2008年10月30日木曜日

あるメールから(12)

台湾の楊姉妹が話されたことが、Rさんを通して私の所にも回って
来ました。実はこの地の数名の集まりの中で、そのことについて語り
合ったのですが、その効き目は即効的で、今まで十字架の実際を
学びつつあったあの二人が、それをキッカケとして加速的に
安息に入って行ったのです。

自分のことも他の人のことも主がすべて成して下さるから大丈夫、
ということが分かったら、色々と互いの問題を語り合うと言うことが
めっきり減って来ました。それで、これまでは週一で会っていたのですが、
多くの時間をかけて語っていたそれまでの問題がめっきり少なくなった
のだから、これからは証がたまってどうしても会いたくなったら会う、
という形にしようかと思っているところです。

今私にとっては日々の生活自体が即テキストです。そこで経験したことを
御言葉で確認するのです。「人となってくださった言葉である主」に
触れるのが、具体的で一番近道のようです。
最近まで、一応私が「教える」という役割でしたが、今ここの皆が十字架に
行き着いたら、「教える」が「教え合う」に変わりました。後の者が
先になる、というのが良くわかります。

「あまり平安で楽になって、もうのほほ~んとしてしまって、これで
いいのかな、と心配にさえなっている」というのが
今の私たち3人の状況です。今日Rさんにその話をしたら
「私たちにとって安息は新しいこと。慣れるまでこれも時間がかかるのよ」
と言われてました。本当にそうですね。

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