2008年3月16日日曜日

2つの対応策(2)

*支配すると支配される*
支配と被支配は創世記から黙示録に至る聖書の首尾一貫した
大きな流れです。その点に神の並々ならぬ心が込められている
事は極めて明白です。
そしてとても驚くべきことに神は、神ご自身が直接支配する
のではなく、人を通して万物を支配なさりたいのです。
今現在 それは一人の人において既に達成されております。
その一人の人とは 他ならぬ主イエスキリストです。既に
「神は万物をイエスの足の下に従わせられた」のです。
(ヘブル2の8)

しかし神はそれに留まらず この一人の人の万物支配を 
キリストに属する総ての人に至らせようとしておられるのです。
もしもこれが達成されなければ神の心が
真に満足させられることはあり得ません。
今の時代があり 次に「彼らはキリストと共に千年の間 
支配する」時代があり、遂には「彼らは永遠に支配する」
時代に至ります。(黙20の6、22の5)
私達は必ずある日 キリストと共に万物を支配するでしょう。


しかしここに一つの厳粛な事実があります。
それは 神の言葉が「あなたは次の千年の時代の支配と言う
大きな特権と喜びを獲得そこなうことが無いように」と
再三に渡り切実に呼びかけていると言う事です。

その大きな喜びの中の支配と言う「御褒美」を得るか得ないか、
その成否はひたすら 今現在のこの恵みの時代における
私の状態にかかっております。

それでは どうであればミスしないのでしょうか。それは今私が
この私の肉体の中にある時間の中、この万物を支配すると言う
学びにおいて 私が上昇する確実な路線にいると言うことです。
換言すれば現在 私が日々万物を支配すると言う学課を着実に
学んでいるかどうか、と言うことです。
即ち私において 昨日の支配よりも今日の支配の方が
勝っていなければならないのです。
もしそうであるならば、即ちこの上昇線に乗っているならば、
次の時代においても 自然に私は支配するでしょう。

そうでなく今逆に私が日々 様々な事物に支配されており、
来る年も来る年もなんらの成長も見られないのに、ある日 
目が覚めたら 唐突に私が支配することになっていた、
等と言うことがあり得るでしょうか。
これはよくある「死ねば総てはうまく行く。死ねばもしかして人は
仏か神になるのかも知れない」と言った人の希望的宗教意識と
合い通ずるものなのでしょう。

そのような観念は命の原則、命の自然な成長と言う原則に反します。
神は命なる神であり義なる神です。「王として支配する命」の成長は
絶対的に 既に今日始まっていなければならないのです。
蒔かれた良い種は寝起きしている間に健やかに成長して行くはずです。
(私達は今自分の中にある様々な石やヤブに気づかなければ
ならないのです。)


万物とは「総ての物そしてあらゆる事象」であり、それには当然
昨日述べた 総ての具体的現実的な「死の現れ」一点一点も
含まれます。次の時代でなく幸いにも今日 私が死に支配されて
「暗闇で歯噛み」出来るのは 明日 私が逆にそれらの死の現れを
支配するようになるためです。

とても有難いことに この学課の材料は
(1)で述べた様に 私達のとても身近にあるのです。
その学課の材料とは 一つ一つの今あなたをまだ
支配している「死の現れ」そのものです。
もしもいつになっても 自分の中の「死の小さな表れ」さえも
支配出来ないとするならば、次の時代 私が町々を支配する
ことなど到底出来るはずがありません。

この際 最も必要とされるのは あなたが「内側に頂いた命
にあって万物を支配するに至りたい」と言う切実な願いです。
ですから私は「悠然とあらゆる死を支配したい」と言う真剣な願い
のもと 真実に神の門を叩くべきです。
もしそうであるならば 聖霊は確実にあなたに適切な環境を送り 
啓示を与え、実際の経験に導かれるでしょう。
それは 単なる頭脳の知識によって安易に与えられるほど
安価なものではないことは明らかです。


「もし一人の人の違反によって死が支配するようになった
とすれば、なおさらのこと・・一人の人イエス・キリストにより、
命の中で支配するのです。」(ローマ5の17)

ローマ書を執筆する際パウロの中には、もしかして
間もなく襲い来るであろうキリスト者に対する大迫害をも
予知する中、ローマのキリスト者が「命の中でネロの迫害をも
支配するように」との願いさえあったのかも知れません。
しかし同時にそれは今日 神があなたの将来を予知する中
あなたにあてた心からのメッセージでもあるのです。

0 件のコメント: