2007年10月14日日曜日

3つのメールから


H さんへ:
・・・敢えて平明に言うと それは自分から抜け出し、
キリストを自分とすること、キリストに自分を置くこと、
この時空にある自分を天におられるあの人の中に移す、置き換える
とも言えるでしょう。(平明には行かないか!)
「神はキリスト全体を私に与え、私とキリストを一つに連ねた」と
ある人は言います。つまり、神にとってはキリストと私の間に区別は
ないのです。一つとは区別がないことです。それは 
ブドウの枝と木に区別はないのと同じでしょう。

私は今 死・水の中なのですから、私と言う存在、私の命、生活
私の人生も運命も死の中です。そして今この宇宙にある真の存在は復活の
キリストだけなのです。(I AM)
だとすれば私はどこにいるのか、
そのキリストの中にいるだけでしょう(彼と私は共に蘇らされたから)
誤解を恐れずに言えば、私達は今日の奥義的天地のイエスとさえ
されているのです。
「サウロ なぜ私を」とイエスは言った(使徒行伝22の7)
この御言葉の「私」とは明らかにクリスチャンを意味しています。


このことを内的に知るには 私の強い願いとそして
神の啓示がどうしても必要です。原則的には私たちが門を叩かなければ
神は開けてくれることはないでしょう。
この点で 宇宙の中で H さんと神だけの二人きりになり
H さんが 個人的に神に強く迫って行くことが基本だと思います。
祈っています。

☆ 
A さんへ:
本当は「繋がろう!」とすることさえ要らないのです。
なぜなら 神によってもうあなたはキリストと一つにされているからです。
(Ⅰコリント1の30)
実はそのことに感謝し、その事実に安息していることが
「私に繋がっていなさい」なのです。
「あなたは今東京にいる」は事実、だから
「主よ私を東京におらせてください」と祈るのは変です。
「ああ、私は東京にいる、有難うございます」でいいのです。
神の言葉によれば もうあなたはキリストと一つとされている、 
キリストの中におらせられているのです。
単純に神の言葉を信じるのが一番です。
神が唯の一回とて いいかげんなことを言われる可能性があるでしょうか。


おはようございます。
自分の状態を見つめるのではなく、先ずは
「せっかく神が私たちのために完成された事実」を信じるべきです。

それによると、
そのような「いやな私」は今はもう墓の中です。
イエスが十字架にかけられた時、「君もそこにいたのか」(聖歌)
そう確かに君もそこにいたのです、イエスの中に、イエスと一つの中に。
(唯見ていたのではありません、十字架の影に、でもありません、
イエスのそばに、でさえありません)

「神がどの程度にキリストを私たちに与えられたのか?」:
それはイエスとあなたの区別がないほどに
二人を一人としたほどに、その程度までに
神はイエスをあなたに与えられたのです。
実はよく聞く「主にあって」とはそう言うことなのです。
(このフレーズをクリスチャンの間の殆ど意味のない挨拶言葉に 
してはなりません。)
完全で本質的なイエスとあなたの一つ、
それは神が既に達成された基本中の基本の真理であり
このこと無しにキリスト者が前進して行くことは殆ど不可能です。

御子がせっかく命を捨ててまでして A さんの為に用意された
このようなプレゼント(キリストとの1つ、の事実)を もしも 
見つめることさえせず無視し、もらってくれないのであれば 
神の悲しみはどんなでしょう。

私たちは先ずは それに手を伸ばし
「有難う」と言って無邪気な子供のように貰えばよいのです。 
神が私たちにして欲しいこと、
それは唯 信じてその事実を頂くことだけなのです。


下の写真:
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この写真のように この間まで一面緑だった木々も
今朝小屋の周りは「紅葉3分咲き」とでも言った所です。

今正に 落葉広葉樹の葉を透かしにして
朝の光が 舞台の照明ライトのように
華やかに輝いています。

和室から 今日よりも更に進む紅葉を眺めるであろう
山川ご夫妻の為に 
明日の朝も晴れてくれないかなー。
お二人 新潟から今日の夕方小屋に着かれます。 

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