はこの父親に要求します。
「あなたはこの死を支配しなければならない」と。
さて皆さん、ここでこの父親はどうするべきでしょうか。
あわてる必要はありません、彼は2つの手続きを的確に行えばよいのです。

1.先ずこれは この父親に向けられた状況であり また神の要求です。
ですからこの父親はこの要求を 完全に我が物として受け止めなければ
なりません。なぜなら彼はこの息子の父親であるからです。
人は人としていつでも淡々と自分のなすべきことをなす必要があるのです。
それにしても今回は少し特別です。今回彼はキャッチャーがピッチャーの
投げる剛速球に対して構えるように、今回の状況に対して更にしっかり
真っ向から立ち向かうべきです。その角度は正確に真正面で
なければなりません。ハスに構えて見たり、特に大切なこととして
絶対に少しの逃げの気持ちも持ってはならないのです。

そこで この父親は何と「息子自身とその周辺の状況総て」を
一枚の着物のようにその身に着たのです!息子そのものを着たのですから
彼はまるで息子の中に閉じ込められてしまったようなものです。
もうその父親はどこにも逃げられません。彼は全く自由を失いました。
要するに彼はしっかりと「死ぬ覚悟を決めた」のです。
換言すれば、父親は既にこの段階で 自分とこの総ての状況をキリストの死
と言う「型枠」の中に置いたのです。即ち、敵から送られたのであろう
この死の状況を 敵の手の下に隠れて存在する神の偉大な手から
頂き キリストと共にわざと不自由の究極、死の閉じ込めの只中に
自分を置いたと言うことです。これが「包括的なキリストの死」の適用です。
ここまでが彼にとって絶対に欠かすことの出来ない1の段階でした。

2.更に彼にはもう少しするべきことがあります。それは直ちに次の
段階を踏むことです。それは:
今度は積極的に「息子とその関連の状況と言う重い着物に 自分を
プラスした更に重い大きな着物」をしつらえ、それをそっくり
「キリストに着て頂く」と言うことだったのです。つまり父親は息子を
おんぶしたわけですが、今度は「その息子をおんぶしている自分の総て」を、
「息子と息子の状況、そしてそれらを総て抱える自分」をキリストに全部
おんぶしてもらう、と言うことだったのです。
父親はそれもクリアし、これで目出度く彼の重荷は総てキリストの肩に
かかることになったのです。父親はこの時既に不思議な安らぎを覚え、
一人小さな声で「ハレルヤ!」と言ったと言います。

今回 以上のわずか2つの事がこの父親の行ったことの総てでした。
私の想像では この段階に至って、即ち父親に降りかかった総てあらゆる
死の状況をキリストに明け渡した段階で、初めてキリストは、その十字架の
死の力とそしてその死を打ち破った復活の力とを100パーセント
発揮することが出来たのだ、と思います。

彼によると妻から次のような連絡があったとのことです:
翌日 「状況が変わったので 一寸待機していて下さい。」
2日後「今回あなたは来なくてもよいようです。」


死は切り離す力です。人がそれをサタンの手から受ける時、
つまり暗い自分の穴の中に逃げ込み 事を成り行きに任せるだけか、
クヨクヨあれやこれやと思い巡らし、唯 ぼうぜんとその状況を嘆き
しかも責任を他人に転化するばかりの時、簡単に言えば信仰を有効に機能
させようとしない時 死はひたすら人を神から切り離す作用をするのです。
そのようにして人はサタンの死の害を受け、命なる神から
切り離されるのです。これこそ正に敵のねらい目です。

しかし、人がその死の状況を一旦 真正面から受け止めた後、
即ち「死と見える状況の総て」を神の手から頂いた後、
直ちに今度は それをそっくり神の手にお返しするのです。
つまり信仰によって 総ての重荷をそっくりキリストに着て頂くのです。
そうするならばそれはキリストの復活の命が現わされるチャンスとなり、
復活の命が死を支配するのをあなたは目の当たりにする事さえ
出来るのです。このようにして死の状況がむしろ逆に、
人をサタンから切り離し、人をして死を支配させると言う
素晴らしい結果を生むのです。

かように死の力は 双方(神とサタン)において大きいのです。
私達人は常に その双方の中間に立っていると言えるでしょう。
私達は日常どんな時にも 私達のもとに突然送られて来る死の状況を
ただ神の偉大な手からのみ頂く備えをしなければなりません。
これこそ「神が要求され、神が総てをなさる」ための、私達の道です。


☆  
下の写真は小屋の西側に広がる眺望。左手の奥の高い山を 勝手に
「マイマウンテン」と命名しました。この小屋が登山道入り口です。
この山、 小屋から意外に近く、3時間もあれば往復出来ます。
何とこの15年間、この山で一度も人間に遭遇したことがないのです。
このあたり もしかして人の数はイノシシよりも少ないのかも知れません。

5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

内容を感銘をもって読み返しています。

>父親はこの要求を 完全に我が物として受け止めなければなりません。人は人としていつでも淡々と自分のなすべきことをなす必要があるのです。

この部分が特に心にせまりました。そして、この部分でで躓いてしまうことが多いように思います。問題を真正面から受け止めることができず、なすべきこともなそうともしないのです。

キリストの十字架の横の罪人を思い出します。一人は、自分のことは棚に上げて、さらにキリストをあざけりました。しかし、もう一人の人は「俺たちは自分のしたことの当然の報いを受けている」と、真正面から受け止めました。そして「しかし、この人は何もわるいことはしていない。、、、」

Mr.Sugar さんのコメント...

おっしゃる通りだと思います。
私達は多くの場合「セカンドステップの前に先ずしっかりと踏むべき 
このファーストステップ」をおろそかにしてしまう様です。あなたのコメントを通しても今私自身 主によって改めてそのことを 
語られたように感じました。

2人の強盗の例は適切です。
一人は真正面から「その事態と自分」を
イエスに向けたので 彼はその時主と共に
十字架に付けられたのです。
だから彼を迎えるのは今日のパラダイスと
明日の復活なのです。

「日々自分の十字架を負う」とは 
このことなのかも知れません。
もしもそうであるならば 自分の十字架を
負うチャンスは 私達の些細とも見える
日常生活に日々何度も存在する
ことになるでしょう。

様々な状況の中で主と共に、
その制限と不自由の中に、即ち死の中に
敢えて自分を置くのです。
ああ、主よこのことを真に学ばせて下さい。

匿名 さんのコメント...

クリスチャンよりも誠実に人としてファーストステップを踏もうとしている人を感じます。そして、ファーストステップをスキップして、ただ祝福や赦しだけを求めるクリスチャンがいるように感じます。

一人の人との交わりを思い出しています。
その人は、自分の過去の過ちについて語ってくれました。そして、自分こそ、地獄に行くべきだ、十字架につけられるべきだと、語っていました。そして、自分が十字架につけられるはずなのに、キリストがかわりに十字架についてくれるなんて、うまい話に聞こえるが、それでもやっぱり自分には受け入れられない。やはり自分が十字架にかかるべきだと思う、と語りました。

そのとき私は適切に十字架のことを伝えることができていなかったと、今、振り返って思います。

ただ自分のかわりにキリストが十字架についてくれたということではなく、
本当に自分が十字架につけられるべき存在なのだということを真正面から味わい、その後、その私を背負って、キリストが十字架についてくれたのだ、ということを、伝えていなかった、と。

神様がもう一度、チャンスをくだされば、今度は、そのことを伝えたいと思います。

Mr.Sugar さんのコメント...

ルカ18の13「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いて言った。神様。こんな罪人の私を憐れんで下さい。」を思い起こさせます。

私達が慣れ親しんでいる「救われる方法」
でない方法で救われている人は 実はかなり多いのかも知れません。神は人の心のひだの
その奥までもご存知です。

「目を天に向けようともせず」とあります。
この取税人は自分など救われるはずがない、と思っていたのかも知れません。

匿名 さんのコメント...

アーメンです。お返事をありがとうございます。「救われる」ということが、単なる教理と、その同意、といった浅はかなものではなく、主と、その人、一人一人との、まさに人の目には隠された神秘のように感じました。

まず、もう一度、自分自身が、十字架と復活の奥義に進ませていただきたいと、強く願わされました。