小屋内外の雑物のカタヅケをしています。
ようやく「こざっぱり」として来ました。
そういう空間にくつろいで、森や空を眺めるのは
気持ちがいいものです。盛夏、特に空高くそびえる
モクモクとした壮大巨大な入道雲が好きです。
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さて、法とはすごいものです。
「神は法そのものである」とも言えるかも
知れませんが、その法の制定者神でさえ、
法、法則、御自身のことばの制限を受けられるほどです。
旧約とは要するに「律法(法)と預言者」ですが、
預言者とは、法に基づいた
私のための日々毎分の「法の詳細」でしょう。
しかし、新約においては、総てが一気に単純化されます。
(これに気付かないと大変です)神は
イエスキリストを唯一「律法と預言者の具体化」と
定められたのです。
それは要するに、キリストを持てば、律法と預言者の
総てを持つ、ということです。それ故、神はモーセ(律法)
とエリヤ(預言者)を断固退けて、ただ一人キリストを
推薦(すいせん)して見せたのです。(マタイ17)
しかし、この啓示においては
私達は眠ってしまうか、トンチンカンなことを言って
しまいがちです。
だから後に新約聖書の手紙は改めて、いろんな角度から
「キリストイエスが私達の総てである」と言うのです。
聖書が総てというからには、キリストは本当に総てです。
(キリストは私たちの総ての必要の満たし、私たちが
必要とする総て力の源・・・)
所が、この表現(キリストは総て)はとても
美しいので、その真意が私たちに届かないことが多い
ようです。それ故「私たちが生きること=キリスト」である
とさらにパウロは言ったのではないでしょうか。
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