聖書によると、キリストの生涯には(父なる神とは異なった)
彼ご自身の独立した意志が働いていることを見ます。
しかし彼の自由意志は定められていました。
私達も、船のかじの様に「意志を定める」と言うことを
理解する必要があります。あなたが自分の意志を定めて、
神の御こころを行うとき、神は初めて働くことができます。
あなたの側では、絶えず神の御こころをあなたの生活の原則と
するのです。あなたは「このことにおいて神の御こころを
選択します」と言います。あなたは神の側に立ち、神に
その御こころを更に啓示して下さるようにと求めるのです。
キリストの意志は堅く定まっていたために、一瞬たりとも
神の御こころと協力することを失いませんでした。
「見よ、私は御むねを行うためにまいりました。」それは、
キリストが、神の御こころへと御自分の意志を向けるだけでなく、
そのことにおいて、彼の意志を積極的に用いることでもありました。
もしあなたもこれを、霊的生活の中心的な原則とし、あなたの
意志と言うカジを、それが神の御こころであると言う理由の故に、
変わることなく定めるならば、その時、神はカルバリにおける
キリストの勝利を、あなたに力を授けると言う方法によって、
あなたの生涯に適用して下さるでしょう。
それは、他の人たちも邪悪な霊の力から解き放たれるためです。
(ペンルイス・神の御こころの中を歩く)
*Sugar 私見:
「人は何も出来ない。だから神の御こころを選択する意志も神が
与えて下さる。そうでないとするのは傲慢である。だから、
キリスト者は何もするべきではなく、ただ待つべきである」
とする観念が私達の間にあるように思われます。しかし・・
①人が神の御こころを啓示して頂くように神に求める。
②聖霊によって霊の中に御こころが啓示される。
③自分の意志でそれを選び取り、他の感覚を退ける。
と言う原則は決して変わることはあり得ないと思われます。
私達による断固とした③の行為がもしなければ、以前
書いたように、必ずヘビが来て私達をだますでしょう。
人の意志は神とサタンの間において極めて決定的な
役割を演じているのです。今日も私は、エデンの園において
あの二本の木の間に立っているのである、と言えないでしょうか。
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