感情を正しく用いる(1)
もしキリスト者が自分の感情に、十字架のより深い働きをさせる
なら、間もなく彼は、感情が霊を妨害するのではなく、霊と協力
さえすることを知るでしょう。十字架は「感情の総ての天然の命」を
対処し、感情を更新し、それを霊の器具とします。
前述したように、霊の人は霊ではありませんし、感情のない人でも
ありません。かえって、彼は感情を用いて、内にある神聖な命を
表現します。
神によって対処される前、感情は霊の器具になることは出来ません。
むしろ私達の感情は実に自由奔放に自分の願いに従って行動します。
しかし清められた後、感情は霊を表現する器官となります。霊は
感情を通して「真の命」を表現します。他の人の苦しみに対する
愛情と感覚を表現するために、霊は感情を必要とします。また、人に
霊の直覚の働きを感じさせるため、霊には感情が必要です。
霊の感覚は、静かな感情を通して人に知らせます。
もし感情が霊に服するなら、感情は霊によって神が愛する者を愛し、
神が憎むものを憎みます。
「感情に従って生きないと言う真理」を理解した後、「霊的な生活は
感情の無い生活である」と誤解する人がいます。彼らは結局、
キリスト者は木や石のような感情の無い者となるように、感情を
なくする必要があると思っています。信者が「十字架の死の意味」を
理解しないなら、彼は「感情を死に渡し、全く霊に従って生きる
と言う意味」を知ることが出来ません。
最も優しく、同情があり、憐れみがあり、愛のある人が霊の人なのです。
真に霊の人、感情を十字架に渡した人は感情を失って感情の無い人と
なるのではありません。霊的な信者の愛がいかに他の人と比べてその
愛が大きいかを見るとき、私達は霊の人が感情の無い者ではなく、
むしろ、その感情は優れて普通の人と同じでないかを知るでしょう。
(先人の言葉より)
*
Sugar 私見:
実際問題、上記にある 私の「感情に対して、十字架のより深い働きを
させる」。私の「感情が神によって対処される」「清められる」が極めて
大きな課題となるでしょう。正直、私自身、今それに圧倒されています。
*ケンの調子があまりかんばしくなく、いまだに実家におります。
4 件のコメント:
お話の内容はよくわかりませんが、「圧倒されています」の言葉に、そう言えば私も同じ状況ではないかと、共鳴いたしました。私の場合は主人の愛人問題で、主を見失っておりました。主人が家のなかにいるときは、息を殺して、ただ静かにして、様子をうかがっておりました。さらに、最近神様からの「ことば」が聞けません。いつもの心のなかの静かな平安と喜びが全くありません。
「神のことばを聴くことの出来ない飢饉」とアモス書に書かれていますが、その言葉に自分の状況に気づきハットしたのです。これはサタンの攻撃だ!と。まるでライオンの穴に落とされたかのように、ライオンにおびえて声もでませんでした。それが敵の目的だと気づきました。神を見失わせ、失望させ、御言葉から切り離すことです。だから、賛美のCDをかけ、ともに大きな声で賛美しました。はじめは浮ついていましたが、賛美すればするほどうれしくなって来て、喜びが湧いてきて、調子が上がってきました。おまけに大きな声で祈りました。預言のことばを語りました。異言の祈りをしました。ただ、流れるままに。いままで押しとどめてきた神様への思いをいっきに注ぎ出しました。神のことばは特別で力があります。神が言い送った言葉は無駄に地に落ちることはありません。かならす言い送ったとうりのことをされます。今キリスト者対して神の言葉を宣言することはなにか、わたしにとって特別な意味がありそうです。「霊の世界でなにかが起きている」という感覚があります。そして今まで失われていた主との交わりがもどってきましうた。今まで気づきませんでしたが、主は私のすぐ右にいてくださり、あらゆる災いから守ってくださることが分かります。たしかに、言葉のなかにいのちがあるからでしょう。
勝利は主御自身と彼の御ことば
にしかありませんね。
彼の御ことばこそ 真理です。
その対極は虚偽であり、それはサタン
からのものです。
誤解を恐れずに言うならば、
私は「この時空とその中の一切のもの」
の本質は虚偽である、と思っております。
人の魂も「物」に過ぎません。故に
その本質も虚偽と死です。
キリストの真理により頼むことの確かさ
の故に
神に感謝と賛美をささげます。
>誤解を恐れずに言うならば、
>私は「この時空とその中の一切のもの」
>の本質は虚偽である、と思っております。
>人の魂も「物」に過ぎません。故に
>その本質も虚偽と死です。
私にはまだよく分かりませんが、「信仰によらないものは全て罪です」という言葉がありましたね。たしかだと思っていた事の多くが虚偽だったりするわけですね。十分注意しなければなりませんね。終わりまでキリスト者はきよめられると書かれていますから、これからもきっと取り扱われるのでしょうが、そのたびごとに、主の真理が明らかにされることはうれしいことではあります。
アーメンです。
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