2009年6月29日月曜日

感情によって生きるキリスト者が多い

キリスト者が十字架の確かな御業を経験する前においては、「罪から
の解放」は経験したかもしれませんが、それでもまだ彼は魂に属して
おり、自分自身の天然の命に打ち勝つことは出来ません。

もしも注意深くその様なキリスト者の魂に属する行為を調べるなら、
その多くは感情から出たものであると分かります。
魂は思い、感情、意志という三つの大きな部分から成っていますが、
たいてい「魂的な信者」は感情によって生きています。ですから彼らは、
殆ど感情の命によって支配されていると私達は言うことが出来ます。
それ故、キリスト者の人生において、思いと意志よりも感情が
より大きな部分を占めているようです。こういうわけで、魂的な信者の
大半の行動が感情から出ているのを見ることが出来ます。
(先人の言葉より)

Sugar 私見:
①「魂的な信者」とは「肉的な信者」と「霊的な信者」の中間に位置する
信者であり、その生活が肉や霊ではなく魂の命(エネルギー)によって
生きている信者です。彼らは肉的なクリスチャンほど悪くはないとしても
霊的であるとは言えません。
上記の著者は、その魂的なキリスト者の多くは、感情主導の生活を
していると言いたいようです。即ち、「聖霊の内住する霊」がその人の
生きる力となってはおらず、その代わり、彼の感情がまるで生き物
のように彼の生活の活力となっている、と言う意味です。

②彼が言う「罪からの解放」の「罪」の意味ですが、ここでは、平たく
言えば「明らかな罪」と言った様な意味で使用されているようです。

聖書で否定的なものとして扱われているものは、罪の外に、肉、古き人、
おのれ、この世等があります。ある人々によれば、それらは総て罪である
と言いたいようです。しかし、それはやはり大雑把過ぎるのです。
いずれにしろそれらの用語を厳密に定義づけすることは容易なことでは
ありません。私達が出来ることは、それらを聖書がどのように使い
分けているかを知るくらいですし、そのような用い方でよいと思われます。

それらのものの中で、著者はこれから「おのれ」を取り扱おう
としております、「おのれ」の中の感情の命を。

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