普通の生活の中で
「2千年前に、イエスキリストによって
既に達成済みの真理」を、
「私はもうそのイエスと一つにされている」と言う
事実とともに信じ、そして「この場面」の私に適用していると
また
神が私の為に用意された小さな十字架を否まないで
主の手から頂いていると、自然にムリなく
先ず
「どうにも不思議だ、これは主だ」と深い所で感じてしまう
ことが起こりますが、この頻度はむしろしばしばです。
このレベルの場合は それを他人に説明したとしても
「別にどうってことはない」とされるような事ですが、
私の中では明らかに不思議(主)なのです。だから同時に
「主と私だけの密かでミツな幸せ」を覚えます。そんな事なので
このレベルでは人に話さないことが多いのです。
しかしその不思議が、人に現れる現れ方や程度によって、
その不思議現象を 奇跡→更に「しるし」と言っていいケースも
これからは十分に起こり得ると思います。今回の場合も
「小さな奇跡」と呼んでもよい、のではないでしょうか。
いずれの場合でも、その特徴は・・
これは全面的に神御自身がなさったことであり
自分の功績や能力とは何のかかわりもない、とムリなく心から
思うことと、また神からのある「暖かさ」を感じることです。
キリスト者の普通の生活と「不思議、奇跡、しるし」を
完全に切り離すことはむしろ難しいようです。
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