2012年1月22日日曜日

一寸怖いようなカリマンの風景です

やはり夜間降ったのですねー、
ケサ起きてみると、積雪は合計30センチから40センチ
と言ったところでしょうか。まるで夏の氷水の氷のように、
デッキの手すりに、小さな壁のようにこんもりと積もっている
様子が面白いです。

しかし、今夜が明けて周囲の状況が見渡せると、
あまり豪雪に見慣れない私の目には、静寂と雪の中に完全に
沈んでしまった「一寸おそろしいカリマン」と言った感じです。

ロイヤルロードは大丈夫でしょうか。でも今日あわててやったら
相当の除雪量になってしまうでしょう。でも幸いなことに、
今日の日中の気温は氷点下ではなく、プラスになるようだから、
うまく行けば雨も期待できるでしょう。なので除雪は明日する
ことにします。明日は曇りで明後日からお日様マークだから、
雪は相当減るでしょう。いずれにせよマキと食料さえあれば、
命に別状はありません。

ストーブに薪をくべる間隔ですが、何と基本12時間ごとでも
大丈夫かな、と言うことが分ってきました。そうすれば朝と夕方の
6時に、日に二回だけ相当量のマキをストーブ内に詰め込めば
よいわけで、これは随分と楽だし、一日のマキの量も大幅減に
なるでしょう。ま、あとは気分と状況によって3時か4時ごろに
2、3本放り込んでやればよいわけです。

さあ、それではこれから朝の6時の薪入れをしましょう。
昨晩7時半に入れたマキがちょうどいい具合のオキに
なっております。

2012年1月21日土曜日

やはり除雪機は要るのかな

今日、未明までの積雪は10センチ。これだけなら
なんら問題ではなかったのです。しかし、
「今日・日中は曇り」という予報がはずれ、今現在も
雪が降り続いております。問題は更に、
今晩から明日朝まではハッキリ雪が降ると。

いずれ林道までは市の除雪車が来てくれますが、
「ロイヤルロード」(私道)の結構な距離(150M?)は
全くの自己責任であり、住民は私ただ一人。

結論として、明日になって閉じ込められないように、
今日のうち、ある程度は除雪しておかなければなりません。
ロイヤルロードの問題箇所(よく車が動けなくなる所)は
4箇所ほど。そこらを重点的にです。

一気かせいにやろうとすると、老体にこたえますから、
午前と午後に分けてやりましょう。
(これではやはり除雪車は要るのかな)

*
今午前の作業を終えて帰って来ました。
雪はまだドンドン降っています。この様子だと大雪の可能性も
否定できないでしょう。にも関わらず、何故か今年の場合
心が安らかのはとても不思議、神に感謝です。

2012年1月20日金曜日

うらめしそうな炎

細かい「米の子」のような雪が降り続いております。
夕方まで、ということですが、今デッキの手すりの上は
5センチもないから、困るようなことにはならないでしょう。

イザ薪ストーブを真面目に焚いて見ると、日々新鮮な
オドロキが体験できる、と言ってもよいようです。

例えば、出る灰の量の物すごさ!少なくも3日に一度は
始末をしなければならないのです。

さてマキをくべる回数ですが、一日3回だけにおさめられるとして
夜の8時→朝4時→昼の12時が適当かな、と思っております。
昨晩は夜7時過ぎに大量に入れ、空気の供給を「これでもか」
というくらい少なくしたのでしたが、それでも、窒息寸前の
「うらめしそうな小さな炎」が私を裏切って、深夜
この世から消滅してしまうようなことはありませんでした。※↓

で、新たにマキを入れた時間は朝4時半でした。
だから一回のマキ入れで、9時間の間、適温をキープしたことに
なります。よい薪が手に入れば、更に記録は延ばせるでしょう。

↑※与える酸素の量に応じて、薪と炎は私の聴覚と視覚に、まるで
人間か生き物のような微妙な反応を示します。その愉快な反応を
私はストーブのある部屋の寝床で感知しながら眠りに入る
のですが、これらについて書き始めるととても長くなりそうなので
今日はこの辺でやめることにします。

2012年1月19日木曜日

世界一の横着料理

しばらくぶりで大工をやっています。
バスルーム入り口の天井や壁です。ここの開いた天井から
暖気がドンドン天井裏に逃げてしまうのです。これが
なくなれば暖房効率は更に上がるでしょう。
この工事、二日くらいはかかるかも知れません。

ストーブの性能が分かってきたので
マキをくべる回数が激減しています。
6時間ごとであれば、一日4回で済みます。
近い将来、3回を目指したいです。
世界の中には、2回や1回の名人もいるかも知れません。
会ってお話を聞きたいものです。

ダッチオーヴンに、
肉、シシャモ、じゃが芋、サツマイモ、玉ねぎ、しいたけ、
キャベツ、ハクサイをぽんぽん放り込んで蒸しました。
世界一の横着料理です。(でもこれを料理と言えるのかな)
しかし肉は固くなってしまって残念でした。


★
魂はどうしても先頭を切りたがる。
しばしば衝動的に勝手に走り出すのである。
人にとって魂は必要ではあるが、先頭を切ってはならない。
魂自身、静かで奥ゆかしい主人(細き糸のような霊の声)
の後に従う時に最も幸福なのだから。

*ここで言う霊とは人の内的1機能としての霊です。
キリスト者の場合その奥に聖霊がおられます。

2012年1月18日水曜日

意外な現実

私のような者でも、
薪ストーブを昼夜焚いて見ると、薪ストーブの薪というのは
「雑誌の写真」のように「ガンガン燃やすものではない」
と言うことがようやく分って来ます。
これは相当意外な現実です。

現実は
「燃やす」と言うよりも、むしろ薪を「いぶす」か「蒸す」
に近いと思われます。そうやって初めて、24時間、
安定的に屋内の適温をキープすることが出来るのでしょう。
今朝も起きて見ると、ストーブの中の薪は全く姿を消し
大量のオキが残っているだけでした。しかしオキの保温力と
維持時間は結構なもので、居間の温度は25度を保っていました。
(外はマイナス7度)

もしもガンガン燃やしていたら
薪がいくらあっても足らない上に、
薪をくべる手間がとても多くなるし、第一に
あまりに高温になって危険でしょう。

従って夜寝る前に、薪をストーブ内に、どの程度の量を
どのように入れ、どの程度の空気をストーブ内に送るのかの
酸素調整がカギとなるようです。(これは炭焼きと似ています)
私はその辺のコツはまだつかめておりません。だから
今後、最小のマキの量で、一日中最大の快適さを
どう確保するか、が今後のテーマとなるでしょう。



★
「霊の中のか細い糸」に寄り添い、離れず、

「みこころ」を行うべく、
自分の足で立ち上がって前に踏み出す一歩一歩。

その時こそ、
霊の中の聖霊はあなたに
万事に「ちょうどよさ」の中を歩ませる
天的な力を与えられます。

*「霊の中のか細い糸」とは、みこころを指し示す
とても静かな声です。
*みこころは、生活のゴク小さな場面をも含む
大小の自分の「分」を果たそうと意志する心に示されます。

2012年1月16日月曜日

老人部屋をやめてよかった

お蔭様で我が
「昼夜たきっぱなしの薪ストーブライフ」がどうやら
軌道に乗るのかな、と言うところまで来ました。

思えば、去年の正月、一寸ヒドイ風邪を引いた時、
身の危険を感じ、地下に小さな石油ストーブ一個を置き、
クマのようにワンルームで冬眠する「老人部屋」を
増築するしかないか等と、半ば決めかけていた私の所に、
何とあの3・11の直前、神が遠くからわざわざ「御使」を
この山小屋に遣わして「ちょっとあなた、何する気なの」と
ヤンワリと語りかけて下さったのでした。
(すんでの所で御使が放射能を浴びなくてよかった)

そのことがキッカケとなり、大変な思いをして、地下に
老人部屋を作るのはやめて、既にある「居間ケン台所」に
ベッドを持ち込み、ちゃんと薪ストーブを昼夜焚いて見たら
よいではないか、と言う結論に至ったのでした。

人というのは、
「真の経験者」のよいアドバイスを素直に聞き・・A
聞いたら、
自分で本腰を入れてしっかり取り組んで見ないと・・B
先入観や人々の雑多な言葉等が邪魔をして「本当の所は何も
分らないんだなあ」と改めて感じ入っている所です。

*
これを神の道に当てはめて見ると
A.真の経験者・神のことばを素直に聞き、それを知ったら、
B.聞いただけでなく今度は、立ち上がって自分の意志で一つ一つ
実行して見ないと本当は何も分らない、
ということでしょうか。

2012年1月14日土曜日

おじいさんは山に柴かりに

今小屋にある薪は、地下や
「地下の地下」のあちこちにほおってある
古すぎる朽ちかけた薪と
去年の秋に干し始めたばかりの薪です。

前者は非常に良く燃えるのですが
短時間で燃え上がってしまいますし、
後者は相当太い上に、丸のまま、しかも
乾きが不十分です。(本当は1、2年の乾燥が必要)

今のままだと
古い方は早ければ2月半ばで終わってしまうでしょう。
(でも正直、もう灯油は燃やしたくない気分)
それで春までどうするかですが、一つの案として・・

チェンソーを手に持ち、小屋の周辺から始めて、
森の倒木や腐れかけた木をカットし、車に積んだ段ボールに
入れて持ち帰る、と言うことです。
一日24時間分ですが、段ボール5つもあれば十分でしょう。
倒木や朽木ですので、割らなくとも十分燃えるはずです。

これは、毎日「明日使うエネルギーを今日」山に拾いに行く
というもので、連日となると、明らかに大変な作業には
違いないのですが「ただで高価な灯油やエネルギーを山に
拾いに行ける」し、その上森も美しくなる、と思えば、
勇気も出るのではないでしょうか。

これは正に、今様
「おじいさんは山に柴かりに」ですね。

2012年1月12日木曜日

今日は一番の寒さ

無風快晴、穏やかな明るい朝です。
もうすぐ山の端に落ちる十八日の白く淡い月が
西の窓の正面に見えます。それに先ほどまで
薄いピンクの朝焼けがとてもキレイでした。
今日は全国的に一番の寒さらしいので
ここの様子も書いておきましょう。

予報から、
多分この下の集落・岩井沢の気温はマイナス8度くらい
のはずです。そして、岩井沢の山の上にある
ここ山小屋の外気は-12度でした。阿武隈の中でも、
ここカリマンはやはり寒いところなのでしょう。

次に薪ストーブ効果ですが
4時前に起きた時、既にストーブ内に、ゆらめく炎はなく、
ただオキが残っている状態でした。それでも居間の温度は
19度で、寒さは感じません。こういう場合、ストーブ自体と
「火床」がまだ相当高温なので、大きな薪でも、
入れると直ちに勢いよく燃え上がってくれます。

薪ストーブには
「昼夜安定的に家中、心地よい気温を維持する」という役目
があるわけですが、このデンマーク製(モルソー1620CB)
はその点、一応合格と言えそうです。

2012年1月10日火曜日

蒸しバナナ

朝食のバナナが、
薪ストーブの上でほどよく蒸し上がるのを待ちながら
これを書いています。

目を上げると、サラッと雪で薄化粧した小屋周辺
明るい朝の光に輝く光景です。
雪もこの程度なら大歓迎なのですが・・

そうそう先ほどまで、西に沈む大きな十六夜の月を
眺めておりました。冬の夜明けの月見です。

昨日、ストーブのそばに置いた大きすぎるソファを
取り除き、ストーブの周りをいろいろと整理したら
居間がずい分とスッキリしました。

今日から、居間専用の棚を作ろうかなと思っております。
ドア付きの、その小さなタナに電話の親機・ラジオや居間で
使用する小物を入れられれば、更にスッキリとするでしょう。
(電子レンジも入らないかなー)

薪ストーブライフもだんだん軌道に乗って来ると、
寒さをどうするかは、いつの間にか問題ではなくなり、
「暑さをどう対処するか」が問題となります!
これは予想だにしなかった一つの事実です。夜中、
タオルケットは蹴飛ばしてしまうし、
今朝はとうとう、ズボンの下のタイツを脱いでしまいました。
今現在室内は29度、しかし、29度もあると感じないのは
どうしたことでしょう。これは一つの不思議。
(外はマイナス6度です。)

今、霊的には
ごく小さな日常茶飯事・些細な起居動作の中で
神の力を体験する、がテーマとなっています。

ちょうどよい加減に蒸しあがりました。それでは、
ナイフとフォークで「スイーツに変身した」
二本のバナナをいただきましょう。

2012年1月7日土曜日

人の自由意志

私は総てを「意識をもって主体的に」
行動するべきである。
だから私・私の意志は、自分の魂と体を
意識的に用い、使用し、機能させなければならない。

「半無意識的に、何となくやる」はよくない。
「何か」が飛来して来て、知らぬ間に、
私の魂と体を動かすのを待つ、期待する、
のはよくない。
その内に、フワッと「神秘的、超自然的な力」に
乗っかりたい、とあこがれるのはよくない。

今日、このような考えが、キリスト者の間で
「霊的」と思われているかも知れないが
それは聖書の真理とはほど遠いものである。

*
神は人と同労したい、人と共に働きたい、のであって
神ご自身が、人に
・取って代わって、
・成り代わって
・置き換わって
・人の皮をかぶって
行動されること等ない。
神は断じて人をアヤツり人形にしたいのではない。

人は断固「神のみこころ」のために、
自ら立ち上がらねばならない。
確かに神と聖霊は、人がみこころの為に立ち上がるように、
人に対して全力で働きかけはするが、最終的に
神が人の中にもぐりこんで、人の代わりに、
人の知らない間に、立ち上がられる、
ということはない。

実際の所、そのように働きかけるのは、聖霊ではなく
巧みに人の心にしのび込むヘビ・悪霊そのものである
ことを私達は知るべきである。

これが創世記3章の警告であり
かように、人の自由意志は極めて尊い。

*
「では、シッカリと立ちなさい」パウロ(エペソ6の14)

2012年1月6日金曜日

小屋中が乾燥してきた

「小屋の中が乾燥してくる」
これが薪ストーブの一つの効果です。

一例として
靴下を履いていると何となく
足と靴下がジメッとして来るものです。
(石油ストーブ等では特に)
気持ちが悪いので、
靴下を脱いで干したくなります。

しかし今は、足も、はいている靴下もカラッとしており、
不快感がありません。確かにこれは愉快なことです。

外は相当の低温で、
内外の大変な温度差にも関わらず
(あ、今地震です、8:29am)
窓に結露は見られません。
これで、悩みの「ロフトの屋根の結露」も
なくなったらいいなと思っております。

また
ストーブで室内が30度になっても
(しばしばそうなります)
夏のような不快感がないのも
この乾燥の効果かも知れません。

2012年1月5日木曜日

まじめに薪ストーブ

「まじめに」薪ストーブを焚いています。
(今まではまじめでなかったと言うこと)
目標は昼夜焚き続けることです。

問題はマキの量ですが・・
つまり薪のストックが少ない、ということですが、
今年は行ける所まで行ってみようと思っています。
(来年以降の為の薪集めは春から、ということで)

薪ストーブの威力はやはり大したものです。
今日は結構寒くて今現在朝の9時、日が照って来たので
外はマイナス6度ですが、さっきまでマイナス8度でした。
ところが中は今一寸下がって24度です。
ウッカリすると、ストーブの中の薪の量などの関係で、
普通に焚いていても、裕に30度になってしまいます。

これだとどうやら一個の薪ストーブで小屋全体の暖房も
十分可能でしょう。
以上のことは、まじめにストーブを焚いてみて初めて分った、
私にとって、実に嬉しい誤算でした。

2011年12月29日木曜日

人の霊と意志

人の霊は神の意志(みこころ)を感知し①
人の意志は、人の霊をも含む全身を管理するべきです②

*

①
人の魂(知性、感情、意志)や体が
霊をさしおいて最初に、みこころを感知することはありません。
これは重要なポイントです。しかし後に「知性」も
みこころを知るのです。大切なのは順序です。

しかし悪霊は聖霊を装(よそお)い(聖霊のフリをして)
しばしば人の魂と体に、時に超自然的に「ニセのみこころ」を
知らせに来ます。(極端な場合、悪霊は肉体の目に見える
「イエス」として現れさえします。これがコリント書にある
「異なったイエス」でもあります。)

このようにして人はたやすく「みこころ」を誤解します。
今日これにだまされないキリスト者はむしろマレでしょう。
(あざむかれるのは熱心なキリスト者ほど多いようです。)

これと「ま逆」に、聖霊が人の霊に
神の意志を伝達する方法は直接的ですが、それはとても静かです。
だから私達は、自分の魂(思い、感情、意志)や体の興奮を避け、
静けさと落ち着きの中で終日「自然で無理のない」
生活を送るべきです。体と魂の騒音が聖霊のとても
「奥ゆかしい声」をかき消すからです。(聖霊の声はロックコンサート会場
のスグ外でないている、か細い秋の虫のささやきのようです。)

②

①の後は、
人の意志が「立ち上がる」必要があります。
人の意志が「示された神の意志」を遂行する決意を表明し
「他の諸機能」(魂と体)の「わがまま勝手」を拒絶し、
それらを管理する生活を実行しようと立ち上がる時に初めて
聖霊は人の力となられます。

②が現実のものとならないなら
「自然に」聖霊が人の力となることはあり得ません。
(これも重要なポイントです。)
もしも人が、②の「意志の表明」を明確に行わない場合
やはり悪霊が「無断で」キリスト者の中に侵入し、
「悪霊の不思議な力」を現すことがあります(予知能力等)。
その時キリスト者は、これを聖霊の力だと誤解して喜ぶでしょう。
しかし徐々に悪霊はそのキリスト者を苦しめ始めます。
これも今日のありふれた光景です。

2011年12月28日水曜日

穏やかな冬に感謝

ごぶたさしております。
だいじょうぶ、山で元気にやっておりますよ。
連日穏やかな好天で、神に感謝です。

正月小屋に人を迎えるので
今日は、午前の山歩きのあと、午後はストーブの薪を
南デッキに積みました。のびのびになりましたが
「連日24時間薪ストーブ焚きっぱなし」を
いよいよ実験するのです。

こうやってイザ冬に突入して見ると、
氷点下10度未満というのは大したことはないなー、
というのが実感です。最近は、朝マイナス7度くらいです。
これが20度、30度となると話は別でしょうが。
現にそういう所もあるのだから、人間の
寒さへの適応力は大したものです。

しかしながら、もしもドカッと大雪が降ったり、
水道が凍結するならばこんなノンキなことは言って
おれません。(長期ルス後の水道の凍結も今年はまだです。)
200メートルはある私道(ロイヤルロード)の雪かきは
70才の老人にはどう見ても体に悪いでしょう。

それで今、何と除雪機購入を考えているのです。
皆さん、よい情報はありませんか、安くてよい除雪機の。

2011年12月16日金曜日

山奥で今晩一人思ったこと

例えば
新宿のあの喧騒(けんそう)の本質は何でしょう。
それはひとこと空(くう)です。

しかし今、
神のことばなるイエスの本質は何でしょう。
それは復活、不死、不変、永遠、そして
極めて高くされた人間性です。

2011年12月14日水曜日

冬の穴グラ

まことに穏やか、
薄いブルーの空が美しい午後です。
もうすぐ太陽は山の端(ハ)に落ちると言うのに
ガラス張りのように大きな窓の多いこのLDKですが
無暖房でも19度もあります。(外気は5度)

風呂トイレだけは隣室になりますが、
これからいよいよ、このLDKで一冬を過ごします。
寝室ケンLDKのワンルーム、これはまるで動物の
「冬の穴ぐら」です。これから
屋内の生活は殆どこの空間だけで行うのです。

わざわざ地下に「老人部屋」を作らないでよかった。
お友達がよきアドバイスをくれなかったら
多分こうはならなかったのかも知れない。

2011年12月13日火曜日

山にもどりました

ホンとに暫くぶりで、昨日小屋に戻りました。
水戸から船引三春まで無料の常磐道と磐越道を走り
ました。それはそれはとてもラクチンでした。
(いつもは殆どオール下)

けさ7時、外気はマイナス3度ですが、小さな灯油
ストーブを二つ焚いて、25畳くらい(正確には
分りません)の居間台所(LDK)は今25度です。

風邪をひいて少し倦怠感があるのですが
今日は、車を冬タイヤに替えるために郡山まで行きます。

そのアト、できれば薪ストーブに点火したいです。
「今ある古い薪」(今乾かしている薪ではない)が
全部無くなるまで「昼夜たきっぱなし」をして見ようかなと
思っています。まきが全部なくなったら・・
そのアトは何かよい方法が見つかるでしょう。

夜が明けて暫くぶりで見る小屋からの光景、
葉が全部落ちて丸裸の山々です。

2011年12月6日火曜日

昨日の太郎さん

昨日
日赤病院の太郎さんのお見舞いに上がりました。
病室に入り、さらにやせ、顔がとても小さくなって
しまった太郎さんを見て正直私はアッと思いました。

しかし何と
その太郎兄弟は私の勧めを受け入れ
「神よ、私の一切をあなたにおささげします」と
聞き取れないような小さな声で祈られたのです。その後、
今度は英子さんのうながしによって
「これまで、あなたが私を導き、支えてくださったことを
感謝します」と言う意味のことを祈られました。

医師は
「アトは肝臓の移植手術しか手立てはない。
だから別の病院を捜すように。
この病院の受け入れはあと2週間だけです。」と
言ったそうです。

どう見ても、人の目から見るならば
太郎さんの肉体は絶望的な状況に違いありません。
この記事を目にした皆様がた、主の中にあるこの兄弟の為に
どうぞ続けてお祈り下さいますように。

2011年11月21日月曜日

「聖書を持ってきてくれないか」

糖尿病が相当悪化したある方について書きました。
その人の、キリスト者である奥様は何とか
夫の心が真剣に神と神の言葉に向かうようにと
メッセージのテープとか本とかをいつも一生懸命、
病床の彼に勧めたのでした。
「そうなってくれないと私は困るのです。
たくさん恩を受けた夫に申し訳ないから。」
これが中国出身の奥様の切実な思いでした。

しかし彼は全く聞き入れてくれません。
彼の言い分こうです:
「あなたの信仰は趣味みたいなものでしょう。
今日人の病気は医学が直すのです。」

このことに続くのが
11月4日→14日→15日の記事でした。

ところがその後17日彼は再び入院します。
家で意識がもうろうとし、口がきけなくなり
遂に意識を失い、病院にかつぎこまれたのです。
これはかなり深刻な事態です。

しかし何と幸いなことに
きのう20日に至り意識を取りもどし、彼は
枕べの妻を見たのです。

正にその瞬間
彼の口から最初に発せられたことばが
今日のタイトルのことばだったと言います。

「このことだけはお知らせしたい」
これが奥様であるE姉妹の今日午前の
せっぱつまった電話の内容でした。

皆様にも、お祈りくだされば幸いです。
実は東京渋谷区在住の飯田太郎、英子ご夫妻です。

2011年11月15日火曜日

千年間の救い

天に帰られたイエスはパウロに対して
「私は、この民と異邦人との中からあなたを
救い出し・・」と言われました。(使徒26の17)

ここでイエスは
救いとは「地獄からの救い」だけでなく
「この民と異邦人からの救い出し」であると
宣言されたことになります。

「この民からの救い」とは
「ユダヤ人からの救い」であり
それは当時の「正当な」宗教からの救いを
意味していたはずです。
パウロの生涯にわたるユダヤ教との戦いは
このイエスのことばに極めて忠実に従った結果です。

私たちも
地獄からだけでなく
今日の「正当な宗教」と異邦人(この世界)からも
救われなければなりません。
なぜなら

地獄からの救いとは「異邦世界の人々が」
無代価で与えられた永遠の命によって
永遠の時代において、永遠に
享受(きょうじゅ)するものですが、

この民と異邦人からの救いとは「キリスト者が」
自分の魂(自分自身)をいかに処(しょ)すかによって
永遠の前の千年の時代において享受されるからです。
(そこにはまだ「時間」があります。)

どう見ても千年間は短い時間ではありません。

「神の芸術」でしょうか

11月4日の続き。

中国出身の奥様からのメールです↓

感謝します!ハレルヤ~ 主人は今日退院しました。
完治ではないけど、今のところ安定してます。
本当に皆さんご心配おかけしました。
何度も病院行ってくださった事、これから、主の道歩み、
礼拝賛美 福音信仰 ハレルヤ~
(11月14日 月曜日 午後10:07)

2011年11月14日月曜日

水道凍結対策

相変わらず山小屋の一人暮らしです。
見る人影は郵便屋さん一人と言う日は「にぎやか」
な方で、全く人の声を聞かない日が一番多いのです。

薪小屋の屋根は、そまつな合板の上に安い
波トタンを張っただけです。だから、雨モりは
必ずあるだろうと覚悟していたのですが、先日
ザーザーぶりの中を見に行ったところ
アマモリは何と完全ゼロでした。
改めて、波トタン屋根というのはいいものだと
感心したのです。なにしろ金があまりかからない!

最近は暖かい日が続いていますが、11月の後半から
小屋をルスにしますし、ここは寒冷な阿武隈高地、
12月に入ればいつ寒波がおそって来るか分りません。
(今年はじめマイナス15度にもなったのです。)

それでどうしても
水道の凍結対策を急がなければなりません。
長期にルスにした場合
台所の水道が最も凍結しやすい。それは多分、
地下室をはっている水道管(カキオポリ)が凍結する
からなので、今、長期ルスにしても地下室の気温が
あまり低くならないように対策を取っております。

とは言うものの、これも「ソマツな地下室」の壁の
スキマ風を完全シャットアウトするというのは、そんなに
楽ではありません。断熱材でうめ、板をはり、コーキングで
仕上げるのですが、結構手間がかかるのです。

2011年11月9日水曜日

義弟の死

ごく最近
私の大阪在住の妹の夫が、心筋梗塞で突然他界しました。
なんと56歳の若さでした。

まじめそのもの、何ごとにも集中過ぎるほど集中する人
だったので、大学での研究生活等がかなり過酷であった
のだろう、と想像しております。

彼は真にキリスト者であり、既に
神の永遠の命をいただき、完全な救いを得ている
とは言え、正直やはり
「何でその若さで、かわいそう、気の毒」
と言う感慨はイナむことが出来ません。

私は葬儀には出ませんが
ただ妹と数日を過ごすために、月すえ大阪に行きます。

今回きっと神ご自身が、
エクレシアにある真実な交わりを、私たちに与えられる
ことでしょう。
その交わりにこそ、
今は主のもとで安息する彼女の夫の霊をも包む
永遠に滅びることのない天地の交流があるのです。

2011年11月7日月曜日

すばらしい祈祷書(きとうしょ)

神は、人が
心の最も深い所(人の霊)から
真理や自分の正直な感覚を
①「総ての存在」(宇宙)に向かって
声に出して発すること(宣告と言ってもよいでしょう)を
とても喜ばれます。しかしそれがツブヤキにならないように
気をつけましょう。

「総ての存在」を個々に言えば
②まず第一に神です。(当然これが一番多い)
③次に神の敵に、です
④第三に自分、⑤さらに人間に、
⑥そしてあるいは「下等な生き物や無生物に対して」も
含まれるかも知れません。
(⑥のヒントが聖書に無いわけではないのです。しかし
それは多分その背後にいる悪霊に対してでしょう。)

③は「悪霊への糾弾(きゅうだん)」或は
「証しのことば」と呼ばれます。
またせまい意味では②だけを「祈り」と言いますが、
イエスは⑥を「祈り」に加えたことがあります。
しかしその点はどうでも「自分の霊から正直に、
ハッキリと外に向かって声を発すること」が肝心なのです。

詩篇とはこの①から⑥の書であり、詩篇は全編とても
すばらしい「祈祷書」であると言えるかも知れません。
詩篇のどの部分が何番であるかを調べるのは楽しい作業ですが、
その境界がハッキリしないことも多いです。
(その部分は①であると言えば間違いないでしょう。)

それにつけても、詩篇のほとんどの部分が、神の敵を意識し、
悪霊に強く対抗していることには驚くばかりですが
そのようなダビデ達の「明確な意識と声」こそが、当時に
おける時代を転換(てんかん)してしまったのです。
今日と言う時代における神の最大の必要も、
そのようなキリスト者達のハッキリとした「意識と声」
であることは明白です。

2011年11月4日金曜日

神の芸術

若き日の飲酒がたたり、
ある方が相当重い肝臓病になられました。
最近彼の体内に、ある最新の機械をうめこむ治療もした
のです。医師は
「もうやるべきことは全部やった」と言ったそうです。

とてもやせ細ってしまった彼が、しかし、
この31日、病床でキリスト者のすすめに従い
とてもすなおに、声に出し、神に祈ったのです。
この方の奥様である姉妹も「彼が声に出して祈るのを
初めて聞いた」ととても喜ばれました。

さて、たった今、
彼の病床に共に立ち会ったY姉妹がメールをくれました:

その後も、彼はお祈りをして、
解放されているそうです。
神様は彼を
待っていて下さったのですね!
神は本当にすばらしいです。

sugar:
今、
「山の祈り」から帰って来たところでした。
全山・真っ赤、正に神の芸術です。
この秋、彼の家にも、神が
「美しくもすばらしい芸術」を描いて下さいますように。

2011年10月30日日曜日

神のみこころとは神の意志です

「みこころ」という「美しい日本語」に訳された原語は
「意志」というむしろ固いことばです。
御心とは神の意志です。

くりかえしますが
「みこころ」という日本語は情緒(じょうちょ)的で
神の感情や気分かな、とも思ってしまいますが、
全くそうではなく、実は神の意志です。

思考・思いや感情が大いに働いたとしても
最終的には意志がその人を決定し代表します。
したがって人の中で意志こそが最も大切な機能であると
言えるでしょう。
ですから「その人」とは「その人の意志」であるとも
言えるかも知れません。(「その意味では」意志は
「人の霊」以上に重要であるはずです。)

ですから時に感情的、感覚的に、また思いの中で大いに
ゆれ動き、「神から離れているような気分」にさせられた
としても、「神のことばを取る私の意志」が動かない
のであれば、実は何の問題もないのです。
(サタンはおもに思いと感情、感覚に働きます。しかし
あなたの意志がその敵の働き・悪霊の声を拒絶する限りに
おいてはあたたは安全です。)

宇宙には三つの意志があり
神の意志、サタンの意志そして人の意志です。
それらは一つ一つが独立しており基本的には自由です。

私達人は与えられた自由意志を働かせ
サタンの意志を「拒絶し」、神の意志を
自分の意志として「選択する」べきです。
その拒絶と選択をさらに人が口を用いて
断固表明、宣言するときに初めて神が働かれます。
これこそが、人に与えられた自由意志が持つ極めて重要な
機能、役わりであるはずです。

*
英語ではWILL(意志)と言う分りやすい訳です。
パウロ達が用いた言葉は、θέλημαと言うギリシャ語で
(thelema、スレマと読むのかな?)
新約聖書に60回ほど出てくるそうで、これは間違いなく
聖書の超重要語の一つと言えるでしょう。

Mat(6回) Mar(1) Luk(4) Jhn(8) Act(3) Rom(4)
1Cr(3) 2Cr(2) Gal(1) Eph(7) Col(3) 1Th(2)
2Ti(2) Hbr(5) 1Pe(5) 2Pe(1) 1Jo(2) Rev(1)

2011年10月26日水曜日

10月21日のコメントから

>人には徹底的にやさしく悪霊に対しては徹底的に
残酷であるべきです。

本当にそうですね。このように理解すると、
ヨシュア記の”聖絶”の意味もわかる気がします。
でも、まさしく主の十字架で古い自分も含めて”聖絶”
されたんですね。
そのことを思うと、主を賛美するしかありません。

sugar:
確かに。
私の中に
イエスの十字架による「徹底的な聖絶」があって
初めて「神のわざ」に値するものが築かれ得るのでしょう。
神は少しの不純も許すことはあり得ず、
それらは完全に除去されなければなりません。

そう言えばあの時、
祭司長ユダヤ人達は、ピラトに向かって
イエスを「除け、除け!」と叫びましたね。
神は既に最後のアダムに含まれる一切の古きものを
イエスの肉体にあって取り除かれたのです。

この事実の根拠に立って初めて私たちも
旧創造の総てを取り除くことが可能となります。

★
共に70才前後
夫は糖尿病のために体の自由が相当奪われ
妻は目が不自由というキリスト者の御夫婦が札幌から
福島空港まで飛んで来られ、この山小屋に3泊されました。

今世界の中で最も呪われたかのような
フクシマの原発のスグそばで
一生忘れることがないであろう
主の暖かさにに満ちた交わりが持たれました。
心から神に感謝と賛美をささげざるを得ません。

以下は
ご主人から出発直前にいただいた手紙です:

「家内もかなり目が不自由となりました。
文字通り、手に手をとって参ります。
主が祝福してくださいますように。」

2011年10月21日金曜日

今日の詩篇の通読から

旧約の神はなぜあんなに残酷(ざんこく)なのかと
いう質問をよく聞きます。確かに、たとえば
ダビデは塩の谷でエドム人、1万2千人を殺しましたが
その意味では殆どの旧約の主要な登場人物達は「残酷」
であったと言わなければならないでしょう。

しかし、まず旧約聖書とは、
単なる絵や説明であることを知りましょう。
「神の関心」はひたすら「霊的な実際」にあります。
霊的な事実こそが本物であり、旧約の世界だけでなく
今私たちの体と魂が接しているいわゆる「現実」でさえ
単に霊的な世界の「写し」に過ぎません。例えば一万年後
私の薪小屋建築という「現実」はどこにあるのでしょう。
絵はその役わりが終われば「実体」に地位をゆずるべきです。

多分ある人々は(豊臣秀吉のように)遅くも臨終の時に、
この世の出来事は総て「実体のない単なるカゲ」に
過ぎなかったことを知るでしょう。しかしそれでもその
人たちは幸いです。何故ならそういう人には
「永遠への救い」が「近い」からです。

とは言え、霊的な世界は分りにくいことも確かです。
そのために神はこの世界の「物質的、魂的な出来事」
によって、分りやすく霊的な実際を説明されるのです。
「旧約に出てくる敵」とは実は「今現在の神の霊的な敵」
サタン、堕落天使達、悪霊達のことです。

神はこのような悪い霊に対しては極めて残酷(ざんこく)です。
だから私たちも人には徹底的にやさしく
悪霊に対しては徹底的に残酷であるべきです。しかし残念な
ことに今日の人々は、それとは全く逆で、人に対しては戦いを
いどみ、悪霊に対してはとても寛容(かんよう)です。
(これは悪霊達の大成功にほかなりません。)

当然のことながら、霊的な戦いのためには、まずは
「霊的な事実」を神のことばによって正しく知ることから
始まります。そうでなければ悪霊と戦うことなど
到底不可能であると言わねばなりません。

2011年10月20日木曜日

薪小屋が完成しました

おかげさまで、昨日ついに薪小屋が完成しました。
これで私も安心して北海道からの泊り客(御夫婦、3泊)
を接待できることでしょう。

★サタンの不法と落下★

けさ詩篇56を見ていたら、ダビデが祈って
「敵を不法のゆえに投げつけてください」と
宣告していました。このサタンの不法とサタンの落下の
間にはキリスト者の「懇願と宣告」が必ず必要です。

聖書で不法は大きなことばですが「投げつける」も
とても大きなことばです。調べてみると、このyarad
ということばは旧約聖書にはおびただしくと言える回数
出て来ます。

これは新約でも同様の重要さを持つでしょう。それは、
イエスの十字架上で「敵を投げ落とす」(ヨハネ12の31)
を始めとして、神がサタンを天から地に、アビスへ、火の池へ
「投げ落とす」等です。(英語で言うとcast.downであり
これは福音書等では「悪霊の後退」を意味しています)

不法、的外れがあれば、堕落があります。堕落とは落下です。
ダビデは「敵を不法のゆえに投げつけてください」と神に
真実に懇願しましたから、敵はその一つの祈りによってさえ
必ずある程度後退、後ずさりしたでしょう。

今日も神の敵は私たちの神への懇願とサタンへの直接的な
真理の宣言によって後退、後ずさりし、それは必ず敵の落下へと
つながります。キリスト者の確信に満ちた真理の宣告には本来
黄泉(よみ)をもふるわせる力があるのです*が、それには私の
今日の歩みに少しの不法もあってはならないことも確かです。
*マタイ16の16~18

2011年10月16日日曜日

古材を使い切る喜び

マキ小屋ですが、ようやく仕上げに近づきました。
昨日午前で屋根がほぼ終わり、その次は西壁工事
ですが、それもきのうの午後と今日で完成したのです。
この西壁というのは居間の西デッキから見下ろす部分なので
その部分は「チャンとした板」を用いました。(と言っても
ジョイフルホンダの最も安い板で、7尺ものが一束千円も
しません。)

と言うことは:
他の部分ではチャンとした材料は殆ど使わなかった、
と言うことです。トタン屋根の下地は最もヒドいものを使用
しました。それはフル材もフル材、結構腐れかけた合板もあり、
モザイクのように小さくカットして使ったのです。もしかして
大きな人が乗ったら底が抜けるかも知れません。こんなケチケチ
建築、プロは絶対にしないでしょうね。ましかし、しょせん
薪小屋、これでもいいわけです。

でもこの努力のお陰で、これまで長年ためておいた
古材はこのマキ小屋で全部使い切ることになります。実は
私にとってはこういうことが相当嬉しいことなのです。

明日は最後の北側の壁ですが、これもまたまた
フル材料を使用します。この部分の工事は楽です。
と言うのは、マキ小屋ですので風通しがよいように
カベを全面格子(こうし)窓状にするだけでいいからです。

スッカリ暗くなりました。
これから夕食、こんだてはシチューです。

2011年10月14日金曜日

猪突猛進されていたら・・

野生の動物を見るのは何だかワクワクする出来事
ですね。主が養っているのを見る機会でもあります。
うちもイノシシふえてますが、ある意味では
熊より危ないとも言われていますのでお互い
気を付けて森をあゆんでいきたいですね。

Sugar:
ありがとうございます。確かにそうです。
あの時、確実にすぐそばの茂みにいた親イノシシが
私を目がけて猪突猛進(ちょとつもうしん)して来ていたら、
命も危なかったかも知れません。こんな山では
小さな散歩でさえ、十分に危険です。
(4日のコメントから)

★
さて、聞いた話ですが、ある人が突然、
相当困ったことになってしまいました。
どう見ても、その解決にはかなりの作業量と
期間(半年?)とお金が必要です。その日
彼は何をしていてもそれが頭から離れないのです。

しかしその日の深夜、主は彼を起こし
今そのことに心を奪(うば)われるのはよくないと
示されました。そのころその人には、とても大切な
祈るべき課題(かだい)があったからです。

そのおかげで
彼はわれに帰ることが出来たのです。
彼はシッカリと自分の自由意志を用い
神の意志(みこころ)を選択し
他を排除(はいじょ)しました。
その心配事はひとまずかたわらに置き、
主が彼に祈るようにと示されていることを
声に出し集中して祈ることが出来たのだそうです。

その時彼は「みこころ」を妨害しようとした悪霊を
のろう事さえしたと言います。(神が憎み、のろっている
サタンや悪霊をキリスト者も憎むのは当然です。)

気がついて見ると
あの心配事は彼の足の下にあるかのようでした。彼は
霊の中で主と共に、その事態を、即ちその背後にいる
邪悪な者達を完全に支配することが出来たのです。

さて例の困ったことはどうなったでしょうか。
数日たって彼が現場に行き、そのことに着手した時、
神は彼にあるアイディアと既にある物を与えられており、
そのアイディアの通りにやって見ると、何とその困った
事態は、その日一日で完全に解決してしまったと言うのです。
このことで内心最も驚いたには彼自身であったようです。

2011年10月6日木曜日

マキ小屋作りの再開

実家に帰っていて中断していたマキ小屋作りを再開しました。
きのうは第一屋根を全部、波トタンでおおうことが
出来ました。下地がよければ、波トタン張りと言うのは
楽なものです。
次に第二屋根のネタ渡しにとりかかったのですが
昼ごろ雨が降ってきたので、昨日の工事はそこまででした。

マキ小屋は決して大きくなく、5、6坪ほどだと思いますが、
その屋根となると、二重の屋根の総面積はビックリするほど
大きくなってしまうのです。

波トタン屋根というのは美的にはどうも「いまいち」ですねー。
それを何とかよりカッコよく見せる、これはむずかしい課題です。
トタンの色はモスグリーン(この色はめったに無い)で、値段は
20数枚で一万五千円ほど(@ジョイフルホンダ千葉ニュータウン店)でした。

★
主は、私達の日常生活のどんな場面においても
突然彼を礼拝する機会を与えられます。

以前、直接イエスに触れられ、真理が少し見えるようになった
ころのことですが、私は宗教的礼拝の組織(会堂)から追い
出されてしまったのです。それから数日もたたないある日の
事です。(それは普通の日だったのですが)何とイエス様が
わざわざ私に会いに来てくださったのですよ!

そのイエスとの会話の中、私はさらに「このお方が誰であるか」
をハッキリと知ることが出来たのです。その時、私は
思わず「信じます」と言ってただ一人彼を礼拝するのを
どうしても止めることが出来なかったのです。
*
実はこれは、シュガー作
ヨハネ9章・例の生まれつき目が見えなかった兄弟の
「インタヴュー」です。ここの礼拝と言う言葉はギリシャ語の
プリスキネオで(38節)その語源の意味は
「犬が飼い主をなめまわすように敬愛する」
と言うことだそうです。この兄弟の顔つきはとても自然な
もので、しかしイエスへの愛の心があふれていたのは
当然のことでした。

2011年10月4日火曜日

イノシシを見たければ夕方です

しばらく実家におりました。
きのう夕方、散歩のとちゅう数頭のイノシシの子供を
見ました。もう相当大きくなっており、ころころと太って、
私の後ろの道を一頭づつ、大急ぎで横切って行く姿が
かわいかったです。親が近くのシゲミで、これまで私が
知らなかった不思議な声を発しました。
私を威嚇(いかく)したのでしょうか。

★
さて、
ダビデもイエスもパウロもみな神のみこころを
とても大切にしました。ただ一度の人生、
私たちが一生懸命、いろんなことを成しとげたとしても、
それらが「神のみこころ」の中心になかったとしたら、
私の人生にどんな意味や価値があるでしょう。
彼等は、何にもましてこの事実を深く考え、
常に自分の歩みを注意深く点検していたはずです。

今の時代、キリスト者が
「神のみこころとは一体なんであろうか」と
言う話をすることさえ少ないようですが、
みこころということばに注意していると、それは聖書の中に
相当頻繁(ひんぱんに)に出てくることが分ります。

寒くなりました。本腰を入れて冬じたくを
しなければなりません。

2011年9月22日木曜日

自分の目で

エペソ1の21をパウロは
「支配、権威、権力、権勢」と書いたのではありません。
「支配、そして権威、そして権力、そして権勢」と
書いたのです。

ところが、英語訳や永井訳をのぞき、原文に忠実である
とする岩波訳やウイットネスリーの回復訳も含め、私の知る
限りの訳では、この「そして」を全部とりはずしております。
何故あえて、そんなことをする必要があるのでしょうか。

その理由は、彼等の感じるところに従って、
日本語としての美しさや「合理性」を重んじたためなのでしょう。
しかしそれはよくないのです。たとえ、ぶかっこうに見えた
としても、原文の通りに訳してくれないと、真に神のみこころを
聖書から求めようとする読者にとっては、それでは困る筈です。

20~22節
神は・・キリストを天上においてご自分の右に座せしめ、
彼を、すべての支配、「そして」権威、「そして」権力、
「そして」権勢の上におき、「そして」この世ばかりでなく
「そして」きたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上に
おかれたのである。
「そして」万物をキリストの足の下に従わせ・・た、のです。
(計6個の「そして」は全部同じ原語・kaiです)

ここでパウロは・・
今イエスが神から与えられている権威は、
「一つ一つ、一個一個例外なく」サタンや人間の持つ
あらゆる権威に比べて、比較にならない高さにある、
ということを強調したかったのでしょう。

多分当時の読者には
この多くの「そして」に込められた、パウロの
迫力が伝わったのではないでしょうか。

ところで、どんな聖書の訳であっても
「この訳を読んでいれば間違いはない」という訳はないし、
また「彼の解釈ならば全部正しい」という人もいません。
だから可能なら、私達一人一人が少なくも聖書のキー
となる言葉に関しては自分の目でシッカリと確認する必要が
あるはずです。

*
さて、
「キリストの権威の大きさ・高さ」と言いますが、それは
どれぐらいの程度なのでしょうか。
その答えは「それは無限です」と言うしかないでしょう。
とするならば、他の権威の高さは、それがどんな権威であろうと
「無限に限りなく」低くなる計算になります。

従って私達は「サタンや堕落天使の権威」を大胆に
「無である!」と声高に宣告し、彼等を辱(はずか)しめる
ことができると信じますし、多分、行間に込められた
パウロの主要な意図は正にその点にあったのではないか、
と考えております。

2011年9月21日水曜日

小さな電気工事をしました

今日は一日雨。
でも嬉しいことに明日は朝から晴れです。
それにしても実家の利根川は大丈夫でしょうか。

昨日は一寸した電気工事をしました。きのうまでは
居間に100ワットの電球をつけていたのですが
今日から机に向かう時はたった20ワットですみます。
(デスクワーク用スポットライトです)どうやら
電気工事にも少しはなれて来たようです。


★ウソ力(りょく)★

確かに「ウソ力」というものがあります。
それは、人にリアル性を感じさせるものであり、そこには
ある権威が背後にあり、秩序や活動が存在するのです。

だから、ウソによって建てられた
さまざまな建築物(構造物)は確実に存在します。
(物質の構造物だけではありません)それは多くの場合、
山のように人の眼前にそびえ立ち、私達はそこにリアリティや
勢(いきお)いを覚えざるを得ません。確かにその山々は
「ある現象」には違いないのです。

ところが
ある現象だからと言って、本物とは限りません。
例えば蜃気楼(しんきろう)は、確かにある現象ですが、
本物ではないようなものです。(実は私もそのような現象を
この山で見たことがあります)それらは
間違いなく「ある現象」には違いないのですが、
「実質」ではないのです。だから
「どの現象を信じるか」はとても大切です。

それらウソから出て来た現象の特徴(とくちょう)
としては、一時的、変化する、腐敗しやすい、
「可燃性」である、空虚である、神から人を離す性質
(死の力)を持つ等があげられます。それらは確実に
人をだまし、究極的にはきわめて大きな悲しみの深みに
人を沈めてしまうことになります。

結論を言えば
「キリストの復活から出たもの」
すなわち「永遠性のもの」「不死性のもの」でなければ
いくら人の五感で「あるある」とリアルに感じられた
としても、決してそれらは「実質」ではありません。

聖書とは、この
「キリストの復活から出たもの」と
「ウソ力から出るさまざまな現象」との比較を
見せている本なのでしょう。

今朝、新しいスポットライトの下
雨を見ながら、そんなことを考えておりました。

*「可燃性」である、とは
いずれ神によって燃やされると言う意味です。

2011年9月19日月曜日

今日からは内装工事です

きのうまではとても順調に
マキ小屋・第二屋根の工事が進行しておりました。
そして今日は
15本のネタ(タルキ)を渡せるはずでしたが、
朝から霧雨となり、
(昨晩はあんなにクリアな満天の星空だったのに)
外の工事はムリでしょう。だから
今日から木曜日までは内装工事となるはずです。


★無言の神★

聖書は偉大な「矛盾の書」です。例えば
「神の平安」ということばがピリピ書にあります。
(4の7)だから神には
サタンも動かし得ない平安があります。その意味では
誰も神の幸福を揺るがすことは出来ません。
これが基本の真理です。

しかし創世記を見ると神の心が、その創造の結果について、
「よかった」と感じた日と「とてもよかった」という日と
神が大きな安息に入られた7日目があるのを見ます。

しかしまた、注意深く聖書を読んで見ると
神が「無言になられた日」というのがあるのに気づきます。
当然この無言の日とは、神の心が「よかった」とは
感じられなかった日です。

このように神は、私達以上に「きわめてデリケートな」
感情をお持ちであることが分ります。
(創世記の一字一句にミジンの「でたらめ」もありません。)
必ずそこには深い真理が隠されています。)

それを人のことばで表現するならば
神はその日、アンハッピーであったと言える
のではないでしょうか。

さてそれでは今日という日(即ちこの時代)
神の敵がこんなにも横暴(おうぼう)を極めており、
あらゆる手をつくして「神のみこころ」に反対している
というのに
神は「よかった」とか「はなはだよかった」とかと
言うことが出来るでしょうか。それは不可能なことです。

神が無言だった日というのは二日目です。
何故かと言えば、実はその二日目にはサタンが
関係していたことが考えられるからです。
(そのワケについては後日に)
暗闇の陣営の介入があると時に神は無言になられます。
(私達はしばしばそうです。)

一方神が「とてもすばらしい」といわれた日は6日目です。
何故でしょう。それはいよいよその日は
人が造られた日であったからです。そして
「グッド」と言われた日は第1、3、4、5日目です。
それは人が造られるための準備の日々であったからです。
(こう見ると、私達の神はまるで
誕生する赤ちゃんの為のお母さんのようです。)

このように何と神の創造の焦点は人間であり、
神の心の焦点は人です。

しかし、私達はその背景には
サタンの悪事がありまた「無言の神」がおられる事実を
忘れるべきではありません。
このように、人が造られた理由は
「人によって神が幸福になられるため」
であることは明らかです。

*
かの日確かに私達は、神には一点の矛盾もなかった
ことをしかと知るでしょう。

2011年9月18日日曜日

マキ小屋、第二屋根工事へ

きのうの作業はトントンと進み、感謝なことに
マキ小屋の屋根の合板張りが、70パーセントは終わった
のです。今日は「第二屋根」にかかれるでしょう。
屋根が一枚だけだと、色んな点で不都合が生じますので、
第一屋根の上部に第二屋根がおおいかぶさるような構造に
したのです。第二屋根は母屋の壁から張り出すように
下がります。

★立ち上がり過ぎと立ち上がらな過ぎ2★

以上が
今日の人類の姿であり、もはや人に
「敵に対抗するべき神の形、姿」は全くありません。
キリスト者でさも、その影響下にあるので、
「人が治める?トンでもない。
何もしないのがクリスチャンじゃないですか?」などと、
聖書のどこにも無い、ひどいカン違いをしているのです。

これはルッターや先人達の「ごく一部の教え」を
キリスト者の生活総てへと拡大解釈したものです。
聖書は明らかにどこもかしこも、各種の「するな」や
「しなさい」で満ちています。

このアダムの誤解から生じた弱腰に乗じて今日、
一部の人間の
「私があなた方クリスチャンを治めてあげます。
だから私の所に身を寄せなさい。」が
普通のごとくまかり通っているのです。

以上の理由のために
「総てのキリスト者」
(私達は聖書によると全員が神の王達、祭司達です)
に対して、パウロやペテロが、あなた方は
「サタンに対して立ち上がりなさい、悪魔に対抗しなさい」と
強く主張しているのではないでしょうか。

2011年9月17日土曜日

立ち上がり過ぎと立ち上がらな過ぎ1

ルシファーもアダムも、神によって万物を治めるべく
「立ち上がるように」と命じられました。
しかしある時から、ルシファーは「立ち上がり過ぎ」
アダムは全く立ち上がらなくなりました。
この二つが根本的な問題です。

ルシファーの立ち上がり過ぎはヒドイもので、
総ての彼の所有(王、祭司、預言者の身分)は神からの
もらいものなのに、何と彼の背後の「真の王・頭・主」
である神の子に嫉妬し、対抗したと言うのです。
本当に彼はあきれた「大行き過ぎ番頭(ばんとう)」です!
(それまでは大いに良かったのです)

このために、パウロは今日、サタンの手下である悪霊や
堕落天使に対して
「実は真の頭、主はサタンでなくイエスだよ!」と宣言し
サタンの王国をかく乱しているのです。(とは言え彼等が
悔い改めることは不可能です。後悔はするでしょうが!)

これとは逆に
アダムには、①番頭どころか、何とルシファーにはない「神の姿と形」
さえある上に、②三で一の神は「彼に万物を治めさせよう」と
明言れされたにもかかわらず、ある時アダムは、だらしなくも
腰が引けてしまったのです。(それまでは良かった筈です)

それは彼に対する妻の影響が大き過ぎたせいもあるようです。
彼が立ち上がるべき正にその時が来たというのに
彼は結局、恐らく妻への「愛情」の故に、サタンの①いないフリと
現れたとなったら②サタンの美しい変装術と③話術に、まんまと
妻と共に乗じられてしまったのです。

それが「私達のお父さん」の基本的な性質なのですから、
今日この三つのサタンのウソに打ち勝てる子孫はいません。
(そして人間関係にも)

それにしても「正しく」(即ち過不足なく)立ち上がることは
何と重要なことでしょう。

*
アダムには多分、
真相がある程度分っていたのではないでしょうか。
しかし「分っていた」だけでは「かの日において」神に対して
何のいいわけにもなりません。その上、今日「後ろ指をさされる」
代表はエバではなくアダムです。

2011年9月16日金曜日

マキ小屋作りの再開

昨日はマキ置き場のヤネが完成し
今日からいよいよマキ小屋作りを再開しております。

既に、床と北側の柱は終わっていましたので
今日は南側の柱からでした。それも今日の午前に
終えたので、午後は多分南北にネタを渡す所まで
行くでしょう。

ネタは2バイ4を半分に割って使用します。
ネタ(タルキ)の距離が180センチから220センチ
くらいなのでそれでも大丈夫の筈です。
(ヤネが雪の重さにたえるか、ということです)

マキ小屋ですので、暑さ、寒さ、スキマ風などは
全く考える必要はありません。
「当たり前でしょう」と言われそうですが
私にとってはこれがナンだか嬉しいのです。

私の山小屋作りは、これまでの20年間、
雨やスキマ風とのタタカイであったからでしょうね。

明日からは連日・雨模様とのこと、
今日は一日、貴重な外仕事の日となるでしょう。
さて、それでは・・

2011年9月15日木曜日

マキ置き場にヤネをかけます

昨日は何と、森に散らばっているマキを全部、
(一年分はあると言う)
完成したマキ置き場につむ所まで行ったのです。

今日はマキ置き場にヤネをかけます。
当たり前ですが、
屋根をつければ、生木も早く乾(かわ)くからです。


★コロサイ2の10の別訳(やく)★

あなた方(エクレシア)は、総ての
「支配たち・権威(けんい)たち」の頭(かしら)キリスト
の中で(キリストに)満ち満ちている。
*
支配達、権威達とは、天にいる
サタンの手下である堕落(だらく)した「もと」天使達です。
彼らはサタンの大幹部(かんぶ)です。
地上の悪鬼達とは、その幹部の「下ばたらき」達です。

ここでパウロはあえて、
「堕落天使達の頭は(サタンでなく)キリストである」
と言っています。
この真理は悪霊達(堕落天使達、悪鬼達)を
大いに悩ませる宣言となりえます。なぜなら、
サタンの手下どもは、一時的にせよ、それを聞くと
大いにドッキリとし、誰に従ったらよいか分らなくなるからです。
結局、彼等はにげるしか手がなくなります。(法をつきつけ
られると「地上の悪い人間」も同様の反応をしますが、
これは悪人の法則です。)

もう一つ素晴らしいことは、パウロが
「エクレシアは、そのキリストと一つであり、
そのキリストに満ち満ちている」と言っていることです。
エクレシアの中には、この事実があるからこそ、創世記で、神が人に
ついて、エデンの園の中のかくれた悪者達を「治めさせよう」と
言われた言葉は、今現在においてこそ有効(ゆうこう)なのです。

またこれはイエスが
「キリスト者をこの地上につかわす」
と言われたこととも一ちします。(ヨハネ福音17ノ18)
しかし、私たちが、たとえ遣(つか)わされたとしても、
(実際総てのキリスト者はつかわされてはいるのですが)
ヘビ、サソリを治めないで、逆に彼等悪霊に支配されている
としたら、その「遣わされ」にどんな意味があるでしょう。

まとめて言うと、
キリスト者には(少なくもこの地上では)
神の子・キリストに「なり代わり」、三で一の神を「代表して」
ヘビとさそりを従わせる役目が与えられている、
と言えるのです。これは「エライこと」には違いありませんが、
明らかな聖書の主張です。

*
ピリピ2の10,11も同じ効果(こうか)があります。

2011年9月13日火曜日

「薪置き場」作りを再開しました

今度の冬のマキには、もう間に合わないかも知れませんが
ようやくきのう「マキ置き場」作りを再開しました。

森の木を切って来て、二本を線路状に並べ、その上が平らに
なるように板を置いて釘で固定する、と言うやり方です。
昨日二つ目が完成しました。今日はもう二箇所作りたいです。
それが終われば森に散らばったマキをそこに積める
というものです。そのマキ積みが終われば「マキ小屋作り」も
再開できるでしょう。


★最も深刻な問題★

全聖書を見るとき
「支配する」は最重要テーマの一つです。聖書を簡単に
説明して見れば、創世記から黙示録まで、神とサタンの
二者が「支配する王権」を争っている、とも言えるのです。

(とは言え、当然サタンは被造物という限界を超えることは
不可能であり、神はやはり神です。これについては今回は
触れません。)

したがって、聖書のどこででも「支配する」という意味が
現れる場合は必ず「神の、サタンに対する支配」という意味が
根底にあるはずです。(「人の問題」よりも更に深い所に)

その際に用いられている主要な語は
新約ではバシレウ、旧約ではラダという原語のようです。
ですから、新約でこのバシレウという同じ言葉が時には
「支配する」と訳され、時には「王である」と訳されています。
当然「その支配」は、全聖書の主要テーマである
「神の国や天国」における支配のことです。

このように、
聖書で「支配する、治める」という場合、それは必ず
「王として」支配する、治めるという意味です。
(民主主義的に、ではありません)

ですから、その治め方には必ず、静かな力と権威を秘めた
天の高貴さ、ロイヤリティの気品が漂っていなければならない
ことでしょう。従って人にとって「何が真の天の高貴さなのか」
の識別力・感知力がとても大きな分岐点となってしまいます。

何故なら人にそれをリクツで教えることは不可能ですし、
その点においてこそ、あのだます者のウソが巧妙に人々
(キリスト者をも)をかく乱するからです。

さて黙示録の最後に、全聖書の結論のように、
「人が人なる」キリストと共に「王と祭司として万物を治める」
が書かれています。これが神の究極的な願いに他なりません。
ポイントは「人」です。

所がそもそも、この王権と祭司職は、太古においては
堕落する前のサタン・高貴な「御使い」であるルシファー
に与えられておりました。

しかしながら
何と今現在にいたるも、その王権がサタン・神の敵によって、
神への反乱の中で不法に乱用されているのです。
それはあたかも、とても大きな権能を与えられていた
「侍従長の大反逆」のようです!

その点にこそ全世界、古今東西の、総ての痛み、悲しみと
苦しみ、そして全宇宙におけるあらゆる混迷の源が存在
していると言えます。

創造主・全能なる神にとってさえ
サタンをはじめとする邪悪な霊どもの巨大な組織や体系
(コスモス、聖書でいうこの世)
の中で働いている「暗闇の支配」をどう対処して行くかは、
「この時間の中においては」
きわめて困難で深刻な問題であると言わなければなりません。

(Ⅰペテロ2の9、黙示録20の6,22の5、
エゼキエル28、等)

*ちなみに、全聖書中、上記の意味では
ギリシャ語バシレウ、basileuō、βασιλεύω、は18回使用され
ヘブル語ラダ、radah、רָדָה、は22回使用されている
とのことです。

2011年9月10日土曜日

トタン板の接着工事

ロフトデッキの古い床の防水工事です・・
昨日、床を全面トタンでおおったのですが
トタンの接合部分にはある接着剤を使用しました。
しかし既に
腐食した部分の合板の上に、他の板を重ねてしまって
いたので床の表面の凹凸が激しいのです。これでは
高性能の接着剤でも、効果は最悪ゼロになって
しまいます。その接着がうまく行ったのかどうか、
今日はその点検と手直しです。


★キリスト者の自治について★

自治と言う意味は
「自分が自分を治めること」ですが、この「二つの自分」の
意味は異なります。それは即ち、自分Aが、他の自分Bを
治めるという意味です。(この相違については後日に・・)

さてある注解によると
この自治という言葉は原語ではἐγκράτεια(エグクラテイア)で、
自分の欲望、特に感覚的な「食欲」を支配する人の徳・・
と言う意味で用いられているのだそうです。
この場合「支配する」がキーとなります。

この言葉を、有名なガラテヤ書5の23では
「聖霊の実である徳の一つ」として「自制」と訳しています
(新改約)。他の箇所では「節制」と訳している場合もあります。

自制や節制という訳は誤訳とは言えませんが、
パウロが意図した意味は、単なる自制「自分をおさえること」
ではありません。人は「自制」や「節制」と聞くと
「なんだ宗教的ガマン」かと思ってしまうかも知れません。
そうではありません。要点はガマンではなく、支配です。

人にとって、特にキリスト者にとって、
自治・支配すること、治めることはきわめて重要です。

2011年9月9日金曜日

うまく行くかな、デッキの床の防水工事

今日、ロフトデッキの床を全面・濃いみどり色のトタン板で
カバーし、床を雨から守る工事をします。下に守るべき板が
あるのですから、釘は絶対に使えません。だからポイントは
よい接着剤です。しかし、素人大工にとって防水工事ほど難しい
ものはないのです。うまく行くとよいのですが・・


★キリスト者vs悪鬼★

真の夫・イエスは天に帰られました。
従って地上に取り残された私達は「あのやもめ達」です。

さて聖書によると、
主イエス対サタン、「父なる神」対この世、聖霊対肉
という3つの対比が見て取れます。

サタンはイエスキリストのマネがたくみです。だから今彼は
天(多分第三の天ではないと思われます)にいて、
堕落した天使達(彼等は別の天、空中にいるのでしょう、
エペソ6ノ12、コロサイ2ノ15)をさしずしているのですが、

近い将来サタンは「ある一人の人物」に受肉して、地上に
現れます。その魅力は甚大(じんだい)で「地に住む人々」は
彼を救い主として喜んで礼拝し、全世界、全人類は一つに
統一されるでしょう。それはある意味で彼等が今心に
抱いている理想(ヒューマニズム・人間主義)の実現です。

しかしこのことの序曲は既に始まっているようです。それは
人々が「自分を救ってくれるかのように見える美しい存在」を
「自分の神」(アイドル)として慕い愛すること等です。

さて福音書を見ると
①サタン②堕落天使以外に、悪の勢力がもう一つあることが
分ります。それは③悪鬼(悪霊)達です。この悪鬼達は
サタンや堕落天使達とは違って、天ではなく、明らかに
地上に存在しています。この時代、その表れはとても
顕著(けんちょ)です。

太古において、堕落する前、彼等は人に似た、霊を持つ高度な
生き物として地上に存在していたのですが、アダム以前に
神の裁きによって体が奪われた結果今、彼等は日夜、付着する
べき人の体の機能を求めているのです。その体には、
キリスト者の体も十分に含まれます。

だから私たちは自分の体(目、耳、口、手、足、舌・胃袋等)を
シッカリと治める必要があります。それこそが真の自治です。
私が何を見、何を聞き、何を語り、何に触れ、どこに行き、
何をどう食べるか、は神の御前に、決して軽いことでは
ないでしょう。
(堕落天使には自分の「霊の体」があるので、人の体に
取り付く欲望はあり得ません。)

以上を見るとき、一つの結論が出てきます。
それは神の陣営の中で、明らかに地上に残されているのは
キリスト者であり、悪の陣営の中で明らかに地上に存在するのは
悪鬼達であるという事です。

ですから私達は特に、この悪鬼達を治める必要があるのです。
何故なら、実に日常生活の只中で、絶えず私たちの体に直接
触れようとしているのは、地上をはい回る見えない邪霊(サソリ)
達であるからです。従って上記の「真の自治」なしに、この地上に
神の国が現れることはあり得ません。神は言われたのです、
人に「地をはう総ての生き物を支配させよう」と。
(創世記1の26)

この事実は、かつて地上におられた時の人の子なるイエスの言動を
見れば明らかです。だから「神の国の表れ」と「悪霊達の後退」は
完全に同じ意味です。(注:これはいわゆる「悪霊追い出し」
とは全く異なります。)

今キリストの体は地上でなく天にあるのですから、
今悪鬼に対抗する存在は「キリスト人」しかありません。
そしてこの両者・キリスト者と悪鬼の争点は、
人の体を経由した人の魂です。

「私が・・悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国は
あなた方の所に来ているのです。」(マタイ12の28)


*
真の自治とは:
自分にぞくする総て、即ち魂と体のあらゆる機能は
真の自分、即ち私の霊が治めるという意味であり、
それらを他者に治めさせない、触れさせない、侵入させない
ということです。

この他者というのは、人の体の機能に付着し、その機能を占拠し
ついには根城(ねじろ)にするべく絶えず付けねらっている
上記の高度な見えない生き物達です。

もしもそのような意味での自治がなければ、人の自由は
あり得ません。何故なら他者が私を治めているからです。

2011年9月8日木曜日

当時のお金

当時のお金の価値を実感するには
1デナリが当時の一日の賃金であったことから考えると
分りやすいです。
やもめのレプタは、1デナリの128分の1だそうです。
だから、今の日本での一日の賃金を仮に1万円とすると
1レプタは大体78円、レプタ銅貨2つで156円ですから
このやもめの貧しさはかなりのものなのでしょう。

また、マルコに出てくるコドラントはローマのお金であって
「2レプタは1コドラントに当たる」とマルコは、当時のローマの
読者の為に書いています。当時のローマの大衆用銭湯の料金が
1コドラントであったことはおもしろい情報です。
これからすると、やもめの全財産とは、ローマ大衆のたった
一回の入浴料だった、と言えるようです。

さて
キリスト者であるならば例外なく必ず与えられている
と言う「主にある働き」の為の「最低保証の資本金」
1タラントとは以下のようになりそうです。

これは、やもめの話とは大違いで、
1タラントは何と6000デナリに当たるそうです。
ですからそれに1万円をかけて見ると
6000×10000=60,000,000円
(6千万円)にもなります。

こうなるとクリスチャンでありさえすれば、神の働きのために
既に最低でも6千万円と言う大金が与えられていることになり、
神に対して「私はたった1タラントしか頂きませんでしたので」
等と言う言いわけはかなり難しいことになりそうです。
(マタイ25の14~30)

*
或は間違いがあるかも知れませんので
お気づきの方はお知らせください。

貧しいやもめの献金

ルカ21の1~4、マルコ12の41~44:
福音書に出てくる貧しいやもめの献金の話ですが・・

それはたったのレプタ銅貨2つでした。これは
私の計算によると、今の日本では156円に相当します。

所がイエスはこの200円にも満たないお金の価値は
神の前では極めて大きいとされました。その理由は、やもめは
神の前で実質・彼女の「生活費全部」を投げ入れたからです。

さてしかしイエスはここで私たちに(物理的に)
常に生活費全部を献金することを勧めているのでしょうか。
そうではないでしょう。何故ならそれは不可能であるからです。
そういうケースも時にはあるかも知れませんが、原則として
神が不可能なことを人に無理強いされることはありません。

所が、不思議なことに
私の「生活費の大もと」、即ち私にぞくする総ての生活の手段、
要するに「私自身と私の力の総て」を主の足元に投げ出すことは
どんな人にでも、どんな場所にいても、どんな瞬間でも可能
なのです。「私たちの総て」とは、私の体、魂、霊の総てと
私の所有物(私の能力、私に残された人生の総ての時間をも含め)
に他ならないでしょう。

言いかえれば
神が私たちに望むことは、どんな瞬間でも、総てを神に開き
自分自身と自分の所有物を自分の手で少しも握(にぎ)らないこと
であり、いかなる事物でも自分の為には少しもとって置かない事、
なのではないでしょうか。この原則は、臨終のベッドに横たわる
人でも、健康な大金持ちでも全く同じであり、これが
この話におけるイエスの真意であるはずです。

この原則
(これは実は献金の話ではない)
に従って歩む人生は、私たちの予測に反し、常にいかなる不足も
生じることがなく、最も身軽で喜びに満ちたものとなるのでは
ないでしょうか。

「主は私の羊飼い、私には乏しいことがない。」
(詩篇23編)これはやもめの対極・一国の王ダビデの実感です。

2011年9月7日水曜日

大道と小道

主よ、あなたの道を私に知らせ、
あなたの小道を私に教えてください。
(詩篇25の4)

主には大道と小道があるようです。
それは主の大きな「みこころ」と小さな「みこころ」です。
しかし結局この二つの道は一本であり、
そのいずれも人にとって唯一の道なるキリストです。

ダビデはこの「ただ一本の道」を知っていたのです。
彼の人生をたどれば、常に彼の目は一つの目的地と
そこにいたる只一本の道に注がれていたことが分ります。

しかし彼の最小の小道とは、ダビデの日常生活において
些細でこまごまとした出来事の中で歩むべきものでした。
当然ダビデにとって、その小道をどう歩むかについて
決していい加減にすることは出来なかったでしょう。
何故なら大道と小道は結局同じ一本の道であるからです。

私たちも
大きな「みこころ」を知り、まじめにその上を前進しようと
する心さえあるならば、主は必ず小さな「みこころ」も教えて
下さり、間違いなく主が意図(イト)されている正しい目的地に
連れて行ってもらえると信じます。

山小屋に行くには第一に
先ず国道6号線に入らなければなりません。
これは大道であり、これを間違えたら元もこもなくなります。

その正しい大道を進むと、徐々に
より小さな道に導かれます。それは
県道や林道であり、最後は草深い私道です。
そうするならば、確実に山小屋に着くことが出来ます。
くりかえしますが、
最後まで私の必要は「唯一の道」であられるキリストです。

2011年9月5日月曜日

今朝の通読から

新約:ルカ18の17
「真にあなた方に告げます。
子供のように、神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに入ることは出来ません。」

ここのみならず、ルカの18章あたりのイエスの
切実な力説に接する時、多くの人々の慰めの言葉に反し
正直、神の国に入ることはきわめて難しいはずであると
感じざるを得ません。


旧約:詩篇27の5
主が「その幕屋のひそかな所に私をかくまい。」

私はエクレシアの「ひそかな所にかくまわれている」のでしょうか。
それとも人目につくにぎやかな場所を獲得したいと
願っているのでしょうか。

*
利根川のほとり
小さな秋を楽しんでいます。

2011年9月3日土曜日

デッキの床にトタンを張るか

昨日も雨の合間に
ロフトのデッキの床の数箇所、その腐食の修理をしました。
今度、修理したこの木の合板の上に、防水状にトタンを
張ろうと思っております。床にトタンとはあまり聞かない
話ですが、トタンは意外と雨でもすべりにくいのです。
それにしても「石巻合板」の合板はすごい。なにしろ
戸外の床に使用して10年以上もったのだから。

★
有名な創世記3の14、ヘビに対する主の言葉ですが
新改訳では「お前は一生腹ばいで歩き、チリを食べ
なければならない」と訳しています。

しかしここの「ねばならない」は全く余計です。
口語訳でも「総べての英語の訳」でも、ここに「ねばならない」
はありません。どうしてここに、原語にない「ねばならない」を
加えたのか、はなはだ疑問です。

チリとは人であり、ここは「サタンは人を食して生きる
ことになる」と言う意味であって、神は「サタンよ、あなたは
人を食べなければならない」と言ったわけではありません。
この差異は小さくはないでしょう。

日本語としての「美しさ」などはどうでも、原語の意味を
愚直に示すことだけを目的としら日本語訳が待たれます。
(それはきわめて困難な仕事であることは分っておりますが・・)

ちなみに、詩篇27の2
「悪を行う者が私(ダビデ)の肉を食らおうとして」と
ありますが、この「食べる」はヘブル語のakalであり、
この語は創世記3章のヘブル語と同じです。

またこの「肉」はヘブル語のbasarであり、新約聖書の
肉・sarxに該当する語であることは意味が深いです。

サタンの食料は人であることは明らかですが、サタンは何も
人の全体を食べるわけではなく、彼が食べたいのは、ひたすら
ただ人の肉だけなのでしょう。キリスト者の中には、サタンが
食べたいどころか「近寄りたくも、考えたくもない」という部分が
きっとあるのです。

それにしても、サタンがこの地上で、食料にことかくように
なるのは、一体いつのことでしょうか。

2011年9月2日金曜日

完成する前にクサレかけた

昨日は雨の合間を見て
とても古くなったロフトのデッキの修復にかかりました。
この小屋はまだ完成していないのにもう腐りかけている
のです。(これは何かを表していないでしょうか。)

★
聖書の通読、旧約は今まだ詩篇です。詩篇26の4~8:

①私は不真実な人と共に座らず、偽善者と共に行きません。・・
②主よ、私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを
歩きましょう。
③感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しき御業を余す
ところなく、語り告げましょう。
④主よ、私はあなたのおられる家と、あなたの栄光の
住まう所を愛します。

この旧約時代のダビデの言葉の中に
新約の②キリストの血と③私達の宣言と、そして④エクレシアが
あります。

②祭壇とは新約では十字架です。ここにおいてダビデは
動物の血から見る真の子羊・主の血を、彼の生活の場において
あり難くいただき、日常どうしても自分の手が触れてしまう
小さな罪やけがれ、過失、失敗をさえ、ただイエスの血によって
そのツド洗っていたことでしょう。

③「くすしき」とはヘブル語のpala'で
「ワンダフル 不思議な、考えられないような」と言う
意味だそうで、正に新約とピタリです。
これは明らかにキリストの十字架、復活、昇天、御座を
言っています。私達はこのイエスの圧倒的な勝利と敵の敗北を、
総ての造られた者達に日々「声に聞こえさせ、余すところなく、
語り告げる」必要があります。

④神の家は当然新約ではエクレシアです。私たちが愛すべきものは、
ただ主とそして神が愛するもの、即ち神の家以外にはありません。

①しかしまた私達は「この世との交流」には十分気を配る
必要があります。私達は絶対に修道院に行くべきではありませんが
この世と「共に座り、行く」べきでもありません。



2011年8月31日水曜日

空気は秋

ケサはずい分涼しく、今上に三枚着ています。
空気は完全に秋です。

★
創世記1章の26節から28節を見ると、人は

「ヘビを初めとする、総べての被造物を治めるように」
と、神によって創造されたことが分ります。(1の27と28)
だから本来・人の目的は「万物・特に神の敵を治めること」です。

所が事は全く逆となり、
人はヘビによって支配される、という結果になってしまいました。
だからヨハネは
今「全世界は悪いものの支配下にある」(第一の手紙5の19)
と言うのです。ここの原語の意味からすると、人は
「サタンのまな板」の上の魚状態であると言ってもよいでしょう。

更に聖書によると
ヘビはアダム以来「地のチリ」(人)を食べて生き続けており
(創世記3の14)遂には龍のように巨大になって、最終的には、
悪人の最後のあがきのように、人類をヒドク痛めつける
ことになるのです。これは何たる悪の姿でしょう。

以上の意味は今、全世界的なスケールで
人類はサタンの意のままに動かされているだけでなく、

総べての人間、一人一人の人生も、その細部にいたるまで
見えない神の敵(ヘビやサソリ)によって
侵略され、圧迫され、苦しめられているということです。

だから人類は、良かれという善意のもとに
大変な努力をして幸福を追い求めているにも関わらず、いつに
なっても、本当の意味での喜びや自由には到達しません。

また個人のレベルにおいても
痛みや苦しみや圧迫の全くない日はただの一日とてない、
というのが正直な所ではないでしょうか。
このことこそが人の根本的で深刻な問題です。

従って、私たちは一人一人が
今日・見えないヘビやサソリ達の悪意ある意志から自由にされ
自分が自分を治めると言う「真の自治」を獲得しなければ
ならない、のではないでしょうか。

確かにイエスは言われたのです:
「私はあなた方に、ヘビやサソリを踏みつける権威を
さずけたのです。」ルカ福音10の19




2011年8月27日土曜日

静かな奇跡

神は何故か私達の
普通の生活を、ことのほか重んじられます。

福音書を見てもイエスは、人による人らしい生活の
中にこそ、あえて入って来られたように見えます。※1
そして時に、とても当たり前のように不思議を
されました。

それは実に自然だったので、何千人もの人々に、
パンと魚を満腹するほど食べさせられた時でさえ、
騒ぎ出す人はいなかったのです。※2。
そのこと自体がまた大きな不思議ですが
しかし御国の王イエスにとってそれは正常です。

おびただしい群集は実に整然としており、とても
静かでした。記者もそれをさりげなく書いています。
このさり気なさが、このエクレシアの時代における
みこころです。この時代における神の方法、
イエスによる支配の様は、
神の法に従った地球の運行のように
美しくまた静かです。

※1
多くは自然な食事の場面、人の病や死という悲しみの
場面、婚礼、旅行、男達が仕事に疲れた場面等です。
「集中的に私を拝みなさい」と言ってイエスが
ウヤウヤしく現れた、などと言う場面はありません。
※2
事後、自分のためにイエスの力を利用しようとした
ある人々が騒ぎだしたことを聖書は告げています。
これはみこころではなく不法です。


ある証し2

言われたように、一見他人からみたら、取るに足りない
出来事であり「単なる思い込みなんじゃないの?」と
笑われてしまうなか、というような事でもあったので、
書くべきかどうか迷ったのですが、全てを益と
変えて下さる主を信じて、書いてしまいましたー。

「電光のように神の声が聞えた」とか「不思議な
感覚が全身をつらぬいた」というような「超自然的
感覚」があったわけでもなく「夕食の支度」という
ありふれた日常のワンシーンに、主はあまりにも
自然に、あまりにもナチュラルに働かれたので、
うっかり自分自身でも偶然として片付けて
しまいそうでした。

しかしあれは
「祈った→治った」と言う明確に目視できる
事実だったので、フトこれは神さまだ~! と
再びタマネギを刻んでいて分ったのです。

「きっと主は今までもずーっと生活の中で
たくさんの小さな奇跡をくださったんだろうなぁ、
気がつかなかっただけで」とあらためて感謝が
芽生えました。神様はジェントルマンですね♪

2011年8月26日金曜日

小さな奇跡

普通の生活の中で
「2千年前に、イエスキリストによって
既に達成済みの真理」を、
「私はもうそのイエスと一つにされている」と言う
事実とともに信じ、そして「この場面」の私に適用していると

また
神が私の為に用意された小さな十字架を否まないで
主の手から頂いていると、自然にムリなく

先ず
「どうにも不思議だ、これは主だ」と深い所で感じてしまう
ことが起こりますが、この頻度はむしろしばしばです。
このレベルの場合は それを他人に説明したとしても
「別にどうってことはない」とされるような事ですが、
私の中では明らかに不思議(主)なのです。だから同時に
「主と私だけの密かでミツな幸せ」を覚えます。そんな事なので
このレベルでは人に話さないことが多いのです。

しかしその不思議が、人に現れる現れ方や程度によって、
その不思議現象を 奇跡→更に「しるし」と言っていいケースも
これからは十分に起こり得ると思います。今回の場合も
「小さな奇跡」と呼んでもよい、のではないでしょうか。

いずれの場合でも、その特徴は・・
これは全面的に神御自身がなさったことであり
自分の功績や能力とは何のかかわりもない、とムリなく心から
思うことと、また神からのある「暖かさ」を感じることです。

キリスト者の普通の生活と「不思議、奇跡、しるし」を
完全に切り離すことはむしろ難しいようです。

ある証し

今夜の出来事です。
家事がなんだかいつもよりはかどらず、
あっという間に 夜になってしまい、家族が帰って来る
前にまだまだやって おきたい事はいろいろあるけど、
とりあえず、夕食の準備に取りかかろう!と
夕食を作りはじめていた時の事です。

「痛っっ!」親指を見ると、タマネギと一緒に切って
しまったのです;

血がにじんでいる親指を水で洗い流し、切った所を
ギュッと押さえながら『神様、イエス様、サタンが、この私の
からだという神の神殿を攻撃してます。
それは不法な事です。今すぐサタンをうち滅ぼして下さい
ますように!そして 神の神殿・神の「とりで」である
このからだに、イエスの復活の命を表してください!!』
と懇願しました。

『この指が今すぐ治ったら、家族に証しします。
そうしたらますます あなたの事を信頼し、信じるように
なりますから!』
『ご飯も早く作らなくっちゃ、お腹へらしてる夫がかわい
そうです。神様、なので、一秒でも早くお願いします~!!』
…とほんの数分の間、懇願しつづけ、そっと親指を
見てみると…
なんと、傷口がふさがっているではありませんか!
感動にひたる間もなく、夕食を無事に作り終え、食べ終わり、
再び傷口を見ると、どこを切ったのかもわからないくらい、
治っておりました。☆
もちろん、神様とのお約束ですから、夫に傷口を見せながら
話しましたよ♪

今日の私は、自分で自分の評価をつけるとしたら、決して
合格点ではなかった のですが、自己評価や、何を成し遂げたか
等に関わらず、イエスキリストにある ありのままの私を
受け入れて下さり、ご自分のものとして下さって
いるんだなぁ、と思い、神のあたたかい眼差しを
感じたように思いました。

これから先、親指を見つめる度に今日の日を思い、
神様の気配を感じるんだろう と思います。

2011年8月24日水曜日

シンク用電灯のスイッチを設置しました

昨日オソルオソル小さな電気工事をしてみました。
どうして普通の電気コードには必ず線が二本
入っているのかが70歳になってようやく分りました。

天(電源・遠い発電所)から流れて来る聖霊は、
私たち(エクレシア)の霊(発光器具)を経由してまた天に
帰って行き、そしてまた地にいる私たちに戻って来るという
瞬間的・永遠のサイクル・循環(即ち交わり=礼拝)のため
なんですね。

即ち、線が二本入ってないと、天地にまたがる
「巨大な一つの輪」(これがエクレシア)を形成することが
出来ないからです。それは往復用であり、
無限にくりかえす交流のためです。


★ある対話★
ルシファーは限度を越えて、自分を高くしようとするトンでもない
不法に陥り、自らを無限に落下させる原因をつくりました。
不法(的外れ)があれば、それが堕落であり、必ず墜落に
至ります。(この二つの漢字・堕落、墜落はよく似ています)

しかしイエスはただ、みこころ(神の喜び)のために、
自らを低くされた(ただ死のみでなく「十字架の死」に至る
までも)ので、神は彼(人の子)を無限に高くされました。
全聖書を通して、上記の二者をクリアに対比(コントラスト)させ、
それを全被造物に見せることに神の深い深い意図があるようです。

Aさん:今日はなぜか「敵へ放つ神の言葉」が止まりません。

アーメンです。時間の中では
私たち(やはり人の子)の口から発せられる神のことば
(真理と命と光)は一回一回「ウソと死と暗黒によって生きて
いるサタン」を少しずつ後退させ、遂には落下(裁きの執行)
に至らせるのだ、と思います。

このことは深い神のみこころと完全に合致するので
(神のアーメンがあるので)あなたの霊の中で、
「真理の宣言」は止まらない、と感じられるのでしょう。

私達はこの世で、神のアーメンがある「小事」を
日常生活の中で淡々と行って行けばよいのだと思います。

*
シンク(台所の流し)の上のライトが、スイッチ・オンで
パッと灯った瞬間は、嬉しかったですねー。

2011年8月23日火曜日

額を作っています

寒いですね、というあいさつが
ちょうどいいような阿武隈の朝が続きます。
それと雨のせいで、冬のためのマキの仕事は
さっぱり進みません。この分だと冬に間に合いませんね。

この数日、むき出しで長い間・壁に張っていた風景写真を
ホコリから保護するための額を作っております。ワクを作り
プラスチック板でおおうのですが、全部初体験なので
試行錯誤の連続はしかたがありません。
紙の写真のシワを取るにはどうしたらよいのでしょう。


★
神はただお一人なのですが
詩篇に「神の会議」や「神々」が出てきます。
またイエスも「神々」の存在を暗示されました。
多分その神々とは霊的な被造物、天使達でしょう。
天使の能力はすごいです。ただ一人の天使が一寸現れただけで、
それに遭遇した人間は死人のようになったといいます。

もしも非常に多くいる天使が神々とさえ呼ばれた
とするならば、彼等と比較しても
極めて卓越した力、権威、美を与えれたルシファー
(堕落以前のサタンの名)はどんなだったでしょうか。
また彼の心境は。

もしも神の存在が作り話でないとするならば、
確かにサタンも実在するでしょうし、今現在、
神に反対して、人の上に駆使(くし)している
サタンの権威、力、美はただならぬものに違いありません。
確かにそれは、彼がこの世の神と呼ばれるゆえんです。

2011年8月22日月曜日

古い布に穴を開ける虫

ギリシャ語原語によると、新改訳聖書で虫けら
と訳された言葉は、成虫ではなく、幼虫時の、はう虫
を指しているようです。

自分を虫と言ったのはダビデとイエスです。
有名な詩篇22に「私は虫けらです」と言っています。
ギリシャ語の注解には、この言葉は女性名詞で
「崩壊の原因になるもの」と説明しています。彼等は
一体何を崩壊させるのでしょうか。

またイザヤ41の14で神は、恐れるな「虫けらヤコブ」
と言っています。この英語訳は「O,worm.Jacob」です。
だから神の民とは、一つの意味ではそのような虫であり、
明らかにこの世ではバカにされる存在です。

ヨブ記13の28では
「虫に食われた衣服」が出てきます。(a garment that
is moth eaten )この虫は原語ではガですが
ガが衣服を食べるのはやはり幼虫の時です。

しかし青虫や毛虫のような真にみにくい生き物でも遂に
成虫になる時、全く新しい、第3次元の世界に飛び立って
行きます。

またイエスは「虫が食い、サビがつく」この世の宝の
ことを言っていますが(マタイ6ノ19)この虫も原語では
ガです。それも「布を食べるガ」だそうです。当然
ここで虫と呼ばれているものも、古い衣服に微小な穴を開ける、
めったに人の目には 触れることのない、とても小さな幼虫達
を指していることでしょう。

上記のヨブ記13章の「衣服」は、どうしても福音書の
イエスのことば「新しい布で古い衣服にツギはあてない」の
「古い衣服や新しい布」を連想させます(マルコ2ノ21等)。
しかし 生まれながらの人は、間もなく古びるこの衣服の
中で生きざるを得ません。

所がイエスはその古い世界に、新しい天からの布で ツギを
あてがうような一時しのぎの改善はしないと言っています。

しかし将来、私達は全き状態において
「もはや永遠に古びることのない新しい布」でおおわれて
生きることでしょう。しかしその事実は今すでにin
Christ(キリストの中にいる)という状態において
開始されていなければならないはずです。

この布はまた、ペテロの前に四隅をつるされて天から
降りてきた「汚れた生き物」即ち生まれながらの様々な
人間、を入れた布を思い出させます。
その時、神はペテロに「ほふって食べなさい」と
言われました。ほふるとは十字架を暗示しており、
その意味は、布の中の生き物(人)は必ず処理され
(十字架の死を通り)エクレシアの中の交わりに入るべきである、
ことを意味するのでしょう。

当時のペテロやユダヤ人達にとって、そのような様々な人々を
受け入れることは相当困難な「神のみこころ」であったのです。
しかし感謝です、ペテロは神からの啓示に従い、そのような
「汚れた異邦人達」をも受け入れたのです。

また
「虫にかまれて死んだヘロデ王」の虫は「虫達にかまれた」
という形容詞一語で表現されているのだそうです。
(使徒12の24)この用法は新約聖書中 ここだけで
用いられているとのことですが ギリシャ語にはそんな
形容詞があるのかと不思議です。

さて
実際にヘロデを打ったのは「主の使い」でした。これは
黙示録で 悪魔を天から地に投げ落とすミカエルを
連想させます。

そうなると「ミカエルと虫達(複数)は天と地で 一つとなって
働く」という事実を見て取れるのですが、虫たちの役目は、
地上をはいまわり、古い布ぎれに 微小な穴を開けて、
天の光を地上に導入する事ではないだろうか、
と考えると これは素敵な想像ではないでしょうか。

以上、虫と訳された語は、同じ一つの原語からでは
ありませんが、全部「はう青虫状の虫」(幼虫、幼い虫)
を指しているらしい、というのは 面白いことです。
その虫とは、地をはうように生きる、寄るべなき私たち
(赤ちゃん)のことかも知れません。

2011年8月20日土曜日

ケサはストーブですよ

福島の阿武隈は比較的に首都圏からも近く、標高も
そんなに高くないのに、どうしてこんなに「寒い」ので
しょうか。

★
さてある対話です。↓

イスラエル人達が
私たちをさばく王をください、と言ってサムエルに
強く迫った時、サムエルは気に入らなかったようですね・・

*
その通りだと思います。
それはまた神ご自身の御おもいでした。
私達は神の「初めからのみこころ」に従うべきであり、
私達の「かたくなさ」の為に「引き下げられた水準」を見て
「神が許された」と言って満足するべきではありません。

かたくなな「試みる者」がたくみにイエスに迫りました。
(マタイ19章)「妻を離別することをモーセ(神)は認めた
ではないか」と。

しかしイエスは言われました「初めは(In the beginning)
そうだったのではない。それは人のかたくなさの故である」と。

子供が「肉が食べたい、食べたい」とダダをこね、父の第一の
「初めからのみこころ」にいつまでも従わないと、神は
大量のウズラの肉を送られるかも知れません。
しかしそれは明らかに神を悲しませることです。
(究極的には人も満足することが出来ませんし
いずれ悲劇に至ります。)

「初めに神」(創世記1の1)の「みこころ」があるのであり、
「初めに人の」ではない、のではないでしょうか。

2011年8月19日金曜日

山小屋の飲料水はシロ

私が毎日・山小屋で飲んでいる水の放射能検査を
してもらいました。8月17日に、私が
2リットルの水を業者に渡しました。
(田村市がこの専門業者に検査を委託したのです。)

その結果が今日出たのですが
放射性物質は全く確認できなかった
ということでした。不検出です。

この水は近くの「マイマウンテン」である
天王山(標高900m)から湧き出る沢水です。

トミーさんとの対話

私は、信仰を持ちたての頃、自分の神に対する罪の故に、
イエス様に十字架にかかってもらうことは申し訳ないと
思いました。神に対する自分の罪の罰は自分で受けることが
ふさわしいと思ったからです。

主イエス様にそのことを祈ったところ、イエス様は言いました。
「あなたは地獄を分かっていない。私にまかせなさい。」と。
↑
主らしい語りかけですね。とてもアーメンです。

あ今この瞬間、結構大きな地震が来ました!(14:37)
家具を押さえながら、いつものように
「サタンよ、あなたの国も間もなく神によって
激しく揺り動かされるよ」と言いました。

結果:
福島県沖で震度5弱、
家具がユサユサ揺れましたが、物が落下するなどは
全然ありませんでした。3・11があまりに巨大だったので
余震は数年続くだろうと言う説もあり、個人的には
全く心配しておりません。
今日はとても涼しく、長袖を着ています。

2011年8月18日木曜日

「小さな群れ」の貴重さ

キリストは
「小さな群れ」の重要性を強調されましたが
その継続は簡単なことではありません。

そのような集まり方・・
即ち、少数のキリスト者達が、全く対等な関係を
守りながら、しばしば集まること・・は
性質上、他の集まり方とは
根本的に完全に異なったものであるからです。

普通の一人のキリスト者が(単なる一兄弟として)
普通のなんでもない人間生活の中で、しかし人々には
知られることなく、
1.いかに御血にあずかったか
2.いかに神の敵に対して、証のことばを口にしたか
3.いかに自分の命を惜しまなかったか(黙示録12章)
によって、数名からなる
「普通のキリスト者の普通のあつまり」が 初めて継続可能な
ものとなる筈です。その一つでも欠けるともう難しいでしょう。

この二千年間、キリスト者達は容易に
先ほどの三点は「とても難しいものである」と結論づけるので
彼等はどうしても「他の方法」に流れて行かざるを得なかった
のです。(その流れが「キリスト教というもの」の歴史です。)

だからこの20の世紀の長い時間の中でさえ
初代のある時期を除き、そういう小さな集まりの継続は、
そんなに多くはなかったのではないでしょうか。
イヤ、とても少なかったはずです。

くりかえしになりますが、先ほどの「天来の三つの条件」が
本当に存在してこそ、人の目には簡単そうに見えるが、
内的には「天の性質を帯びた稀有(けう)な集まり方」が
初めて現実のものとなるのでしょう。

だからある意味で、それは
奇跡(天の法則が地上の法則を越えて現れること)です。
だから、もしもそんな奇跡がいたる所で起って来るならば
(当然隠された方法で)私達は 主の再来は極めて近い
と知るのではないかと考えております。

2011年8月16日火曜日

泊り客第一号

昨日から、一人・客人が来られている。
あの事故いらい初めての、記念すべき泊まり客である。
横浜の方だが、岩手でのボランティヤの帰りにわざわざ寄って
くれたのだ。何と交通手段は電車の「オール鈍行」。
彼は正直に「放射能は気にならないことはないですよ」
と言っておられたのだが、私としてはやはり嬉しい。

「自然は大好きです」と殆どの方は言われるが
その意味合いや程度は真に様々なので「油断はならない」。
しかしより若い頃、彼は台風になると嬉しくなって
外に飛び出したとか、何とあのチョウ危険な「沢登り」も
やったことがある、というのだから、その「自然大好き」の
程度は常人をはるかに超える。

だから昨日夕方「草深いこの小屋」に
車がいくら近づいても、彼には全く驚く風はなかった。
これも嬉しい。

彼はまだグッスリと眠っておられます。
「あれもう秋が来たのかな」というような
とてもとても涼しい山の朝、どうか、彼の都会生活の疲れが、
ここで少しでも癒されますように。


2011年8月15日月曜日

入道雲

小屋内外の雑物のカタヅケをしています。
ようやく「こざっぱり」として来ました。
そういう空間にくつろいで、森や空を眺めるのは
気持ちがいいものです。盛夏、特に空高くそびえる
モクモクとした壮大巨大な入道雲が好きです。

★
さて、法とはすごいものです。
「神は法そのものである」とも言えるかも
知れませんが、その法の制定者神でさえ、
法、法則、御自身のことばの制限を受けられるほどです。

旧約とは要するに「律法(法)と預言者」ですが、
預言者とは、法に基づいた
私のための日々毎分の「法の詳細」でしょう。

しかし、新約においては、総てが一気に単純化されます。
(これに気付かないと大変です)神は
イエスキリストを唯一「律法と預言者の具体化」と
定められたのです。
それは要するに、キリストを持てば、律法と預言者の
総てを持つ、ということです。それ故、神はモーセ(律法)
とエリヤ(預言者)を断固退けて、ただ一人キリストを
推薦(すいせん)して見せたのです。(マタイ17)

しかし、この啓示においては
私達は眠ってしまうか、トンチンカンなことを言って
しまいがちです。

だから後に新約聖書の手紙は改めて、いろんな角度から
「キリストイエスが私達の総てである」と言うのです。
聖書が総てというからには、キリストは本当に総てです。
(キリストは私たちの総ての必要の満たし、私たちが
必要とする総て力の源・・・)

所が、この表現(キリストは総て)はとても
美しいので、その真意が私たちに届かないことが多い
ようです。それ故「私たちが生きること=キリスト」である
とさらにパウロは言ったのではないでしょうか。

2011年8月12日金曜日

震度5弱だそうです

早朝の地震、震度5弱だそうです。
ほんの少しだけ、タナのものが落ちましたが、まあ
どおってことはありません。またか、
ということろでしょうか。

今小屋内外の整頓をしています。
地下の客間を一つ物置としてつぶしたら
1、2階のカタヅケがずい分ラクになりました。
これでようやく
この小屋の震災からの復旧が総て完了したことに
なります。自分に「おめでとう」と言いましょう。

★
朝、詩篇とルカを読んでいます。

詩篇18の3:
主は・・ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、
私は敵から救われる。

ダビデの場合も
賛美と懇願が彼を敵から救いました。

このダビデの言う「彼(神の民)が敵から救われる」
というその分量だけ、敵が後退し、結果その分量の
神の国が地上に現れることになります。だからダビデの
祈りにおける賛美と戦いはとても「真剣」なものでした。
真剣とはまた神のことばのことであり、それを敵に対して
突きつける時、敵は「後づさり」せざるを得ません。

ルカ12の31、32、37:
何はともあれ、神の国を求めなさい。・・・
小さな群れよ。恐れることはありません。
あなた方の父であられる神は、
喜んであなた方に御国をお与えになります。・・
目を覚ましている所を見られる「しもべ達」は幸いです。

「御国が与えられる」というのは、ダビデ同様
今すでに私達においても始まっていなければなりません。
この前後のルカの記述を見るまでもなく
御国とは、キリスト者が死んだら突然与えられるもの、
である筈はありません。



2011年8月11日木曜日

立ち上がったダビデ

私たちにとって
「取り返しのつかない失敗」はあり得ます。
しかし、神にとって
私たちの取り返しのつかない失敗はあり得ません。
イエスの無限に尊い御血以上に重い
人の罪は断じてあり得ないからです。

早速
とても素晴らしいコメントをいただきました。
ありがとうございます。↓

*
昨日、ちょうど「霊の人」の2巻の”悔いる”という所を
読んでましたが、まさにダビデは詩篇の中で、賛美の前に
悔いる、砕かれた魂が見られます。(特に6篇など)
ダビデはその失敗を本当に悔いたことでしょう。
それは本当に敵を意識した神への懇願だったと思いました。

この悔いるということは、敵には絶対不可能ですが、
人にとってはとても貴重なことですね。賛美もそうです。

「悔いる者の霊は神の霊と共にあり、悔いることによって
目を覚まして歩むことが出来る」とありました。
まさにそうです。

しかしその明確な悔い改めの後、シッカリと立ち上がった
彼の姿は、神への大きな賛美と敵に対する大胆な糾弾へと
極めて大きな変化をとげたのです。

イザヤ57:15
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖と
となえられる方が、こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人
とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を
生かすためである。」

★sugar:
きのう突然、東京から6名の方たちが訪問してくださいました。
私は「勇気のある皆さんを歓迎します」と言いました。




ダビデのうたた寝

ケサも詩篇を読んでいましたが、
詩篇のテーマは正に賛美と戦い、そして十字架です。
この三つが一貫して流れています。

その中でも、敵に対する
「仕返し・報復を神に懇願する祈り」はとても大切です。

ダビデの祈りはその点、何と具体的で強烈、そして
数多いことでしょう。
(私たちの祈りもそのようであるべきです。)

ダビデの実際的な戦いために、彼の隠された
そのような懇願は、相当大きな役わりを演じた筈です。
その点彼は、ルカ18章の
神に対して「しつこい」ヤモメと全く同じです。

ですから、神の国のために、
常に戦いの渦中にあるべきダビデに「霊的なうたた寝」を
する時間などあろうはずがありませんでした。

しかしⅡサムエル11の1,2を見ると
春のある日、そのダビデも、怠惰な長いうたた寝の後、
取り返しのつかない大きな失敗をしてしまったようです。

霊的うたた寝とは、
悪霊が私の霊を閉じこめようとする力に反発するべく、
聖霊と共にある自分の霊(きわめて深い所にある自分自身)を
外面に強く押し出すことをおこたり、
「自分のベッド」にもぐりこみ「自分の世界」の中に
引きこもってしまうことではないでしょうか。

「だから目をさましたいなさい。」(マタイ24ノ42)

2011年8月9日火曜日

賛美は敵をはずかしめる

正にその通りだと思います。

賛美とは当たり前ですが「神だけへの」賛美です。
その意味は・・

私はこれまで、自分やこの世に頼り、人間をほめたたえる
ばかりでありました。即ちそれは、結果としてその背後にいる
「自分とこの世の深い力・サタン」に従い、彼を
賛美していたことになります。実際のところ、私はサタンに
よって大いに苦しめられて来たにもかかわらずです。
(ホンとにおかしな話です!)

しかし神は、御子の十字架の御業によって
私たちを苦しめ続けた神の敵をうち砕いて下さったので
今は「ただ神だけを」賛美するのです。そして
「神以外の総て」の背後にひそむ諸悪の根源・サタンを
引き続いて退けます。

と言う意味なのですから
賛美はサタンをヒドク辱(はずか)しめることになり
それは同時に、その手下ども・悪霊達を退散(たいさん)
させます。(その結果、賛美する者はたやすく
あるフシギな精神的解放を感じるのです。)

要するに神への賛美とは、結果的に
「サタン、あなたはあの十字架上で、既に神によって
打ち負かされているのだよ!」という真理を
サタンに対して私たちが力強く宣告することです。

だから「人の口による」心からの賛美によって、既に敗北
させられている悪霊達の真のありさまや正体の暴露(ばくろ)
することほど、彼等をおののかせるものはありません。

従って、乳飲み子、みどり児(私たちです)が
「詩歌」を心から歌う、気持ちをこめて歌うことは
悪霊達に対して
とても効果的であることは疑うよちがないのです。
(またそれは「人の霊を強くする」訓練としても
大いに役に立つことでしょう。)

詩篇8編、ミュージシャン・ダビデの詩は
「賛美による悪霊に対する勝利」という彼の
実体験から生まれたものに違いありません。

2011年8月5日金曜日

晴天はあさってから

きのう、
「ジメジメ天気はいつまで続くのだろう」と
つぶやいたら、今日の朝、ホンの一時的に、パーっと
全面とても美しい青空になりました。(神様、有難う。)
本格晴天、今日の予報は「あさってから」だそうです。

★
ほんとに敵は、とことんワルですね。
正解は『悪の根源は人ではなく、サタンにある』のです。
(イザヤ14-12~15)
↑
コメント感謝です。
本当にサタンはワル「ウソと死のカタマリ」です。
彼のどこを切って見ても、その二つ以外のものは流れて
来ません。即ち、この二つはサタンの血です。
その意味は「彼にとって、彼の命・彼が生きることは
即ち、彼の死といつわりである、死といつわりが
彼の総てである。」 と言うことです。

イエスも
「サタンがいつわりを言う時、彼自身のものから語る」
と言われました。(ヨハネ8の44)
しかし、
「私達が生きるということ」はパウロのように、ただキリスト
であるべきです。To.me.to.live.is.Christ(ピリピ1の21)

*
「聖なる創造主・神」対
「無限とも言えそうな、被造物サタンの悪」
(神はこのテーマだけでも大変です)

これが聖書の「最も深いテーマで」あり、首尾一貫して
聖書を流れる背景です。これは背景ですから、
隠れているサタンが読者の目に入らないことも多いのです。
(目前の展開に気をとられますから)

さらに「主要なテーマ」は
その二者(神とサタン)の間に、あえて中立的な存在、
全く自由な意志を持つ人を置かれ、

しかし神はついには、 どうしようもないと見える
サタンの支配に引きずり込まれてしまった人をして、
(引き続き自由意志を与えたまま)信仰を賜(たまわ)り
神と共に「サタンを含む万物」に勝利させ、
万物を支配させるにいたる、と言うことかも知れません。
(これは神にとって、さらに大変なことです。)

しかし、神は神です。かれは以上の遠大なご計画を
必ず達成されます。イナ永遠においては既に
総てを達成されずみである、とも言えるのです。

結局私達は、
「ああ神よ、あなたは真に偉大です」と叫ぶ以外
何をすることも出来ないのです。

*
ですから聖書を読むとき、神の愛に加え、
「万物」「サタン」「だれが支配するのか」「信じること」
「戦い」「人の自由意志」などから目を離すわけには
行きません。

2011年8月4日木曜日

外仕事がしたい

夏だというのに、毎日ジメジメとした天気が
続いています。(今も外は霧)どうしたことでしょう、
いつになったら外仕事が出来るのかな、
予報をみると面白いことに(くやしいことに?)
晴れの日は毎日「しあさってから」なのです。

★
さて、私達キリスト者は、実は神によって
「24時間、常に法廷に置かれている」のです。
あなたの「普通の人間生活」が総て法廷であり、
今とは法廷の中ですごす時代なのです。

しかしサタンは、まんまと、ほとんどのキリスト者
に対して、この事実をかくすことに成功しております。
私達は、自分は法廷にいるという自覚がないので
日々気ままに、ただ自分のための生活を送るばかりです。

従って、法律の中に何が書かれているのか、今、法律の
中でポイントとなる法律は何かを知ることはないし、
ましてや「適切な法律を取り出し、どうやって法廷で
敵を追いつめるべきか」等の研究をすることもありません。
極端(きょくたん)になると、法廷や法律等の
存在を知らない人さえいるようです。

しかし中には
あの悪者にウスウス気付いている人もいるのですが、
この悪人の黒い影というハリコのトラのオドシにおびえ、
「さわらぬ神にたたりなし」と事実を見ても見ぬふりをする
ばかりです。(それとなく恐れさせる手法は古今東西、
「暴力と悪」が使用する、ありふれた手口なのに・・)

これでは汚染、腐敗は広がる一方です。悲しむべきは
「悪の根本」に迫ろうとする人、悪に対抗して、真剣に
立ち上がろうとする人、即ち「真の義人はとても少ない」
と言うことです。
(ロトでさえ少しは義人でしたよ!Ⅱペテロ2の8)

私達の状況がこうなのですから、本当の悪人、諸悪の根源は
今日「彼の本当の姿、彼のヒドイ悪事があばかれる」ことから
ゆうゆうと免(まぬが)れているのです。

これは神の敵の大きな成功です。
自分を物や事の背後に隠すこの黒幕(くろまく)は、実の所
正に野放し状態なのです。なぜなら彼は、彼の無数の手下、邪悪な
チンピラである霊どもを日々使って、ほとんど彼のしたい放題の
悪事を人々や神の民に対してさえ、ヤスヤス実行することが
出来るからです。

真に、悪の本質と手段とは、隠蔽(いんぺい)であり、真相を
かくすというウソ、すなわち虚偽(きょぎ)なのです。その中でも
最大級のものは「悪の根源は人間にある」という「彼の隠蔽」
即ち自分を隠して、悪事を総て他のせいにすることです。
聖書は言います「この悪魔に立ち向かいなさい。」
(Ⅱペテロ5の9)

2011年8月2日火曜日

ルカ18章のヤモメも参考にして下さい

ルカ18章のヤモメとは私達、
ヤモメをひどい目にあわせる相手とはサタン、
裁判官は神です。

ここでは、ヤモメが
裁判官に対して、相手のムゴさ、ヒドイいじめへの
「仕返し、報復」をして下さいと、日々「うるさいほどに」
しつこく訴える点に強調があります。

このことを私達に当てはめて見るとき、
日夜サタンと悪霊によって手ひどく苦しめられている
私達がこれを実行しない理由はどこにもないのです。
実はこれこそ、この最後の時代に、主イエスがキリスト者に
求めておられる要求です。(8節のイエスのことばに注意して
ください。これは彼の「ひめたる」大きな期待から
発せられたことばに違いありません!)

さて、ヤモメが裁判官に対して、要求・懇願(こんがん)した
時に用いた言葉は「裁判」「さばき」という上品な言い方
(新改訳)ではなく、リベンジや「あだうち」と言った
強烈(きょうれつ)な意味をふくむと言います。

結論として
私達が霊的戦いにおいてするべき2方面とは
①直接私達が、サタンに向かって発する糾弾(きゅうだん)と、
②私達が神に対して「カタキ・サタンを滅ぼして下さい」と訴え、
懇願(こんがん)・要求するという二つです。

いずれにおいても、極めて大切なことは
「神のことば」である真理(法)にかたく立ち、
それを実際に具体的に口にすることです。

私達がサタンを糾弾(きゅうだん)する場合
神のことばをも悪用するサタンの巧妙なダマシに対抗し、
神のことばを正しい方法で、私達の口からサタンに向かって、
真っすぐに突きつけることが大切です。悪霊に対して、
私達の口からもツルギがつき出るべきです。
それは荒野における主イエスの戦いと同じです。

エデンにおいて、
人はサタンのたくみな言葉に破れました。
しかし、荒野において
人の子はサタンに、やはりただ神のことばによって
勝利されたのです。(マタイ4章)

階段のかべを作っています

雨降りなので、中で階段横の壁を作っています。
これが終われば、二階を一階から遮断(しゃだん)
するために板で階段をおおうのですが、そのための
よい方法をきのうフト気づいたのです。それは実に簡単で
効果的なやり方なので、自分ながらちょっと驚ろきました。
(それまでは相当面倒な方法を考えていたのです。)
山で一人で大工をしていると、時にこう言うことが
起るので面白いです。

★
さて
私達がサタンを糾弾(きゅうだん)することは、
実に奥が深いです。 黙示録12章によれば・・

先ずは、①御血が、絶えず、絶対的に必要です。
それを忘れ、自分で出て行ったら(サタンに対抗したら)
戦う前にボロ負けが決まっています。

次は②「証しのことば」ですが「証し」とありますから、
それは、私達が 法律(神の言葉)をよく知った上で、
法廷に立つ姿を連想させます。法廷とは当然、ことばが
大いに飛びかう場所です。

その証人(私達)の前には、裁判官なる神と、
私達の横には、敵である巧みな「訴える者」がおります。
その訴える者(サタン)はきわめて勤勉で、実に口八丁
手八丁、とても高い能力を持ち、とうとうとして、私達を
(本当は日夜)訴え続けるのです。(何とずうずうしい!)

彼の本質は悪(ウソと人殺し)なのですが、法廷の
場面においては、必ずしも正義が勝つとは限りません。今とは
「あなたの現場で」常時開かれている「法廷の時代」なのです。

また背後には 無数の傍聴人(ぼうちょうにん)すなわち
有形、無形の被造物(天使達)がいて、一言も聞きのがす
まいと、カタズをのんで主役の対決を見つめているのです。
当然、傍聴人が発言することは許されません。

裁判官も、法廷においては、特に今、
(サタンの不正に対する彼の激怒(げきど)は明白なのですが)
その最終判断をかくし、あまりしゃべりません。

だから あの訴える者に対する私達の言葉や弁明等
(法律が正しく適用されているか等々)に加え、
私達の態度、目つき、顔つき、語調などが
総ての「なり行き」を決定するかのようです。

最後に
私達は③「自分の命」を惜しまないことです。
これは日々負うべき私達の前に置かれた十字架です。
実は「自分の魂の命を捨てた者」以上に、この世で
強い者はいないのです。

もしも以上をクリアすることが出来れば、あのたくみな
訴える者も、何回でも!イナヅマのように、天から地に投げ落と
されるでしょう。 今日でさえ、主イエスは(時空を越えて)
それをご覧になるのがとてもお好きです。(ルカ10章)

2011年7月31日日曜日

お見舞い有難う

早朝の地震は大きかったですね。
私も目が覚めました。
大丈夫でしたか?
ズーッと気になっていたのでメールしました。

*
ハイ、有難うございます、大丈夫でしたよ。
相当、ゆれはゆれたのでしたが、被害はゼロです。

ふり返って、3・11ですが、
近所の別荘では壁がめちゃめちゃになって、
全部・作り直しだそうです。でも、この小屋の母屋はヘンです、
全く大丈夫だったのです。

「電柱のやぐら」の上に建っていて、地球に直接接してない
建物なので、ゆれ方は物すごいのですが、その構造がかえって
免震効果になっているのかも知れません。

それはそれとして、寒いですよ。
やはり夏は夏らしくカッと暑い方がいいです。

2011年7月30日土曜日

ベッドの高さ

自分にちょうどよい
ベッドの高さの「みきわめ」は微妙(びみょう)です。
それが少しでも高すぎると、部屋の中での
「おさまり」が悪くなり、人も落ち着きを失います。
このことは霊的なことがらにも当てはまりそうです。



*二つの協力(祈りと十字架)*

さて、敵の手段とは、私達に対する
いろいろな程度のウソと殺し(死)であり、
彼等の願望、意図は この二つを用いて、人をして
「自分の滅亡という運命」の中に引き入れることです。
彼は人を「とも連(づ)れ」にしたいのです。

しかし、彼等の画策(かくさく)は、とうぜん神の微妙
(びみょう)なサジ加減によって制限されます。※1

この局面でこそ、私たちの祈り、懇願(こんがん)の必要が
生じます。実のところ「敵の手前」、神でさえ、人の祈りを
必要とされるのです。何故でしょう。それはその際
人の懇願(こんがん)は、神が敵に対してその力を「公に」
発動することを可能とする根拠、あるいは「うしろだて」とさえ
なるからです。だから、そのような祈りは神への大きな
協力となる、と言うことが出来ます。

そのような「神とサタン間の敵意あるやりとり」をへて初めて
「サタンに許された分量の攻撃」が私たちに及ぶのですが、
当然その背後には「サタンを出しぬく」神の知恵が
隠(かく)されております。

それゆえ、祈り以外に キリスト者が自分の意志で
「十字架を自分に適用する」と言うもう一つの
「神への協力」が、ここで必要とされることになります。

今回くわしく書くことはできませんが、この十字架は
(特にサタンに対して)神が上記の「神の知恵」を発揮
(はっき)されることと実に深い関係があるのです。それゆえ
キリスト者が、日々自分の十字架を負うことは、神にとって
とても大きな価値を持つのです。

(十字架とは「みこころの中において」自分を閉じこめ、
制限し、不自由にする状況を喜んで受け入れることです。)

ところがこの際、実はその事態を私達が
①「十字架として受け入れる」べきか、
②「敵に対して直ちに命を適用するべきか」(※2)という
問題がここにはあるのですが、そのいずれを選ぶべきかは
必ず主が私達の霊の中に示して下さるはずです。
(この段落の記述は今分かりにくいかも知れません。
お許し下さい。)

いずれにせよ私達の敵への対抗手段は
「(私を経由しての)キリストの効き目のある死と命」です。
人がサタンに対抗する手段は、キリストにある「死と命」
以外にはあり得ません。しかし感謝なことに、
この片方には他方も含まれているのです。


※1
この事実はヨブ記などでも分かるのですが、しばしば
その神のサジ加減は 人が頭で考える程度を越えます。
従って、神への信仰はどうしても必要となります。
要するに信仰とは「何がどうであろうと、あなたは
神なのですから、あなたに信頼します」と言うことに
つきるでしょう。

※2
「みことば」をツルギとしてつきつけ、
悪霊を追いつめることなどです。

2011年7月29日金曜日

ベッドけん食卓が完成

まるでツユのような空模様(もよう)、
涼しいというよりはチョッと寒いです。

きのう一日もかからずに、ほぼイメージピッタリの
「ベッドけん食卓」が完成しました。
(あまりに早く簡単にできたので、フシギな感じです。)
ふだんはこれをデーベッド(昼寝台?)にするつもりです。

もしも客が来てくれたら
(そのようなことはとても少ないでしょうが・・)
直ちに天板を高くして食卓に早がわりさせます。
そのシカケはきわめて単純ですが、とても実用的です。

★
「みこころ」の中にある
強い祈り、神への懇願(こんがん)は
神の敵の巧妙(こうみょう)な画策(かくさく)でさえ
破壊(はかい)し・つぶすだけでなく
神のものを立ち上げ、建て上げます。 何と祈りは
結果「十字架や聖霊」とほぼ同様の働きをするのです。

だから敵にとって
キリスト者の祈りほどイヤナものは無いはずです。
なぜなら祈りは 悪霊達のまん前に
「神の力」を引き出し、招(まね)き入れるからです。

霊的な戦いに関して言えば
私達は絶対的に無力ですが 、真に
その「無力の認識」に立つことが出来るならば、
祈りという霊的な手段を持つがゆえに
キリスト者は「神の敵の道」の真ん中に
上からおりて立つ障害物、強力な妨害(ぼうがい)者
となることさえ可能でしょう。

私達は、むしろ事の始まる前にこそ 祈りによって
静かに働き、そして戦うのです。


★美しい言葉★

「ただおことばをいただかせて下さい。」(ルカ7ノ7)
これは
異邦人である百人隊長が、遠くから部下をつかわして
うやうやしくイエスに伝えたことです。
とても美しい言葉だと思います。

2011年7月28日木曜日

マキ置き場1が完成しました

きのうはマキ置き場の一つが完成し、
マキを少し積みました。
電柱と電柱の間に、森からとって来たミズナラを
3m二本に切って、レール状に置き、その上に、
板を打ち付けたのです。大きなミズナラの木を森から
引きずり出すのには骨が折れました。

電柱というのは
小屋の周りを囲むデッキ(ベランダ)を作るために
地中にうめたものです。地震でデッキが落下した部分等
を利用して、ここにマキ置き場を作っているわけです。

今日は雨模様、ベッド作りになるのでしょうか。

★
詩篇9の1:

私は・・ あなたの奇(くす)しい業を
余すところなく語り告げます。
(I will recount all of your wonderful deeds.)

「あなたの奇(くす)しい業」とは せんじつめて言えば
神の勝利と敵の敗北であり、
その実質は
キリストの戦いとその結果の中にあります。

ダビデは
①その事実の上に立っただけでなく、さらに
②彼はその内容を「余すところなく語り告げ」ると言っています。

これは確かに 彼の賛美(2節)と共に
「ダビデの有力な戦いの方法」であったのです。

語り告げる(recount)とは
「…を詳しく話す、詳述する、物語る、
…を順を追って話す、…を列挙する」
と言う意味だそうです。

だから私達も
神の勝利と敵の敗北とは「どんなものであるか」を
霊の中で明確に知り・その上に立ち、次に
その内容を余すところなく
万物に対して語り告げる必要があるのです。

「奇しい」とはワンダフル(wonderful)であり、
キリストの御業は、wonder(驚異・きょうい・不思議)で
満ち満ちている、 と言う意味です。

確かにキリストの死、復活、昇天、御座は
「驚異、ふしぎ」でいっぱいなので
私たち信じる者が
日々「ワンダフル!」と叫んでしまうのに
なんのフシギもないのです。

2011年7月27日水曜日

冬対策

間もなく来る(実際そうでしょう)冬の為に
けっこう作業を急がなければならないようです。
相当の仕事量になります。

1
ストーブで燃やせる建築残骸(ざんがい)を、
小さな四角形を形成する森の4本の木の間に、
うず高く積み上げたのだが、
その上に防雨シートを屋根状につるす。
2
マキ小屋以外に、マキ置き場を「電柱間に」作る。
なるべく真っ直ぐな木を周囲の森から伐採して利用する。
電柱間は9フィートはあろうか。これが4、5か所ある。
3
あちこちに散乱しているマキを、2のまき置き場に
積み上げて干す。
早く干さないとマキが冬に間に合わないので、
マキ小屋作りは後回しです。
4
マキ小屋を完成させる。
屋根は波トタンとする、この手が一番安くて丈夫そう。
5
一階だけで生活出来るように、一階に
「ベッドけん食卓」を作る。この作業は雨天にやる。
2バイ10使用で1×2メートルの大きさです。

6
一階だけで生活するために、部屋の「模様がえ」をする。
おもにタンス、本棚等の移動である。
7
階段の左右の壁に合板等を張って、壁をある程度仕上げる。
(これは8のため)
8
ロフト(二階)への階段を封鎖、密閉する。しかし
何とかして開閉も出来るようにしなければならない。
9
壊れた地下の客室を整備する。
10
地下の客室にある水道管に凍結防止対策を
ほどこす。

ヤレヤレ
「人が暮らす」ということは大変なことですね。

急きょ入山しました

突然ある事情が発生し、入山しました。

★
元来、祈り・神への懇願(こんがん)は
・私には「神の業」を行うことなど
全く不可能であるという認識と
・神にだけ
それは可能であると言う認識のもとに

自然に発生するものではないでしょうか。
その時私はいやおう無しに
どうしても祈らざるを得ないのです。

なぜなら、
潜在(せんざい)的にせよ、心のどこかで
「私にも少しは出来るのではないか」と
感じているならば、もともと何も祈る必要などなく、
自分でやればいいわけで、
その神への祈りは真実性に欠けるのです。

事実、
時間と空間の中に制限され、
自然界しか知らない私たちに、

超自然的力を持つ神の敵の
周到(しゅうとう)な 画策(かくさく)に
対抗する力など モウトウあるはずがありません。
それは悪漢の前の赤ちゃん同様です。

しかし時がいたり、
「私は本当に全く何も出来ない!」と
シミジミ感じること、
私の無力と神の有力を本当に「知る」こと、
これが霊的学課のレッスン1であり、

神でさえ苦労されて
私たち一人一人にどうしても教えなければならない
基礎中の基礎であるはずです。

しかし一面
「その認識の程度」は生涯にわたって
深まって行くことも確かなようです。

2011年7月26日火曜日

虫が少ない

今日も早朝
利根川の散歩が出来ました。
広い大きな空と朝日に輝く雲が美しいです。
ここは虫が少ないので助かります。

★
十字架は、
私の中にある「敵のもの」を破壊(はかい)し
その後、聖霊は私の中に
「神のもの」を建(たて)あげます。

この二つのものは一つの中で働きます。
すなわち、
十字架は、私の中の「神のものでないもの」を
倒しますが、そのこわしの後、私たちを
必ず復活の聖霊のもとにある「立ち上げ」に導かれます。
ところがその聖霊は再び「十字架に向かうように」と
私たちを促(うなが)すのです。

神が私達の中でなさりたい業とは、要するに
この二つのもの(破壊と建造)の循環(じゅんかん)
に過ぎません。

今の時代と次の時代において、
神はキリスト者達の中に
「王国の立ち上げ」を意図(いと)されているのであり、
(今は隠された方法で、次の時代にはオープンに)
究極的には必ず新エルサレムという建造に到達されます。

しかし今この時、この循環がとどこおりなく
行われるためには私に対する「神の働きかけ」への
「私のアーメン」がどうしても必要とされるでしょう。
(私にとって、どんな貴重なものが倒されるとしても・・)

2011年7月25日月曜日

利根川の土手

利根川のどて(堤防)は巨大です。
もしもこの川が氾濫(はんらん)したら
その被害はそうとうなものでしょう。
早朝、
その土手の上をユックリと歩くのが好きです。

★
「小さな群れよ、恐れることはありません。
あなた方の父なる神は、喜んであなた方に
御国をお与えになるからです。」
(ルカ12の32)

私たちキリスト者はよく
「自分たちのグループ」が偉大になることを夢に見ます。
しかしその願いの本音が「私達は大きい」と誇りたい
所にあるとするならば
そのような発想の源はどこにあるのでしょうか。

実際、永遠において
「エクレシア(教会の原語)ほどに
高く偉大なものはありません。」
しかし神は
今時間の中に存在するエクレシアの中にいる人々に
「私たちは大きくてスゴイ」という感覚を
与えたいとは決して思われません。

神がキリスト者をして
「普通の家々で集まるように」意図されたことには、
深い神の知恵が隠されております。
私達はこの世において
「よるべの無い小さな群れ」に過ぎない、
という感覚はむしろ正常です。

聖書は
「小さな群れ」と正反対である大いなる宗教を
見せております。そこには、人間が大好きな
「グレート」という言葉が何度も現れます。

彼女(大バビロン)は心の中で「私は女王の座に
着いている者であり、やもめではないから、
悲しみを知らない」と言う。(黙示録18の7)

※
ここで言う宗教とは
「神のもの(金と宝石と真珠)を飾りとした(利用した)
自分のための業」のことです。(黙示録17の4)

2011年7月23日土曜日

今、実家にいます

利根川のほとりも結構寒いですね。
さて、ケサある別のことを書こうとして書き始めたら、結局
次のようになってしまいました。これはままあることです。

*
「あまたのこの世の者、モノ、物、もの」の中で特に
一つか二つが、キリスト者をして強力に、この世に粘着
(ねんちゃく)させます・・」という意味のことを暗示
(あんじ)された直後、イエスは

「何はともあれ、
あなた方は、神の国を求めなさい。・・」
(ルカ12の31)と言われました。
だからキリスト者は
「何はともあれ」日々神の国を求めなければなりません。

「者、モノ、物、もの」の粘着力は
相当なものであり、実はキリスト者を苦しめます。
(一見それを楽しんでいるように見え、
また見せてはいますが、そこには欲望、愛欲による
「縛(しば)られ」があり
「真の自由」がないので分かります。※

ここでキリスト者はよく
「それを捨てることなど私には出来ない、
神が私に代わってして下さらないと・・」と言って
退(しりぞ)き、再び世に向かうのです。
その言葉自体はナンだか霊的に聞こえ、他人には奇妙な
説得力を持ちますが、それは霊的ではなく単に
怠惰(たいだ)から来る神に対するツブヤキです。

このような、いつまでもグズグズした弁解(べんかい)や
「さきのばし」を神が正当化されることはありません。
このたぐいの、神に対する「霊的姿勢やスタンス」についての
警告(けいこく)は聖書に多いのです。

イエスはハッキリと
神の国を「求めなさい」といわれたのであり、それは
「明確な命令」です。ですから、少なくともキリスト者には
その罪を憎み、主を正視(せいし)し「おことばですから」と
自分の足でシッカリと立ち上がる意志が要求されるのです。
聖書の中ではこの実例もしばしば見られます。

ふしぎですが、
信仰は「正にその時を」基点(きてん)として、生きて働き始め、
その後も、神の一歩一歩の導きが、あなたの一歩一歩の意志の
応答に伴(とも)なって、初めて現実のものとなる、という
現象(それは神の力)を、あなたは見ることが出来るのです。
これは間違いなく霊的な経験です。

※
神の国とは、
実際的には霊的な「支配」です。それはまず
「人々が、一人の人、イエスキリストにより(総てのものを)
いのちにあって支配する」現象において現れます。
(ローマ5の17)

2011年7月21日木曜日

ストーブをつけていますよ

その上、上は三枚、下は二枚着ています。
まだ山におります。

*
さて、きのう以下のように書きました:

「永遠の」事実、すなわち真理を 、
今この望みのない時空の中で 生きざるを得ない人々に、
また 総ての造られた者達、また悪魔に対して
力強く宣告するために・・と。

全く同じ真理の内容でも
①人に対しては(自分もふくめ)命と光になりますが
②悪霊に対しては剣(ツルギ)となって、彼等を退かせ、
③神と良き天使達に対しては大きな喜びとなります。
(実は、誰が、どんなことばを、誰に向かって、
どんなふうに発するかは宇宙的時代・天地の時代をも
変えるほどのことです!)

当然、それぞれに対してその「語調」は異なるでしょう。
しかしまた、
神をふくめた「総ての生きもの」に対して、
一度に宣告することも不可能ではありません。
(むろん、対象を明確に意識することは重要です。)

確かに世界に真理は存在するのですが
ウソの方がはるかに優勢(ゆうせい)に見え
真理はどこかに押しこめられているかのようです。
(だから「真理がある」だけでは不十分なのです)

今この時代(艱難前)実際に口を用いて
真理を宣告するのは、天使でなく人の役目です。

しかし、
あれこれリクツをこねるのではなく
人の前でラッパを吹きならすのでもなく、
他人に教えをたれるのでもなく、
日常の隠れた小さな場面で、意識を持って立ち止まり、
一人見えざる敵に対して、オリにふれしばしば
神の真理を宣言する人はきわめてマレです。

いずれ来る艱難の時になると、
天使が空から大がかりでオープンな宣告をしますが
(黙示録14の6、7)今「か弱そうな人の子」による
「ささいな人間生活の中での隠された宣言」の価値は
それよりも実ははるかに大きいのです。

あなたの霊が
「何者かによって」押しこめられることに反発し、
意志を用いて自分の霊を外界(がいかい)に向けて
強く押し出すべきです。
本来、宣告や宣言は決して気楽なものではありません。
宣言とは実は霊的なバトル(戦闘)であるからです。

※
神のことばを宣告することによって
「天地の時代」をさえ変えた人の一例は
パプテストのヨハネです。何故なら彼は
初臨のキリストをこの時代の中へ導入したからです。

2011年7月20日水曜日

真の汚染(おせん)

そうです、
神の敵はこの地を深く深く汚染(おせん)しました。
その汚染は 元来人の欲望、特に安楽願望等の
心に乗じた「悪魔」を起源(きげん)とするものであり
その悪の根は無限と言えるほどの深さです。

そして それは人の体と心から、
この世界全体へと世代世代において増し加わり
浸透(しんとう)して行ったのです。 この汚染は
人の力の全くおよび得ないほどのものです。

私は今回の出来事を通しても 改めて
日本のみならず、この世界のどこにおいても
200%一切の望みがないとの 確信に至りました。

ところが
この惨禍(さんか)は、この程度で終結することは
決してなく 、人の努力と善意をあざ笑うかのように
浮沈(ふちん)をくり返しつつ、さらに徐々に、
しかも確実に 全く絶望的な次元(じげん)にまで
深まって行くことでしょう。

*
しかし感謝します。
ここに一すじの光があります。

それゆえ
上記の ヒドイ現実にもかかわらず、
2千年前、神が「最後のアダム」である
イエスという青銅(せいどう)のヘビの上に
その総ての汚染を置かれ、それをのろい、
すでに黄泉(よみ)にまで送られたという
永遠の真理にもとづき、

間もなくもう一度、主イエスが来たりて
具体的、徹底的、抜本的(ばっぽんてき)に
人の心の汚染に留(とど)まらず
物質的な汚染をさえ
遂には永遠の火の池深くへと
投げすてられることを私は信じます。

そしてこの「永遠の」事実、すなわち真理を 、
今この望みのない時空の中で 生きざるを得ない人々に、
また 総ての造られた者達、また悪魔に対して
力強く宣告するために

主のたまわる清い純粋(じゅんすい)な食物、
すなわち、神の口から出る聖なる食物を
日々食べ続けて行くことを心から願い、

人類にとって唯一の希望である
「あの青銅のヘビ」(民数記21ノ8)を見上げます。

アーメン、
主イエスよ、早く来て下さい!

2011年7月19日火曜日

ダビデのプロスキネオ

主よ、
朝空けに、私の声を聞いてください。
朝空けに、私はあなたの為に備えをし、見張りをします。
(詩篇5の3)

ダビデは「朝型人間」だったのでしょうか!
そうとう早く起きて、かなり大きな声を出し、
主に祈ったようです。
(・・そこには必ず賛美があったはずです。)

また
「備えをし、見張った」とありますから
彼は真のウオッチマン(見はり人)であり
その心は常時、敵に対する警戒(けいかい)に満ち
早朝から「あなた」(神の国)のために敵を見はったのです。
(・・これは戦いです。)

*
「主よ、
朝空けに私の声を聞いてください。」

それにしても、この表現には
何と彼のプロスキネオ(真の礼拝)の心が
あふれていることでしょう。
彼は目覚めと共に主を愛し、
早朝「一人」深く神を礼拝したに違いありません。

プロスキネオ(礼拝)とは
「愛をこめて、主にとても親しく触れること」です。

2011年7月18日月曜日

余談ですが・・

さらに最も短く表現するならば、プロスキネオとは
①「神との交わり」であると言えるでしょう。
「交わり」はキリスト者の最深の部分(霊)の中の
三つの主要な機能の内の一つです。

他の二つとは
②ある事実を「霊的に知る」機能(霊的知覚機能)
である「直覚」と
③信者の中で「今この時点で」彼のある行為や
傾向に禁止を発する「良心」です。

そのようにして、キリスト者とは常時・霊の中で霊的に
①神と交わり(礼拝、プロスキネオし)
②神を知り
③何かを断って神に従う者ですが、
この三つは絶えず交互に深く関係し、生き生きと循環
(じゅんかん)しているのではないでしょうか。

★
マキ小屋作りはうまく行っています。
今、屋根のタルキをのせる台を
柱ケン基礎にあたる電柱の上に作っています。
水平器が大活躍しております。実際に屋根が乗るのは
「次回の入山」まで待つことになるでしょう。

この珍しい電柱の説明は、長くなりますので
いずれまた・・

プロスキネオ

これはギリシャ語のことばで
προσκυνέωです。

これを英語的に書くと、proskyneo(プロスキネオ)で
新約聖書に52回も出て来ると言います

その語源的な意味は
「犬が主人の手をなめるように、キスすること」
だそうです。キスするです!

これをクリスチャン的に言いかえて見ると
「敬愛をこめて、主にとても親しく触れること」であり
簡単に言えば「主に対する愛と接触」です。
すなわちプロスキネオには
「神への真の愛と実際的なタッチ」が
どうしても必要なのです

聖書の訳者達は
これを多く「礼拝する」「拝む」と訳しています。
あえてその訳は間違っているとは言えないでしょう。

しかし確かに言えることはこうです:
キリスト者の「主に対する真の愛とタッチ」は
目には見えない心の中のことであり「神へのキス」は
極めて貴重な「霊的な」経験です。それは魂的、
肉体的、物質的なことではありません。

いずれにしろ、
プロスキネオがそのような意味なのですから、少なくも
「一つの時間と場所を定めた形式的行為」を高くかかげ、
それを特別あつかいにして、プロスキネオと呼ぶのは、
どう考えて見てもムリのようです。

永遠の滅亡から救い出された罪人として
神への礼拝(プロスキネオ)すなわち
「敬愛をこめて神の手にキスすること」は私達の
「24時間の経験・姿」でなければならないはずです。

2011年7月17日日曜日

もう冬じたくです

マキ小屋ですが、
床は張り終え、今日は、今立っている直けい25cm
ほどの長ーい電柱を二本カットしなければなりません。
これに屋根用の「土台」をのせるわけですが
さらにその土台に、合板をはるためのタルキを
並べるという寸法です。

それにしても私の小さいチェンソーで大丈夫でしょうか。
これは多少危険な作業になります。(危険とは
カット直後の電柱の落下です)それにしても
回りの森の伐採(ばっさい)等の、今後の作業を
思うと、どうしても大きいチェンソーがいりますね。

きのうは上の別荘、中村さんちの「地震で出なく
なった水道」をお手伝いができてよかった。
(中村邸は「おも屋」も相当やられたのです)
その時、ブヨかなんかにさされて、左手がハレ
かゆくてかゆくて大変でした。今もはれています。
私はどうも虫に弱い。きのうは蚊とり線香を
切らしており、いつもするように腰か首に
「携帯蚊とり線香」をぶら下げられなかった
のが原因でした。

今ある客用食卓ですが、
これを冬はベッドに、夏は食卓にできるように
改造しなければなりません。天板は2バイ8の
板を並べればいいでしょう。本当は立派な一枚板
でも欲しい所ですが、ま、これでもいいでしょう。

冬になぜ下にベッドを置くのか、それは、夜昼一個の
マキストーブで総てすむように、ロフトへの階段を完全
封鎖(ふうさ)して、暖気を一階に閉じこめるためです。

以上のようなことですので、
これから、冬じたくがたくさんあるようです。

2011年7月16日土曜日

キリスト者の賛美

キリスト者の賛美は
「キリストの十字架における勝利」を
根拠(こんきょ)にしています。
その勝利とは、サタンに対する勝利ですので、
(女のすえイエスキリストはサタンの頭をくだいた)
私達の賛美はサタンを強く意識したものであるべきです。
従って今日「悪霊との日ごとの戦い」と賛美を分ける
ことは出来ません。

確かに私達は、
堕落(だらく)を知らない天使達と共に
「神の創造の偉大さ」を賛美することもありますが、
しかし「人であれば」その賛美の後でさえ、「完全な」
創造(自分をふくむ)に侵入(しんにゅう)したサタンの
深い汚染(最も深刻な内部ひばく)に気づかないわけには
行きません。(それは放射能どころではありません)
だからここでも、人は十字架にもどらされるはずです。

従って神の二つの偉大な業とは
創造と「あがない」であると言えるでしょう。
この二者の間に、サタンの侵入があるわけです。
(創造→サタンの汚染→贖い)

しかしサタンの侵入(しんにゅう)は、神にとって
神の第二の創造(新創造)を、キリストの復活の中に
導入する機会となりました。
これは何と偉大で計りがたい神の力と知恵でしょう。
それを見るとき、キリスト者は「最も深い賛美」を
ささげ、ただ神を礼拝せざるを得ないのです。
(初めの創造→サタンの汚染→贖い→新創造)

2011年7月14日木曜日

けさのメールから

Dear シュガー
その後どうしておられますか?
私たちは、もう少し前にbay area( San Francisco方面)
から帰ってきたところです。・・・
主の恵みが共にありますように。

*
兄弟姉妹
今14日、午前9:49、大工仕事の休憩タイムです。
今日は7時頃から大工を始めたのですが、これは
いい方法です。第一涼しいし、この現場は、午前中は
日陰になるので汗もかかないしとても能率が上がります。
(午後になると滝のような汗ですよ。)

今5、6坪のマキ小屋を作っているのですが、
ネタは殆ど張り終え、午後は床板を張ることが
出来るでしょうか。
壁、屋根と出来上がって行くのが楽しいです。
(この小屋には、マキ割りをしたマキを入れようと
思っております。割る前のマキは露天につんでおいて・・)

さて
私は震災前と比べて、生活も心境もほとんど変わって
おりません。我ながら一寸ヘンなのですが、ここでの
生活がこんなに楽しいと感じたことは今までに
無かったように思いますし、さらに
ここの山と森が「こんなにも美しかったかな」等と思うほどです。
なぜそうなのかは私にもよく分かりませんが・・

最近、
「私とは何なのか」と言うと、私とは霊であり、
魂と体は、この世に触れるための単なる手段なのではないか、
と言う思いが強くなって来ております。
これは奥深い課題となりそうです。これをさらにつき止め、
実際生活で経験して行きたいと願っております。

今、高原の涼風がとても気持ちがいいです。
さ、それではこれからまた大工です。

*
あ、今地震です。
小屋がユサユサと揺れています。
驚かれるでしょうが、こういうのは殆ど毎日ですよ。

2011年7月13日水曜日

ダビデの詩

主よ何と私の敵がふえて来たことでしょう。
私に立ち向かう者が多くいます。1節
私を取りかこんでいる、いく万の民をも私は恐れない。6節
あなたは私の敵のほほを打ち、
悪者の歯を打ちくだいて下さいます。7節
(第3編)

これはその生涯(しょうがい)
日々戦いに明けくれたダビデの詩ですが
ここで言われている、彼の命をねらう無数の敵とは
新約的に言うと、決して人ではなく
目に見えない神の敵・悪しき霊どもです。

今とは
ソロモンの「あからさまな王国時代」の前の、
日々戦わなければならない時代です。しかしそれは
人々には隠(かく)されており、ひそかに王国が
芽(め)を出す時代でもあります。

だから
私達は内的に激しく戦っているとしても、ことさら
そんな様子を人に誇示(こじ)するべきではありません。
むしろ何が起ろうと騒(さわ)ぐことなく、
淡々(たんたん)として、今日も、私に「わり与えられた」
普通の生活を送るだけです。

ダビデもこう言います:
「私は身を横たえて眠る。私はまた目をさます。
主が支えて下さるから。」5節

*
「神への賛美と敵との戦い」、それが詩篇ですが
実は賛美と戦いは一つであり、一つのことの表とうらです。
(ここで言う「賛美」とは歌を歌うことではありません。)


★
今日は、マキ小屋の
「ネタ張り」に入りたいと思っております。
今しがた、ゴジュウカラ?の夫婦が
「巣が作れる場所はないかな」と
西デッキのあたりを調べに来ておりました。

2011年7月12日火曜日

食卓用ベンチ

今日はまず、
食卓のベンチを作るための2バイ8の板を見ます。
それは、きのう落下させた北デッキの一部から出たもの
ですが、腐食(ふしょく)が進んでいればダメですね。

次にマキ小屋作りに取りかかって見ます。
マキ小屋だから暖房はいらないし、スキ間風も
オーケーですからラクなものでしょう。しかし
雨だけはなるべく当たらないようにしないと。
建材は北デッキの残骸(ざんがい)を利用します。

★
さて
神に喜怒哀楽(きどあいらく)はあるのでしょうか。
当然あります。

例えば、詩篇2編は「天の御座におられる方は笑う。
主はその者どもをあざけられる。・・燃える怒りで
彼等をおののかせる。」と言い、

ルカ10の21では「ちょうどこのとき、イエスは・・
聖霊によって喜びにあふれていわれた。」とあります。
だから神も、彼の幸せを求めておられることは明らかです。

人は例外なく、自分の幸福を求めます。しかし、
キリスト者であれば、まずは神の幸福を求めるべき
ではないでしょうか。(その時に神は人に必ず
「真の幸福」を与えられます。この順番は重要です。)

聖書では、この神の喜怒哀楽は総て、
神の敵に関連して、神の敵の存在を背景(はいけい)
として表現されております。例外は一つもないと
言えそうです。(ハッキリ言えば、神は、
悪魔をひどく憎んでいるのです。)

具体的な話、
もしも神がいるのであれば、悪魔もいます。
キリスト者が
神の敵の存在を大いに意識しなければならないことは
きわめて明白です。

2011年7月11日月曜日

北デッキの解体がほぼ完了

山の上とは言え、結構暑い。
きのう、地震のあと、残った北デッキの撤去(てっきょ)を
始めました。くされかけた高さ4・5メートルのデッキの
作業はそうとう危険です。炎天下(えんてんか)の作業、
熱中症にもゆだんなりません。

そうしていたら・まもなく、たちまち空はかき曇り、
雷、大雨の襲来(しゅうらい)、夕立です。

ピアノをひきながら、しばらく待っていると雨はやみ、
北デッキの解体は、ほどなく終えることが出来ました。
(これは予定以上だ)

★
この世界は
「真理対ウソ」という構造です。
「小さな」真理によって、
ウソで築(きず)きあげた巨大で複雑な
サタンの建築物(けんちくぶつ)を
じょじょに破壊(はかい)してゆくこと、
これが現在における神の深い意図(いと)です。
(神は破壊者ですよ!)そこで一言サタンに物もうす:

私達が宣告する
「小さな」神の言葉の本質は真理であるが、
あなたが人に感じさせるもの、目に見させる現象(げんしょう)
状況、すなわち大きな山(マルコ11の23)の正体は
実はウソです。
サタンよ、
「真理対ウソ」ではしょせん問題にならないでしょう。

明快な真理の宣言は、ウソを消し去ります。
より正確に言えば、ウソを後退させます。
(上の記事とは関係ないですよ)

*
今日も無風快晴、
解体した残骸(ざんがい)の山のかたづけです。
(ツユ、終わったのかな)

2011年7月10日日曜日

あれはキツツキですよ

このところ毎日、予報に反して美しい朝です。

地震でこわれた北デッキの解体はきのう終わりました。
これで震災の後始末はほぼ終えましたね。
それにしても長くかかりました。ささやかな山小屋の、
この小さな災害にしてこうなのですから・・・

最後に残った、地震で壊れた地下室のフィックス
窓は冬までに新しくすればいいでしょう。

今日は北デッキの
地震で壊れなかった部分も解体しようと思います。
なぜならケッコウ腐食(ふしょく)が進んでいますし、
これを使用することは殆どないからです。でも
4・5mから落ちないようにしないと。

マキ小屋はやはりいるかな、と思います。
できれば、長野の友人のように冬中ストーブを
つけっ放しのストーブライフをして見たいからです。
そうすれば冬用・老人部屋(私のことです)を
新築しないですみますし・・

薪小屋を作るのはラクでしょう。というのは
この小屋の付属物(古電柱)を柱に利用すればホイホイ
出来てしまうだろう、と今のところは思っているのです。
いよいよ「震災の修復」でない工事を開始できるのは
とても楽しいことです。

今キツツキ(アオゲラでしょう)が、隣(となり)の別荘を
つついています。そうとう大きな音ですが、これはドラミング
とは違います。まるで大工さんが仕事をしているよう。
初めて聞く人は、あれがまさかトリだとは思わないでしょう。

今思い出しましたが
今年シオカラトンボをたくさん見かけます。これは
小さいころ沢山いたトンボで、嬉しいかぎりです。

ところが、バッタはいなくなりましたね。
昔は、色んなバッタがあんなに沢山いたのに・・
夏のさかりの、あの巨大なトノサマバッタの豪快な
羽音がなつかしい。

2011年7月8日金曜日

北デッキ解体初日

昨日、午後のこと:

北デッキの解体をしようと、現場に行った。
巨大なデッキが3、4m落下して地面にななめに
立っている。少し動かすだけでも大変そう、
その上、現場は傾斜地(けいしゃち)である。

かねてから「ネタからクギを一本一本抜くしかない」と
思っていたのだが、ためしに1、2本やって見ると、
それはとてもムリと分かる。釘が太い上に、釘の数が
ハンパではないし、何しろ足場が悪いから、このままでの
状態では、この方法はかなり難しい。

「合板はカットしたくない」と思っていたのだが、
こうなると、それは出来ない相談である。結局
「チェンソーでバリバリと切断するしかないのか」と
あきらめた。「頭と現場は違う」と改めて
思わせられたのであった。

ところがである。
さらに肝心のチェンソーが動かないのだ。これには困った、
森林組合で働いていたイモクボさんの所に行って
聞くしかないか、と思いつつも、チェンソーのフタを開けて
何心なくフタの「カス」を掃除(そうじ)して見たら、
何とチェンソーは元気良く動いてしまったのである。
これ一体どうなってるの?

かように、
山暮らしは「思いがけない」の連続です。でも
「思いがけない」のは山暮らしだけではありません。
(誰が3・11を予測できたでしょう)

さて、今日の作業はここまでとしましょう。
こんな時、意気ごんで、足場の悪い現場で、
チェンソーを動かすのは危険です、と言うわけで
きのうは早めに散歩にでかけてしまいました。

*
「古くなった合板でも、カットしたくない」というのは
この「石巻合板」と言う会社の製品がすばらしいから
です。特にその腐食(ふしょく)に対する強さには
ビックリです。(ま、値段もいいのですが・・)

2011年7月7日木曜日

コウモリが帰って来た

地下の暗さが、
ちょうどよい洞窟(どうくつ)状態なのか、
一羽のコウモリが住みついていて、
私が入って行くとヒラヒラと飛びます。

今、朝の6時半、
予報に反し天気はよいが、
3枚着て、ちょうどよいのです。その上
とうとうストーブをつけてしまいました。
これが阿武隈の夏、冬が寒いわけです。

きのう中に焼却(しょうきゃく)完了まで行けたので、
今日は「例の北デッキ」の解体に取りかかることが
出来るでしょう。よい合板を使っているので、
ストーブで燃やしてしまうにはもったいない。
(ネタに使った2バイ6もですが・・)
だから薪小屋の壁にでも利用しましょうか。

★
①
主よ、
あなたは既(すで)にサタンを襲(おそ)いました。
サタンよ、あなたはキリストに襲われたね!
「キリストというワシ」に襲われて
滅(ほろ)ぼされない者があろうか。

しかしながら
十字架におけるキリストの勝利は
一見彼の敗北とさえ見えるほどの
隠(かく)された方法においてでした。
(だから、あの時の彼の
「完全な勝利」を見る人はとても幸いです。)

②
さらに、①の「集約された勝利」はオープンな方法で
時間の中に「一部」引き出され、間もなく
総ての人々が「猛禽類(もうきんるい)なるキリスト」
を見るでしょう。

①もっと強い者(キリスト)が襲ってきて、
彼(強い人)に打ち勝った。(ルカ11の22)
②死体のある所にはハゲタカ(orワシ)が集まります。
(ルカ17の37)

注:
ハゲタカが複数であるのは、①とは異なり、その時の主は
勝利者達を伴(とも)なっておられるからです。

2011年7月6日水曜日

「御こころの外(そと)」は不法

いわゆる「山上の教え」は明らかに
キリスト者に対して語られたのですが
その最後(マタイ7ノ21~27)で(結論的に)
イエスが強く主張されたことは
「御こころを行うことが一番大切です」
ということでした。

「主よ、主よ」と言うこと
予言をすること
悪霊を追い出すこと
奇跡を行うことは
最高級のことのように言われておりますが、

しかし、それらでさえ
もしも「御こころ(法)の外で」行うならば、
そのキリスト者は
不法(anomia、lawless)を行う者であると
イエスは見なされます。

他の聖書のか所で、この不法という言葉は
サタンに対して用いられておりますので
その意味あいは深刻(しんこく)です。

★
今日の作業は
焼却(しょうきゃく)の下準備でしょうか。
昨晩、山の端(は)に輝く三日月は
ことのほかきれいでした。
今日もよい天気です。

2011年7月5日火曜日

整理整トン

ケサは「寒い」です。上に三枚も着ています。
ツイ先ほど一時的に
物すごい突風、雷、豪雨がありました。

*
さて、地下に
地震で壊(こわ)れなかったタナも4つほどあります。
大変ですが・今日あたりついでに、その棚の整理もしようと
思っているのです。しかし、

言うはやすし、それはけっこう難しい仕事です。
私も「これは捨てないでおこう。その内・何かに使えるかも
知れない。」とよく思うタイプですので。

でも今回はどうしてもやらないと!
「不要なもの」をいつまでもかかえていると
人生を「不幸」にしてしまうからです。

収納(しゅうのう)のコツは、
「一見して・あれは何」と分かるように「しまう」ことでしょう。
その点、物とモノを積み重ねたりすると、ものカゲになって
見えなくなり、たちまちそれは「無用の長物(ちょうぶつ)」
(不幸の原因)になってしまうようです。

だから、同類の物は、「透明な」一枚の大きな
ビニール袋に入れます。(ビニール袋はとても安い)
こうやって置けば、その棚をちょっと見るだけで「これは何、
あれは何」とスグに分かるのです。だから、
使うにも捨てるにも、パッと行動に移せるでしょう。

★
話は変わりますが・・

聖書のイエスの言葉を読むと、彼は決して
「分かりやすく」話そうとはされなかったように見えます。
(彼の表現は平易(へいい)ですが
内容はけっこう難しいし、その奥深さは無限です。)

なぜでしょう。それは、彼はただ
「聖霊を信じておられた」と言うことに違いありません。
彼は深く認識(にんしき)しておられました、
もしも聖霊が人に教えるのでなければ、その人は
「何も分かったことにはならない」と言うことを。

「しかし、その方(聖霊)が来ると、あなた方を
総ての真理に導き入れます。」(ヨハネ16ノ13)

2011年7月4日月曜日

十字架と宣言は一つです

「私と福音のために命を失う者は
それ(自分の命)を救うのです。」(マルコ8ノ35)

福音とは
「主の勝利とサタンの敗北」の事実です。
この福音は必ず
「総ての造られた者達」に
布告(ふこく)宣言されなければなりません。

それは第一に、
堕落(だらく)した見えない生き物達に対してです。
(何とイエスは「自分を失った」あと「よみ」に
行かれても、それ(宣告)をされました。Ⅰペテロ3ノ19)

だからその宣べ伝えは、もしも人が、
自分・自分の命(魂)を失うのでなければ
容易(ようい)なことではありません、

結論として
自分の命が救われるために、最も大切なことは
自分を失うこと(十字架)と
福音を「宣べ伝え」ることです。そして
この「十字架と宣言」という二つを
切り離すことは不可能です。


★
風の強い曇り空です。

今日以後の作業:
①ボイラー室においた建材等を新しく作ったタナに収納する。
③大量にたまってしまった雑物の焼却(しょうきゃく)
②↑火事になったら大変ですので、先ずは
焼却場の整理が先決(せんけつ)。
④落下させた北デッキ(2×3m)の解体(かいたい)
⑤地下の客室の窓(この窓だけが地震にヤラレタ)を
片付けて、全く新しい窓を手作りする。プラスチックの
フィックス窓ならば簡単。

以上で地震の後始末は完了ですが、まだまだかかりますね。

⑥小屋の周囲に散らばっている一年分のマキの整理。
(どこに保管しましょうか)

2011年7月3日日曜日

地球はまわっています

真理・事実・神のことばは、
私の「気分や機嫌(きげん)」とは
全く関係がありません。

私の気分がどうであれ、
太陽が西から昇ることはありえません。
私の機嫌と関係なく、地球は太陽のまわりをまわり、
太陽は必ず東から昇ります。

そのように神の真理・キリストの達成は、
私の状態とは関係なく常に一定不動です。

さて、
サタンはその神の真理を
「人が知り、それだけでなく次にそれを表明すること」を
恐れます。(世界の歴史をも変えるのは、第一に人の
小さな口です、ガリレオの時のように!)

サタンは、真理が「そこにあるだけでは」恐れません。
それは「悪をさばく立派な法律があっても」
誰もそれを口に出して抗議しなければ、
悪人は全然恐れないのと同じです。

今サタンは安らかです。なぜなら、
サタンの悪事を糾弾(きゅうだん)し「サタンへの
神の裁(さば)き」をオオッピラにする人がどこにも
いないからです。(人は人を相手に戦うだけです。)

実はサタンは人間を自分の子分だと思っています。
だからもしも、ある子分が、悪から足を洗い
法律を手に取り、立って(気分に打ち勝ち)
条文を声高らかに宣言するならば、
彼は相当アワテふためくでしょう。
これがキリスト者の戦いです。

*
旧約聖書ヨブ記に
「地動説」を暗示する記述があります。
「神は・・何もないところに地球をかける(つるす)」
(26の7)神によって何もないところにかけられたのですから
地球は空間に浮かんでいる、のではないでしょうか。

2011年7月2日土曜日

あるごあいさつ

お元気のことでしょう。

私は相変わらず、平気で山暮らしと
「下界」の生活を楽しんでおります。
(このノンキさは一体何でしょう)

地震の後始末(しまつ)はまだまだですが、
ようやく先が見えて来た感じです。
ふしぎと母屋(おもや)は守られたのですが、
デッキや地下のタナが手ひどくやられたのです。
それでも、山はいいです。

もうこれから、ここに来てくれる人は
ほとんどいないでしょうが、
この山の快適さは何にも代えられない、
と言ったところでしょうか。

主にあっては、あえて
毎日「スリリング」な日々を送っているとでも
言いましょう。

ただただ、この素晴らしい主を賛美し
感謝するのみです。

シュガー

2011年7月1日金曜日

タナに建材をしまう作業です

風のある、とても美しく晴れた朝です。
今、新設したタナに、外に放り出したままの
建材等をしまいこむ作業をしています。
今日で殆ど終わるでしょう。ただしあの
「一年分のマキ」は明日以後です。

★
「虫食い」がいつの間にか「大きな布」に、とても
小さな穴をあちこちに開けるように、神の国は、決して
目立たず、少しずつ、しかし確実に拡大して行くのかな、
と思っております。

その布とは、神にとっては、どうにもならない
古い不要な布ですので、ツギをあててよくすることは
出来ません。

そうするときに、ある日、主イエスが来られて
布全体がドサッと落下し、
「天国の時代」が明らかに幕(まく)開くことでしょう。

古い布とは、四スミを持ち、
地上の総ての生き物を入れる今の世界のことであり、
「新しい布」とは、次の時代において、王イエスの支配が
つつみこむ神の国の範囲を表します。その神の国は「死の大水」
の中を通った後、総てに超越(ちょうえつ)したあの箱舟に
よっても表現されています。それゆえ、私達は今既に
「その新しい空間」の中にいる必要があるのです。
(この場合、箱舟はキリストであり、その新しい空間とは
キリストの中、in.Christです。)

*
今朝、
自発的服従、主体的服従ということを
思っておりました。
私達は神の意志(みこころ)に服従すべきですが、
それは主体的服従であるべきです。
神は、私達が「意識的に」彼に従うことを喜ばれる
のです。これは今日失われつつある大切な真理です。

神は人に自由意志を与えられた、と言う
「人間創造の大原則」を決して忘れるべきでは
ありません。そうでないと悪しき者が忍(しの)びこみ
私を奪(うば)い去るでしょう。
(エバ母さんとアダム父さんを奪ったように)

私達にとって今日の一日が、
その忍び込む者の存在を知り、対抗し
果敢(かかん)に立ち上がる日でありますように。