神はキリストと言う宝の箱の中から、人々の祈りに応じて
ルビーやらダイヤモンドやら愛やら忍耐やらを
Aさんには忍耐を Bさんには愛をと言うふうに小分けして
1つ1つプレゼントしてくれるのではない。
これは人の生来の宗教心からたやすく生じ得る観念であり
神の方法からはハルかに遠い。
これは多くの熱心なキリスト者の間にさえ
広く行き渡っている極めて大きな誤解である。
神はキリストご自身と言う唯一つの答をあなたにそっくりと与えられる、
と言う手段のほか他の方法を取る事はあり得ない。
ヨハネ3の16の前半に言うように
神は「キリスト全体」を私個人にさえ惜しげもなく与えて下さったのである。
この意味では 神はもうやるべきことを全部やってしまわれたのだ。
なぜなら私に「総ての解答とその実質であられるキリスト」をもう既に
「私の内に」与えてしまわれたのであるから。
(だから「私に愛を与えてください」と言う祈りに神は
応えようがないと言えるのである!)
☆
少数のと言えようか 更に主を追い求める人々は
内住の生けるキリストを言う。
そしてひたすら自分の魂が造り変えられ
自分が聖化することを望むのである。
当然この願いは間違っているとは言えない。
否、それは新約の標準に迫って行くものでさえあり
彼らの水準は前述のキリスト者達とは比べるべくもない。
しかしとても不思議なことに その願いは簡単にはかなわないように見える。
いや、間違いなく殆どその成果は見られない
と言う方が当たっているであろう。
目標は明確なのだが、そのゴールはどこまでも行っても
要するにあの高嶺の花なのだ。
このキリスト者の一般的傾向は容易に、
その高嶺の花によじ登ったかに見えるある少数の人間を崇拝すると言う
恐るべき結果に繋がって行くのである。
これは確かにどこかおかしい、何か変だと言えそうである。
☆
そこで私の提言とは:
「神は私にキリストをどの程度に与えておられるのだろうか」
と言う問題が真に意識され追求されなければならない
のではないか、と言うことである。
(この点、敢えてここでは詳しくは触れない)
そのようにして
「自分が変えられたい、自分が聖くなりさえすればと言うワナ!
その自分が、私が、私が、と言う落とし穴!」
(イザヤ14の13、14)
に気づいて行く必要があるのではなかろうか。
日々そんなにまで自分を見つめる、或いはぼんやりと他人に羨望を抱き
見るのは毎時自分だけ、そのようにして何らかの力によって真に巧妙に
私たちの視線の先はたやすく天のキリストから
「地の自分と人間達の渦巻き」に移されてしまうのである。
それが本当の新約なのであろうか、真に私のあるべき姿なのであろうか、
私たちに対する本当の神の願いなのであろうか。
3 件のコメント:
私とキリストとの置き換えは、具体的には、日々の生活の中で、自分の思いと真理(御言葉)を信仰によって置き換えて行くこと・・・でしょうか。
詳しいレスをいただきました。感謝します。
「主に留まる」とはどんなことなのか、よりクリアに見えてきました。
ゆっくり、じっくり主と交わって行きたいです。
祈っています。
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