自分にちょうどよい
ベッドの高さの「みきわめ」は微妙(びみょう)です。
それが少しでも高すぎると、部屋の中での
「おさまり」が悪くなり、人も落ち着きを失います。
このことは霊的なことがらにも当てはまりそうです。
*二つの協力(祈りと十字架)*
さて、敵の手段とは、私達に対する
いろいろな程度のウソと殺し(死)であり、
彼等の願望、意図は この二つを用いて、人をして
「自分の滅亡という運命」の中に引き入れることです。
彼は人を「とも連(づ)れ」にしたいのです。
しかし、彼等の画策(かくさく)は、とうぜん神の微妙
(びみょう)なサジ加減によって制限されます。※1
この局面でこそ、私たちの祈り、懇願(こんがん)の必要が
生じます。実のところ「敵の手前」、神でさえ、人の祈りを
必要とされるのです。何故でしょう。それはその際
人の懇願(こんがん)は、神が敵に対してその力を「公に」
発動することを可能とする根拠、あるいは「うしろだて」とさえ
なるからです。だから、そのような祈りは神への大きな
協力となる、と言うことが出来ます。
そのような「神とサタン間の敵意あるやりとり」をへて初めて
「サタンに許された分量の攻撃」が私たちに及ぶのですが、
当然その背後には「サタンを出しぬく」神の知恵が
隠(かく)されております。
それゆえ、祈り以外に キリスト者が自分の意志で
「十字架を自分に適用する」と言うもう一つの
「神への協力」が、ここで必要とされることになります。
今回くわしく書くことはできませんが、この十字架は
(特にサタンに対して)神が上記の「神の知恵」を発揮
(はっき)されることと実に深い関係があるのです。それゆえ
キリスト者が、日々自分の十字架を負うことは、神にとって
とても大きな価値を持つのです。
(十字架とは「みこころの中において」自分を閉じこめ、
制限し、不自由にする状況を喜んで受け入れることです。)
ところがこの際、実はその事態を私達が
①「十字架として受け入れる」べきか、
②「敵に対して直ちに命を適用するべきか」(※2)という
問題がここにはあるのですが、そのいずれを選ぶべきかは
必ず主が私達の霊の中に示して下さるはずです。
(この段落の記述は今分かりにくいかも知れません。
お許し下さい。)
いずれにせよ私達の敵への対抗手段は
「(私を経由しての)キリストの効き目のある死と命」です。
人がサタンに対抗する手段は、キリストにある「死と命」
以外にはあり得ません。しかし感謝なことに、
この片方には他方も含まれているのです。
※1
この事実はヨブ記などでも分かるのですが、しばしば
その神のサジ加減は 人が頭で考える程度を越えます。
従って、神への信仰はどうしても必要となります。
要するに信仰とは「何がどうであろうと、あなたは
神なのですから、あなたに信頼します」と言うことに
つきるでしょう。
※2
「みことば」をツルギとしてつきつけ、
悪霊を追いつめることなどです。
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