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「今の時代においては」神は御自分の権利を
人にごり押しされることはありません。それは他でもない、
神が人に与えた「自由意志」の故です。
しかしながら、
もし人が、その神の愛と正しさに自ら気づき、
「私は御子の尊い御血をもって買われたのだから、
私の総ては神の手に委ねるのは当然です」と
主イエスの愛に迫られつつ、
喜んで、自分の総てを神に献げるのであるならば、
神はその人を、真に御自分の手の中の器として
取り扱い始められるのです。
上記の場合、とても素晴らしいのは、
その人は「自分に与えられた自由意志」を正しく用い、
冷静に自分の意志で、神の意志を選び取ったことです。
何故ならそれこそが、神とサタンの前において人がなすべき
最も重要な事であるとさえ言えるからです。
環境と感覚に打ち克ち、自分の意志で自ら、神の意志を
冷静に選び取ること、それこそが
信仰の本質であり、人の役割、使命です。
*
何とあの病の苦しみの中、ある日ある時、
正に登兄弟はそれをされたと言うのです。
先ず彼は、妻である姉妹から
「献身に関する神の意志」について聞きました。
その時、彼はどうしたのでしょう。
彼は、彼のひどい環境や感覚を ひとまずかたわらに置き、
「その神の言葉・真理」を見つめました。
そして直ちに(これが大切)
「私の体を主に献げます」と口の言葉を用いて、
即ち信仰を機能させることによって、
その真理そのもの(それは主御自身・命の木の実)を
彼の中に取り入れたのです、言い換えれば、信仰によって
真理、神の意志を兄弟自身へと結合させたのです。
(信仰の最も深い意味は「結合」です。信仰には
その様な驚くべき働きがあるのです。)
更にその時兄弟は、間髪をいれずに、
彼にささやきかける「神の意志と矛盾する様々な感覚的邪念」を
断固拒絶したことにもなるのです。
*
さて今
その時の登兄弟の態度と創世記3章のエバの態度
とを比較して見て下さい。
人はもしヘビ(だます者の意)との
会話に引き込まれたら、ただそれだけで必ず負けます。
その会話のきっかけは「本当に・・?」と言う敵の質問でした。
ヘビがもしその問いかけによって人を釣り上げることが出来る
ならば、あとはやすやすと「理屈と感覚の世界」に人を
連れ込むことが出来ます。理屈と感覚の世界において、
人が「だます者」に勝つのは殆ど不可能です。
しかし、
柄沢兄弟はそうではありませんでした。
その時の「兄弟の態度」は同時に
「彼の霊の姿」でもあったのです。
その肉体の極限的弱さにもかかわらず、
彼の霊は大そう強かったと言えましょう。
どうしてその様なことがあり得たのでしょう。
主に感謝、賛美をささげます、
それは正にあの助け主、聖霊の働きでも
あったからです。
*
「あなた方の手足を、不義の器として罪にささげては
いけません。むしろ、死者の中から生かされた者として
あなた方自身とその手足を、義の器として神に献げなさい。」
(ローマ6の13)
3 件のコメント:
主は、主に捧げられた聖徒たちを本気で受け取り、責任を持って取り扱ってくださいますね。
その過程で私たちは何が何だかわからない状況にまで至りますが、主の支えが常にあり、そして主は目的を果たされる。
主の促しに対する私達の"Yes"が、主への合図。私たちは応えるだけ。あとは主がしてくださいます。主ご自身が、その御心をご自身の力でご自身の時に成してくださる。それが兄弟姉妹において成るのを見せられることは、本当に大きな励ましです。
主は真実。主をたたえます。
死を射程に入れた生。
最近、自分の地上の終わりの日をしばしば考えております。
馬場に集まっていた頃に提示されたひとつのテーマでしたね。いかに死ぬか。
しかしこの幕屋を脱ぐ経験とはいかなるものであるのか。理屈では主の懐への、まさにDepartureなのですが・・・。
("Departure"はアカデミー賞を受賞した邦画の英語タイトルです。実に味のあるいい映画でした。)
生と死の間。何とも不思議な、現経綸では不可知の領域です。
登兄弟のことは
私にとって一つの事件でした。
今私は
死はとてもいいものではないか、
と感じております。
死がなければ、私達が
主を真実に求めることは恐らく
ないでしょう。
私はもうすぐ70歳、
その瞬間が今、刻一刻と
近づいていることは
避け得ない事実です。
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