事実、御子において万物は創造された。天にあるものも、
地の上にあるものも、見えるものも見えざるものも、
王座であれ主権であれ・・万物は御子を通して、
そして御子に向けて創造されている。(コロサイ1の16)
☆
今日キリスト者にとって
「万物の創造は御子の中で行われた」という真理の影はとても薄い。
多分 創世記1の1の強い印象のせいであろう。
そしてそもそも人の生まれながらの観念も
この真理に強く反発せざるを得ない。岩波訳の脚注、
そしてダービー訳の脚注でさえ
「正直に」この「御子の中で」にとまどいを見せている。
さもありなん。確かにそれは同情出来ることではある。
しかし、コロサイ書は神の言葉なのだ。従って、単にその理由の故に
この聖句はそのまま単純に受け入れるのが最も賢いと私は考えている。
確かに万物は「御子の中で」創造されたのである。
するとどうなるのか。
万物宇宙というものは御子の中に存在していたのである。従って
御子がアダムとして神によって死の判決を受け、水中に没したとき、
万物(物質の宇宙とその中の総て)も死の判決を受け
そして実際 死と言う水の中に没したのである。
そして御子が、アダムの次なる人(第二の人)として復活した時、
イエスと言う箱の内に信じ入った者は誰でも「新創造、全く新しい生きて
愛のある宇宙、復活と言う超越した永遠の領域、
拡大した天地の奥義的イエス、新しい人、神ご自身」と一つとなり
その生ける構成要素とさえされたのである!
☆
父は私たちを闇の権勢から助け出し、その愛の御子の王国的支配の下へと
移しいれてくれたのである。(コロサイ1の13)
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。(ヨハネ15の5)
3 件のコメント:
イエス・キリスト様を信じ新しく、創造された私は、この方の愛の中でやすらぎを得て、心から心から今喜んでおります。ぶどうの木に、枝としていつまでもぶらさがって、歩んでいきます。
お言葉ありがとうごだいました。ぶら下がっていると力がいります、きがつきませんでした。木であるイエス様につながっていれば良いのですね。
安息する、それが信仰の最高の姿
かも知れません。お母さんの胸に憩う
赤ちゃんですね。もう信じていると言う
意識さえない筈です。
でも神は私たちの本の僅かの信仰でさえ
受け入れて下さるのです。
主よ、不信仰な私を助けてください!
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