2010年8月9日月曜日

キリストの中に失う

愛する者の問題は 
主と共に十字架に向かう途上(とじょう)で
総ての歴代の聖徒達が同様に通った道です。

不思議なことに あなたと同じ様に
この数日 もうすぐ七十歳になる私でさえ 
今に至るも それを引きずり続けている
と感じて来ました。それはやはり相当辛いことです。


しかし霊の中には ある確信があります。それは
今 この苦しみの中を 主と共に経過(けいか)することは
遂には愛する者の真の益に繋(つな)がる ということです。

私が主に従い 十字架に向かうことは 
愛する者を「キリストの中に失う」ことです。
そのような時私達はどうしても 愛する者を 決定的に
喪失(そうしつ)してしまうように感じるのです。
しかしそれは事実上 
愛する者を「キリストの中へと失う」ことです。

今もしも私が「人情」の中でその人を捕らえようとするならば
「私の手の中に」彼を握ることにはなるでしょう、しかしそれは
私は愛する者をいずれ キリストの外へと失ってしまう
ことに繋がるのかも知れません。それこそ最大の悲劇です。

しかし私が
キリストの中へと愛する者を失うのであれば
わが愛する者はいずれ確実に 全能のキリストの御手の中で
真の命の領域(りょういき)の中へと
移されるに違いありません。

命を得ることは 
総ての「私の愛するもの」、私自身でさえも
キリストの中へと失うことです。

2 件のコメント:

電気屋 さんのコメント...

「信仰に踏みとどまりそれに仕える者は、キリストのからだのために、身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」

言葉にすれば単純なものですが、実際自分に降りかかると、わかっていても、燃える炭は熱い。
最近は、「キリストの苦しみの欠けたところ」を考えさせられております。
キリストの苦しみに欠けた所があるとは、長い間、とても、そうと、おもえませんでした。
ただキリストから取られたものとしてキリストを見るとき一部が苦しむことは全部が苦しむこととあるように、それは事実です。
事実は理解する事ではなく、体験してこそ明らかになる。
なぜ足の小指を打っただけなのに身体全体がもんどり打つのかは、実際に打ってみてこそ確認が出来ます。
私には、何も慰めの言葉が無いことが残念ですが、キリストの慰めがあらんことをひとつの身体として願っております。

キリストのからだとは、教会のことです。

僭越ながら当たり前の事を書かせていただきましたが、失礼します。

Mr.Sugar さんのコメント...

エクレシアの中においては 
決して自分は単独ではなく、
自分の有様が 良きにつけ悪しきにつけ、
直(ちょく)エクレシアに影響を与える
という事実を真に知ることは
極めて貴重です。

その現象は単なる理論ではなく実際であり、
キリスト者が一旦その事実を
体感するならば、
以後 彼の「いわゆる自由」は
大幅に制限されることでしょう。

しかし
「その不自由と苦しみ」は彼にとっては
大きな喜びとなり 彼はそれこそが 
天にある真の自由であることを知るのです。

紹介された御ことばが記されている
コロサイ書1章のパウロの記述を
よく読むならば
この記述に裏打ちされている事実は、
「彼の大いなる喜び」であったことは
極めて明白です。