今度の冬のマキには、もう間に合わないかも知れませんが
ようやくきのう「マキ置き場」作りを再開しました。
森の木を切って来て、二本を線路状に並べ、その上が平らに
なるように板を置いて釘で固定する、と言うやり方です。
昨日二つ目が完成しました。今日はもう二箇所作りたいです。
それが終われば森に散らばったマキをそこに積める
というものです。そのマキ積みが終われば「マキ小屋作り」も
再開できるでしょう。
★最も深刻な問題★
全聖書を見るとき
「支配する」は最重要テーマの一つです。聖書を簡単に
説明して見れば、創世記から黙示録まで、神とサタンの
二者が「支配する王権」を争っている、とも言えるのです。
(とは言え、当然サタンは被造物という限界を超えることは
不可能であり、神はやはり神です。これについては今回は
触れません。)
したがって、聖書のどこででも「支配する」という意味が
現れる場合は必ず「神の、サタンに対する支配」という意味が
根底にあるはずです。(「人の問題」よりも更に深い所に)
その際に用いられている主要な語は
新約ではバシレウ、旧約ではラダという原語のようです。
ですから、新約でこのバシレウという同じ言葉が時には
「支配する」と訳され、時には「王である」と訳されています。
当然「その支配」は、全聖書の主要テーマである
「神の国や天国」における支配のことです。
このように、
聖書で「支配する、治める」という場合、それは必ず
「王として」支配する、治めるという意味です。
(民主主義的に、ではありません)
ですから、その治め方には必ず、静かな力と権威を秘めた
天の高貴さ、ロイヤリティの気品が漂っていなければならない
ことでしょう。従って人にとって「何が真の天の高貴さなのか」
の識別力・感知力がとても大きな分岐点となってしまいます。
何故なら人にそれをリクツで教えることは不可能ですし、
その点においてこそ、あのだます者のウソが巧妙に人々
(キリスト者をも)をかく乱するからです。
さて黙示録の最後に、全聖書の結論のように、
「人が人なる」キリストと共に「王と祭司として万物を治める」
が書かれています。これが神の究極的な願いに他なりません。
ポイントは「人」です。
所がそもそも、この王権と祭司職は、太古においては
堕落する前のサタン・高貴な「御使い」であるルシファー
に与えられておりました。
しかしながら
何と今現在にいたるも、その王権がサタン・神の敵によって、
神への反乱の中で不法に乱用されているのです。
それはあたかも、とても大きな権能を与えられていた
「侍従長の大反逆」のようです!
その点にこそ全世界、古今東西の、総ての痛み、悲しみと
苦しみ、そして全宇宙におけるあらゆる混迷の源が存在
していると言えます。
創造主・全能なる神にとってさえ
サタンをはじめとする邪悪な霊どもの巨大な組織や体系
(コスモス、聖書でいうこの世)
の中で働いている「暗闇の支配」をどう対処して行くかは、
「この時間の中においては」
きわめて困難で深刻な問題であると言わなければなりません。
(Ⅰペテロ2の9、黙示録20の6,22の5、
エゼキエル28、等)
*ちなみに、全聖書中、上記の意味では
ギリシャ語バシレウ、basileuō、βασιλεύω、は18回使用され
ヘブル語ラダ、radah、רָדָה、は22回使用されている
とのことです。
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