2008年10月31日金曜日

高山姉妹の父上、その後

突然入院された高山清子さんの父上92才のその後です。
お父様はおととい深夜、急に苦しみを訴えられ救急車で病院へ。
心不全、腎不全が原因で肺に水が入り、呼吸が苦しくなられたのだ
そうです。肺炎の恐れもあり、重篤な事態を迎える際には、もはや
過分な医療は行わず、自然死を選択すると言う遺族の意志さえ確認
させられたのだと言います。

その時、清子姉妹は正直に主に次の様に祈ったそうです。
「主よ、御心に従います。でもわがままを言わせてもらえるならば、
もうしばらく地上で、父と一緒にいる時間を与えて下さい。
私はまだ父と一緒にいたいのです」と。

その結果かどうか、その後 医師が投じたある薬の効果が顕著に現れ、
何と病状は急激に改善され、はやきのうの夜などは食事を、
普通の量の三分の二ほども食べらるまでに回復されたのだと言います。

皆様のお祈りを感謝します。
それにしても、改めて主のなさることは不思議と言わざるを得ません。
今後の高山家において、主は一体何をされるお積りなのでしょうか。

2008年10月30日木曜日

あるメールから(12)

台湾の楊姉妹が話されたことが、Rさんを通して私の所にも回って
来ました。実はこの地の数名の集まりの中で、そのことについて語り
合ったのですが、その効き目は即効的で、今まで十字架の実際を
学びつつあったあの二人が、それをキッカケとして加速的に
安息に入って行ったのです。

自分のことも他の人のことも主がすべて成して下さるから大丈夫、
ということが分かったら、色々と互いの問題を語り合うと言うことが
めっきり減って来ました。それで、これまでは週一で会っていたのですが、
多くの時間をかけて語っていたそれまでの問題がめっきり少なくなった
のだから、これからは証がたまってどうしても会いたくなったら会う、
という形にしようかと思っているところです。

今私にとっては日々の生活自体が即テキストです。そこで経験したことを
御言葉で確認するのです。「人となってくださった言葉である主」に
触れるのが、具体的で一番近道のようです。
最近まで、一応私が「教える」という役割でしたが、今ここの皆が十字架に
行き着いたら、「教える」が「教え合う」に変わりました。後の者が
先になる、というのが良くわかります。

「あまり平安で楽になって、もうのほほ~んとしてしまって、これで
いいのかな、と心配にさえなっている」というのが
今の私たち3人の状況です。今日Rさんにその話をしたら
「私たちにとって安息は新しいこと。慣れるまでこれも時間がかかるのよ」
と言われてました。本当にそうですね。

緊急連絡です

11月4日に行われる筈であった、高山家での集まりですが
延期になりました。と言うのは 本日清子さんの92歳の
お父様が体調を崩され、入院されたからです。
今詳しい病状等は分かりません。
続けて高山家の為にお祈り下さい。

食生活問題が解決した

先日、長年の腸の不調が突然治ってしまったことを書きました。
しかし「不思議」はそれに留まらなかったのです。

お腹が治ってしまったことに気づいた翌日 私は何故か深い恐怖感に
襲われたのです。それは、このままの食生活を続けるならば、
私の健康は大変なことになってしまうと言う恐怖感でした。でも
これは言ってみればとてもおかしなことではないでしょうか。長年の
お腹のトラブルが解決してめでたし、めでたしではなく、矢もたても
たまらない恐怖を感じたと言うのですから。
これは一体何だったのでしょう。

その恐怖の中で何とかして食生活を改善しなければ、と私は焦りました。
しかし山の男の一人暮らし、その上、不精者の67歳と来ればそれは
至難の業です。事実私は、長年の間それを何とかしようと試みては来た
のですがどうにもならなかったのです。それは主の前における私の
大きな課題であったとさえ言えるでしょう。超塩分の取り過ぎ、
甘いものはバンバン食べる、それに極端な野菜不足等、しかしそれでも
今更丁寧に調理する事など私にはとても出来ないのです、
と言うわけで、どこを取っても殆ど絶望的に見えたのでした。

しかし私は思い立って、あるキリスト者にこのことを相談して見たのです。
そうしたらその方は、色々な食材を蒸し焼きにする方法を
伝授されたのです。その時私には何故か「あそうかそれなら
実に簡単じゃないか」とパッとひらめくものがあったのです。それは
小屋にダッチオーヴンがあったせいでもあったのですが・・。

と言うわけで早速実行にかかって見ました。
そうしたら、何と何とそのダッチオーヴン使用は総ての私の問題を
いとも簡単に解決してしまったのです。これは驚きです。料理は超簡単、
水も塩もしょう油も砂糖も入れず、ただ色んな食材をナベに放り込むだけ
なのですから。これは料理などと偉そうに言える代物ではありません。
でも味はどうかと言うと、これがなかなかイケルのです。と言うのは
色々な食材のウマミが総て食材とナベの中に閉じ込められるからです。
味が深いから塩分も何も殆どいりません。食べるとき一寸酢醤油につける
だけでとても美味しいのです。

「突然腸が治る→恐怖感を覚える→相談→ダッチオーヴン使用」の
全工程がホンの2、3日の間に起こり、私の食生活の問題は
たちまちの内に総て解決してしまったのです。それにしても
我ながらホンとに不思議な数日でした。
不精をかこつ一人暮らしの男性諸君、
あなたも一つ、ダッチオーヴン「料理」をトライしてみたら?

2008年10月29日水曜日

高山家、集まりの再開

「今度 しばらく中断していた高山家での集まりを再開したいそうで
多分それは今月末か、来月初旬になることでしょう。皆さん
その時には、高山家の方々に会いに、一寸遠いんですが千葉県野田市、
木間ケ瀬までお出でになりませんか。」
と書いた「高山家、その後」(10/17)の続きです。


その日取り等が決まりました。
日時:11月4日(火)です。
来られる方は東武野田線の川間駅に、12時にお出で下さい。
車で迎えに上がります。東武野田線は柏~大宮間の路線だそうです。
(柏は上野から常磐線の快速で25分くらいかな?
川間駅から高山家の近くまでバスもあるそうですが。)

「今回、昼食は高山家でぜひ接待したい」との清子さんの
お言葉です。(この点、皆さんご心配なく、と言われます。)
人数が知りたいと言うことですので、
sugarまでお知らせ下さいませんでしょうか。
よろしくお願い致します。

2008年10月26日日曜日

死は絶対的な分離です

聖書において死は避けて通れない重いテーマです。しかし
「死についての適切な認識」によって人は素晴らしい喜びへと
導かれるのです。キリスト者は本来「生きながら死ぬ、と言う特技」
の持ち主である筈です。ですから人はどんなことがあろうと「自殺」
などと言う バカなことをする必要は全く無い筈です。(何故ならもう
死んでいるからです。)キリスト者にとって 死は日常茶飯事で
あるべきです。日々死ぬことによってキリスト者は その生を素晴らしく
生かし出すことが出来ます。死こそ神によって与えられた
完全な解放への門だからです。

物質的な死(普通の死)は霊的な死の絵です。
ですから普通の死を観察することによって「積極的とも言える」
死の素晴らしい意味を知ることが出来ます。

・普通 死は生の停止であると言われますが、実はそれ以上に
死は分離です。(また当然死は消滅でもありません。)生きた体が死ぬと
直ちにそこに「分解」と言う動的な現象が現れます。それは何かに
向かって動き出すのです。その何かとは 更に大きな、分別、
分別、切り離され、除去、隔絶です。

・人は他人の死に接する時、当然どうしようもなく「別れ」「死去」を感じます。
だから葬儀のことを「告別式」と呼ぶのです。人はその時、決定的な別離、
手を伸ばしても決して触れることの出来ない所へ彼は逝ってしまった、
と言う実感を禁じ得ません。だから死の本質はやはり 隔絶なのです。

・しかし分解は更に進みます。なぜなら死体は棺に入れられ(入棺の時
も別離はもっと実感されますが)死体は墓に行くからです。そこで
行われるのは埋葬です。既にこの世に離別した死体は更に埋葬され
なければならないのです。これは離別の上塗り、「その向こうの深い離別」
とも言えるでしょう。この時点で この世界と「この世に存在する総ての力」
でさえ彼との、決定的な深い分離を認めざるを得ないのです。
(サタン、邪霊はそれを認めています。しかし、人々はサタンのウソを
心から信じるのです。ウソであってもそれを信じるとき、そのウソの世界は
その人の中ではある種のリアリティを持つのです。)

・まだあります。更に人は墓から黄泉へと進み逝(ゆ)くのです。墓は
黄泉の入り口に過ぎません。人は正直 目の前にある石で作った墓を
前にして、彼は墓の中で眠っているとは感じません。そこで、感じるのは
彼との大きな大きな距離感です。なぜなら人は墓の遥かむこうに
黄泉と言う確かな存在を覚えざるを得ないからです。

・(実は黄泉の向こうには更に決定的に深刻な隔絶・第二の死がある
ことを聖書は告げるのですが、それは別の機会に回しましょう。)

彼は今、人間世界の諸々のきずな、総ての宗教的な自作や他作の
規則や規制、またこの世の力、時空世界、物質世界からさえ
遠く遠く離れ去ったのです。そこから、彼を呼び返す手段は
もはや絶対にあり得ないのです。


以上の描写の目的は、積極的な意味で、キリスト者が所有する
「キリストと共なる死」による解放、へと私達が導かれるためです。
キリストは私たち総てを包含し 肉体においてさえ、確実に絶対的に
死んだのです。それは神御自身が用意された既成事実です。ですから
既に死んでしまって墓の向こうに行ってしまった私達に 今さら影響を
及ぼすことが出来るものは何もありません。
なぜならあなたは今死んでおり、既に埋葬され済みであるからです。
(埋葬がバプテスマの真の意味であり、それ以後のクリスチャン生活は
バプテスマの実際を土台として初めて成立するのです。)

以上の事実は、「この事象世界に見られる普通の事実」の遥か上位に
ランクする神の「真理」です。その格差は文字通り天と地なのです。
あなたはどちらの事実を信じるのでしょうか。私たちが もしも この神が
達成された「既成事実」を 受け入れ信じるならば、そこにある動かざる
永遠の霊的な真理が あなたの時空にさえ降りて来て、いずれ あなたの
実感にも深い影響を及ぼすことを知るでしょう。あなたは この世と、また
その中にある人間関係から、種々の規則や 「ねばならない」から遠く遠く
隔絶されている と言う 深く静かな安息さえ 覚えることが出来るでしょう。
(その実感とは、「キリストと共に黄泉に到達したあなた」に必然的に訪れる
「キリストとあなたの復活」から 生じるものなのです。)

最後に、神の権威によって、今日「サタンの仕事場」は「この時空
(主として地上)とその中の事象内に」厳しく限定されております。
ですから、そのサタンの世界、即ち時空とその中の総ての事象から
遠く遠く切り離され、完全に縁の切れているあなたに
サタンの手など届くはずがないのです。これが神の真理です。

「私達を強力に縛り上げている総てのもの」から私達を完全に分離し
解放するもの、それこそが聖書が告げる「キリストの死」、十字架です。

2008年10月25日土曜日

あるメールから(11)

メール9の続きです。

「・・・世間にも立派な人、素晴らしい人が沢山おります。それに引き換え、
キリスト者である自分はどうでしょう。私はこれまで唯うつむくことしか
出来ませんでした。
また、自分の周りで起こる悪いことが自分のせいに思ったり、自分を
責めたり、おびえたりすることも多かったのです。そのこともあって
これまで、人の間に出て行くことが出来なかったのです。
でも、先のメールに書いたようにこの度、主が直接教えて下さったこと
によって、私の見方が全く変わってしまったのです。

人が生まれつき持っているのものは、たとえそれが素晴らしいものに
見えたとしても、神の目にはアダム来のもの、アダム起源のものにしか
過ぎません。神の目には唯一「十字架を経たものだけ」が尊いのです。
このことはこれまで何度も聞いて来たことなのですが、自分のものに
なっていなかったのです。客観的に聖書の知識を持っていることと、
その真理を主観的に知る ということは全く違うのですね。

私には「生まれつき良くないもの」が多いとしても、キリストの十字架
によって、また主の私に対する取り扱いによって、私でさえ「新しい人」を
表現することが出来るのだと分かったのです。しかも聖書には私を
完成して下さる、とまで書いてあるのです。これには具体的に
ヤコブの例もありますから、大いに期待していいんですね。
今私にはヤコブのようにイスラエルに変えていただけるのだ、
という希望があります。

そしてその為には主に信頼していればいい、と言うことが
分かったのです。主に任せているだけでよいだなんて、
これは何とホッとすることでしょう。
また今は、良いとか悪いとかにあまりこだわらなくなったので、
心がとても軽くなったことも事実です。」

新たな心配

10月に入って、一寸不思議なことがありました。
それはお腹の具合がぐっと良くなったことです。
私は昔から腸が弱く朝、食事を殆ど食べられません。食べてもバナナ
一本くらいがせいぜいで、それ以上食べると、たちまちお腹が
ゆるくなってしまうのです。そして深刻なことに、その悪い傾向が
年齢と共に徐々にエスカレートする傾向が明らかに。これは困った、
きっと私はお腹で死ぬだろう ななどと真面目に考えていたのです。

ところがです。この間の来客の際にハッキリしたのですが、相当
シッカリ 朝食が食べられるようになっていたのです。これは驚きです。
私の体に一体何があったのでしょうか。

しかしこうなると別の心配が出て来るのです、それは食欲。
お腹が治ったせいか、今ご飯がおいしくてたまらないのです。
私は秋田出身ですので 生まれつきの?物凄いしょっぱい物好き。
イカの塩辛や塩ジャケ、辛い味噌汁など大好きです。「ショッパイ
ものがないと生きた気がしない」と塩辛いものを 毎日バンバン
食べるのです。不精男の山の一人暮らし、買い物は面倒、
調理は更に面倒と、長生き出来ない人間の条件が
ずらっとそろっているのです。

ですから運動をどうするかに加えて、これはどうしても、食生活の
改善をはからなければなりません。今度下山したら、
真面目に糖尿病食の本などを探してみたいと思っているのです。

今朝のメニュウは、バナナ一本と牛乳、そして少量の「食べる小エビ」に
抑えましたよ。食べる小エビは少し塩分が強すぎましたのでネ。

2008年10月24日金曜日

あるメールから(10)

*直接主によって語られることの効果*
ここに一人のキリスト者がいます。この方は以前 あるキリスト者の
集まりの中で深く傷つき、ついには恐怖さえ覚えるようになってしまい、
どんな 他のキリスト者の交わりにも出席出来なくなってしまったのです。
これはその方のメールです。


今回「例の問題」のことで主に聞きました。そしたら何と主は私に
直接 次のように語られたのです。
「永遠において、絶対的にあなたの古い人は死んだ。
しかしあなたの現象内においては、いまだに変えられていないアダム
来のものが現れるようなことがあるかも知れない。しかしそれは時空内
での私の取扱いがまだである、ということに過ぎない。ですから
あなたは今私に信頼し、私があなたの時間の中でそれを追い払う時を
ただ待てばよいのです」と。

この主の直接的なことばに信頼を置きます。
恐れなくてもいいんですね!やっとトラウマから抜け出せます。

2008年10月23日木曜日

今日も分別作業です

今日は曇天、紅葉は45パーセント、見事な阿武隈
イエローワールドがロフトの南窓に広がっています。

今日の作業は地下の片付けです。イヤー捨てるべき物の多さに
今更ながら驚きます。「私にとっての要らざるもの」の区分、仕分け作業、
一箇所へのまとめ置きのほか、近い将来、その全部を焼却しなければ
なりません。ホンとにヤレヤレです。
これは聖書的に言うと十字架とそして墓であり、黄泉ですネ。

キリスト者は罪(不潔なゴミ)の為のキリストの御血の適用の他に、
この死の力の適用を必要とします。それはキリスト者の毎日の経験で
あるべきです。御霊の促しに従い、自分と自分に付随する一切の中で
「永遠と言う価値に適合しないもの、復活にそぐわないもの、即ち
未だにキリストの十字架を経過していないもの」全部を、時空を超えた
分離する力を持つキリストの死の現場に持って行き、それらを
キリストの死の分離する力の中、即ち水の中を深く くぐらせる経験を
しなければなりません。だから、キリスト者にとって必ず必要なものは
「証する御霊と、水と血です。」(Ⅰヨハネ4の8)

もしも私が今日その作業を怠るならば、いつの日か今度は「神にとっての
要らざるもの、即ち死を経過していないもの一切」を焼却する為の水ならぬ
火が「強制的に」私に及び、私の中の「新創造でないもの総て」を
焼却しにかかるでしょう。(Ⅰコリント3章)従って今日の水、即ち十字架と
将来の火は原則的には同じ働きをするのです。相違は時期です。

だから私達は今の内に、自分の意志を用い、水の中にある死の力によって
自分を分別する必要があるのです。この御血と水だけはキリスト者自らの
意志によっていつでも適用が可能です。従ってその機会を逸することは
本当に残念なことであり、永遠の時間から見るとき実に甚大な損失を
こうむることになるのです。バプテスマは 自ら立って行うべき証しです。
それ故にキリスト者は毎日、バプテスマの生活 即ち 自ら立って
キリストと共に水の力、即ち死の中へと入って行く生活を送るべきです。
バプテスマは絶対的にキリスト教入信儀式などではなく、
その霊的な実際を 日々わが身に適用しなければならない
キリスト者にとって絶対に欠かすことの出来ないものなのです。

あ、すみません、話がウッカリ、トンでもないところに行ってしまいました。
さ、それでは、今日の分別作業に取りかかることに致しましょうか。

2008年10月22日水曜日

あるメールから(9)

ここ数ヶ月苦しんできた技術課題の解決を示唆する実験データが
やっと先ほど得られました!更には我々の試作品を使用したら
他社品では絶対果たせなかったある重要特性を満足したという知らせが
先ほど届きました。本当に嬉しいです!あぁハレルヤ、主に感謝します。

ここしばらく何をやってもうまくいかず、八方ふさがりの状態でした。
主よ、私にはできません。私は死にます、だからあなたがやってください、
という祈りとともに、主よ、あなたは本当に存在しているのですか?
もし本当にいるのなら何か私に示してください、とも祈りました。
ここ数日、本当にあえいでいたのです。
その思いは昨晩帰宅する途中にピークに達しました。
主よ今すぐ示してください!と迫ったのです。

すると、それから1時間もするかしない内に二つの電話を通して
主から答えがあったのです。あぁハレルヤ、主は
絶妙なタイミングでその答えをお示しになったのです。

私たちは、このようにして生と死の循環の中を生きるのでしょうか。
復活の命は私たちを常に十字架へ十字架へと引き戻し、そのようにして
生と死、死と生が循環し、キリストへと同形化されていくのでしょうか。


sugar:
この兄弟はある大会社の研究部門のトップにおられる方です。
その研究開発に要する経費は月1・5億円、このプロジェクトを開始して
今までの3年間で費やした総額は40億、50億に上ると言います。

しかし私が最も感動する点は、この兄弟は仕事とキリスト信仰を
一つの中で進めていることであり、彼は「日本のキリスト者サラリーマンが、
真に仕事の只中において、もし主にあずかることがないとするならば、
日本に未来はあり得ない」と断言されている事です。

原点に戻らされた

感謝です、今朝
「普通に聖書を読んでいれば、みことばは、私たちを・・導いていくわけ
である。私は常々思うが、超霊的なハイパー信仰よりも、素直な心と
普通の読解力のほうがずっと大事である。きちんと話を聞いていれば・・
難なく課題をクリアできる。」(ハイパー:過度の、超越した)と言うある人の
言葉に接し、原点に戻らされたのです。


確かにそうです。
そのようにして単純に神のことばを信ずることが原点である筈です。
パウロの言葉は難しいと言えば難しいが簡単と言えば簡単です。
だから、簡単だと言えばよいのです。最も大切なことは、キチンと聞いて
その通り信じ、実行することです。

2千年前の多くの無学な人々(新約聖書の主役は実は彼らである)も、
時々回って来るだけのパウロの手紙の朗読を耳を凝らして聞いて、
単純に信じただけに違いないのです。「高度」で複雑な現代に生きる
私たちが彼らに劣る点はただその一点だけではないでしょうか。
しかしその小さな一点は極めて大きいのです。

「あなたがたは既に死んでおり、あなたがたの命は、キリストと共に、
神の内に隠されてある」と言う超難解とされるパウロの言葉も、
「単純に信じた」彼らは別に「難しい」とは感じなかったのでは
ないでしょうか。「あなたは死んだ」と神の言葉は言うのだから
「あそうか、私は死んだのだ」と信じ、「私は死んだのだから、この世界の
一切とはこれで総ての縁が切れた、ああ嬉しい、よかった!」と彼らは
ただ大きな解放感を感じた筈です。(その上で彼らは改めて、天から
地へ、彼らの肉体の中へ、この時空の中へと遣わされたのですが・・。)
また彼らは単純に「私の現在は神の中にある」と信じ、深い喜びを覚えた
ことでしょう。その喜びから発した光だけが 当時の悪の暗闇をあばき、
この世界を変えて行ったのです。

信じることこそ「言われたことの内容、その実質総て」を自分の胃袋に
入れる事が出来る、誰にでも出来る超簡単な方法、原点です。

2008年10月21日火曜日

あるメールから(8)

以下は「あるメールから(7)」の続きです(sugar)

この間買ったオーディオインターフェイスのことなのですが
実は79800円しました。
大きな買い物でしたので、貯金高と相談しながら慎重に
時期を見て買ったのです。ところがです、
買った次の週、教会のある姉妹が(この姉妹はアメリカから
帰国したばかりで、最近の私の事など当然ながら全く何も知りません)
私に個人的に献金をして下さったのです。その額は10万円でした!
これはオーディオインターフェイスの値段を遥かに超えているでは
ありませんか。主が買うように促された物は、主がその買うお金を備え
さ らにオツリが来るようにさえして下さったのです。

紅葉4分咲き

今 山は紅葉4分咲きと言った所でしょうか、大工仕事をしながら、
日に日に染まり行く森の色を楽しんでいます。と言うわけで、つい
ブログにも御ぶさたしてしまうのです。

小屋の整頓に励んでいます。今、地下室の一部に断熱材を取り付け
ています。この作業の本当の目的は、実は今地下の整理だなを占有
しているたくさんの断熱材を除去することなのです。地下の物置棚が
空けば、そこに他の多くの物を整理してしまい込めます。
整理整頓、これは快適空間の「創造」の為には欠かせませんね。
(実は神様もそれをなさっているのでしょう、宇宙の整理整頓を!)

南デッキに2バイ4だけでベンチを作りました。これはそれまで
その場所にあったベンチの背もたれのせいで、ダイニングの席に座った
際に、せっかくの外の景色の一部が隠れてしまうと言うので、背もたれの
無いベンチがどうしても必要となり、やむなくおととい製作したのです。
不思議かつ意外にも、美しく仕上がって一人ほくそえんでおります。


キリストの十字架の効力の及ぶ範囲と深さについて考えています。
実際のそれは一般に言われているものとは天地の相違があるようです。
これは実に驚くべきことです。


(上記のこととは全く別ですが)
キリストの十字架とは霊的な死の力であり、キリストの死とはむしろ積極的
とも言い得る徹底した分離、隔絶の力です。もしも私たちが、キリストの
十字架をして、「自分や自分に固着する多くのもの」にその分離する強力な
力を及ぼさせないならば、決して復活の力が私に及ぶことはなく、従って
「それらのもの」を私達が支配することなどあり得ないでしょう。逆に私達は
それらのものにいつまでも支配され続けなければなりません。

問題は この世の多くのものに「触れるか触れないか」などでは決して
無いのであり(多くの場合 むしろそれらに触れるべきです)支配されるか
支配するか、です。いなるものであれ、キリスト者がキリスト以外の何かに
支配されている姿は惨めであり、そこに真の自由はありません。
キリスト者の特徴は総てに対する王としての美しい姿です。
それは禁欲主義などとは全く無縁なものであることは明らかです。


それから、旧約聖書に出てくる「高きところ」についても思い巡らしています。
直感的にはそれは、今日至るところに見られる「礼拝センター」の予表では
ないのかな、と考えます。初期において高きところには正当な地位があった
のですが、宮の建造後においては「この世の霊」に支配されるものとなり、
徹底的に破壊されるべきものとなってしまいました。(しかし多くの
王たちは破壊せず温存した)

今日もしも「礼拝センター」と言うものがあるとするならば、それは時空を
超えたものであり、当然サマリヤでもエルサレムでもありません。即ち、
断じてあの場所、この時間ではなく、また あのメッセージやこの指導者
でもないのです。それは一人一人のキリスト者の霊
(キリストと一つとなった霊)であると思います。

神にとって「今はどのような時代であるのか」、私達がもしもそれを
錯誤するならば、キリスト者と言えども、いずれとんでもない
事態に遭遇してしまうことでしょう。
この「高きところ」と言う絵よって神は一体何を私達に告げておられる
のでしょうか。これについては更なる検証が必要です。


28日に山を下ります。

2008年10月17日金曜日

高山家その後(2)

5月から7月にかけてこのブログで紹介したあの「高山家の近況」です。
大変な心臓手術を乗り越えられたあの貞三氏、ある会社からゼヒ
わが社へ と招かれ、今そこで毎日元気に働いておられます。
総てをなくしてしまう筈だったのに、かつてキリスト者が集ったあの
立派なお家はそのままであり、そしてこれからも高山家のものです。

最近不思議なことがあったそうです。何故か完全に忘れておられた
ある年金にフト気づかされ、この度その4年分の相当額を
まとめて受け取られたそうです。ご夫妻、本当に手を取り合って
子供のように喜んだと言います。

以前高山家の風呂でバプテスマを受けられた92歳のお父様が今
二階に滞在しておられ、朝おりて来られると必ず「ああ今日も生きている、
あり難いことだ」と言われ、次に今度は窓を開け、外に向かい
何とかしわ手を打って!神に感謝をするのだそうです。

総てを失いすっからかんになることは、ある意味幸いです、「主よ私達は
全く無力です」と言うときこそ真に神が力を出すチャンスであるという「法則」
を掴むことが出来ました、これが今の清子姉妹の感想だそうです。
客観的に見ると極めて困難な状況であっても、その中を主と共に経過して
行く時には、それが凄く大変な状況であるとは感じられない、むしろ淡々と
スースーと時間が過ぎて行ったのです、と清子さんは言われます。

今度 しばらく中断していた高山家での集まりを再開したいそうで
多分それは今月末か、来月初旬になることでしょう。
皆さんその時には、高山家の方々に会いに、一寸遠いんですが
千葉県野田市、木間ケ瀬までお出でになりませんか。

2008年10月15日水曜日

あるメールから(7)

半年も前から「主に促されていたもの」をついに買いました。
オーディオインターフェイスといいます。音をパソコンに取り込む機械です。
私が音楽学校に通っていた頃はこのようなものは無く、私は今使い方さえ
知りませんし、これを買ったところで一体何に使うのかも分かりません。
しかしこれが目の前にあると不思議な平安があるのです。
10/15日のブログ↓からとても励ましを受けました。

4.そして主から反応があり、こうするようにと言うある具体的な指示が
与えられたなら、決して「何故そうしなければならないの?」などと理屈を
言わずに単純にその主の指示に従うのです。これは聖書に示されている
原則です。ヨハネ2章に出てくる「水をくんだ手伝いの者達」もつべこべ
言わず単純に御言葉に従いました。その前に、マリヤは少し理屈を言った
のですが、イエスは神である と示され主に信頼しました。
これらの単純な人々の単純な信仰が、この「最初のしるし」を通して
主の栄光を地上にもたらすことが出来たのです。

あるメールから(6)

お久しぶりです。時々ブログを読んでいます。
「難しい??」と思うのがぽつりぽつり...なんて最初は思ったのですが、
ある時から、あっ、読める!!となったのです。分かったとはまだ
言えないけれども、私なりに「うんうんなるほど」と読めるのです。
励まされたもの、何度でも読みたいものは、ワードの方にちょっと
コピーしてゆっくりと読み...楽しませていただいてます。

読んだ中で一番心にしみほっとしたのは、2007.10.20の 
「何故なら..」と書いてあるところでした。クリスチャンは素敵、
そして(^^)素敵な神様です(^^)。
 
8月から家庭の中で、いろいろ、いろいろと起こり、その度に
主が私の中で生きる、と言いたい所ですが実は、死んだはずの古い私、
私の亡霊が暴れ、漂よい...ヒステリーを起こし、また鬱が続きました。
そんな中、先週新聞記事で非定型ウツ病というのの存在を知り、
ヤフーのネットで調べたら、自分のあれこれに怖いぐらい
ぴったり当てはまっていました。
 
イザヤ43:18-19に「過ぎ去ったことを思い出すな。過去のことを
思い出すな。見よ、私は新しいことをする。」とありました。
主が「新しいこれから」を用意して下さるのです。
「主よ、信じます!」今はまだはっきりしていないけれども、焦らず、
「主のことを知り、主に信頼する、主に生きていただくこと」に集中する訓練
をして行こうと今改めて思っています。
今主と出会えていてやっぱりよかった、と感じます。

自己判断せず病院に行くべきなのかな...と思ったりもしている
のですが.. 「必要ならばいい医師に会わせて下さい」と祈りつつです。
鬱々した気持ちが 沸いてくる時は、「サタンよ去れ!!」
と始めている今日この頃です。


「主が新しいこれからを用意して下さる・・ 主よ、信じます。
・・必要ならばいい医師に会わせて下さい」と言うあなたの言葉に
アーメンです。

この度、楊姉妹が強調されたことの一つが次のことです。
1.ことあるごとに主に聞くこと。それは大きな事件が
起こったときだけでなく、
日常のささいな出来事においてもです。

2.実の所、御こころをキリスト者に示すことは主の切なる願いなのです。
ですから、私たちが主の御旨を知ろうとしてヤキモキする必要など
ありません。それは主の役割です!従ってあなたがなすべき唯一の
ことはあなたの発想から事を始めることをやめ、事ごとに主に聞く事です。

3.そして真に主に聞くときに、主は必ず応えられると信じ、主の応えを
待つことが大切です。なぜなら、聞くと即刻応えられるとは
限らないからです。しかし主は必ず応えられると信じるのです。

4.そして主から反応があり、こうするようにと言うある具体的な指示が
与えられたなら決して「何故そうしなければならないの?」などと理屈を
言わずに単純にその主の指示に従うのです。これは聖書に示されている
原則です。ヨハネ2章に出てくる「水をくんだ手伝いの者達」も つべこべ
言わず単純に御言葉に従いました。その前に、マリヤは少し理屈を言った
のですが、イエスは神である と示され主に信頼しました。
これらの単純な人々の単純な信仰が この「最初のしるし」を通して
主の栄光を地上にもたらすことが出来たのです。


楊姉妹の若かりし頃、彼女の尊敬する姉妹が上に述べたような信仰を
持っておられたのだそうです。しかしその当時、楊姉妹自身は「それは
私には出来ないこと」と思っていたのです。

しかしある日、楊姉妹は決然として次の様に主に祈ったのだそうです。
「主よ私もこれからあなたの御旨を知ることを求めます。そして
求めるならば必ずあなたは私にさえ応えられると信じます」と。
その日から彼女の生活は一変したのです。何故なら
その日を堺に 今日に至るまで、主は彼女の信仰に
明確に応え続けられて来たからです。

この度の山小屋滞在の間、私達は少しですが、姉妹のその様な実際に
接することが出来ました。ある些細と見える出来事を通し、主が彼女の
「些細と見える祈り」に忠実に応えられた出来事を
私達も共に目撃することが出来たのです。

2008年10月12日日曜日

楊姉妹との交わりから(1)

聖書の福音書に、
イエスが弟子達の足を洗われた記事が出て来ます。
多くの場合、これは「キリストの弟子達は互いに対して愛と謙遜を示すべき
であるという教え」と理解されているようですが、実はイエスは意外にも
次の一点に私達を導きたいのではないでしょうか。即ち

第一に私たち人は神に対しても人に対しても良き行いや奉仕など全く
出来ない存在であると言う事です。しかしながら、何よりも先ず
私がイエスによって十分に奉仕をしていただくという経験をするならば、
その時に初めて神と人に対する「私の奉仕」が可能となるのです。
ですから私達は、イエスによって仕えていただくべきです。即ち
先ずはイエスによって私の足を十分に
洗っていただかなければならないのです。

もしもその経験が十分であれば、私達はいつの間にか
自然に、そして喜びの中で他の人々の足を洗っていることでしょう。
それは主イエスがあなたを通して人々の足を洗っている
ことに他ならないのです。

2008年10月9日木曜日

あるメールから(5)

*どちらか一つです*

今日は雨です。
さきほど主の前で思い巡らしていたら、ハッと気付きました。
私たちは キリストと一つか、敵と一つかの状態のどちらかしかない、
その中間とか他の状態はない、ということ。
何と多くのクリスチャンが このことを見ていないか、無視しているか、
ということを認識しました。
私も含めて批判家や評論家になりすまし、自分だけは他のクリスチャン
とは違うと密かに思っているのです。そう思っている当の本人が敵と一つ
になっているということに気付いていないのです。そしてまた批判した
相手が自分に含まれていること、つまり他人を批判しているということは
実は自分を批判しているということに気付いていないのです。
もっと言えば自分と敵は別物だと思っている。しかしその時は実は
敵と一つになっているということです。自分の中を見た瞬間、
つまり自分を自分に重ねた時、実は敵と一つになっているのですね。
しかし自分をキリストと重ねた瞬間、私はキリストと一つなんですね。
いやいや奥が深いです。


今遠来のお客様3名と雨の山小屋で過ごしております。
一人はあの87歳の姉妹。いやいやお元気です。精神面の衰え
など全く感じ取ることが出来ません。肉体面においては、数年前 
進行の浅くない乳がんを患われたのですが「生きるも死ぬるも
大いなる益ではないか」と開き直って主に委ねたら、すっかり安心
してしまい、ますます元気になって 今に至っているのだそうです。
(仙台空港まで全くお一人で飛んで来られた)
台湾の複雑な政治情勢についても話題になり「この面に
おいてもキリスト者の真実な信仰が神を動かす筈である」
と堅く信じ活動しておられるのだそうです。
この後 交わりはどう展開するのでしょうか、とにかく
とてもスリリングな日々です。

2008年10月5日日曜日

あるメールから(4)

1.
集会が毎月開かれますが、私は口を開くことが少なく、今回も何も語る
ものを持って行くことがないな~って、心の中でぼやいていました。
所が、集会の朝、出かける前に、ある姉妹に電話したところ、その話
の中で、主がして下さったある事を思い出したのです。これで今回の
集会で語ることができるって嬉しくなりました。

集会での最後に、ヨハネ9:3、 イエスは答えられた、「この人が罪を
犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるため
です」が取り上げられたのです。それで教えられたのですが、何か事を
起されるのが主なら、それを治める、解決するのも主なんですね。
何か事が起こると、まるで嵐でも来たように、おろおろしたり、自分で
「何とかしなくては」と方法を模索したりしがちですが、主は「その事件」を
ご自分で統治し、御自身の栄光を表したいと思っておられるんですね。
これからはこの原則を心にしっかりと受け止め、私はただ主の
なさることを見て、主を讃美する生活を送りたいものです。

2.
先のメールで、「主が事を起こされ、主が治められる」という原則を
教えられた と書きました。それを知って見ると、今は問題が起こることを
あまり恐れることが無くなり、むしろ「これな実は主を経験するチャンス
なのだ」ととらえることが出来るようになりました。
もちろん、それは自分を暴露されるためでもあるのですが・・。
それを思うと、何だか楽しくなってきました。クリスチャン生活はただ
主を楽しむことであると分かったような気がするのです。今までの私の
生活はただ、捧げものとしての主とか、よき地の産物としての主を
経験する事とだけ、とらえて来たように思われるのですが、これからは、
それ以上に大きな意味のある(適当な表現が見つかりません)
「事の総て」をなさる主を経験できるのだ、と今わくわくしているのです。

今回の前の集会で教えられたことによって、古いアダムの影響が残って
いる自分の魂に引きずられることもグーッと少なくなって、私は今
主とひとつ、私は「キリストの命そのもの」との意識が強くなり、更に
今回の集会で教えられたことを加えて、自分が自分を働かす必要などない
ことが分かったように思われるのです。
今私は、主の働きを楽しむ生活を心に刻むことができ、
クリスチャン生活の楽しさを少ーしだけ見せられているのです。

2008年10月1日水曜日

ある便りから

東京も今週からすっかり秋めいて、長袖が必要になりました。
今日写真の学校第一学期が終わりました。とてもよかったと思います。
この学校、「プロの写真家への道を開いてください」と祈っていた時に
スッと開かれてしまったものなのです。特にライティングの技術は
独学では無理だと思ったので。第二期はまさにライティングの授業で
今年末まで続きます。他にも主に導かれているもの、
私の切なる願い、その他いろいろです。

また秋に一回行けたらと思っております。
あのストーブの火に実際に当たってみたいですね。


「スッと開かれてしまった」、いいですね。きっと何かあるのでしょう。
私達はただ「何かに乗っかるだけ」なのですから。

どうぞ、どうぞ、薪ストーブ、あたりに来てください。
居間がだいぶ変わりましたよ。きのうイモクボさんという人が
森林組合の仕事の帰りに寄ってくれて、3500円で買った食器戸棚を
これも作ったばかりの大きな棚の上へ持ち上げくれたのでした。
これで、今まで使ってきたボロボロの食器戸棚が撤去出来るので、
LDKが大分広く見える筈です、これ今日の大きな楽しみなのです。
所がです、こうなると案じた通り、食器戸棚の背が高過ぎてやや
圧迫感を与えます。「圧迫感、偉そう」、こう言うのいけません。
これは困ったな、後日ヤッパリ、下の棚の足を切ることになるのでしょうか。
今度小屋に来られたらあなたもその圧迫感を感じるかどうか、
薪ストーブにでもあたりながら見てみて下さいませんか。

食卓ですか、出来ましたよ。でも何とこっちの方は一寸背が低過ぎる
のです。で、今日手を入れる積もりです。食卓の高さと言うのは
意外と難しいものなのです。

今日はもう一つ、ロフトの客間のむき出しの断熱材を隠す為に
石膏ボードを張る積もりです。あ、やはり降って来ましたねー。
もうこれ、冬の予告の冷たい雨です。

それでは最後にイモクボさんのブログを紹介します。今度来られたら 
彼の本格ログの習作・「美しい物置」を見に行きましょう。
http://white.ap.teacup.com/imokubo/