2008年10月5日日曜日

あるメールから(4)

1.
集会が毎月開かれますが、私は口を開くことが少なく、今回も何も語る
ものを持って行くことがないな~って、心の中でぼやいていました。
所が、集会の朝、出かける前に、ある姉妹に電話したところ、その話
の中で、主がして下さったある事を思い出したのです。これで今回の
集会で語ることができるって嬉しくなりました。

集会での最後に、ヨハネ9:3、 イエスは答えられた、「この人が罪を
犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるため
です」が取り上げられたのです。それで教えられたのですが、何か事を
起されるのが主なら、それを治める、解決するのも主なんですね。
何か事が起こると、まるで嵐でも来たように、おろおろしたり、自分で
「何とかしなくては」と方法を模索したりしがちですが、主は「その事件」を
ご自分で統治し、御自身の栄光を表したいと思っておられるんですね。
これからはこの原則を心にしっかりと受け止め、私はただ主の
なさることを見て、主を讃美する生活を送りたいものです。

2.
先のメールで、「主が事を起こされ、主が治められる」という原則を
教えられた と書きました。それを知って見ると、今は問題が起こることを
あまり恐れることが無くなり、むしろ「これな実は主を経験するチャンス
なのだ」ととらえることが出来るようになりました。
もちろん、それは自分を暴露されるためでもあるのですが・・。
それを思うと、何だか楽しくなってきました。クリスチャン生活はただ
主を楽しむことであると分かったような気がするのです。今までの私の
生活はただ、捧げものとしての主とか、よき地の産物としての主を
経験する事とだけ、とらえて来たように思われるのですが、これからは、
それ以上に大きな意味のある(適当な表現が見つかりません)
「事の総て」をなさる主を経験できるのだ、と今わくわくしているのです。

今回の前の集会で教えられたことによって、古いアダムの影響が残って
いる自分の魂に引きずられることもグーッと少なくなって、私は今
主とひとつ、私は「キリストの命そのもの」との意識が強くなり、更に
今回の集会で教えられたことを加えて、自分が自分を働かす必要などない
ことが分かったように思われるのです。
今私は、主の働きを楽しむ生活を心に刻むことができ、
クリスチャン生活の楽しさを少ーしだけ見せられているのです。

2 件のコメント:

mopoopoo さんのコメント...

アーメン!
ああどうしようとあれこれ考えさせるのも時として敵の罠でしょう。

匿名 さんのコメント...

ロマ6:11

「ですから、キリスト・イエスも中で、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、神に対しては生きていることを認めなさい」

どうも日常の中の私たちは敵と一つであるほうを信じているようです。ですから敵と一つであるリアリティが次から次へと現れてきます。しかし神は、本当のあなたは、キリストと一つになったあなたですとはっきり言っています。

あなたは誰の言うことを信じますか。親友ですか?両親ですか?奥さんですか?旦那さんですか?先生ですか?尊敬している人ですか?何かの思想ですか?科学の法則ですか?クリスチャン仲間ですか?牧師ですか?あなた自身ですか?