①
それは「ハレルヤ」「イエス」などの単語を何度も
何度も早口でくり返しとなえ、自分から自分を追い出し、
忘我の境(ぼうがのきょう)に入るというものです。
それをするネライは、理性や意志を追い出し、遂には
自分を完全無防備、無抵抗にすることです。この
「忘我」(失我かな?)は、キリストの十字架をわが身に
適用する所の、パウロの言う「生きるはワレにあらず」とは
全く似ても似つかぬものです。
今日、そのようなやり方が、簡単に「聖霊に満たされる」
便利な方法としてもてはやされてようですが、それは
聖霊に満たされるどころか、極めて危険な火遊びである
と言わなければなりません。
実はそのような方法はキリスト教に限らず、古今東西、
邪霊を呼び込む超能力者達、民間信仰、また殆どの宗教
において、奥義的で不思議な経験に入る方法として
受け入れられているものです。
当然そこには、
キリスト者が「みこころ」に向かう時、キリストと共に
「神から与えられる制限を深く喜んで受け入れる」という
本来の十字架は全く不要です。
実際これ以上に、人々の宗教心にとって
魅惑的(みわくてき)なものは他にはないでしょう。
なぜならそこには時に「霊的」と見られる超自然現象さえ
現れるからです。
悪霊とは実は、宗教的な魅力をちらつかせ、人をして
「キリストの十字架」から遠ざけることを目的として、人を
巧みに誘惑する頭のよい「だまし」の本家本元なのです。
そのワナにかかる人々は、初めきっと「私はスゴイ」と内心
思うことでしょう。しかし「宗教的に私はスゴイや、スゴク
なって人々に尊敬されたい」の源は深い深い暗やみの世界です。
マタイ4章前半をお読み下さい。悪魔は「奇跡を行う」ようにと
イエスをさえ誘惑したのです。
聖書で見る奇跡とは決して「行う」もの、パフォーマンスとして
あなたが「実行する」ものではありません。故にあなたが「奇跡を
行って人の注目を受けたい」という願望をいだくとするならば、
その願望の源にすばやく気付き、その申し出を断固否(いな)ま
なければなりません。
キリスト者は日々多くの事物を「否む」意志を必要とします。
「真の自由と喜び」はその拒否の後ろからついて来るのです。
実の所エバはその拒絶に失敗したのです。あの時の彼女の
「小さな心の向き」は何ととてつもない結果(人類の苦痛と
悲しみ)を生んでしまったことでしょう!それは私たちの個人の
歴史においても全く同じことです。
②
以上のことから「真の神」は
私たちがそのような方法で祈ることを絶対に望まれません。
何故なら彼は、私たちが「神が人に与えた自由意志」を用い、
神の敵に対抗して立ち上がり、シッカリと神のみこころを
「自分で」選び取ることを「強く望まれる」からです。
この時代、神は愛の中で人にすすめ、うながし、命ずることは
あっても決して「強制」することはありません。この微妙
(びみょう)と見える違いは実は大きいものであり、
それゆえ、とても重要です。
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