実のところ 人は「死の中で生まれた」のです。そしてその誕生に
引き続き 罪が死によって私達を支配し続けております。
キリスト者であったとしも 神に対して善を行うことについては
私達は「腐乱死体」、死の体に過ぎません。
以上が私達の真の有様です。
ですから 私達の生まれながらの命の源泉から容赦なく
絶えず湧き上がって来るのは「苦い死の水」に他ならないのです。
具体的に言うと 死は次のような感覚としてしばしば私達を訪れます:
腐敗感覚、敗北感覚、失敗、責められる感覚、自責の感覚、赦されない
罪を持っていると言う感覚、恐怖感、苛立ち、深い闇の悪夢感覚、
深い孤独感、得体の知れない不安感、「放浪と飛行」(勝手にどこにでも
飛んで行く思い)、粗暴感覚、投げやり感覚、怠惰 無能 無力感覚、
疲労感、その必要がないのにやたらに急がせられる感覚、焦燥感、
過剰なこだわり、異常な執着心・・エトセトラ、エトセトラ。
例えば腐敗感覚:それは さっきまでは何とか立っていた筈の私の
存在の中心に何故か腐敗が発生し、自分を自分が制御できなくなり、
自分と言うものが崩れ落ちて行くような奥深い感覚です。
そして厄介なことに これらの感覚は私の内部から出て来るだけでなく
私の外部 この世界のあらゆる事象(必ずしも悪しき事物とは限らない)
との接触を通しても訪れます。それらの接触から外部の死が
私に触れ注入されると 私の内部の死が現れて来て
その外部からの死を喜んで迎えるので、
上記の様な様々な感覚は更に増幅されるのです。
その上 このような今現在の事物との接触からだけでなく、
それは遠い過去からもやって来ます。
突然 過去のある場面がアリアリと私の眼前に映し出されると
私はよせばいいのに ついそのシーンを凝視してしまう。
その結果その画面にしっかり捕らえられ 引きずり込まれ
私はその映像の中の嫌な主人公となり、議論が始まり あーでもない、
こーでもないと思いは全力であちこち駆けまわり、そして傷つき 悲しみ
人を疑ぐり 怒り 暗くされるのです。
他に 死の感覚は過去の出来事からのみならず 何の根拠もない
例えば他人への私の勝手な類推や想像からさえ起こり得るのです。
この様な 私が私でないような私の真の姿、
それは一体どこから来るのでしょう。
それは述べたように私達の内部で「生きて働く」死から来るのです。
実を言えば このような感覚は一日と言わず 一時間の間でさえ
何度私を訪れるか分からない位なのではないでしょうか。
*
私達はこれに対して明確な対抗策を必要とします。
そしてキリスト者は既にそれを所有しているのです。
それではその対応策とは何でしょう。
それは二つあり、一つは「キリストの死」による対抗策であり、
もう一つは「キリストの命」による対抗策です。
私達はキリストから頂いたこの二つの武器:死と命の武器
についての真の知識を得るべきであり それらを有効に用いる方法を
日常生活の中でしっかりと訓練し、遂には
それらの死を瞬時瞬時 私達の足の下にしなければなりません。
3 件のコメント:
そのための真の知識の有効な用い方について
シュガーさんの経験談などからも、ぜひお聞きしたいです。たぶん多くの主にある方々の悩みの壁ではないでしょうか。
隣村から有難う。
なかなか本論に至りません。
一寸 風呂敷の広げ過ぎかな、とも。
言われるように 体験的な証くらいの
感じにする方がいいでしょう。
雪もとけました。またお二人で
ぶらっと、
はいかが?
はい、ありがとうございます。
主人の出張などと重ならない日に、山の芽吹
きがまぶしい頃・・・となり村から、是非ま
た、ふら~と寄らせていただきます。
コメントを投稿