現代人の宇宙観には中心がありません。
ある科学者達は「確率的に言うと一つ銀河宇宙にさえ高度な
文明を持つ数多くの星が存在する」等と言っているようです。
確かにそこには一片のロマンを感じさせてくれるものはあります。
それにしても私達はそこからどんな確かな「真理や事実」を
引き出せるのでしょうか。
無限とも見える空間とその果てに様々な天体が何処までも存在している
としても、その広がりにどんな「意味」があるのか、何がそれを支えて
いるのかは皆目分からない、と言うことだけは確実に言えそうです。
要するにその宇宙には中心が無いのです。
外の宇宙だけではない、自分の内面と言う宇宙にさえ
中心が無いのです。人は自分の奥底に一体何があるのか
全く知るよしもないのです。そこには中心も周辺もありません。
ただ あるからある、それだけなのです。
どうでも良い無数の項目については非常に詳しく知っているとしても
「肝心要」なことについては、真に知らなければならない事については
突き詰めて行けば行くほど
結論的には「何も分からない」と言う事です。
しかし聖書には中心があります。
宇宙にはキリストと言う一点があるのです。
しかも更に聖書は 時空とその中の万物は
キリストと言う一点の中で創造された、とさえ断言するのです。
だからもしもあなたががキリストを持つならば、
あなたは総てを持つことになるのです!
キリストとは何と「とてつもないお方」なのでしょう。
その一点は 方や宇宙よりも大きく、方や私よりも小さいのです。
*
さて話しは突然変わりますが、
7日にあのルーク氏がこの山奥の小屋に来られます。
(彼が来て3日間どうなることやら 今誰も何も分からないのですが。)
じゃあ、横浜の集会はどうなるの、と私達は思うでしょう。
しかし、このとても困った事態が逆に不思議なチャンスとなるのです。
何故ならばその不安定さの中にあって あなたの心は一点キリストに向かう
からです。そして そこに存在する「不安定と言う圧迫」の只中にこそ
キリストと共に「あなたを死に至らせるもの」が潜んでいるからです。
あなたはそこで「人知れず密かに」死ぬべきです!
そこでもしもあなたが真にその死を神の手から受け取るならば あなたは
必ずや「キリストと共なる復活」を経験することになります。
そのようにして
あなたは初めてキリスト者の集まりの中に生けるキリストを
もたらすことが出来るのです。実の所 これのみが「集会の方法」
なのであり、他の方法はありません。
従って またそのようにして私達を通して現れた復活のキリストのみが
「教会の実質」なのであり、それ以外の一切はいかなるものも教会を
構成することはあり得ません。教会とは一体どこで見い出だすことが
出来るものなのでしょうか。それは絶対的にただ
「十字架の向こう側で」なのです。
*
人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。
即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を
高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能が働いているのです。
その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。
(私は真の礼拝を否定するものではありません。私は時々山中の林の中に
跪き、両手を天に差し伸べ神を礼拝します。しかし、もし私の「礼拝」が
単にスタイルだけであるならば 福音書が告げるように
悪鬼達でさえも真剣にそして正確にイエスを「拝み」
「アビスに行けとは命じないで下さい、私達を滅ぼさないで下さい」と
イエスに熱心に懇願した事実を知るべきです。)
これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。
そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う人の奥底に居座る根深い
願望なのです。それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。
*
教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。
「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22)
4 件のコメント:
アーメンです。人の子イエスという,この一点こそが,世界を裏返す「へそ」のようなもの。
何もかもを対象化し,相対化した挙げ句,自分の脳みそが物質にすぎず,そうした思考や認識も現象にすぎないという虚しさに耐えられるほど,人間は馬鹿には造られていないわけです。
「中心のない宇宙」に人はいつまでも漂っていられません。だからと言って宗教という手軽なプラットホームが出来ることを,私たちは注意深く避けなければなりません。
すばらしい真理のお分かちをありがとうございます。山小屋では,すばらしい交わりがあることでしょう。同じ御霊が私の中でも喜んでいます。
有難うございます。強い励ましを
感じました。
奇しくも、昨晩「今主は各地の聖徒達を
同じ御霊によって繋ぎ始めておられる
のだろう」と言うような交わりが
なされました。イモクボ氏も交え
初めて顔と顔を会わせたと言うのに、
直ちに家族です。
これこそエクレシアですね。
今日は「交わり→村のお風呂→交わり→
皆でダッチオーブンで夕食を作る→夕食→
交わり」となるでしょう。
皆で 主と一緒に食べるのは楽しい!
Sugarさん
素敵な時間を感謝しております(職場からです)。
山での時間の流れと下界での時間の流れ、明らかに違いますね。ただいま、脳と体をいつものペースにアジャスト中です。本当に不思議で濃密な時間でした。余韻に浸っております。
ぼちぼちと、そちらでの経験や出来事をブログに書いていこうと思います。
益々、山でセルフビルドする夢に具体性が出てきました。カリマンの杜の空気、すばらしかったです。マイマウンテンのお水で飲むお茶やコーヒー、美味しかったです。また、お邪魔したいです。
Thank you Jesus.
In His Strong Love.
Koji
夕べゆっくり寝て、今一人 落ち着いて
カリマンに落ちる静かな春の雨を
聞いています。
一寸不思議、もうあのKojiさんが今三重の職場に。
三人の若者が嬉しそうにアイスクリーム
を分けあって食べる等々
「真の」家族、その団欒シーンの
一こま、一こま。
パウロも言っています:
「あなたがたも、私達に会うことを熱望
しながら、いつも私達についての
良き思い出を抱いている。」
1テサロニケ3の6(岩波)
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