2007年11月30日金曜日

網状結合

エペソ 4の10から16
コロサイ2の19から3の3
網状結合と言う言葉の方が、
ネットワーキングよりもずっといいですね。
ネットワークと言うとなんだか商売などが思わされますが
網状結合と聞くと 人間の体内、各部分の神秘的とも言える
命の結合を連想させられます。

頭(かしら・キリスト)から来る健康な命の力によって
微細な結合や癒しがいつの間にか体のあちこちに発生し 
そのようにして体は健康を得、成長して行く。
そこには自然に無理なく 滋養分、癒し、他の部分への慈しみ、
温かさ、エネルギー、そして必要な情報の実質でさえ
生ける交流の中で必要な部分に届けられる。

この網状結合においてとても大切なことは
各部分が 頭の命に直接繋がっていると言う一点だけなのであって
「一つになろう」等とスローガンを叫ぶことではないのです。
なぜなら「かしら」の命にしっかり結合している所からは
自ずと麗しい一つが生み出されて行くからです。
健全な縦関係があってこそ初めて健康な横関係が生み出されて行く
のではないでしょうか。
(誰かこれを「人体学的に」説明してくれないかなー)

エペソ書、コロサイ書をこのような見地から再読してみると、
キリストの体のその健康なあり方と その中で必要な癒しと成長が 
容易に無理なくそして新鮮に理解出来るように思われます。
キリストのからだは 時代の教えの風と掛け声や汗等によって
人々が「立ち上げ」なければならない「組織」とは全く無縁です。
きっとパウロはここでそんなことを言いたかったに違いありません。

かしらなるキリストによって神聖な命の中の網状結合が
日本国中 あちらにもこちらにも そして今日も明日も 
生み出されて行きますように!





*emiさんのブログに寄せた私のコメントを転載しました。

外形も内容も

「神は言われた、
我々のイメージの中で、我々に似せて人を造ろう。」
「見よ、それは非常に良かった。」(創世記1の26、31)

これは何たる言葉であろうか。
この段階でさえ人は既に神の敵に対してある程度の支配権を
行使していたようである。(悲劇はその後に起きたが)
 
ところが2千年前に人は外形のみならず 命として神の実質さえも
人の内容として有するに至った。
しかもイエスの肉において
敵の足場となり得る一切が死に処せられてしまったのである。

現在 神の敵が人に隠しておきたい事実の総てがここにある、
と言えないであろうか。
ただその真贋(しんがん)の判断と
真への信仰のみが人の分に他ならない。

ある手紙から

あの方が皆さんから去って行かれたことは良いことでした。
何事も偶然に起こることなどありません。
主の御許しが無ければ それはあり得ないことでした。

頼るべきはいかなる人でもありません。
ここで皆さんが、ただキリストのみを見上げ、
唯キリストに向かって真心からの声を発すること、
この目的の為にのみ神がそのことを許されたのである、
私は心からそう信じております。

2007年11月26日月曜日

今日の独り言

コロサイ3の2に「あなた方は既に死んでおり・・」とある。
この神の言葉によれば
聖なる働きに関する限り 私は死んでいるのである。
そこには一切 私の分などと言うものは無い。
しかしこれは何という解放であろうか、何という安らぎであろうか!

神の敵が拠り所にしていた「この時空」という古く極めて有限なものを
キリストはその肉において十字架に釘づけてしまわれた。
だから敵は今その働き場を失ってしまっているのである。
その上でキリストは
「復活と言う超越した新しい時空そのもの」となられた。
この新しい創造に敵は近づき触れることさえ出来ない。
否、それは敵にとって大いなる恐怖でさえあるのだ。

私はこの超越した神の事実(真理)を当然の如くに信じ、
今目に見えている「低次元の現実」を足の下に踏み
その遥か上空を歩むべきである。

2007年11月25日日曜日

皆さんのお祈りに感謝

昨日夕方、小屋に戻りました。
11/9の一泊を除けば、何と24日ぶりの山の空気です。
やはり山はいいです。
夕べぐっすりと眠って 早朝ロフトのデッキに出たら西に沈む未明の
白く大きな月がほほ笑んでいるかのようでした。
もう木々はすっかり葉を落としています。

さてケンのこと:
ホンと この事態をどう説明したらよいのか私にはわかりません。
とにかく状況はこれ以上はあり得ない程の嬉しい結果になったのです。
発病して10年、これまで何度もひどくこじらせ 病状をぶり返し
入退院を繰り返して来た統合失調症の患者がこれほどよくなる
ものだろうか、と思う程の回復なのです。
11/9の失踪もどうやら健常者の感覚に近くなった彼が
病院の雰囲気にいたたまれなくなって
つい取ってしまった行動のようです。
とにかく何故かこのたび 我が家にあり得ないことが突然起こりました。
この不思議としか言いようの無い感覚はきっとこれからの私をしばしば
幸福にしてくれることでしょう。
と言うわけで主治医の太鼓判のもと、20日ケンは正式に退院、家に戻り
これから社会復帰に向けてその歩を踏み出して行くことになります。

この度の明確でそして一見急激とも見える「主の介入」:
思えば私がある促しを感じ ケンについて「恥も外聞もなく」ブログに
載せられたこと これが一つのきっかけになったように思わされます。
(これは 神とサタンと人間の前にケンをそして私を置いた 
と言う事なのかも知れない)
その結果 多くの聖徒達の関心がケンに注がれることになり 沢山の
真摯な祈りが神に捧げられたことを私は感じたように思われます。

キリスト者の生活と言えども決してその実態はハッピー、順調、ラブ
ラブだけなどと言うことなどあり得ません。一皮むけば、むしろ悲惨で
悲しく大変な現実が沢山あり得るのです。むしろその方が自然であると
言うべきも知れません。
しかし私たちの主イエスはむしろそのような局面の只中に喜んで
来ようとされるお方なのではないでしょうか。
福音書はそのような例に満ちているように思われます。

「主よ、私の実情はこの通りです。この悲惨さが私の実力です。
でも主よ 私はこの総てを全能のあなたの手の上に置くことが出来ます。
主よ私は自分の弱さを誇ります。なぜならその私の弱さにおいてのみ
あなたはあなたがお働きになるチャンスを得ることが出来るからです」

この度 私が小屋を留守にいていた間
わが息子ケンのことを覚えて頂いた方々、
それからこのブログにコメントをお寄せ頂いた皆さん、
本当に有難うございました。


下の写真は居間:
未だに断熱材むき出しのこの部屋も
光が少ないと美しくさえ見える。

2007年11月10日土曜日

長男失踪

昨日夕方小屋に到着して程なく、現在精神病院に入院中の長男ケンが
病院から失踪したと妻から連絡がありました。
ケンの病院失踪はこれで2度目です。
直ちにとんぼ返りするのは体力的に無理だったので、
今日これから山を下ります。

この5日、もう一人の精神障害者である次男と妻、私そしてケンとで
実家に集まった際にはケンはとてもよい状態だったのです。
ですからあのケンがまたこんなことをするなんてと
まるで出会い頭の不意打ちをつかれた感じです。
(事はいつもこのようにして起こりますね)
警察への捜索願いは出したので 
後は本人からの連絡を待つしかありません。病院からの情報によれば
所持金は僅かとのことなので「無事だとすれば」ケンからの連絡は多分
今日中にはあるだろう、と踏んではいるのですが・・。
しかしもちろん「あらゆる事態」を
想定内に入れておかなければなりません。

昨夜、夜中に起きて改めて主の前に出ました。
きのうあたり、主との楽しみの時が
少し欠けていたかな、と感じさせられました。
(でも御血を適用したらあまり自分を見つめてはいけません。)
いずれにしろ 今私に出来ることはあまり複雑ではない筈です。
要するにそれはただ主を信じ、今私のなすべきことの中を、
今私に与えられている諸々の事象の中を
平静に淡々と歩んで行くだけなのです。
私の内面に、精神に、肉体に、私を取り巻く諸々の環境に
たとえどんな激動があろうとも、
「今日天地におられるただ一人の人復活のキリスト」に
どんな変化もあるはずがないからです。
だからそのキリストと一つにされている私そしてケン、
その不動の事実に安息するべきです。
その神と人の一つが神の喜び(ピリピ2の13)であるが故に
そこに留まるべきです。

確かに敵は何かをしているのでしょう。
しかし私は神に信頼します(今宣言します)
なぜなら神の方法、その行動の原則は殆どの場合、
あの十字架の時と同様その計り知れない叡智の中
サタンの攻撃を見事に逆手に取ることなのだから。

それでは後日。

2007年11月1日木曜日

今日 下山です

小屋に帰るのは多分9日でしょう。
今回の旅では どんなことがあるのでしょうか。
なんだかいろいろありそう。
やっぱり楽しみです。  

実は今3名 大切なお客が泊まっているのです。
誰とは言わないが となりの部屋からいびきが聞こえる!
昨晩いろいろ話してみるとやっぱり見解の相違点も出てきたりして。
でも考えてみるとそれは当然のこと。
それもまたいいのだ。
人間意見が全部同じことなんてあり得ない。
大切なのは交わりの持続、それが無理なく出来るかどうか、
そして相手の中の「命」を本当に大切に思えるかどうか。
それさえ出来ればネ。

じゃ、私も寝ます。

2007年10月30日火曜日

ある老婦人(91才)の言葉 2

 眠りから覚めて
*「イエスの足元にずうっと置かせてもらったよ」
*「イエスは神々しかった、イエスの手は暖かかった」
*「私は今 観世音菩薩でなく、イエスキリストを信じている」
*長女たか代さんの もし神に召されたらどこへ行くの?
 の問いかけにとてもハッキリと「イエスキリストの所だよ」


そして 29日午後1時
九州のたか代さんからメールを頂きました:

「母は眠る様に、主の元に召されました。
とても満された表情で 今にもしゃべり出しそうな感じで。
地上での命が終わる間際に母と祈れた事が感謝でした。
これからお通夜です。」

たか代さんへ:
「驚きました。私的にはこんなに早く と言う感じです。
でも確かに今 上からの静かな平安と温かさ そして
ある種のほほえみを感じております。
多分 それはイエスとお母さんのほほえみでしょう。
それは 私にさえ向けられているようです。
不思議です、そして嬉しいです。
今 イエスを愛します。
そしてお母さんを愛します。」

2007年10月29日月曜日

愛、一つ、死、命、働き

今後世界はその暗さを更に加速して行く事でしょう。しかし神も確実にその
御業を進められます。その御業はある時期の使徒行伝に見られるような道
であり、ブドウの樹が地に近い所を横に命のツルをどこまでも伸ばして行く
様な道でしょう。そこに見られる「神のことばの増し加わり」には今日では
考えられないようなスピードと「聖霊御自身の人に先立つ準備と活動」が
見て取れます。それは実に不思議です。
その原因はどこにあるのでしょうか。

「愛と一つ」がない所で神が働かれることはあり得ません。神は全能者です
が 不思議な事に人との一つがなければどんな業をも始められません。
神は愛です。創造と贖いの御業も父と御子の愛から 即ち 
父と一つであると言う御子の喜び また父の喜びを満たしたいと言う
御子の願いから生じる力によって生み出されたものに違いありません。

そしてその創造と贖いの目的は実に 神と人との一つを
実現することであったのです。神は愛の故に 
遥かな道のりをも物ともせずあなたに近づこうとされました。
そしてイエスにある神はその愛の故に
2千年前十字架に至りあなたと結合され 霊となって
あなたに到達され 遂に神と人との一つが実現されたのです。

神の願いはあなたと一つとなる事でした。
神はそれ程までにあなたを愛され 
そして何とその命を捨ててまでしてその一つを達成されました。
これは永遠における神の御業の成就でした。
しかしながら神の愛する対象が 私達人がそれを知らなかったり
勘違いしたり まともに信じなかったりしたら 
きっと神は悲しまれるでしょう。それは正に宇宙の大いなる片思いです。
ここから神の愛の物語のパートⅡが始まります。それはあなたに対する 
次の諸段階における神の働きかけの中に見られます。

先ずあなたは「あなたとイエスは一つである」と言う永遠の真理を
知らなければなりません。聖書は随所にその事実を私たちに告げています:
ノアの箱舟、パプテスマ、接ぎ木、サウロへの御ことば、等によって。

次に大切なことはあなたの信仰です。あなたは神が達成された
その既成事実を選び取り、自分のものとして有難く頂けば
それでよいのです。これが次にあげる諸点の土台となります。

ここに「イエスと私との距離」に関する認識の問題があります。
多くのキリスト者は「主は近い」と言うあいまいな認識で満足しています。
しかし愛の神はそれでは不十分であると言われます。
「近い」だけでよいのであれば、神の御子が敢えてアダムとなり
霊になられる必要は無かったでしょう。ここで要求されているのは
「完全な近さ」なのです。「近い」とはこれまで述べて来た
「一つ」であると言う意味です。完全な近さ、極限的な近さとは、
本当に一つであること、ある意味においては
「あなたは私であり私はあなたである」と言うことなのです!
何と主は近いことでしょう。

ここで更にもう一つの要件があります。それは
「イエスと私における一つ」の主観的経験の段階、
一つであると言うことの享受の段階です。
それは具体的に言えば、あなたが実際生活においてその一つを味わい 
一つであることの恍惚とした甘美な味わいの時を日常生活の中で
しばしば持たなければならないと言うことです。

なぜでしょうか。それは「一つと言うこと」の背景には愛が
あるからです。当然のことながら愛と言うものは多分に
感情的 感覚的な側面を持つものです。
もし愛があると言うのであるならば、双方がその愛に浸りその一つを
味わう時間を最大の喜びとするはずですし、その一つが欠落する時には
大きな不安をさえ感じ、何を差し置いても直ちに
その修復に向かうものなのです。それが愛と言うものではないでしょうか。

愛があれば、二つは一つになることを欲求します。
愛しているが一つにはなりたくないと言うことなどあり得ません。
愛し一つになり相手を楽しむ、それが真にその相手を知ると言うことです。
そのようにして両者は一つに溶け合い、遂にあなた私の区別さえつかない
と言う状態にまで至ります。
これが一つであることの経験的享受の極致です。
ここまで至らなければ愛は真の満足に到達することは無いでしょう。
何と私達の神は 私たちとの間でそのような程度の愛の交感を
求めておられるのです。私達の神は正にそのような神なのです。

さて愛する時にはそこには自ずと 一つに向かうエネルギーが発生します。
ところがその時しばしば神は 何故か私達をして死を経過させるのです。
それは多分 不純物の除去のためなのでしょう。
そのようにして不純物を死に渡し 純化された真正な一つが
復活の中から出現します。そしてその時こそ
更に大きく深い不思議なエネルギーが発生するのです。
それは復活の命の中の 四方八方に天的な芳香を
無限なエネルギーとして発散する何物かのようです。

その命の中では人は最早 肉体の死を恐れる事さえないでしょう。
かつて多くのキリスト者が自分を殺す敵の為に祈りつつ輝やく喜びの中で
殉教して行ったのは 復活の中の
この不思議なエネルギーの故であったのです。

愛は一つを願い、それが死を経過して 復活の命と言う偉大なエネルギーを
発散します。これが使徒行伝の中に見られる
「神の言葉の驚くべき増し加わり」の背景です。
当然これはまた今日 私たちの日々の経験でなければなりません。

2007年10月24日水曜日

マルシアの食べよう会

さて皆さん
当山小屋で来る27日「マルシアの食べよう会」が
とり行われることに相なりました。

先回の客人はあの芋久保氏一人でしたが
今回は 私の大切な隣人カップルと一寸遠くからのお友達で
私を入れて計6名となる模様です。
マルシアが 小屋専用にと先回本格的なオーブンを置いて行ったので
料理はどうもそれを使用するものらしい。
マルシア今どき一体どんな料理を考えているのかなー。

いや「人生」分からないものである。事はこの1日2日の間に
トトーンと運び 皆さんやったやったと今期待感一杯なのであります。
しかし肝心の当日はどんな事になるのでしょうか。 
ま それは秋の山の清らかな空気の中 少しの料理と
それに本当は一番のご馳走、即ちそこにつどう人間達を、お互い 
ゆったり楽しめれば もうそれで十分なのではないでしょうか、
などと思っているのです。

マルシアよ、だから決して張り切り過ぎて 無理などしてはいけません。
皆さん、お料理もいいが、あなた達ヤングカップルと
限られた一つの空間の中 くつろいだ時間を過ごすのが 
一番嬉しいことに違いないのだから。
(突然だけど先日酒田の友達からもらった白米沢山あるからね)

私の役目はと言えば、薪ストーブと風呂の準備くらいかな。
例のシャワー用「ダマシ絵バスルーム」はどうしても一寸狭いから
隣村の かえるの温泉にでも行きますかね。
でも実は だまし絵バスも 試しにちょっと入ってもらって
感想を聞いて見たい気がしないでもないのです。

ぜひお見せしたいのは 何と言っても
太陽の光を通す 絢爛たる小屋の周りの紅葉の輝きなのだが 
当日はあいにくの曇り空らしい。これはちと残念。

さてさて この秋のマルシアの食べよう会
いかなることになりますのやら。

candy さんの証

主人を今朝
外来での化学療法のため、病院に送ってきました。
今頃は、抗がん剤治療の真っ最中です。
駐車場に向かいながら
「主よ・・」と主の御名を呼びつつ、歩いていた。

そのとき、
「私のために祈っていただけませんか・・」と
ささやく主のみ声を内側に聞き、私はただ溢れる涙。

夫のために祈る事は、主のために祈る事、
主は「私のために・・」と語られた、夫のことを。
「夫は主のものである」と宣言し祈る。

もう主のいのちの中に入れられてしまった夫、
もうインプラントされてしまった彼へ、
この驚くべき恵み。


「わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすれば、たましいに安らぎが来ます。」
とおっしゃられた主のくびき、何と甘い事でしょう。
主のへりくだりを知るとき、
喜びを持ってともにくびきを負う恵みに、
むせび泣くしかない者です。

今度は私の透析治療の時、
私は涙ながらに詩篇27の4から6を読みながら、
私の求めるものは、ただただキリストご自身であること
もはや、主人の病のことではない、それよりはむしろ
主人の内に脈々と息づくキリストを見たい、
ただその御顔を求めます、と祈りました。

☆    
candyさん(さっちゃんさん)
無断で一部を少し変え転載しました。お許しください。
皆さん、candyさんのブログは:イエスの喜びと満足のために

2007年10月23日火曜日

ひそやかな礼拝

イエスと言う「唯一人の人」の中に 
既に私が据えられている と言う事実を信じ、
「キリストの中の自分」と言うこと、 更に
「もはや分けられ得ない 区別し得ないイエスと私」
と言う事実を知り味わい、そしてその真理に 
ただ恍惚と浸り切るしばしの時間、
と言うものが今あなたにはある。

もしかしてその結果なのかも知れない、
その後ある時に フト突然 決してあなたではない
あのイエスの命、あのイエスの生活、あのイエスの活動が 
確かに しかしとても静かに 
あなたから或いはあなたの周辺から出現することがある。
でも一瞬「これ一体何だろう!」といぶかるあなた。

その思いがけない主の現れに改めて驚き、
「あそうか、主よあれはあなただったんですネ」と
そこで初めて 穏やかで不思議な気づきがある。

そんな時 誰に告げられるわけでもなく
密やかな でも目を見はる喜びの中にひざまずき
ただ一人 黙って主を礼拝するしかないのです。

2007年10月21日日曜日

南デッキの東のはしにある清掃コーナーです。

あるメール交換から 3

神に対する本気 無しでは何も始まらない、
に引き続き、

Ⅰ神の目的を知る
先ず私達は「主よ、あなたはどこに行こうとしておられるのですか」
と問う必要があります。
即ち 私たちは 今この時代におけるイエスの行く道、
この時代における神の目的を知らなければならないのです。
私たちはイエスの友です。もしもそうであるならば
私たちは神の僕としてだけではなく
神の友として神の目的、計画を知るべきです。
そしてそれはきっと知ることが出来る筈です。
仮にイエスが福音書にあるように 今
小さな船に乗って対岸に向かっておられるとするならば、
私たちは イエスと同じ目的意識を持ち
その小船に乗船する必要があるのです。
 
Ⅱ除去する力を用いる
イエスの中にはある極めて特異な力があります。
それは総てのものを除去する力、切り離す力です。
取り除き 切り離す最大の効力は死の中にあります。
どんな凄いものでも死の向こうまでは
追いかけて来る事が出来ないのです。
 
私達は このイエスの死の力を知り それをわが身に適用し
多くのもの(罪、肉、この世等)から
わが身を切り離すことを実際的に学ぶ必要があります。
神は私達にその死の力を用いることを願っておられるのです。
 
神の目的達成のためには
イエスの力以外の力は それがいかに品よく見えたとしても
神にとっては役に立たない所かむしろ邪魔なものであり 
遠く切り離され、取り除かれなくてはなりません。
当然 私たち自身の努力の汗、血気等も総て「邪魔」です。
 
もしも私たちの中にその様な邪魔が少しでもあるならば、
たとえ私たちが対岸にたどりついたとしても
神の敵である邪魔(邪霊達)が私達から逃げ去ることはないでしょう。
従ってそこにキリストの目的である王国がもたらされることもあり得ません。
なぜならば私の内側に 邪霊達の足がかりがあるからです。
 
更にイエスは遂に「私達そのもの」さえも除去されます!
彼は私の古い命、生活、人生、運命さえも隔絶されるのです。
それはキリストのみが私の生活の中で100%表現されるためです。
神にとってキリストは文字通り総ての総てでなければならないからです。

Ⅲキリストの復活の力を導入する
嵐の海を渡り(超越し)対岸で悪鬼を追い出し
キリストの王権を現すという彼の目的を実現するための総ての力は
ことごとくイエスキリストの中からのみ引き出されなければなりません。
それでは今現在そのイエスの力はどこに存在するのでしょう。

それはイエスキリストの復活の中にあります。
だから今でさえ私達はいつでもどこでも時空を越えて
この復活のキリストの力を引き出し導入することが可能であるのです。
 
そして遂にはそのイエスの復活の中で 
私達は一人一人個別の生活を生きると言うのではなく、
自分をキリストと言う生ける「型枠」の中に置き
「イエスキリストと言う生活と人生」をこの地上で私から生かし出すのです。
実は私たちには既に 私達の命も生活も人生も無いのです。
それは永遠の中では総て彼の死の中で除去されています。
だから私達は信仰を機能させ、私においてさえ
「イエスキリストと言う命、生活、人生、運命」がこの時空の中でも
最もリアルで実際であることを実証し証明する事が出来るのです。
☆ 
以上のことを敢えて端的に言うならば、
1イエスの死をわが身に適用して総ての邪魔な力を取り除き、
2全面的にただキリストの復活の力によって
3イエスと共にその目的に到達する
と言うことになります。
更に詰めて言えば 神の目的を認識し、
キリストでない総てをマイナスし
キリストのみをプラスすると言えるでしょう。
即ち その目的のためにそのマイナスとプラスを実際生活に
現し出すのです。

以上はホンの一つの大雑把な鳥瞰図、原理原則の提示に過ぎません。
この原則(-→+)の実際生活への適用には
当然多くの探求と交わりが必要とされます。
それは折に触れて少しずつ提示して行きたいと思っております。      

2007年10月20日土曜日

あるメール交換から 2

今日の貴方のブログの言葉から思うに、
私には今キリストを最優先することが求められています。
確かに今それが大切なことは分かり始めているようです。
所が 私の現実はと言えば・・
 
昨日もある展覧会に行ったのです。それはよいとして
帰り道に洋服にとらわれ店をうろうろと歩きまわる。
そしてとうとう買ってしまったのです。ところが買った後には
ああこれは買う必要は無かったのだと後悔するのです。
更には食べることにも心とらわれ、おいしいものが食べたいと
またまたあちらこちらと・・しかし食べた後、
少し食べ過ぎた、ダイエット出来なかったと悔やむことに。
そんなこんなの真に情け無い日ごろの私なのです。

私の内には御霊が私の霊と一つとなっておられると言うのに
私の肉は何と根強いことでしょう。
サタンが徘徊して私を食いつくそうと狙っているのでしょうか。
何でこの頃こんなに私を狙うの?と私はわめいています。
肉の思いに支配されることが多い私にとっては、
求めることが苦しみの始まりとなったようです。
私はキリストの一部だと言うのに これは変ですね。


私はあなたの問いかけに
ある気安いノウハウ等を提供することは出来ません。
何故ならあなたは神にとって実に尊い存在、
キリストの命を内に宿す真に稀有な存在、
即ちキリスト者であるからです。

「求めることが今 苦しみとなってしまった」
と言うあなたの言葉、不思議に思われるかも知れませんが、
実はこれは 神にとって 素晴らしい響きを持つ言葉なのです。
きっと今神はあなたにある接近をされているのでしょう。

だから今あなたは その神の働きかけに対して自発的に呼応し
真っ向から神に応答すべき時であると思います。
「神よ一体私の人生とは何なのですか!」と。そうです、
あなたの今回の問題は 決して単なる買い物の問題などではなく、
あなたの人生そのものの問題なのです。ですから
もしも仮にあなたが自ら 神に対して
その様な真剣な反応をするのでないならば 
あなたは何ものをも得ることが出来ないでしょう。

次に3つの方面から
この問題の背景に近づくことが必要と思います。
それは一つ一つ相当大きなテーマなのですが 
次回にその大略、鳥瞰図を少しだけ示すことが出来るでしょう。

2007年10月18日木曜日

ある交わりの回復

私たちが今 思いがけなくまた実に不思議にも 
このようにして再会するのは
早すぎても遅すぎてもきっとだめであったろう。
今この時 神は私たちを完全なそして絶妙のタイミングで
会わせて下さったのだ。神はほむべきかな。

総て事をなさるのは人ではなく神である。
イエスは言われたではないか
「私が教会を、ザ チャーチを建てるのだ」と。
神は人の余計な手出しなど全く不必要なのである。

私は今回「何かのグループ」の中に
「ある正しい教会の囲い」の中の中へ
あなたを連れ戻そうとしに来たのではない。
正当なグループとか「絶対的に正しい教会」とか、
それが一体何だと言うのか。
あなたは どこに帰るも帰らないもないのである。
どこに戻るも戻らないも無いのだ。
真にあなたは神から生まれ、今神の家族となり 
既にあのエクレシア(教会)の中にいるではないか。
私と共に 今既にキリストのからだの中にいるではないか。

私はだから ただ単純にあなたと交わりたいだけなのだ。
あなたは主にある私の兄弟である。もうそれだけで十分ではないか。
そこに何をどうプラスする必要があるのだろうか。
何もあろう筈が無い! 私たちの交わりとは
父そして私たちの長兄イエスキリストとの交わりなのだから。

私たちを今まで隔てて来たものは
何と言うことだろう「いわゆる聖書的正しさ」であった!
その「正しさ」がいつの間にか、
生けるキリストに取って代わってしまったのだ。「正しさ」が
言わば聖霊の生ける「ビリビリ」に取って代わってしまったのだ。

私たちが「聖書的正しさ」の故に盲目にされて来た長い年月
私の熱情と「正しい突進」によって
何と多くの私たちの愛する者を、主のものである兄弟姉妹を
踏み倒し、傷つけ、殺しさえして来たことであろう!

しかし生けるキリストを最優先する時、種々の「聖書的正しさ」も
そしていわゆる「教会の立場」でさえもきっと
ハーモニーの中で、そのふさわしい命にある位置づけの中で、 
その麗しい姿を自然に現してくれる筈である。
そしてその時に現れるキリストの全体は何と美しいことであろう。

だから この優先順位だけは決して間違えてはならないのだ。
どうしても無くてならないもの、それは決して多くは無い、
いや、只唯一つだけである。
それは今現在 どんな人も規定したり固定したり出来ない
実に「不思議」で自在なあの復活のキリストなのである。

私たちが若き日に見た明瞭なあの幻は実は、
決して「唯一の使徒による絶対的な神の託宣」等ではなく 
単純素朴、当たり前で普通の「これ」であった。
いかなる警戒心も無い、どんなものにも妨げられることの無い
総ての兄弟姉妹達との自由で屈託の無い普通の「交わり」であった。
それこそが「教会の実質」であり、それこそが
この時代における神の御心の中心なのである。

今後私たちが「この単純な道」を進んで行く時 
主の十字架は私をズタズタに引き裂くであろう。
それでも私は唯このためにある。
そんなに長くは無いであろう私に残された時間、
駆け抜けるべき最後のホームストレッチ
私の命は唯このためにある。

2007年10月17日水曜日

あるメール交換から

おたよりありがとうございます。
繋がることもいらない、もうキリストと一つなので、
その中に安息していればよかったのですね。
どうも落ち込んだりすると、自分の状態を見つめてしまっていけません。
そのときどうであっても、神が完成された事実を信じることですね。
私は十字架でキリストと共に死んで墓の中でした。
今生きているのは私ではなくキリストでした。

キリストをどの程度私に与えられたかは、イエスと私の区別がないほどに。
これ あまりにも恐れ多くてうそみたい!
でも神が達成されたということを信じる事でした。
愚かな自分に言い聞かせます。
すぐ引き出されていまい どうしようもない私の信仰を、
強めてくださいと祈ります。

☆ 
今回あなたのメールに大感激です。
実際神の真理はその殆どが「恐れ多くて嘘みたい」です。
だからこそ信じることが要求されるのです。
少し意志を用いて信仰と言うあなたの能力を機能させて下さい。
神はそんな嘘みたいな素晴らしいことを完成し、
私達に ただで貰うようにと言われるのです!
だからこそ恵みなのです。

そうです。言われるように 
その事実からから引き出されなければいいのです。
でもホンとの所 私たちはとてもたやすく引き出されます。
人間とは一日中 様々なとんでもない感覚に
ホンロウされているのが常だからです。
だから気がついた時 引き出されたと感じたら、
再びすぐに神の真理に戻ることです。
方法の一つとしては 口で神の事実 真理を宣言することは有効です。
そして時には敢えてサタンにその真理をぶつけてやる、
「嘘つきサタンよ、私はもうキリストの一部なのだ!」と。

そして更にその主と一つである事実に
「しみじみと浸る」ことが出来れば最高です。
これがいわゆる恍惚の時!
しかしそれは一寸した上級段階です。
これは徐々に練習して見てください。これたとえ すぐに出来なくとも
ガッカリしてはいけません。決してそれが敵に利用されてはなりません。 
感覚がなくとも事実は事実なのです。
天的感覚は時に応じて上からくるのです。

あくまで 神が達成済みの事実→信仰→感覚です。
この順番がくつがえることはあり得ません。

2007年10月16日火曜日

末期がん、ある老婦人(91才)の言葉1

がんは胃がん、今肝臓にも転移し貧血がひどくいわゆる絶望的状況。
九州は300年の歴史を持つ禅宗のお寺の住職夫人。
夫と死別後も気丈にお寺を守ってこられた。

ところが長女が8年くらい前に
何とキリスト者になってしまったのである!
その日以来、この長女(たか代さん)に対し、
つらく当たる日々が続いたと言う。
それでもたか代さんは折に触れイエスのことを
お母さんに語り続けたのだと言う。
当然お母さんのそれに対する反応は全くけんもほろろであった。

平成13年がんが発病した。
にもかかわらずお母さんのたか代さんに対する態度は軟化する所か 
むしろ その嫌がらせはエスカレートして行った様である。
徐々に病状は進行し今年6月14日入院された。

そして遂に時至り、
お母さんの心に徐々に確実な変化が見られ始めたのだ。
医師が
「正直去年の12月まで持てばと思っていた。
存命されているのも不思議なのに今 このような状態に
保たれているのは到底考えられないこと」と語る中、

今年の夏のある日:
たか代さん「お母さん、イエス様のこと分かる?」
お母さん「6割くらい分かるよ」
後日「今日は8割分かる」
そしてとうとうある日 
たか代さん「お母さんイエス様 分かる?」
お母さん「完全に分かったっ!」

8月7日:
何とベッドで両手を高々とさし上げ、声高く宣言されたと言う。
「全国の皆様ーっ、私はイエス様を信じますー!」
これらのお母さんの発言は誰にも教えられない
完全に自発的なものである。

後日:
「この方しか神はいない。この方の右に出る者はいない!」
お孫さんに対して「今イエス様だけが神だと分かるよ」

2007年10月15日月曜日

主がされる

山川ご夫妻が 
先ほど 明るい朝の光の中 紅葉に見送られるように
帰って行かれました。

とても不思議でした。
「確かに今主が何かをされようとしておられる」
昨晩と今朝 その実感が3人の間を去来しました。
彼はもう一人の関西に住む 主にある兄弟のことに触れ、その兄弟が
「私のこれからの人生は主によってズタズタにされるだろう」と
言われたそうです。ズタズタにされるとは 主に従うことによって
彼が負わなければならない十字架のことです。
この兄弟も近く山川ご夫妻と共にこの小屋に来られると言います。
これらは総てつい最近 
立て続けに彼らの間で起こったことのようです。

「私は・・私の教会を建てよう」(マタイ16の18)
この最後の時代
このことについて私は 人がここに入り込む余地は殆ど何も無いと
感じさせられるばかりです。

2007年10月14日日曜日

3つのメールから


H さんへ:
・・・敢えて平明に言うと それは自分から抜け出し、
キリストを自分とすること、キリストに自分を置くこと、
この時空にある自分を天におられるあの人の中に移す、置き換える
とも言えるでしょう。(平明には行かないか!)
「神はキリスト全体を私に与え、私とキリストを一つに連ねた」と
ある人は言います。つまり、神にとってはキリストと私の間に区別は
ないのです。一つとは区別がないことです。それは 
ブドウの枝と木に区別はないのと同じでしょう。

私は今 死・水の中なのですから、私と言う存在、私の命、生活
私の人生も運命も死の中です。そして今この宇宙にある真の存在は復活の
キリストだけなのです。(I AM)
だとすれば私はどこにいるのか、
そのキリストの中にいるだけでしょう(彼と私は共に蘇らされたから)
誤解を恐れずに言えば、私達は今日の奥義的天地のイエスとさえ
されているのです。
「サウロ なぜ私を」とイエスは言った(使徒行伝22の7)
この御言葉の「私」とは明らかにクリスチャンを意味しています。


このことを内的に知るには 私の強い願いとそして
神の啓示がどうしても必要です。原則的には私たちが門を叩かなければ
神は開けてくれることはないでしょう。
この点で 宇宙の中で H さんと神だけの二人きりになり
H さんが 個人的に神に強く迫って行くことが基本だと思います。
祈っています。

☆ 
A さんへ:
本当は「繋がろう!」とすることさえ要らないのです。
なぜなら 神によってもうあなたはキリストと一つにされているからです。
(Ⅰコリント1の30)
実はそのことに感謝し、その事実に安息していることが
「私に繋がっていなさい」なのです。
「あなたは今東京にいる」は事実、だから
「主よ私を東京におらせてください」と祈るのは変です。
「ああ、私は東京にいる、有難うございます」でいいのです。
神の言葉によれば もうあなたはキリストと一つとされている、 
キリストの中におらせられているのです。
単純に神の言葉を信じるのが一番です。
神が唯の一回とて いいかげんなことを言われる可能性があるでしょうか。


おはようございます。
自分の状態を見つめるのではなく、先ずは
「せっかく神が私たちのために完成された事実」を信じるべきです。

それによると、
そのような「いやな私」は今はもう墓の中です。
イエスが十字架にかけられた時、「君もそこにいたのか」(聖歌)
そう確かに君もそこにいたのです、イエスの中に、イエスと一つの中に。
(唯見ていたのではありません、十字架の影に、でもありません、
イエスのそばに、でさえありません)

「神がどの程度にキリストを私たちに与えられたのか?」:
それはイエスとあなたの区別がないほどに
二人を一人としたほどに、その程度までに
神はイエスをあなたに与えられたのです。
実はよく聞く「主にあって」とはそう言うことなのです。
(このフレーズをクリスチャンの間の殆ど意味のない挨拶言葉に 
してはなりません。)
完全で本質的なイエスとあなたの一つ、
それは神が既に達成された基本中の基本の真理であり
このこと無しにキリスト者が前進して行くことは殆ど不可能です。

御子がせっかく命を捨ててまでして A さんの為に用意された
このようなプレゼント(キリストとの1つ、の事実)を もしも 
見つめることさえせず無視し、もらってくれないのであれば 
神の悲しみはどんなでしょう。

私たちは先ずは それに手を伸ばし
「有難う」と言って無邪気な子供のように貰えばよいのです。 
神が私たちにして欲しいこと、
それは唯 信じてその事実を頂くことだけなのです。


下の写真:
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この写真のように この間まで一面緑だった木々も
今朝小屋の周りは「紅葉3分咲き」とでも言った所です。

今正に 落葉広葉樹の葉を透かしにして
朝の光が 舞台の照明ライトのように
華やかに輝いています。

和室から 今日よりも更に進む紅葉を眺めるであろう
山川ご夫妻の為に 
明日の朝も晴れてくれないかなー。
お二人 新潟から今日の夕方小屋に着かれます。