2010年3月22日月曜日

浮遊(ふゆう)する魂

死んだわが子の「永遠の福祉(ふくし)」を思い、
既にわが子が生前、神(それは永遠そのものです)に触(ふ)れたと
思われる形跡(けいせき)によって慰(なぐさ)めを得るのは 
決して悪いことではありません。

しかし、それは 
ある危険と背中合わせの あやうい私の姿であることも知るべきです。
なぜなら、そのような時、まかり間違えば、私の魂は
「ある種の甘い感傷(かんしょう)を伴(とも)なった 深く暗い切なさ」
の中をどこまでも浮遊し続ける状態に陥(おちい)る
かも知れないからです。

「浮遊する魂」は要注意です。それこそ正に この世のものです!
それは この世界の詩人にとっては 格好(かっこう)の材料を
提供してくれるのかも知れませんが、キリスト者にとっては不健全です。

なぜなら そのような時、私は「神のことを思わずに ただ
人のことを思っている」からです。(マタイ16の23)この箇所で
取り扱われているテーマは「人の幸福対十字架(神の御心)」でした。
荒野の中を浮遊したがる私の魂は 常に直ちに あの「一点キリスト」
と言うポイントに付着(ふちゃく)着陸させられなければならない筈です。

ああ、神よ ごめんなさい。今しがた私は
あなたのことを思わずに、人のことばかり思っていました。
でも今私は「人の幸せ」でなく「あなたの願い、あなたの幸福」を思います。
あなたの願い、それは、あろうことか、
人の子をして まずは十字架に向かわせることでした。
だから今私の唯一の願いも 十字架に向かわれたあの神の子と
一つになること、それ以外にはあり得ないはずです。
だから主よ私にも今 ただその道を取ることを願わせて下さい。

息子のことをあまりに思い過ぎた時、次の瞬間 神がこの祈りを
常に私に与え続けて下さったこと、過ぐる一年 私にとって
これ以上の尊い時間は 他にはあり得なかったのではなかろうか、
と思っております。


「私の福音に言う通り、ダビデの子孫として生まれ、死者の中から
よみがえったイエスキリストを、いつも思っていなさい。」
(Ⅱテモテ2の8)
 

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