2011年9月8日木曜日

貧しいやもめの献金

ルカ21の1~4、マルコ12の41~44:
福音書に出てくる貧しいやもめの献金の話ですが・・

それはたったのレプタ銅貨2つでした。これは
私の計算によると、今の日本では156円に相当します。

所がイエスはこの200円にも満たないお金の価値は
神の前では極めて大きいとされました。その理由は、やもめは
神の前で実質・彼女の「生活費全部」を投げ入れたからです。

さてしかしイエスはここで私たちに(物理的に)
常に生活費全部を献金することを勧めているのでしょうか。
そうではないでしょう。何故ならそれは不可能であるからです。
そういうケースも時にはあるかも知れませんが、原則として
神が不可能なことを人に無理強いされることはありません。

所が、不思議なことに
私の「生活費の大もと」、即ち私にぞくする総ての生活の手段、
要するに「私自身と私の力の総て」を主の足元に投げ出すことは
どんな人にでも、どんな場所にいても、どんな瞬間でも可能
なのです。「私たちの総て」とは、私の体、魂、霊の総てと
私の所有物(私の能力、私に残された人生の総ての時間をも含め)
に他ならないでしょう。

言いかえれば
神が私たちに望むことは、どんな瞬間でも、総てを神に開き
自分自身と自分の所有物を自分の手で少しも握(にぎ)らないこと
であり、いかなる事物でも自分の為には少しもとって置かない事、
なのではないでしょうか。この原則は、臨終のベッドに横たわる
人でも、健康な大金持ちでも全く同じであり、これが
この話におけるイエスの真意であるはずです。

この原則
(これは実は献金の話ではない)
に従って歩む人生は、私たちの予測に反し、常にいかなる不足も
生じることがなく、最も身軽で喜びに満ちたものとなるのでは
ないでしょうか。

「主は私の羊飼い、私には乏しいことがない。」
(詩篇23編)これはやもめの対極・一国の王ダビデの実感です。

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