2011年6月9日木曜日

天国は来る(天国へ行く、でなく)

天国や神の国とは、イエスご自身であり、
王キリストの統治(とうち)や支配の及ぶ範囲
(はんい)のことです。

だから、
イエスの先駆者(せんくしゃ)ヨハネと、初期の頃の
イエスは「天国は近づいた」と言い、

後に、彼が人々に囲まれていた時
「神の国はあなた方の間(among)にある」と
言われました。(ルカ17の21、新共同訳、NLT訳)

そして復活後、無制限になられたキリストは
彼を受け入れた者の霊の中に(in)おられます。

だから天国は人々に対して
「近づき」⇒「間におり」⇒「中へと」来られた
ことになります。
したがって、聖書で言う天国とは、ある日突然「行く」
かも知れない、あるいは「行きたい」所などではなく、
むしろ今日とても具体的に「来る」のです。

しかし
私が「自分を自分の主や王とする」ことを
完全にあきらめ、ただキリストだけを
実際的に私の主や王としなければ
彼がその支配(神の国)の実際を
私において表現することは不可能です。

なぜなら彼は、人の意志を
とても尊重(そんちょう)されるからです。
だから私達は、ゼヒとも祈らねばなりません。
「御国が来ますように!」(「主の祈り」)
そして「天国が私から人々へと
流れ出て行きますように!」と。


止水栓開閉器の製作は完全に失敗でした。
クギがいとも簡単に折れ曲がってしまったのです。残念ですが、
今日はその道具を船引まで買いに行かねばなりません。

2 件のコメント:

hirosuke さんのコメント...

兄弟、生活のなかで「キリストを主とし王とする」とは、具体的には、どのようなことだと思われますか?ぜひ、ご意見を聞かせてください。

Mr.Sugar さんのコメント...

私の中では、今のところ
①十字架と②宣告の二つだと思っています。

①は
環境の中で、私が従順に「制限や圧迫」を
主の手から、十字架として受け取る
ことです。

それによってのみ
私は「私」を十字架付け、黄泉に送ることが
出きるでしょう。

そうすれば、3日後、私は法則に従い、必ず
キリストと共に、復活の中にいることに
なります。

私が十字架に付けられる場合には
そこでサタンも大いに働きますが
復活の際には、悪霊は退き、彼等は
息を潜めて隠れています。
これが悪霊の後退です。
(それは、主の復活の朝のようです)

そして悪霊が退くならば、初めてそこに
必ず「小さな王国の出現」があり得ます。
即ちキリストが、その場の王であり
主としてご自身を現わされるのです。

②次に、ことあるごとに
総ての被造物に対して(当然自分にも)
御言葉の宣告をして行きたい、と願います。

もしもその時私に、御ことば
(神の宇宙の真理、法則である所の
主の勝利とサタンの敗北の詳細)
への深い認識があれば、その宣告は必ず
霊的な力を帯び、敵に対しては
極めて効果的でしょう。
(この世の法廷での論告はその絵です)

そのような深い認識に基づく
「真理の宣告」の中には必ず、
光と命と真理があり、もしも
それらの実際があれば、
これも法則として、悪霊達の本質である
暗闇、死、虚偽を自動的に追いやり、
消し去ります。

さて
この光と命と真理の本質とは
要するにキリスト御自身ですから、
私の宣告がそれらに満ちているならば
その場には必ず、キリストが王として
出現し、キリストが主として支配されて
いる筈です。

①と②は2つとも「悪霊達の後退」と
それに伴なう自動的な「主の出現・入場」
がその特徴です。

「この時代における」主の王国は
歴代、そのようにして徐々にこの地上に
現れたし、これからも現れるはずです。
それはこの時代、決して一気にでは
ありません。



しかし残念ながら、私個人の場合
いまだに以上のことの実際は希薄です。
いつの日になれば、
これらが私の本物となるのでしょうか。