2009年6月1日月曜日

柄沢登兄弟の信仰

・・・
「今の時代においては」神は御自分の権利を
人にごり押しされることはありません。それは他でもない、
神が人に与えた「自由意志」の故です。

しかしながら、
もし人が、その神の愛と正しさに自ら気づき、  
「私は御子の尊い御血をもって買われたのだから、
私の総ては神の手に委ねるのは当然です」と
主イエスの愛に迫られつつ、
喜んで、自分の総てを神に献げるのであるならば、
神はその人を、真に御自分の手の中の器として
取り扱い始められるのです。

上記の場合、とても素晴らしいのは、
その人は「自分に与えられた自由意志」を正しく用い、
冷静に自分の意志で、神の意志を選び取ったことです。
何故ならそれこそが、神とサタンの前において人がなすべき
最も重要な事であるとさえ言えるからです。

環境と感覚に打ち克ち、自分の意志で自ら、神の意志を
冷静に選び取ること、それこそが
信仰の本質であり、人の役割、使命です。


何とあの病の苦しみの中、ある日ある時、
正に登兄弟はそれをされたと言うのです。

先ず彼は、妻である姉妹から
「献身に関する神の意志」について聞きました。
その時、彼はどうしたのでしょう。
彼は、彼のひどい環境や感覚を ひとまずかたわらに置き、
「その神の言葉・真理」を見つめました。
そして直ちに(これが大切)
「私の体を主に献げます」と口の言葉を用いて、
即ち信仰を機能させることによって、
その真理そのもの(それは主御自身・命の木の実)を
彼の中に取り入れたのです、言い換えれば、信仰によって
真理、神の意志を兄弟自身へと結合させたのです。
(信仰の最も深い意味は「結合」です。信仰には
その様な驚くべき働きがあるのです。)

更にその時兄弟は、間髪をいれずに、
彼にささやきかける「神の意志と矛盾する様々な感覚的邪念」を
断固拒絶したことにもなるのです。


さて今
その時の登兄弟の態度と創世記3章のエバの態度
とを比較して見て下さい。
人はもしヘビ(だます者の意)との
会話に引き込まれたら、ただそれだけで必ず負けます。
その会話のきっかけは「本当に・・?」と言う敵の質問でした。
ヘビがもしその問いかけによって人を釣り上げることが出来る
ならば、あとはやすやすと「理屈と感覚の世界」に人を
連れ込むことが出来ます。理屈と感覚の世界において、
人が「だます者」に勝つのは殆ど不可能です。

しかし、
柄沢兄弟はそうではありませんでした。
その時の「兄弟の態度」は同時に
「彼の霊の姿」でもあったのです。
その肉体の極限的弱さにもかかわらず、
彼の霊は大そう強かったと言えましょう。
どうしてその様なことがあり得たのでしょう。
主に感謝、賛美をささげます、
それは正にあの助け主、聖霊の働きでも
あったからです。


「あなた方の手足を、不義の器として罪にささげては
いけません。むしろ、死者の中から生かされた者として
あなた方自身とその手足を、義の器として神に献げなさい。」
(ローマ6の13)

3 件のコメント:

emi さんのコメント...

主は、主に捧げられた聖徒たちを本気で受け取り、責任を持って取り扱ってくださいますね。
その過程で私たちは何が何だかわからない状況にまで至りますが、主の支えが常にあり、そして主は目的を果たされる。

主の促しに対する私達の"Yes"が、主への合図。私たちは応えるだけ。あとは主がしてくださいます。主ご自身が、その御心をご自身の力でご自身の時に成してくださる。それが兄弟姉妹において成るのを見せられることは、本当に大きな励ましです。

主は真実。主をたたえます。

Luke さんのコメント...

死を射程に入れた生。
最近、自分の地上の終わりの日をしばしば考えております。
馬場に集まっていた頃に提示されたひとつのテーマでしたね。いかに死ぬか。
しかしこの幕屋を脱ぐ経験とはいかなるものであるのか。理屈では主の懐への、まさにDepartureなのですが・・・。
("Departure"はアカデミー賞を受賞した邦画の英語タイトルです。実に味のあるいい映画でした。)
生と死の間。何とも不思議な、現経綸では不可知の領域です。

Mr.Sugar さんのコメント...

登兄弟のことは
私にとって一つの事件でした。

今私は
死はとてもいいものではないか、
と感じております。

死がなければ、私達が
主を真実に求めることは恐らく
ないでしょう。

私はもうすぐ70歳、
その瞬間が今、刻一刻と
近づいていることは
避け得ない事実です。