エペソ1の21をパウロは
「支配、権威、権力、権勢」と書いたのではありません。
「支配、そして権威、そして権力、そして権勢」と
書いたのです。
ところが、英語訳や永井訳をのぞき、原文に忠実である
とする岩波訳やウイットネスリーの回復訳も含め、私の知る
限りの訳では、この「そして」を全部とりはずしております。
何故あえて、そんなことをする必要があるのでしょうか。
その理由は、彼等の感じるところに従って、
日本語としての美しさや「合理性」を重んじたためなのでしょう。
しかしそれはよくないのです。たとえ、ぶかっこうに見えた
としても、原文の通りに訳してくれないと、真に神のみこころを
聖書から求めようとする読者にとっては、それでは困る筈です。
20~22節
神は・・キリストを天上においてご自分の右に座せしめ、
彼を、すべての支配、「そして」権威、「そして」権力、
「そして」権勢の上におき、「そして」この世ばかりでなく
「そして」きたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上に
おかれたのである。
「そして」万物をキリストの足の下に従わせ・・た、のです。
(計6個の「そして」は全部同じ原語・kaiです)
ここでパウロは・・
今イエスが神から与えられている権威は、
「一つ一つ、一個一個例外なく」サタンや人間の持つ
あらゆる権威に比べて、比較にならない高さにある、
ということを強調したかったのでしょう。
多分当時の読者には
この多くの「そして」に込められた、パウロの
迫力が伝わったのではないでしょうか。
ところで、どんな聖書の訳であっても
「この訳を読んでいれば間違いはない」という訳はないし、
また「彼の解釈ならば全部正しい」という人もいません。
だから可能なら、私達一人一人が少なくも聖書のキー
となる言葉に関しては自分の目でシッカリと確認する必要が
あるはずです。
*
さて、
「キリストの権威の大きさ・高さ」と言いますが、それは
どれぐらいの程度なのでしょうか。
その答えは「それは無限です」と言うしかないでしょう。
とするならば、他の権威の高さは、それがどんな権威であろうと
「無限に限りなく」低くなる計算になります。
従って私達は「サタンや堕落天使の権威」を大胆に
「無である!」と声高に宣告し、彼等を辱(はずか)しめる
ことができると信じますし、多分、行間に込められた
パウロの主要な意図は正にその点にあったのではないか、
と考えております。
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