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そう
①みこころ②十字架③万物への宣べ伝への中で。
*
アーメンです。
今日は、創世記34、35章を聞いていました。
「そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。
私はそこで、私の苦難の日に私に答え、
私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に
祭壇を築こう。」(創世記35:3)
ここに至るまでも、ヤコブは主の御心の内を
歩み続けられたわけではなく、
多くの問題行動がありました。
しかしそれでも
「私たちは真実でなくても、神はいつも真実」
ですから感謝です。
「いつも私とともにおられた神」
この神の故に私はホッと肩の荷が下ります。
事実「聖霊は私のような者の内に
住み続けてくれている」
のですから本当に感謝以外にありません。
イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりに
感謝し、また今日は、ブログのことばの内に
兄弟との交わりを頂いて感謝です。
これから老犬と
ノソノソと家の周りを散歩です。
☆
この兄弟は、とても大きな心臓の手術のあと、
生活上、極めて制限された行動をよぎなくされて
おります、自宅でお仕事をなさりながら。
さて、十字架とは他でもない
人が「自発的に主からいただく」制限や不自由
のことです。
また神のみこころは他でもない
主が私に下さる十字架を
生活のささいと見える場面で、人知れずに黙って
受け入れることの中にあります。
しかしその「3日後」私達は確実に
「キリストにある真の自由」を
主と共に密(ひそ)かに楽しみ、そして
一人深い礼拝をするでしょう。(復活とは、
十字架の死を経過した後、神からいただく無制限です)
また大切なことは
本来十字架と復活は人々に隠されており、
世界がそれを見ることは不可能である、
という事実です。
それも大きな神のみこころです。
(それにしても多くの人々は十字架について
何とヒドイ誤解をしていることでしょう。
「十字架の実質」は決して目には見えないものなのに
十字架の外側のみを見て、それを迷信的に自分や他人に
適用しています。そのような思いと行為は間違いなく
「邪悪な霊達」によって用いられるでしょう)
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