2008年10月21日火曜日

紅葉4分咲き

今 山は紅葉4分咲きと言った所でしょうか、大工仕事をしながら、
日に日に染まり行く森の色を楽しんでいます。と言うわけで、つい
ブログにも御ぶさたしてしまうのです。

小屋の整頓に励んでいます。今、地下室の一部に断熱材を取り付け
ています。この作業の本当の目的は、実は今地下の整理だなを占有
しているたくさんの断熱材を除去することなのです。地下の物置棚が
空けば、そこに他の多くの物を整理してしまい込めます。
整理整頓、これは快適空間の「創造」の為には欠かせませんね。
(実は神様もそれをなさっているのでしょう、宇宙の整理整頓を!)

南デッキに2バイ4だけでベンチを作りました。これはそれまで
その場所にあったベンチの背もたれのせいで、ダイニングの席に座った
際に、せっかくの外の景色の一部が隠れてしまうと言うので、背もたれの
無いベンチがどうしても必要となり、やむなくおととい製作したのです。
不思議かつ意外にも、美しく仕上がって一人ほくそえんでおります。


キリストの十字架の効力の及ぶ範囲と深さについて考えています。
実際のそれは一般に言われているものとは天地の相違があるようです。
これは実に驚くべきことです。


(上記のこととは全く別ですが)
キリストの十字架とは霊的な死の力であり、キリストの死とはむしろ積極的
とも言い得る徹底した分離、隔絶の力です。もしも私たちが、キリストの
十字架をして、「自分や自分に固着する多くのもの」にその分離する強力な
力を及ぼさせないならば、決して復活の力が私に及ぶことはなく、従って
「それらのもの」を私達が支配することなどあり得ないでしょう。逆に私達は
それらのものにいつまでも支配され続けなければなりません。

問題は この世の多くのものに「触れるか触れないか」などでは決して
無いのであり(多くの場合 むしろそれらに触れるべきです)支配されるか
支配するか、です。いなるものであれ、キリスト者がキリスト以外の何かに
支配されている姿は惨めであり、そこに真の自由はありません。
キリスト者の特徴は総てに対する王としての美しい姿です。
それは禁欲主義などとは全く無縁なものであることは明らかです。


それから、旧約聖書に出てくる「高きところ」についても思い巡らしています。
直感的にはそれは、今日至るところに見られる「礼拝センター」の予表では
ないのかな、と考えます。初期において高きところには正当な地位があった
のですが、宮の建造後においては「この世の霊」に支配されるものとなり、
徹底的に破壊されるべきものとなってしまいました。(しかし多くの
王たちは破壊せず温存した)

今日もしも「礼拝センター」と言うものがあるとするならば、それは時空を
超えたものであり、当然サマリヤでもエルサレムでもありません。即ち、
断じてあの場所、この時間ではなく、また あのメッセージやこの指導者
でもないのです。それは一人一人のキリスト者の霊
(キリストと一つとなった霊)であると思います。

神にとって「今はどのような時代であるのか」、私達がもしもそれを
錯誤するならば、キリスト者と言えども、いずれとんでもない
事態に遭遇してしまうことでしょう。
この「高きところ」と言う絵よって神は一体何を私達に告げておられる
のでしょうか。これについては更なる検証が必要です。


28日に山を下ります。

0 件のコメント: