2009年6月26日金曜日

感情の命が十字架に付けられる

感情を正しく用いる(2)

「魂を十字架に渡す」とは、魂の総てを失うことではなく、魂の中の
「命」が失われることです。決して魂の機能が失われるわけでは
ありません。魂の命を十字架に釘付けることは、私達がもはや
考えなくなる、決定しなくなる、感じなくなることではありません。
キリスト者がもし魂を失うならば、もはや彼は人の天然の命によって
生きるのではなく、ひたすら絶えず神の命によって生きるのです。

それは「進んで自己に従って生きることをしない」と言うことであり、
また自己の楽しみに従って歩くことをしないのです。そして
神の御こころに服することです。

繰り返しますが、十字架の死とは、感情が消滅することではありません。
魂の命の感情、思い、意志が十字架を経過することによって、それらが
無くなってしまうのではありません。それらはただ、主の死の中で
「天然の命」を失うだけです。

感情、思い、意志は主の命の中で復活します。死と復活は、魂の
機能する器官の中で「その命の部分」を失わせ、そしてそれらを
新しくし、初めて神によって用いられ得るようにするのです。

ですから再度言いますが、霊の人は感情が無いのではありません。
むしろその感情は最も安全で最も高尚であるはずです。彼はあたかも
神の御手によって新しく造られたかのようです。

もし誰かがここで困難を感じるなら、彼の理論のどこかに問題があるので
しょう。なぜなら霊的経験においてはなんらの問題も無いからです。

ですから結論として、感情はどうしても十字架の御業を経過
しなければなりません。(マタイ10の38~39)
それは生来の感情の持つ火のような性質や混乱を除き去り、感情が
完全に霊の支配に服するためです。
十字架の御業の目的は、霊が権威を持って、感情の機能を
支配することです。(先人の言葉より)


Sugar 私見:
命とは何でしょうか。こういう美しい響きを持っていて、しかも
ありふれた言葉は実は曲者です。何故なら普段、分かっている積もりに
させられてはいるが、その実、分かっていないことが多いからです。
私的には、命と言う単語が出て来たらすぐ「生きる力」と言い換えて
見ると、分かりやすくなると思っております。
例えば「キリストは私の命である」は「キリストは私の生きる力である」
と言い直して見るのです。

さて、上記の文の場合、魂を一つのマシーンに例えるならば、その内部の
各機械は思い、意志、感情(それらはまた数多くのパーツに分かれる)
です。それが魂が持つ各種の機能です。そして魂の命は、その各機械を
機能させるためのエネルギー、ガソリンや電力なのではないでしょうか。

元来地から出て来て、どうしても有害なガスや騒音を撒き散らしてしまう
ガソリンはもはや100%十字架で廃棄させられ、クリーンで霊的聖なる
エネルギーである電力が天から到来し、完全にガソリンに取って代わる必要
があります。(漢字の「電」も「霊」も雨冠であるのは面白いことです。
それらは上から、天からやって来てあなたに届き、
あなたの静かでクリーンな力、エネルギーとなるのです。)

3 件のコメント:

Luke さんのコメント...

ここを勘違いして、ニッポンキリスト教では「自我を十字架につけてぇ~!」と力を入れてしまって、クルシ(苦し)チャン化するわけですね。自作自演の「十字架」を負っているわけです。

エネルギー・ソースのチェンジ、切り替え。これが分かった人は、まさに十字架は解放であり、真の自由と喜びをもたらすものと知ることができるのですが。こんなに単純にして快適な生き方はありませんから^^

Mr.Sugar さんのコメント...

アーメンです。

更に魂には魂の性質と個性があるようです。

今、性質はさておき、魂の個性も

神は尊重されます。

キリスト者がある囲いの中に埋没されると

必ず没個性的になってしまうのは

本当におかしなことです。

Luke さんのコメント...

ホントに。

オウム真理教が麻原さんのお面でダンスを踊っていましたが、どこぞでも(あそこばかりではないようですが)見たこの個性の喪失は異常です。

新約聖書を読めば、明らかにパウロの個性とヨハネのそれ、そしてペテロのと、百花繚乱なのですけどね。しかしそこにキリストのクオリアが感じられるわけです。

人生、ますます楽しみましょう^^v