メール9の続きです。
「・・・世間にも立派な人、素晴らしい人が沢山おります。それに引き換え、
キリスト者である自分はどうでしょう。私はこれまで唯うつむくことしか
出来ませんでした。
また、自分の周りで起こる悪いことが自分のせいに思ったり、自分を
責めたり、おびえたりすることも多かったのです。そのこともあって
これまで、人の間に出て行くことが出来なかったのです。
でも、先のメールに書いたようにこの度、主が直接教えて下さったこと
によって、私の見方が全く変わってしまったのです。
人が生まれつき持っているのものは、たとえそれが素晴らしいものに
見えたとしても、神の目にはアダム来のもの、アダム起源のものにしか
過ぎません。神の目には唯一「十字架を経たものだけ」が尊いのです。
このことはこれまで何度も聞いて来たことなのですが、自分のものに
なっていなかったのです。客観的に聖書の知識を持っていることと、
その真理を主観的に知る ということは全く違うのですね。
私には「生まれつき良くないもの」が多いとしても、キリストの十字架
によって、また主の私に対する取り扱いによって、私でさえ「新しい人」を
表現することが出来るのだと分かったのです。しかも聖書には私を
完成して下さる、とまで書いてあるのです。これには具体的に
ヤコブの例もありますから、大いに期待していいんですね。
今私にはヤコブのようにイスラエルに変えていただけるのだ、
という希望があります。
そしてその為には主に信頼していればいい、と言うことが
分かったのです。主に任せているだけでよいだなんて、
これは何とホッとすることでしょう。
また今は、良いとか悪いとかにあまりこだわらなくなったので、
心がとても軽くなったことも事実です。」
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