私たちが今 思いがけなくまた実に不思議にも
このようにして再会するのは
早すぎても遅すぎてもきっとだめであったろう。
今この時 神は私たちを完全なそして絶妙のタイミングで
会わせて下さったのだ。神はほむべきかな。
*
総て事をなさるのは人ではなく神である。
イエスは言われたではないか
「私が教会を、ザ チャーチを建てるのだ」と。
神は人の余計な手出しなど全く不必要なのである。
*
私は今回「何かのグループ」の中に
「ある正しい教会の囲い」の中の中へ
あなたを連れ戻そうとしに来たのではない。
正当なグループとか「絶対的に正しい教会」とか、
それが一体何だと言うのか。
あなたは どこに帰るも帰らないもないのである。
どこに戻るも戻らないも無いのだ。
真にあなたは神から生まれ、今神の家族となり
既にあのエクレシア(教会)の中にいるではないか。
私と共に 今既にキリストのからだの中にいるではないか。
私はだから ただ単純にあなたと交わりたいだけなのだ。
あなたは主にある私の兄弟である。もうそれだけで十分ではないか。
そこに何をどうプラスする必要があるのだろうか。
何もあろう筈が無い! 私たちの交わりとは
父そして私たちの長兄イエスキリストとの交わりなのだから。
*
私たちを今まで隔てて来たものは
何と言うことだろう「いわゆる聖書的正しさ」であった!
その「正しさ」がいつの間にか、
生けるキリストに取って代わってしまったのだ。「正しさ」が
言わば聖霊の生ける「ビリビリ」に取って代わってしまったのだ。
*
私たちが「聖書的正しさ」の故に盲目にされて来た長い年月
私の熱情と「正しい突進」によって
何と多くの私たちの愛する者を、主のものである兄弟姉妹を
踏み倒し、傷つけ、殺しさえして来たことであろう!
しかし生けるキリストを最優先する時、種々の「聖書的正しさ」も
そしていわゆる「教会の立場」でさえもきっと
ハーモニーの中で、そのふさわしい命にある位置づけの中で、
その麗しい姿を自然に現してくれる筈である。
そしてその時に現れるキリストの全体は何と美しいことであろう。
だから この優先順位だけは決して間違えてはならないのだ。
どうしても無くてならないもの、それは決して多くは無い、
いや、只唯一つだけである。
それは今現在 どんな人も規定したり固定したり出来ない
実に「不思議」で自在なあの復活のキリストなのである。
*
私たちが若き日に見た明瞭なあの幻は実は、
決して「唯一の使徒による絶対的な神の託宣」等ではなく
単純素朴、当たり前で普通の「これ」であった。
いかなる警戒心も無い、どんなものにも妨げられることの無い
総ての兄弟姉妹達との自由で屈託の無い普通の「交わり」であった。
それこそが「教会の実質」であり、それこそが
この時代における神の御心の中心なのである。
*
今後私たちが「この単純な道」を進んで行く時
主の十字架は私をズタズタに引き裂くであろう。
それでも私は唯このためにある。
そんなに長くは無いであろう私に残された時間、
駆け抜けるべき最後のホームストレッチ
私の命は唯このためにある。
4 件のコメント:
今日は、優先順位という言葉に、心とまりました。このことについて思い巡らしてみます。
はじめして、meekともうします。春ごろにemiさんから勧めをいただいておりました。私も子どものことで悩み、最近、回復を体験いたしました。「~ハーモニーの中で、~その麗しい姿を自然に現してくれる筈である。
」まことにアーメンです。Mr.Sugerさんの息子様のこともお祈りしております。
匿名さん、コメント有難う。
例えば、被造物の中で
神の偏重とも見える優先順位のトップは
人間です。
何故だか私にはわかりませんが、
これは明らかな事実です。
MEEK さん、
私のコメントなぜか今開通しました。
息子のこと有難うございます。
ミークさんのコメントを見て
なぜか今 息子は大丈夫だ、と
感じさせられました。不思議です。
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