2008年10月12日日曜日

楊姉妹との交わりから(1)

聖書の福音書に、
イエスが弟子達の足を洗われた記事が出て来ます。
多くの場合、これは「キリストの弟子達は互いに対して愛と謙遜を示すべき
であるという教え」と理解されているようですが、実はイエスは意外にも
次の一点に私達を導きたいのではないでしょうか。即ち

第一に私たち人は神に対しても人に対しても良き行いや奉仕など全く
出来ない存在であると言う事です。しかしながら、何よりも先ず
私がイエスによって十分に奉仕をしていただくという経験をするならば、
その時に初めて神と人に対する「私の奉仕」が可能となるのです。
ですから私達は、イエスによって仕えていただくべきです。即ち
先ずはイエスによって私の足を十分に
洗っていただかなければならないのです。

もしもその経験が十分であれば、私達はいつの間にか
自然に、そして喜びの中で他の人々の足を洗っていることでしょう。
それは主イエスがあなたを通して人々の足を洗っている
ことに他ならないのです。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

お久しぶりです。

罪の赦しも、また、同じですね。主がお与えくださった赦しは本当に大きな、大きな贈り物。

その大きな贈り物を真に受け取った人は、与えられた贈り物として、こんどはイエスと共に贈る者へと変えられる、自然に、そう、喜びの内にです。

人は真に与えられたものしか、与えることができない、そのように造られていることを思います。

素敵な交わりの続きがとても楽しみです♪

匿名 さんのコメント...

キリストの中にいてキリストからの流れをスイッチオンにすることしか方法はないのでしょうね。私ではなくキリストが生きるに尽きます。その鍵はやっぱり信仰なのでしょう。ただ信仰の対象を間違えると永遠にスイッチオンになりません。信仰の対象は唯一つ、それは神の言葉だけです。『「受けた」と信じなさい』これが神の言葉です。

Mr.Sugar さんのコメント...

いやー、ホンとに「素敵な」交わりでした!

でもそれは決して絵にかいたような
「クリスチャンのウツクシイ交わり」
だけではなかったのです。
しかし明らかに主は何かとても大切な
ものを私達のこころに刻まれたのです。
これは一体なのでしょうか、ゼヒゼヒ
次回はサっチャンやMさんにもあの
不思議な人との不思議な遭遇を経験して
もらいたいものです。